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日本史についての雑文その366 2つの倫理と主権国家
一方、17世紀のヨーロッパにおいてはカトリック勢力とプロテスタント勢力の争いがますます最高潮に達して、遂には1618年に三十年戦争という全ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争が勃発し、その結果、カトリック教会のヨーロッパにおける最大の庇護者であったカトリック帝国の神聖ローマ帝国が事実上解体し、その版図がプロテスタント国家であるプロイセンやカトリック国家であるオーストリアなどにバラバラになったことでプロテスタント勢力が勝利を収め、17世紀後半からカルヴァン派の主張したような政治と宗教が分離した国家、すなわち主権国家の時代が始まったのでした。
この主権国家という国家のモデルは、17世紀の初頭、スチュアート朝期のイギリスにおいては既に示されていました。イギリスにおいては16世紀後半のエリザベス1世の治世下でカトリック教会の支配を完全に脱して安定的に政治と宗教の分離が進んでいたため、教会が人民を支配する国家ではなく、国家が直接に人民を支配する国家としての「主権国家」の理念がいち早く示されるようになっていたのです。

誤解なきように言っておきますが宗教改革によって決して神の存在が否定されたわけではありません。神と人民の間に教会権力が介在することが否定されただけで、神はむしろより身近な存在となったのだといえます。主権国家というものはそうしたカトリック支配体制という9世紀以来約800年間馴染んできた「統治の倫理」を否定した体制でした。新たに勃興してきたプロテスタンティズムは「市場の倫理」であり「統治の倫理」にはなり得ず、別に新たな「統治の倫理」が必要でした。

主権国家成立以前のヨーロッパ社会というのは、封建領主とカトリック教会によって支配される農村部と、商人たちによって運営されていた自治都市との2つの世界が複合して出来上がっていました。これが14世紀の黒死病流行による人口激減で封建領主の多くが没落し、大領主が小領主を配下に組み入れていって王となり、そうして勢力を伸ばした王が自治都市も支配化に組み入れていき、交易の利益を得てますます富強になっていきましたが、それでも領土の大部分を占める農村部を支配するのにカトリック教会の支配体制は不可欠のものでありました。
人民は王に仕えているわけではなく、あくまで神の僕であり、神による罰を恐れて、神に己の罪をとりなしてくれるカトリック教会の支配下に入ることによって安心を得ていたのでした。根本的にはこの世のものは全て神のものなので、その代理人であるカトリック教会が自由に扱ってもよいということになります。だから人民はカトリック教会にその土地財産も身柄も支配されていたのでした。そういう点は領主や王といえども基本的には人民と同じで、神の僕でしたから、実際上はなかなかそうとばかりもいえませんでしたが建前としては領主や王よりもカトリック教会のほうが上位にあり、王はカトリック教会から人民の統治を委任される代官のような存在でした。
ところが宗教改革の結果、カルヴァン派が生まれて政治と宗教の分離を主張し、カトリック教会の作り上げた多くの神罰や贖罪などの恐怖支配体制を形成する教義のウソを暴き、キリスト教を本来の「市場の倫理」へと引き戻し、人々が現世の仕事に励み財産を増やすことを神の思し召しとして積極的に肯定したのでした。
そして16世紀後半のエリザベス1世の時代のイギリスにおいてカルヴァン派の主張が勝利を収めてカトリック教会はイギリスの人民を統治する正当性を失いイギリスの政治の場から退場していきました。すると、現世における最上位にあったカトリック教会が去った後、カトリック教会の下位にあって実質的に人民を統治していたイギリス王がそのままスライドして最上位の存在となって人民を名実共に統治していくことになります。
しかし、もともと人民は王に仕えていたわけではありません。教会による恐怖支配が否定されただけで神が否定されたわけではありませんので、さしあたり、あくまで人民は神の僕のままなのです。だから新しい主君となった王は、自分が神から人民の統治を委任された存在であるという証を立てねばなりませんでした。そこで「王権神授説」という「王の先祖が神から直接、人民の統治を委任された」という説が登場することになるのですが、このようなとってつけたような説明は後付けに過ぎず、実質的には、16世紀後半のエリザベス1世期においてイギリス王は「神の思し召し」によって肯定された「人民の財産増加の欲望」の支援者、代表執行人として人民の期待(神の期待でもある)に応える活動を行うことによって、神によって認められた人民の統治者として人民に受け入れられたのであり、そうして作られた王と人民の新しい利益追求共同体が「国家」であり、人民は「国民」となり、王は「国王」となったのでした。
しかし、この国民国家において国民が全員、自らの欲望に従って行動したら社会は混乱してしまいます。しかし欲望は神によって肯定されたものですから否定することは出来ません。そこで、神が国民各自に対して認めた欲望追求権よりも大きな「国民各自の欲望を抑制し調整する特別の権利」を国家のまとめ役である国王に対して神が授けたと考えられたのです。この特別の権利は本来は神(主)の権利ですから「主権」といいます。この「主権」を神が国王に授けて代行させているというのが、新たな「統治の倫理」たる「王権神授説」の核心部分なのです。これが「主権国家」の誕生でした。
つまり、16世紀後半にイギリスで誕生した主権国家における国王は、国民の財産増加という国家意思を体現する存在であり、そして同時に国家において神に等しい絶対的な権力を有する絶対君主であり、絶対的権力を神から与えられているゆえに神の思し召しである国民の財産増加を実現することについて重い責任を負うのであり、その権力を行使してその責任を果たすことになるのです。そのために国王は中央集権的官僚制と常備軍を持ち、従来のヨーロッパの君主が持っていた配下の諸侯の代表者らによる議会の意向をも無視して独断専行する権限を得たのです。これが「王権神授説」を「統治の倫理」とし、プロテスタンティズムを「市場の倫理」とした「絶対王政」という新たな社会体制であったのです。そしてこの16世紀後半に生まれた「主権国家」が国民の財産増加欲求に応えるために採用して大々的に推進したのが、同じく16世紀に生まれた「重商主義政策」であったのです。いや、「主権国家」と「重商主義政策」はコインの表裏のように不可分の関係にあり、この後もそれぞれ名前は変えつつも二人三脚で発展し続けていくことになるのです。

