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日本史についての雑文その365 2つの倫理と重商主義
しかし、このスペインやポルトガルの貨幣経済以前のセンスの略奪経済体制の暴力がもたらした金銀によってヨーロッパにおける本格的な貨幣経済が始まったこともまた事実であり、「金銀を略奪する」というところから始まったヨーロッパ貨幣経済市場においては、金銀(=貨幣)は商品購入のための単なる代価ではなく、常に略奪的、投機的に金銀そのものを得ようとする傾向が潜在的に存在することになったのでした。
スペインやポルトガルはこの貨幣経済市場において、当初は新大陸から略奪した金銀を運んでくるという意味で常に「金銀の保持者」であろうとし、その金銀を好む時に用いて新大陸で金銀を略奪してくるために必要な武器など軍事力を整備するための場としてこのヨーロッパ貨幣経済市場を作り出し、利用しようとしました。

ヨーロッパにはこうした新設の貨幣経済市場とは別に、もともと中世から従来型の健全な商品同士の物々交換を基本とした実体経済市場が存在しており、そこに「金銀の保持者」であるスペインやポルトガルが16世紀前半に大量の金銀と共に投機的な貨幣経済市場を持ち込んできたことになります。
スペインやポルトガル自体はあまりにも略奪経済体制に特化しすぎていたため、真っ当な商取引に馴染むことが出来ず、「統治の倫理」たるカトリックの狂気に支配された経済体制、すなわち略奪と散財を繰り返す腐敗した搾取経済体制から抜け出ることが出来なかったので、このヨーロッパの実体経済市場においてはまともなプレイヤーとして機能することは出来ませんでした。
問題はこのヨーロッパ実体経済市場、つまり従来型の「市場の倫理」によって運営されていた市場のプレイヤーたる商人や権力者達がこの16世紀前半の「貨幣経済市場の出現」という至って「統治の倫理」に貫徹された経済原理の出現という事態を受けてどのように対応したのかです。
いくら大量の金銀が新大陸から持ち込まれたとはいっても、その経済規模そのものは当初は貨幣経済市場は庶民の衣食住の必需品の遣り取りを行っていた実体経済市場には遥か遠く及ばないものでした。しかしスペインやポルトガルが金銀と共に持ち込んだ大量の香辛料などアジア地域の珍しい物産品や、ちょうど大量に出回り始めた新兵器である銃火器類などの贅沢品は従来の物々交換ではなかなか見合う交換物が無いほど高価で、市場においてこれらを得るためには金銀が必要となってきたため、ヨーロッパのそれまで素朴な物々交換を行っていた商人や王侯たちも貨幣経済市場に出回る金銀を獲得することを望むようになっていき、そうした商人たちは実体経済市場の担い手でもあったので、こうして貨幣経済市場と実体経済市場が融合していくようになっていったのです。これがつまり「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合ということになります。
つまり、スペインやポルトガルの新大陸掠奪者たちに限らず、ヨーロッパの実体経済に関わるような商人たちもまた貨幣経済市場に関わることによって、なんとかして「金銀を略奪」して「金銀の保持者」になろうと望むようになっていったのでした。
それまでの経済というものは、必要な物品は基本的には自分で作り、余った分を互いに交換して足りない分を補っていくという形式でした。だから「奪う」よりはまずは「作る」ことが大事だったわけですが、金銀で作られた貨幣が多く出回り、貨幣で得られるものが増え、貨幣でしか得られないものも増えてくると、物品を真面目に「作る」よりも貨幣や金銀を「奪う」ほうがより多くの物品を手早く得る近道であるように思えてくるのです。少なくともスペイン人やポルトガル人の投機的商人はそのように考えたのであり、ヨーロッパの市場の商人にもそのように考えた人は多くいたことでしょう。
しかし、16世紀後半のヨーロッパにおいては、そのような略奪経済型の発想から一歩先に進んで新しい経済モデルを考案した人達が誕生したのでした。それは、16世紀前半にキリスト教改革運動の中でカトリックから分派して生まれてきたプロテスタントという宗派の思想が、この時期にヨーロッパ社会に出回るようになった貨幣に対してどう向き合うのかについて考察した結果、生まれてきたのでした。