「絶対王政」や「王権神授説」などという厳めしい名称についつい騙されて、何かこの主権国家の初期における国王が国民からは隔絶した雲の上のような神がかり的存在のように思われる人も多いかと思いますが、何てことはない、むしろ国民(の欲望)と一体化しているがゆえに「絶対」なのであり、国民が神を信奉しているから「神授説」などと言っているに過ぎないのです。
主権国家以前のヨーロッパにおいては人民と領主は隔絶した別世界の住人で、領主は領主の行動原理(すなわち「統治の倫理」)にのみ則って行動できていたのですが、主権国家においては国王と国民は同じ世界の住人となり、国王は国民の欲望の代行者であり、国王の「統治の倫理」は国民の「市場の倫理」と距離が近くなり、「市場の倫理」の影響を受けやすくなったのでした。つまり堕落や腐敗が生じやすくなるのだといえます。それは主権国家の初期形態である絶対王政においても同様であり、国民の欲望を叶えるために国王が戦争を起こしたり、国王自身が金銀の虜となって自らの欲望のために強権を利用して戦争を起こしたり国民を虐げたりするという逸脱したケースも出てきました。つまり「統治の倫理」の陥穽に陥りやすくなるのです。
このような逸脱が生じるのは、「統治の倫理」と「市場の倫理」が接近する主権国家の形態をとっている以上は仕方のないことで、その生じた逸脱を早期に適切に是正することが現実的には必要な対処でした。ところが絶対王政においては国王に絶対的な権限を与えてしまっていたためにこの逸脱が起きやすく、しかも逸脱に対しての適切な対処を国王が妨害することが容易であるという欠陥を持っていたのでした。そうした欠陥がイギリスにおいて17世紀のスチュアート朝期になると現われてくるようになったのです。
そこで1620年代のイギリスにおいては諸侯によって構成される議会において国王の絶対的権限、すなわち「主権」を抑制するべく長年人々に慣れ親しまれてきた慣習法によって国王の主権さえも制限を受けるとする「法の支配」論を展開し、国王チャールス1世と対峙することとなりました。この議会側の主張を文書化したものが1628年の「権利請願」で、イギリス保守主義思想の嚆矢となるものです。これ以降、イギリスでは絶対君主であるチャールス1世と保守主義派の議会とが対立する状況が続くこととなります。

このように絶対王政の誕生の地であるイギリスでは絶対王政は反対派の攻撃に晒されるようになってきていたのですが、ちょうど17世紀に入ってイギリスにおいて絶対王政と保守主義の鬩ぎ合いが始まった頃にヨーロッパ大陸のほうで開始された三十年戦争を戦うプロテスタント勢力の側には、このイギリスにおいて示された「主権国家」というカルヴァン派の思想に沿った国家モデルは目指すべきものとなりました。
例えばオランダもイギリスに続いて17世紀初頭には主権国家へと脱皮していき、国民の財産増加欲求を実現するために重商主義政策を強化し、アジア市場へ進出していきました。江戸時代初期の日本との交易もこうした動きの一環であったのです。そして三十年戦争を戦っていく過程の中でオランダはアジア方面でも攻勢に出て、スペインやポルトガルからアジア地域における交易の主導権を完全に奪ってしまいました。特にその中でも日本産の膨大な金銀の利権を1630年代に独占的に握ったのは大きな強みでした。
これによってオランダは一躍、世界の海上権を握るようになり、一方、スペインやポルトガルはこれ以降、三十年戦争終結を経て17世紀後半になると一気に没落していき、本国においてはカトリック国家でありながら略奪経済体制から脱却して主権国家体制へ移行していこうという動きも生じてくることになるのですが、そうしたヨーロッパ方面の情勢変化とは無縁な、遠く離れた中南米のスペイン・ポルトガルの植民地の出先機関では今まで通りの現地での略奪経済体制を継続していきたいと望み、本国との意識ギャップが次第に開いていき、次第に本国とは疎遠になり、腐敗したカトリック支配・略奪経済体制を維持したまま、単に金銀をヨーロッパ市場に輸出する役割を果たしつつ、時代から取り残されていくことになります。

一方、1630年代にオランダが世界の海上権を握るまでに成長している間、イギリスは何をしていたのかというと、オランダによって東南アジア市場からも追い出され、インド市場の権益を何とか維持するという有様でした。これはちょうどこの時期にイギリスでは絶対王政派の国王勢力と保守主義派の議会勢力の対立が先鋭化した上に、英国国教化内部の会派対立や経済成長に伴って発生した貧富の格差対立なども絡んで大混乱が起きており、海外問題に対処しているような状況ではなかったからでした。
この混乱がピークに達して1642年に清教徒革命が起きて、1649年には絶対君主チャールス1世は処刑されてイギリスは共和制に移行します。これほどの大混乱が起きたのは、17世紀の初めから一般にマウンダー極小期といわれる小氷期が始まっており、気候不順が続き農民の経済活動を圧迫していたという要素も大きいでしょう。この時期、ヨーロッパ大陸では三十年戦争が起きていますし、シナでは農民反乱によって明朝が倒れ、清朝のシナ支配が始まっており、世界的に大変動期であったのです。
ですから、このイギリス清教徒革命における国王処刑や共和制移行というような出来事は、革命の混乱が行き過ぎた末での逸脱と考えてよく、この後、クロムウェルによる独裁政治も混乱に有効に対処することは出来ず、結局、クロムウェルの死後、1660年にチャールス1世の子であるチャールス2世が王位に就いて王政復古が行われて革命は収拾されるのですが、王政復古後は絶対王政は復活せず、議会勢力による国王の主権への制限が有効となっていることから考えて、清教徒革命の本筋はあくまで絶対王政に対する保守主義議会勢力の巻き返しであったのであり、その間の様々な混乱は単なる革命の過熱化による逸脱に過ぎないのだと解釈すべきでしょう。
しかし、チャールス2世のフランス亡命中の側近であった政治学者トマス・ホッブズはプロテスタント過激派による神の名を騙った国王の処刑や国王派への大虐殺という逸脱的な不祥事に衝撃を受け、チャールス2世と共にイギリスに帰国して共和制政府との内戦に突入していった1651年に王政の擁護のためのイデオロギーとして発表した著作「リヴァイアサン」にて、国王の持つ主権の根拠を神に求めることを危険視して避け、人々が互いの欲望を満たすために生じる「自然状態」の混乱を収拾するために理性によって自らの権利を譲り合い、一種の社会契約によって各自の権利を制限して調整することの出来る主権を行使する政府を作ったのだと主張したのでした。これが「啓蒙主義思想」の始まりでした。
これは「主権」という主権国家における絶対的権利の成り立ちを説明する論理という点では「王権神授説」と同じなのですが、「王権神授説」においては主権が神によって授けられたとされているのに対して「リヴァイアサン」では人民が理性によって互いに権利を譲り合って主権を設定したとされているという点が両者の大きな違いとなっています。これは主権の根拠を神という解釈困難なものに求めることによって、誰でもが神の名を騙って主権を行使して革命を煽動して国王を殺したり残虐な殺戮を行ったりすることが可能であることにホッブズが危機感を抱き、主権の根拠に人間理性を据えようとしたことに起因します。
ホッブズは1640年には既に国内の混乱を避けてフランスに亡命しており、「リヴァイアサン」はフランス亡命中に書かれたのですが、フランスではルネサンス以降、キリスト教神学とは別体系のイスラム科学の受容とそれを独自に発展させた科学的思考法が確立されつつあり、その集大成として1637年にルネ・デカルトによる「方法序説」が刊行され、「理性によって真理を探究する」という科学的態度とその方法論が示され、科学の分野における理性重視主義の時代の幕が開いたばかりの頃でした。
これに影響を受けたホッブズは、主権の根拠に「神」ではなく「理性」を据えることを思いつき、その理論を発展させて「リヴァイアサン」を書いたのでした。「理性」ならば常に科学的検証に晒されることになりますから、「神」のように怪しげな煽動家によって僭称されて利用される危険性は少なく、それゆえ「理性」によって根拠づけられる「主権」は、「神」によって根拠づけられる「主権」よりも、より信頼性が高くなり、高い権威を有する絶対的な存在となるのです。
つまり、あくまでホッブズは主権というものの絶対性・超越性の信奉者であり、清教徒革命によって綻びを生じたその絶対性を補強するために、「神」ではなく「理性」を根拠とした「主権」を説明した「リヴァイアサン」を著したのであり、彼のチャールス2世の側近という政治的立場を考えれば、ホッブズの想定するその「主権」の行使者とは、紛れもなくチャールス2世その人であり、ホッブズは絶対王政の復活を望んでいたということになります。
しかし実際には1660年の王政復古後にイギリス政治の主導権を握ったのは、ホッブズのような絶対王政を望む国王派ではなく、むしろ主権の絶対性を認めず、主権でさえも慣習法による制限を受けるべきであると考える保守主義を信奉する議会派のほうでした。だから、このホッブズの啓蒙主義思想は王政復古後のイギリス政治哲学界においては主流にはなり得ず、次第に忘れ去られていったのでした。