頑迷なカトリックの教義に異議を唱え、カトリック教会による信仰支配を排して各個人に信仰を取り戻そうとして16世紀前半に生じたのがルター派による宗教改革運動で、プロテスタントの信仰であったのですが、カトリック教会は世俗権力を密接に結びついていたため、反カトリックであるプロテスタントは反権力と見なされ、カトリックとプロテスタントの間の宗教抗争は世俗権力抗争とも絡んで混乱状態が出現することになりました。
そこでこうした混乱を収拾するために16世紀後半にプロテスタント内にカルヴァン派という一派が生じて宗教と政治、教会と国家を分離することを提唱しました。これはつまりキリスト教は政治に関与しないということで、「統治の倫理」としてのカトリックの在り方を否定し、カトリックによる人民支配を否定する考え方でした。
カトリックによる人民支配の根拠となる考え方は「この世のものは全て神の所有物であるのだから神の代理人であるカトリック教会が人民の財産を自由に扱ってもよい」という人間の現世での生活を否定する思想でしたから、カルヴァン派では「この世のものは全て神の所有物ではあるが、各自の職業は神から命じられた天職であり、各自の財産は神から与えられた尊いものであるのだから、人々は天職に励み質素で禁欲的な生活を送らなければならない」という現世における生活を肯定しつつ各自に禁欲を義務づけるという思想によってカトリック教会が神と人民の間に介在することを排除したのでした。これによってカルヴァン派の支配的な地ではカトリックによる人民支配は否定され、キリスト教は「統治の倫理」から「市場の倫理」へと転換したのでした。
カルヴァン派の天職思想に従うならば、悪事に手を染めたり贅沢にふけったりせずに、神への信仰心を保ち禁欲的生活で自らを律しつつ世俗の仕事に打ち込んで財産を増やすことは神の思し召しに叶うことであり、そうした上での現世での成功は神の加護の証であり、むしろ神による救いに一歩近づいたことを意味するということになります。これは勤労や私有財産の肯定であり、自由な経済活動を推奨する考え方であり、まさに「市場の倫理」だといえます。
いや、そもそもキリスト教というものはイエスやその弟子たちが説いた本当に初期の教えは「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」というような博愛精神が強調され、頑迷な民族主義に凝り固まったユダヤ教に批判的で、寛容さを強調した「市場の倫理」の性格が強いものであったのです。だからこそ古代ローマ帝国で世界宗教として広まったのです。それを歪めて「統治の倫理」として利用したのは古代ローマ帝国末期の権力者たちであり、その歪んだ形をそのまま引き継いだのが東ローマ帝国の正教会であり、それを更に歪めてカルト宗教のレベルにしてしまったのが中世カトリック教会であったのです。
新約聖書を素直に読めば、正教会やカトリックの「統治の倫理」的な峻厳な教義は後世に捏造された詭弁に過ぎず、もともとのキリスト教がおおらかな博愛主義に溢れた「市場の倫理」であることはすぐに読み取れるはずです。活版印刷術によって聖書を直接読むことが出来るようになったヨーロッパの民衆はそうした事実に気づき、ルター派やカルヴァン派などのプロテスタントの主張に正当性を見出したのです。

こうしたプロテスタントの信仰は主に北ヨーロッパで受け入れられていきました。ヨーロッパのもともとのカトリック圏においてプロテスタントがほとんど受容されなかった地域というのはイタリア半島、イベリア半島で、あまり受容されなかった地域はフランス地方、オーストリア以東の東欧地方でした。逆にプロテスタントがよく受容されたのはドイツ地方、北欧地方、イギリス地方というふうに、北へ行けば行くほどプロテスタントの受容率は上昇します。これは基本的には古代ローマ帝国の影響が強く残っている地域ほど古代ローマ末期の国教であった古代キリスト教の系譜を引くカトリック教会の影響力が強く、プロテスタントへの拒否反応が強かったということで説明がつきます。
古代ローマ帝国の最主要部の1つであったバルカン半島にはカトリックよりも更に古代キリスト教に近い正教会の信仰があるので除外するとして、それ以外の古代ローマの主要部は中世にイスラム化された北アフリカを除外すれば、イタリア半島、イベリア半島、フランス地方となり、まさにプロテスタントがあまり受容されなかったカトリック地域と一致します。逆にプロテスタントがよく受容されたドイツやイギリスや北欧地域というのは古代ローマ帝国の支配をほとんど受けず、ゲルマン部族社会の伝統が強い地域でした。ゲルマン部族社会の伝統とプロテスタントの教えは相性が良かったのかもしれません。