このイギリス清教徒革命の中で生じた逸脱の1つとして、革命で処刑されたチャールス1世の生前の浪費のツケで慢性化していたイギリスの赤字財政を解消するための共和制政府が1651年に制定した航海条例というのがあるのですが、これは貿易赤字を減らすためにオランダ商船によるイギリス向けのアジア物産の仲介貿易を規制する法で、ハッキリ言ってこれは共和制政府としては大失策で、この措置に怒ったオランダとの間に戦争が勃発し、余計に戦費がかさんで財政赤字は膨れ上がり、共和制政府は政権運営が困難になって王政復古への道筋をつけてしまったのです。
しかし、これ以降、イギリスとオランダとの間の貿易摩擦が慢性化し、17世紀後半において両国は戦争を繰り返すことになり、それによってオランダは疲弊して海上覇権を失っていくことになるのです。しかし、同じように戦って(戦闘そのものは決定的な勝敗はつかなかった)、むしろ17世紀前半においては劣性であったはずのイギリスが疲弊せずにオランダのほうが疲弊していくというのもよく考えればおかしな話で、それにはそれなりの事情というものがあります。
まず、東南アジアの交易利権を握ったオランダは17世紀後半に入ると絶頂期を迎えますが、ちょうどこの頃から日本における金銀の産出量が目に見えて減り始め、江戸幕府は国内通貨鋳造に回す分を優先して海外へ回す金銀が減るようになり、それをアジア交易の原資にしていたオランダは大きな打撃を受けました。一方、インド市場の交易利権を握ったイギリスはインド産の綿織物をヨーロッパへもたらしたところ、これが大流行して一躍イギリスのヨーロッパ市場における主力商品となり、これによってイギリスは富強になりオランダに対して優位に立ったのです。
これだけ見ると東アジア市場の金銀、インド市場の綿織物という特産品の明暗の差だけの問題にも見えますが、これは、イギリスは綿織物という実体経済市場を流通する商品を動かすことによって貿易差額を儲けるという、「市場の倫理」を重視した元来の経済の在り方に沿った取引を維持しているのに対して、オランダのほうは何時の間にか日本産の金銀に頼る癖がつき、貨幣経済市場において金銀を保持することにこだわる「統治の倫理」的な傾向に転んでいたという点が見受けられ、同じ重商主義政策でも、イギリスの貿易差額主義とオランダの重金主義という2つの政策の差が、状況変化によって明暗を分けたのだといえます。このようにオランダの国家方針が定まらずフラフラしてしまったのは、オランダの場合、主権国家とはいっても諸侯の集団指導体制のような感じで、その中心たるべき国王の主権がイマイチ確立しなかったことが原因ではないかと思われます。
こうして17世紀終盤になるとオランダの海上覇権は崩れていき、その後はオランダはインドネシアやアフリカ南端のケープ地方での利権を維持する程度になっていきました。代わって東南アジアの海上権を握るようになったイギリスはシナとの交易にも参入していくようになるのです。
しかし、だからといってイギリスがオランダを徹底的に叩き潰そうとしていたというわけではなく、むしろイギリス議会では海上権における優位を確保した後は同じプロテスタント国家同士、オランダとは協調的にやっていき、格下の同盟国、貿易相手国として遇して付き合おうという気運のほうが強かったのでした。これは交易の活性化こそが多くの富を生むという貿易差額主義の基本的スタンスでもありました。
ところが同じイギリスにおいても16世紀終盤に国王のチャールス2世はそうした貿易差額主義の立場はとらず、むしろオランダの持つ富を全て奪おうとするかのような執拗さでオランダを叩き続けようとしたのです。これは絶対王政の復活を望むチャールス2世が、この時期にヨーロッパ大陸において急速に超大国化してきた絶対主義国家フランスのルイ14世に同調し、まるでイギリスがフランスの従属国のようになったことによるものでした。

フランスは古代ローマ時代から高い農業生産性を誇る豊かな土地で、そもそもイギリスやオランダなどとは経済的な地力が違っており、西ローマ帝国滅亡後の西欧社会においてもその強大な経済力と軍事力を背景にして常に主導的役割を果たしてきていました。そのフランスは宗教改革においてはカトリック陣営に属しながらイギリスやオランダのようなプロテスタント国家と連携して重商主義政策を採用してスペインの覇権を突き崩し、三十年戦争においてもカトリック国家でありながらプロテスタント勢力を支援して参戦し、スペインや神聖ローマ帝国を弱体化させつつ、主権国家へと脱皮していったのです。これらの動きはフランスがヨーロッパの覇権を握るための布石であったのでした。
1648年に三十年戦争が終結した時点でヨーロッパは主権国家の時代へ移行していったのですが、この時点でフランスは主権国家として既に確立しており、フランス国民の利益代表としてのフランス国王は「王権神授説」に則った絶対君主となっており、フランス国民の経済的利益増進のために積極的に行動する責務を負っていたのでした。そして、フランスという国はもともと豊かで戦争も強い国であったので、イギリスのように交易で地道に稼いでいこうという傾向はあまり無く、欲しいものがあれば力づくで奪い取ればいいという発想に傾きがちでした。またフランスはプロテスタント国家ではなくカトリック国家であったので、勤労よりも征服を好む傾向が強かったともいえます。だからフランス国王がその絶対君主としての責務を果たそうとする場合、その手法は市場に多く商品を回して貿易差額で儲けていこうというような地道なものよりも、むしろヨーロッパ市場そのものを軍事力を用いてでも制圧してしまい、そこにある富や金銀を独占してやろうという、かなり強引な重金主義的なアプローチになりがちでした。
もちろん、そうした軍事偏重のアプローチだけではなく、イギリスのような貿易差額主義的なアプローチも駆使しつつ、硬軟取り混ぜて覇権を拡大していこうというのがフランスのやり方で、むしろ貿易差額主義的なやり方としてはイギリスの猿真似そのものと言ってもいいでしょう。イギリスが北米大陸に消費市場を開拓すればフランスも同じように北米大陸に移民を送り込んでルイジアナやカナダの植民地を開拓させ、イギリスがインドから持ち込んだ綿織物で大儲けすれば、それを見てフランスもインド市場に進出して綿織物を買い付けたりするという感じです。しかもただの猿真似ではなく、そうした猿真似をしつつ、いざとなれば何時でも強大な軍事力を行使し得るという怖さも併せ持っているところがフランスの恐ろしさでありました。

そのフランスの絶対君主といえばルイ14世ですが、三十年戦争終結時点では、まだルイ14世は幼少であったので宰相マザランが摂政を務め、その間に国力を蓄えてヨーロッパ最強の軍事力を整備しておいて、1661年にマザランが死去して、成人したルイ14世が親政を開始してからフランスは膨張政策を露わにしてインドや北米大陸に進出していき、ヨーロッパ大陸制覇の構えを見せるようになったのでした。
最初はフランスの野心に対して対抗する構えを見せていたイギリスのチャールス2世ですが、ルイ14世の見事な絶対君主ぶりに共鳴したのか、1670年以降はルイ14世と秘密協約を結んですっかり意気投合してしまい、まるでイギリスはフランスのヨーロッパ制覇の補佐役のようになってしまい、相呼応してオランダを攻撃する有様でしたが、オランダとの和平を望むイギリス議会の強い意向を受けて娘のメアリーを反フランス派でオランダの君主であるウィリアム公に嫁がせることでオランダとは和を結びました。
しかし、その後もルイ14世は拡大政策をとり、オランダに続いてドイツ方面への膨張も窺うようになり、フランス国内のカルヴァン派の迫害も開始し、1688年にはドイツ方面へ侵入を開始したことを受けてヨーロッパの各国はフランス包囲の大同盟を組んで対抗し、大同盟戦争が開始されたのでした。こうした事態を受けてもチャールス2世の後を継いだイギリス国王のジェームズ2世はカトリック教徒でもあったので先代よりもいっそう絶対王政への傾倒ぶりを露わにしてルイ14世の征服事業の支援を行っていました。ここに至ってイギリス議会はさすがに耐えきれず、名誉革命を起こしてジェームズ2世を退位させてフランスへ追放し、代わりにジェームズ2世の娘のメアリーとその夫のウィリアム公をオランダから呼び寄せ、2人を王座に就けて共治体制としたのでした。
これによってイギリスとオランダは一時的に同じ君主を戴くことになったのですが、別にイギリスがオランダに支配されたわけでもなく、オランダがイギリスに支配されたわけでもありません。二国はあくまで別々の国なのですが、イギリス議会としては国王を追放した後にその血統を引いていて議会側の意向に沿って動いてくれそうな人物という意味で国王の娘のメアリーを王座に据えることに意味があったのであり、既にオランダのウィリアム公と結婚していたメアリーを離縁させるわけにもいかないのであり、ならばウィリアム公にもイギリス国王としてメアリーと共に玉座に座ってもらうのが一番自然であろうという判断であっただけのことであり、それ以上の深い意味があるわけではありません。
この場合、メアリーやウィリアムの意思に何か深い意味があるわけではなく、このイギリスにおける名誉革命という政変の主役は徹頭徹尾イギリス議会の保守主義勢力であり、この貿易差額主義の立場をとるイギリス議会保守主義勢力がこれ以降、イギリスの国策を決定する立場に立ち、この名誉革命によって、ルイ14世によるヨーロッパ市場制覇の野望への公然たる妨害者としてのイギリス国家というものが登場したということに大きな歴史的意義があると見るべきでしょう。イギリス議会は名誉革命後、さっそく反フランスの大同盟に加わり、戦火は北米大陸やインドにも飛び火し、それぞれの植民地や権益拠点間で抗争を繰り広げることになり、この後、イギリスとフランスは1763年までの75年間の間、断続的にヨーロッパ、北米、インドで交易利権を巡って相戦うことになるのです。