フランス地方は古代ローマ帝国の主要部で、カトリックの伝統が強い地域でしたが、同時にゲルマン民族の大移動後に侵入してきたフランク族による中世フランク王国以来、ゲルマン部族社会の伝統も強く、それゆえイタリア半島やイベリア半島に比べてプロテスタントの受容率が高くなったのでしょう。また東欧地方は古代ローマ帝国の版図ではありませんでしたが、中世においてゲルマン人に比べてかなり未開のスラブ人が住んでおり、そこにカトリック教会が熱心に布教したのでカトリックの影響力が比較的強くなっていたのでしょう。それでもイタリアなイベリア半島のようにはいかず、フランスと同じ程度にはプロテスタントが受容されました。
プロテスタントのうち、ドイツ地方や北欧、そして東欧にかけて受容されたのがルター派で、イギリス、ネーデルランド、そしてフランスからアルプス地方にかけて受容されたのがカルヴァン派でした。そしてカルヴァン派はイギリスにおいては独特の教義を持つ英国国教会派となり16世紀後半には国教となり、また基本的にカトリック国家であるフランスにおいてもカルヴァン派は広まり、カトリック教徒と抗争を繰り広げました。またスペイン領となったネーデルランドでもカルヴァン派が増えてカトリック教国であるスペインからの独立を求める闘争が起きました。

このうち最もカルヴァン派の教義に忠実であったのはイギリスで、勤労や商売や私有財産に非常に肯定的であったイギリス人は、スペインの新大陸から持ち込んだ金銀によって成立したヨーロッパの貨幣経済に対して、スペイン人などのカトリック教徒とはまた違ったセンスで対処していったのでした。すなわち、この貨幣経済市場をカトリック教国家のように貨幣を貯め込んでおいて目先の必要物である武器を得るために貯め込んだ貨幣を逐次消費していく場としてのみ考えるのではなく、貨幣を有効に投資して製造業を育成して、市場で売れる商品を作り出して、市場において更に多くの貨幣を手に入れ、更にその貨幣を使って製造業に対してより大きな投資をしていくというサイクルを考案したのです。
具体的には、イギリスはもともとヨーロッパの北方に位置していたため農耕の生産性が低く、そのため羊を飼育してその羊毛を刈り取り、その羊毛で織った毛織物を製造して自国の基幹産業としていたのですが、その自国の毛織物産業に対して市場で獲得した貨幣を繰り返し投資していき育成していったのでした。
つまりスペインは貨幣経済市場を単に買い物をする場と考えたのに対して、イギリスは貨幣経済市場を自国産業を育成するための投資マネーを稼ぐ場としたのです。するとどういうことになるのか。この市場で出回る貨幣の原料である金銀を提供しているのが仮にスペインのみであるとするなら、流通する貨幣の量がスペインによる金銀の供給量を上回ることはありません。スペインが市場に金銀を提供する引き換えに全て武器を買っているとするならば、仮にイギリスが製造した毛織物を売った代価として貨幣経済市場に流通する貨幣を全て手中に収めたとしても、市場に流通している貨幣の量はスペインによる供給量と等しいわけですから、その貨幣でイギリスが全て武器を買ったとしてもスペインの買った武器の量を上回ることはありません。
しかし現実には市場というのは貨幣経済市場だけではありません。従来の物々交換の実体経済市場もはるかに大きな規模で存在するわけですから、イギリスの毛織物が魅力的な商品であるのなら、例えば武器商人が物々交換でイギリスに武器を提供する見返りに毛織物を欲しがるということもあるでしょうし、イギリスが毛織物と交換で手に入れた他の品物と武器が交換されるということもあるでしょう。それはあらゆるバリエーションが考えられるわけで、中にはかなりイギリス側にとって有利な交換比率の商品もあるでしょうから、そのあたりを上手く取引して差額を稼いでいけば、わずかな毛織物が大量の武器に化けることも可能になります。