何故、イギリス議会の保守主義勢力が反フランスであったのかというと、彼らの拠って立つ貿易差額主義に則った交易システムとフランスのルイ14世が進める重金主義的なヨーロッパ市場制覇計画とは真っ向から利害が対立するものであり、更に北米大陸やインドにおいてもイギリスと同じような海外拠点展開をするフランスとは交易利権を巡るライバル関係でもあったからです。
つまり、17世紀終盤以降のイギリスとフランスは世界規模において似たような貿易システムを持つようになったのでした。それは、同じようにインド産の綿織物をヨーロッパに持ち込んで貨幣を稼ぎ、その貨幣でインドで綿織物を買い付ける他、自国の毛織物産業などにも投資して生産業を育成し、そうして生産した毛織物など生活用品はヨーロッパ市場以外に北米大陸の植民地にも輸出し、その引き換えに北米大陸からは安価の労働力で作られた格安の農作物を輸入し、それをまたヨーロッパ市場で売りさばいて貨幣を稼ぎ、こうして得た貨幣の一部を使って武器を作り、自国領土や植民地、通商路を守る軍備に回す一方、アフリカの黒人部族にもインド産の綿織物と一緒に奴隷獲得用の武器として売りつけ、それを使って捕らえた黒人奴隷を黒人部族から買い取って北米大陸へ運んで安価の労働力として植民地の農場主に売りつけるというような感じでした。
このシステムの場合、イギリスやフランスから見て、インド貿易はハッキリ言って大赤字でしたが、ヨーロッパ市場においては綿織物に関しては大きな黒字を生みました。しかし綿織物が売れれば売れるほど自国の毛織物があまり売れなくなるので、それを優先的にさばく市場として北米植民地は重要で、全体の貿易収支においてインドで生んだ赤字を埋めるための重要な大きな黒字を生み出していたのは北米植民地との貿易でした。そして、その北米植民地の基幹産業である大規模農業を支えるのに重要な役割を果たしていたアフリカの黒人奴隷貿易も、奴隷を狩るために誘発される黒人部族間の戦争における武器輸出とセットになっており、武器がいくらでも売れたため、これも大きな黒字を生み出しており、全体収支としてはかなり多くの黒字を生むシステムとなっていたのでした。
つまり、この世界貿易システムにおいてはインドも確かに重要ですが、最重要なカギとなるのはやはり北米植民地ということになります。そこでイギリスとフランスは17世紀末から18世紀にかけて北米大陸で植民地争奪の戦いを何度も繰り返していくことになるのですが、これがインドにおける英仏の抗争と常に連動し、さらにヨーロッパにおけるフランスの膨張政策に対処する諸国間の争いとも必ず連動することになったのでした。
特に、上記の世界貿易システムにおいてイギリスとフランスは確かに類似したシステムを持ってはいましたが、細部においてはやはり異なった特性を持っており、イギリスは稼いだ貨幣を製造業や貿易業への投資に回して出来るだけ多くの商品を市場に回すことを重視する傾向が強かったのに対して、フランスは稼いだ貨幣を軍備に回してヨーロッパ市場の制覇による金銀奪取を重視する傾向が強かったのでした。ただ、それはどちらかというとそういう傾向があるというだけのことであり、戦いが長期化していくとイギリスもフランスも両者とも軍備による財政への負担が膨れ上がっていくという点では類似していったのでした。

この17世紀末から18世紀後半まで延々と続く英仏植民地抗争の間の特筆すべき出来事としては、まずイギリスにおいて1688年の名誉革命において国王ジェームズ2世を議会勢力が追放したことによって、17世紀の初めから続いてきた絶対王政派と保守主義派の抗争に完全に終止符が打たれ、イギリスの政治は「国王の持つ主権といえども長年培われてきた慣習法による支配による制限を受ける」とする保守主義の立場で行われるようになったことです。
その保守主義派の勝利の確認となったのが1689年の「権利章典」であり、これはイギリスの現在においても有効な根本法典であり、これによりイギリス国王は「君臨すれども統治せず」という立場となり、イギリスは立憲君主制であることが確認されたのでした。
そして、名誉革命によって擁立されたウィリアムとメアリーの共治体制の後を受けて即位したメアリーの妹のアン女王が1712年に子供を設けずに死去したことによってスチュアート朝が断絶し、代わってスチュアート朝の遠縁にあたるドイツ貴族を迎えてジョージ1世として現在に続くハノーヴァー朝が創始された際、ジョージ1世が全く英語が出来なかったために国王に代わって首相を置くようになり、ウォルポールが初代首相となり、議院内閣制の伝統が始まったのですが、この後も保守主義を基調とした政治が継続していったのでした。