つまり、こういうことです。イギリスは毛織物を売って貨幣経済市場で貨幣を得たとした場合に単純にその貨幣でそのまま貨幣経済市場で武器を買って貨幣を費消してしまうのではなく、そうして貨幣経済市場で得た貨幣を自国の毛織物産業に投資します。すると国内の毛織物業者は設備投資のためにその貨幣を使い、その貨幣は貨幣経済市場に還流していきます。そうして還流した貨幣は貨幣経済市場において取引を行う人間の商品購買意欲を刺激し、設備投資によって質量ともに向上したイギリスの毛織物製品は貨幣経済市場において更に多くの貨幣を稼ぐことになり、それが呼び水となって、同時にそれより遙かに巨大な実体経済市場においてもイギリスの毛織物製品は様々な商品と交換され、その交換された商品の一部もまたイギリス商人によって貨幣経済市場に売りに出されて貨幣を稼ぎ、そうして稼いだ貨幣がまた毛織物産業に投資され、また貨幣経済市場に還流していくのですが、それとは別にその交換された別商品の多くは再び実体経済市場でより実用的な商品や、時には武器などに交換されることもあるわけで、貨幣経済市場を還流させる貨幣によって繰り返し強化される毛織物産業は、強化されるたびに実体経済市場において多くの富を累積して稼ぎだし続けていくことになるのです。
そして、特にその稼ぎを多くするテクニックとして、毛織物製品が実体経済市場で別の商品に交換された場合、特にそれが外国貿易の場合は、商品の価値というものが外国においては均等ではないので、仮に1キロの毛織物をそのまま貨幣経済市場で貨幣に交換した場合に1ポンドを得られるとして、例えば遠方でその1キロの毛織物と交換した別の商品が近場の貨幣経済市場では10ポンドの貨幣に換算できるというテクニックがあり、これが貨幣経済市場と実体経済市場(特に外国貿易)を組み合わせた「貿易差額で儲ける」という一種の錬金術なのです。
カルヴァン派の「市場の倫理」的な教義によって、勤労によって財産を増やしていくことに正当性を見出したイギリス人たちは、このように「市場の倫理」の支配する実体経済市場の特性を上手く利用しながら貿易差額を繰り返し繰り返し稼いでいき、その富の累積はスペインやポルトガルがヨーロッパに持ち込んだ金銀よりも遙かに大きなものに膨れ上がり、その富を使って貨幣経済市場から好きなように貨幣を引き出すことが出来るようになったのでした。このようにしてイギリスは貨幣経済市場における「金銀の保持者」になりたいという欲求を満たすことに成功し、スペインを上回るほどの武器を揃えることも可能になったのでした。
こうなるとスペインが焦って更に多くの金銀を新大陸から略奪してきて市場に投入して大量の武器を得たとしても、その金銀は貨幣に化けて、結局は回り回ってイギリスの毛織物産業を膨れ上がらせ、多くの貿易差額をイギリスに与え、最終的にはその金銀もイギリスのものとなる仕組みが出来上がってしまっていることになります。しかもその場合、スペインは更に多くの金銀を略奪してくるためにはそれだけ多くの武器を余分に使用しますから、その分イギリスに向ける武器は目減りして軍事的にも劣勢になります。

こうしてカルヴァン派の流れを汲むプロテスタント国家となったイギリスは16世紀後半のエリザベス1世の時代にスペインやポルトガルを凌駕する軍事力を備えるようになりました。またカルヴァン派の多かったスペイン領ネーデルランドも事実上独立してオランダとなり、イギリスと同じような遣り方で富強となっていきました。フランスは基本的にはカトリック国家なのですがカルヴァン派の信者も多く抱え、当初はカルヴァン派を迫害しましたが、やがて信教の自由を認めるようになり、カルヴァン派の持つ「市場の倫理」を有効利用して国家の富強化を図っていくようになります。
これらカルヴァン派信者を多く抱えるイギリス、オランダ、フランスは同じようにして産業を興して財産を増やし、軍事力を高めるようになり、16世紀末にはこれら3国が同盟してスペインやポルトガルに対抗し、軍事的な覇権はこれらプロテスタント国家に移り始めることになったのでした。ただ、ここで注意しておくべきことは、この3カ国の実施した政策、これを「重商主義政策」というのですが、これは実体経済市場の「市場の倫理」の特性を活用した政策ではありますが、その目的とするところはあくまで貨幣経済市場における「金銀の保持者」となることなのであり、そういう意味では「金銀の略奪者」であったスペインやポルトガルとそれほど差は無く、同じように「統治の倫理」を奉じているともいえるわけで、スペインやポルトガルを追い越しつつも、スペインやポルトガルの敷いたレールの延長線上を走っているのだともいえます。