このようにイギリスの政治は保守主義、すなわち「主権」というものを絶対視しない政治思想が基調となっていったのですが、「権利章典」の翌年の1690年にジョン・ロックという非妥協的な反カトリック傾向を持つ急進的カルヴァン派の政治哲学者が名誉革命におけるカトリック教徒国王のジェームズ2世の追放を正当化することを目的に著した「市民政府論」において政府の公式見解とは全く乖離した独自の論を打ち立てることになったのでした。何故ロックが保守主義の文脈とは違った立場で論理展開しなければならなかったのかというと、おそらく彼はその政治的立場からして、「主権」というものはとにかく絶対視するべきであるという立場だったのであり、そういう点で保守主義思想とはどうしても相容れなかったのではないかと思われます。
「主権」を絶対視する立場としては「王権神授説」が最も当時最もメジャーでありましたが、これはまさに追放されたジェームズ2世の拠って立っていた論理であったので除外され、そうなるとホッブズの「啓蒙主義思想」が残るわけです。そこでロックは既に半ば忘れ去られかけていたホッブズの啓蒙主義思想の論理を持ち出して、「国王の主権が自然状態の混乱を克服するために社会の成員の合意による契約によって作り出された」というホッブズの説を前提として、現実に国王の主権が否定されたということは自然状態が肯定されたことを意味するのだという読み解き方をしたのでした。言い換えれば自然状態の肯定によって国王の主権を否定しての追放が可能になったのであり、名誉革命が成就したのだということになります。そうなると名誉革命を肯定する立場のロックにとっては自然状態もまた肯定すべきものということになります。
そこで、自然状態とは各自が自分の欲望のままに好きなことをするような状態なのですが、ロックはこれを個人の自由が尊重された望ましい状態と規定したのです。こうなってくると自然状態を悪しきものと見なしたホッブズの主張とはかなりズレが生じてくるのですが、そもそもロックにとっては名誉革命を何が何でも肯定することが目的であり、ホッブズの思想はそのために利用しているだけですから、それほど気にすることもなかったのでしょう。
そこで、こうした前提のもとでロックは更に論理の飛躍を重ねて実際に起こった名誉革命を彼の論理構築の中で説明しようとしたのでした。すなわち、自然状態を個人の自由が保障された最良の状態を規定した結果、個人の自由を至上のものとし、個人を公権力よりも上位に置き、公権力が個人の自由を奪おうとした場合に個人は抵抗権を行使して政府を変更することが出来ると規定し、名誉革命はまさにそれであったと主張したのでした。
しかし実際には国王を追放したのは議会勢力であったのですが、ロックは議会であれ国王であれ政府が公権力を行使するのは全て国民の信託の結果であるとして、国民の信託を裏切った国王を議会が追放するのは国民の抵抗権の現れなのであり、議会で国王追放意見が過半数を制したというのは国民の信託の証明であるとしたわけです。
このあたりはかなり粗雑な論で、ジェームズ2世は実際には国民の自由を奪おうとしたり信託を裏切るほどの悪事を働いたわけではなく、むしろカトリック信仰の自由を求めたのは国王自身のほうで、プロテスタント国家の伝統を重視する保守主義的立場から国王の信教の自由を奪おうとしたのは議会のほうであったのが実情であったからです。そもそも国王もまた国民の信託を受けて公権力を行使していたということになりますから、それを議会が一方的に否定するというのはロックの理論における自己矛盾でありますし、議会で過半数を得たことが国民の信託を得たことに等しいという考え方は、単に現実に起きた事件に無理矢理理論をあてはめたことが明白で、かなり粗雑と言わざるを得ません。
実際はジェームズ2世は議会の保守主義勢力の求める「イギリス国家の伝統的な慣習に則った君主像」を逸脱してイギリスの国益に反する政策を進めるフランス国王と提携したがために追放されたのであり、いや、もっと現実的に言えば、ジェームズ2世はイギリスの国益に反する政策を進めるフランス国王と提携したがゆえに「イギリス国家の伝統的な慣習に則った君主像」を逸脱したというレッテルを議会勢力によって貼られて追放されたというのが実情であり、名誉革命はロックの言うような「個人の自由の勝利」というような奇麗事ではなく、実際は生臭い権力闘争であったのです。こうした基本的な現実認識からしてズレているロックの論はどこまでも空理空論になるしかなかったのだといえます。