つまり16世紀後半に生じたイギリス、オランダ、フランスなどの重商主義政策というものは飽くなき金銀保持欲求という「統治の倫理」と、勤労と正当な商取引による富の増大という「市場の倫理」の2つの倫理の合体したものであり、それゆえ腐敗しやすいという特徴を備えていたということになります。それはつまり、金銀への依存が高まったり、略奪や戦争に訴えてでも金銀を得ようという傾向であったり、逆に貿易差額にこだわる余り生産者の利益を無視したりなど、様々なパターンが考えられます。そうした重商主義がどのような形態をとるのかについては、「統治の倫理」と「市場の倫理」のどちらを重視するのかの配分次第で変わってくるのであり、それはイギリス、オランダ、フランスでそれぞれ異なった現れ方をすることになるのです。

こうして16世紀末から17世紀初頭にかけて軍事的優位を背景にイギリス、フランス、オランダの商船もアフリカ南端を回ってインドへ至るようになり、イギリスとオランダは東南アジア方面へも進出してきてスペインやポルトガルが独占していたアジアの香辛料貿易にも食い込もうとしてくるようになったのでした。そうした情勢の中、日本ではポルトガル商人と友好的関係を維持して大量の硝石を得て16世紀後半に天下を治めるまでに成長した織田信長の後を継いだ豊臣秀吉が突如、スペインやポルトガルの商人を冷遇し始め、16世紀末にはシナを征服しようとして大陸へ出兵するという行動に出ました。
これはスペインやポルトガルの日本やシナに対する侵略の野心を知って警戒したといわれますが、おそらくそれほど具体的計画は無かったのでしょうが、少なくともスペインにそうした野心があったことは事実であり、秀吉がそれを不快に思ったのも事実でしょう。また、特筆しておくべきことは、秀吉がスペインやポルトガルに対して怒りを向け警戒感を露にするようになったきっかけが、九州地方においては金銀がさほど産出しなかったため、スペインやポルトガルの商人から大名が硝石を購入した代価として戦で捕虜とした日本人同胞を奴隷として提供していたということだったということです。これはまさにヨーロッパ諸国がブラック・アフリカで行っていた奴隷貿易の形態と一致しており、その後、ブラック・アフリカ社会が大量の奴隷流出で衰退していき、最終的には西洋諸国の植民地になっていったことを考えると、戦国時代の日本もまた同じようになった可能性も十分にあったわけで、それが秀吉の怒りによって禁止されたことによって日本のアフリカ化は阻止されたわけですから、少なくとも秀吉はアフリカ黒人部族の指導者たちよりは先を見通す能力があったのだといえます。
あるいはこの時代の日本とアフリカの比較ということで言えば、アフリカは「統治の倫理」優位社会であったのでヨーロッパの「市場の倫理」である奴隷貿易と権力者が結託しやすく、奴隷獲得のための内戦が激化していったのですが、日本の場合は戦国時代は「統治の倫理」と「市場の倫理」が融合した混乱時代であったので一部ではこうした奴隷売買の逸脱もありましたが、基本的には「市場の倫理」優位社会であったので、ヨーロッパの「市場の倫理」である奴隷貿易と日本国内の「市場の倫理」が反発し合って、この頃はヨーロッパの「市場の倫理」の力が後の帝国主義時代ほど強くなかったので、日本側の「市場の倫理」が押し切って奴隷貿易を排斥し、その意向が権力者の秀吉を動かしたということになりましょう。
これは先述のヒンズー文明とイスラム文明の比較と相似形の話で、ヒンズー文明やアフリカは「統治の倫理」優位社会、イスラム文明や日本は「市場の倫理」優位社会であり、現在のヒンズー文明が西洋文明との相性が良くて活性化しているのと同じように、当時のアフリカ部族社会もある意味では活性化していたのだといえます。しかしその活性化の果てが戦争の頻発による文明の崩壊であったわけで、際限ない活性化も時には恐ろしい結末を招くということです。その点、ヨーロッパの「市場の倫理」との相性が悪く、それを遠ざけた秀吉やそれに続く家康以降の江戸幕府の判断は、一見、際限ない成長への道を放棄したように見えますが、それは日本文明にとっては賢明な判断であったと思われます。そう考えれば、現代のインド経済の活性化やシナ経済の活性化のような「統治の倫理」優位社会における西洋型「市場の倫理」との結合による繁栄というものの行く末も案じられるというものです。

ただ、秀吉は多分そんな壮大なことを考えていたわけではなく、おそらく秀吉は、いやおそらくはその政治的師匠にあたる信長も、シナの貨幣経済やスペイン・ポルトガルのアジア香辛料交易などを支えているのは日本の金銀であるということは知っており、いずれ九州に直轄地を持つようになればスペインやポルトガルを排斥して直接硝石の産地であるシナと取引をしようと構想していたのでしょう。スペインやポルトガルの征服の野心などは最初から承知で天下統一まで利用して、もともと用済みになれば切り捨てるつもりであったのでしょう。信長はその計画の道半ばで倒れ、その後を継いだ秀吉が九州を平定した後、かねてからの計画通り、シナとの直接交易に乗り出したというのが実相でありましょう。
ところがシナはその頃は明朝の末期で、朱子学の中華思想の影響で頑迷な鎖国政策をとっていたので秀吉の交易の誘いを拒絶しました。しかしシナの貨幣経済を維持するためには日本の金銀が不可欠なのであり、実際、シナの密貿易商人が持ち込んだ日本の金銀を使って明朝は貨幣を作っているわけですから、鎖国政策など建前に過ぎず、密貿易を官憲が公然と見逃していたのが実態だったのです。ならば密貿易商人などに恃まずに政府が堂々と日本と交易して硝石と引き換えに正当に金銀を得ればよいのです。秀吉や信長は恐ろしく合理的な考え方をする経済通の武将でしたから、当然このように考えたはずで、だから、そのように説いても交易に応じようとしない明朝の非合理な態度に秀吉は驚き、怒りを感じるようになったのです。
信長や秀吉は経済感覚に優れ、戦争にも強い優れた武将でしたがあまり(古典的な意味での)教養がありませんでした。だから朱子学や中華思想というものがシナ帝国にとってどのような存在であるのか理解出来ず、理解不能の障害物は武力で排除するというのが戦国の習いでありましたから、秀吉はシナ征伐に乗り出したのです。いや、いきなり軍事侵攻ということになるとは思っていなかったでしょうが、信長や秀吉はおそらくは交易を開始していずれはシナやインドまでも支配下に収めることが可能であると構想していたので、秀吉もこのシナ征伐にもあまり失敗の不安は感じていなかったと思われます。
信長や秀吉が「唐天竺まで平定する」と大言壮語していたというのはこういう構想があってのことでした。これは信長や秀吉の立場に立ってみれば決して誇大妄想ではありません。彼らは武力で天下を獲ったのではなく、むしろ経済力で天下を獲ったのであり、より具体的に言えば、領土を得ることではなく金銀や貨幣を握ることで支配権を確立していったのでした。
信長や秀吉の天下統一事業を見ると、敵対する大名家を滅ぼすための戦いはしていますが、民衆を平定するための泥沼の戦いというものはほとんどしていません。唯一例外といえるのが巨大経済利権団体といえる本願寺の一揆衆との戦いであり、実は本願寺の一揆衆のみが信長の天下獲りに真の意味で抵抗した唯一の民衆勢力であったといえます。本願寺以外の民衆勢力は信長や秀吉が金銀や貨幣を握っていることを知れば簡単にひれ伏しました。それぐらい戦国時代の日本人というのはミもフタもないくらいに経済原理に忠実に生きていたのです。本願寺だけは一種のカルト教団であったので、経済原理を超越した哲学があったわけです。
そのように経済原理に忠実な日本人ばかり見てきたために、信長や秀吉はシナ人や朝鮮人も同じようなものだと思い込んでいたのでした。だからシナの貨幣の原料となる金銀を日本が、つまり秀吉が握っている以上、明朝政府を少し叩けばシナ人はみんな直ぐに秀吉にひれ伏すと思っていたのです。朝鮮も同じようなものであり、簡単なもので、通り道程度のものであろうと思っていました。実際、朝鮮政府は秀吉にへりくだった姿勢で接していたので、秀吉はそれを早くも朝鮮がひれ伏してきたものだと解釈したのです。「唐天竺まで」というのも誇大妄想ではなく、実際、日本の金銀が実質的にインドまで広がる香辛料市場における取引の基軸通貨の役割を果たしていた以上、秀吉の経済感覚で見れば、インドまで広がるアジア多島海の交易圏全てが秀吉にひれ伏すのが当然の摂理ということになるのです。