要するにロックの主張は「国民個人の自由こそが最上のものであり、国民には公権力に対する抵抗権があり、国民の信託を受けた議会における多数決をもって新たな主権を作り上げることすら出来る」というものであり、これはホッブズの啓蒙主義思想とは全く違う思想で、ここにおいて初めて「民主主義思想」というものが発生したと考えていいのですが、ロックによってホッブズが再発掘されたために、ロックの民主主義思想もホッブズの啓蒙主義思想もひっくるめて一連の啓蒙主義思想という風に解釈されるようになっていきました。とはいえ、要するにこれらは「主権絶対論」という範疇に入るものであったので、主権というものを絶対的なものとは捉えず、伝統的な慣習法の研究に重きを置くイギリス政治学界においてはあまり相手にはされませんでした。
ただ、こうしたイギリスのような主権相対論的な保守主義思想のほうがロックの活動していた17世紀末のヨーロッパ全体で見れば異質だったのであり、ルイ14世のような絶対君主が大活躍していたようなヨーロッパ大陸においては主権絶対論的な王権神授説こそが最もメジャーな思想であったのです。そしてホッブズの啓蒙主義思想というものはそもそも主権絶対論や絶対王政を肯定する立場において王権神授説の弱点を補い補強する説として誕生したものであり、確かに王権神授説よりは優れた理論であったため、むしろ主権絶対論に肯定的なヨーロッパ大陸の政治思想界において次第に新しい革新思想として受容されていくようになったのでした。
フランスのヨーロッパ大陸における大膨張政策はヨーロッパ諸国を巻き込んだ1701年から1713年まで続いたスペイン継承戦争における挫折で食い止められることとなり、1715年にルイ14世が死去するとフランスにはただ莫大な財政赤字が残ることとなり、絶対王政に対する批判が巻き起こることになりました。そうした批判に応えて絶対王政を改革していかねばならないという意識がフランス政府にも生じて、主権絶対論を正当化する理論として従来の王権神授説に代わって啓蒙主義思想が採用されるようになりました。当時のフランスは何だかんだ言ってもヨーロッパ一の先進国で大国でしたから、たちまちこのフランス政界の傾向はヨーロッパ各国にも広まっていき、1730年代までには各国の政府官僚の間では啓蒙主義思想は最新のトレンドとなっていったのでした。
王権神授説に則った君主を絶対君主といいまして、これはともすると国内利権団体の利益代表のような立場になりがちでありました。これに対して啓蒙主義思想に則った君主は「国民の契約によって推戴された」という建前をとるために、より広範な国民の利益代表として振舞うことが出来たのであり、君主の求心力を高める上で有益な新しい君主像といえました。こういう啓蒙主義思想に則った新しい種類の君主像を「啓蒙専制君主」といいまして、18世紀後半にはオーストリアのマリア・テレジア女帝やプロイセンのフリードリヒ大王、ロシアのエカテリーナ2世などを代表格として、ヨーロッパにおける君主像のモデルとなっていきました。これは、これらの君主たち自身が啓蒙主義思想の信奉者であったというよりは、彼らを取り巻く政府官僚や政治思想家たちが啓蒙主義思想に則った君主像を形成することで王政、ひいては支配体制を強化していこうとしていたというのが実情であったといえます。

このように啓蒙主義思想というものは18世紀ヨーロッパにおいては、むしろ王政を強化するための理論として各国のサロンに集う政治思想家たちによって取り扱われていたのです。しかしこの啓蒙主義思想の中にはロックの民主主義思想という毒素が混入していたため、ヨーロッパの政治思想家の中にはその毒が頭に回って、更におかしなことを言い出す者も出てくることになったのです。
18世紀後半に活動したフランスの政治思想家ジャン・ジャック・ルソーもそうした一人でした。ロック思想においては自然状態が妙に持ち上げられたり個人の自由が至上のものとされたり、議会の多数決で主権が変更されたりして、政府の主権はあまり絶対的なものではなくなって個人の欲望の暴走を抑制するという本来の役割を果たすのが困難になってきてしまっていましたが、それでもあくまで主権は政府に存在していました。ところがルソー思想においてはロック思想から更に一歩飛躍して、主権が人民に存するということになってしまい、そうなるともはや政府は不要であり、無秩序状態が必ず出現することになりますが、それを収拾するための社会契約はもはや議会などによって成されるのではなく、「一般意思」という内容不明の神託のような理念を把握する唯一存在である神の如き絶対的独裁者である「立法者」という者によって行われるということになったのです。
しかし、ここまで極端な飛躍というものは、ルソーがいくら少しイカレた人であったとしても、ロック思想の毒素だけでここまで酷いことにはならないでしょう。これには18世紀前半に盛んになった、アイザック・ニュートンに始まる近代科学思想の影響が大きいと思われるのです。
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パンくずリストとは、Webサイト内で現在開いているページがサイトの階層構造の中でどの位置にいるのかを簡潔に表示したリストのことを言う http://cater.ellingtonrecords.com/

【2008/10/30 05:57】 URL | 57 #- [ 編集]



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