ただ秀吉が分かっていなかったことは、海を渡っての軍事征服の困難さ、特に兵站の確保の困難さと、シナ人や朝鮮人が必ずしも経済原理に忠実ではなく、まさに本願寺ばりのカルト性を発揮して非合理なまでに排他的であること、そして特に朝鮮の場合、経済原理云々以前にあまりに貧しすぎて、朝鮮半島に渡った日本兵の兵糧の調達すら困難であったということでした。こうして秀吉のシナ征服計画は失敗に終わり、秀吉の死によって朝鮮から日本兵は撤兵し、日本の天下は17世紀初頭には徳川家康に受け継がれました。

家康は秀吉と違ってかなりの教養人で、朱子学についても中華思想についても理解していたので、明朝と無理に正式に対等交易することにはこだわらず、シナの密貿易商人との取引を継続することにしました。そして家康は秀吉のようにスペインやポルトガルとの交易を押さえつけるようなことはしませんでしたが、オランダやイギリスとも交易を開始してカトリック国を牽制しつつ、日本商人も自前の外洋船に乗って東南アジア海域に進出させ、日本産の金銀を駆使してアジア多島海の交易を支配させようとしたのでした。つまり、それまでは日本の金銀は全部ヨーロッパ商人によって南方に運ばれて、南方においてシナ商人や東南アジア商人などの持つ硝石や香辛料などと交換されていたのですが、家康以降は日本商人が金銀を運んでくるようになったので、ヨーロッパ商人の旨みが無くなってしまったのでした。
もちろんヨーロッパ商人が日本へやって来て何かを売りつければ代価として金銀を得ることは可能でしたから、全く金銀を得る機会が無くなったわけではありませんが、日本船が南方に進出してきて外国商人と自由に取引できるようになってしまえば、どうしても金銀産出国である日本有利の状況となり、これはそれまで日本の金銀を独占して南方市場に運んできてそれを交易の原資にしていたスペインやポルトガルにとっては大きな痛手でした。
一方、日本船の東南アジア海域にもたらす金銀と交換可能な商品をなんとかアジア市場にも供給できる製造業を持つイギリスやオランダは、金銀頼みのスペインやポルトガルよりは有利な状況となり、東南アジア市場やインド市場でもイギリスやオランダの勢力のほうが優勢になっていきました。そして1620年代になると、オランダが東南アジア市場、イギリスがインド市場において支配的地位を有するというように住み分けがなされるようになっていきました。

一方、家康の後を継いだ江戸幕府の日本においては、1615年の大坂の陣での豊臣氏の反乱を受けて大名統制を強化するようになり、交易によって大名や商人が強大化することを警戒して次第に幕府による管理貿易体制に移行し、外国商人の来航も制限するようになり、1635年にはとうとう日本人の海外渡航を禁止し、1641年には長崎にて幕府の厳正な管理のもとでオランダ商人のみに交易を許可するようになったのでした。
これによって日本産の金銀はオランダによって一元的にアジア市場に運ばれることとなり、泰平の世となって武器を必要としなくなった日本は代わりにシナ産の絹織物を求めるようになり、オランダはその仲介貿易で多くの金銀を日本から持ち出してシナへ送るかたわら、その余剰分の金銀を原資としてアジア交易圏における主導権を握ったのでした。この独占貿易体制から締め出されたスペインやポルトガルはアジア市場で力を失い、その影響は甚大で、この後、17世紀後半以降、ヨーロッパにおいてもスペインとポルトガルは没落していくことになります。
もともと家康が日本商人を南方へ展開させようとしたのは、基本的には信長や秀吉と同じ発想で、金銀の力を使ってのアジア市場制覇が目的でありました。それを軍事先行でやろうとしたのが秀吉で、経済先行でやろうとしたのが家康であり、それは方法論の違いでしかなかったのです。しかしこの管理貿易体制への移行はアジア市場の覇権をオランダに譲り渡してしまうものであり、家康の方針には反したものでした。
しかし、この「金銀を市場に投入して支配権を確立しよう」という発想は、まさに没落していこうとするスペインと同じ発想なのです。そしてまさに勃興してこようとするオランダやイギリスの発想というのは「貨幣経済において多くの貨幣を確保して産業の育成に充てる」というもので、この後の日本はまさにオランダやイギリスと同じ方向、すなわち「国内経済限定の重商主義政策」を目指したのだといえます。すなわち金銀を徒に海外に放出せずに一定量は確保して貨幣を鋳造して国内に貨幣経済体制を敷いて内需を喚起して、それに対応して藩単位で産業を育成していったのです。江戸時代の歴史というのは大略すればそういうものであり、特に後期はそうした傾向が顕著になっていきます。それは「統治の倫理」が「市場の倫理」と融合していた戦国時代から、兵農分離によって「統治の倫理」から「市場の倫理」を引き離して「市場の倫理」優位の社会へと転換していった時代の始まりでした。そして結果的にはこの選択は正しい方向性であったといえます。ただ、貨幣鋳造は家康の始めた方針ですから、家康の段階で既にこの方向性が志向されていたのだともいえますが。

さて、16世紀後半以降、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの宗教戦争がますます激しさを増していきました。そうしたヨーロッパの状況に嫌気がさして、プロテスタント国家のイギリスやオランダ、そしてフランスのプロテスタント信徒などにも新大陸に渡って新天地で生活していこうという人達が出てきて、17世紀に入るとそうした動きは加速し、更に単に職にあぶれて食い詰めた連中が行ったり、本国で逮捕された犯罪者が流刑で送られたりもするようになっていきました。彼らはスペイン人のように植民地に太平洋交易の前進基地という意義は求めていなかったので、既にカトリック教徒のスペイン人やポルトガル人が多く植民している南米や中米、北米の西海岸は避けて、北米大陸の東海岸に植民していきました。
彼ら北米大陸に行った移民たちはどうやって生計を立てたのかというと、広大な土地を利用しての大規模農業で生産した農作物をヨーロッパの本国に売って、その替わりに生活必要物資を本国から得たのでした。まぁ要するにもともと本国において彼らが組み込まれていた市場システムにおける商品の流れそのままであったのですが、それが本国では諸々の事情で燻っていた彼らが移民となって新大陸へ渡ることで一人前の生産者や消費者となることで市場全体の活性化に繋がればいいということです。そうして市場が活性化すれば本国の産業はその製品の消費者を更に増やすことが出来て、更に産業規模が拡大するのです。
しかも新大陸植民地の場合、その広大な手付かずの土地を更に開拓していけば、その市場はどんどん拡大していくという利点があり、新大陸植民地を保有し拡大していくことで本国の産業界は新たに無限の可能性を秘めた製品消費市場を獲得することになったのでした。つまりプロテスタント国家の場合の北米植民地の性格というのは、スペインやポルトガルの場合のような太平洋交易の基地や資源略奪のための植民地というものとはまた違ったタイプの「消費市場の拡大」というような意味合いの強い植民地であったのです。
イギリスやフランス、オランダなどの本国にとって北米植民地はそうした意味合いのものであったのですが、北米植民地の現場としては、「手付かずの土地」といっても実際は先住の現地民が既に生活を営んでいる土地なのであり、「無限の可能性」といっても実際は植民地を拡大していくには他の国の営んでいる植民地との軋轢は避けられないのでした。それに植民地を広大にしていった場合、本国の製品の代価として提供する農作物を生産する農園も大規模なものになるが、そこで働く労働力をどう賄うのかという問題もありました。
そういうわけで17世紀の北米大陸においては、まずヨーロッパからの移民たちと北米現地民との間の土地争奪戦が繰り広げられることとなり、現地民は戦争慣れしておらず、移民たちは銃火器で武装していたので現地民たちの土地を奪っていき、しかも現地民たちは移民たちが持ち込んだ疫病によって人口の大部分を失っていったので、17世紀末までに北米大陸の東半分の土地はヨーロッパからの移民たちのものとなっていきました。
しかし現地民の人口が激減して所有する土地が膨れ上がるにつれて移民たちは労働力不足に悩まされるようになり、アフリカからの黒人奴隷を購入して労働力を確保するようになり、現地民がほぼ絶滅してしまった18世紀には黒人奴隷貿易は最高潮に達することになります。そして、生き残った現地民を大陸西部へ駆逐して北米大陸の東半分を手中にしたヨーロッパ諸国同士の植民地争奪戦が18世紀初頭から展開されることにもなっていくのです。
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【2008/10/31 08:26】 URL | 57 #- [ 編集]



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