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日本史についての雑文その368 倫理と欲望
そもそも、神とは何なのでしょうか。その正体は精霊であるとか、宇宙人であるとか、異次元人であるとか色々言われますが、正体などはこの際どうでもいいです。遥か昔に人間の誰かが精霊や宇宙人や異次元人を目撃して、それを神だと認識したのかもしれませんし、あるいは大きな熊や大蛇を見て神と思ったのかもしれませんし、あるいは高くそびえる山や太陽や月を見て神と思ったのかもしれません。とにかく何か人間から見て超越的な存在を「神」と認識したということです。それはつまり、古代の人々にとってはもともと「神」というものは何らか超越的な存在であるという固定観念が先にあって、その後に不可解なものや明らかに人間の手には負えないような巨大な存在などを目撃した時にそれらを自己の中の「神」のイメージに重ね合わせたのに過ぎないのです。
つまり、人間は何らかの超越的存在を目撃して「神」を認識したのではなく、「神」という抽象的で超越的な存在に対するイメージが先に形成されてから様々な事物を見て、それらを「神」と見なしたということです。そうでなければ世界各地で「神」の姿がここまでバラバラであることや、キリスト教の神のように姿形の無い神が存在するということが説明がつきません。
一応断わっておきますが、だからといって私は超常的な現象を否定するわけではありません。むしろ人間の中で強固に形成されていた超越的存在のイメージに合致するほどの強烈な体験が錯覚やまやかしであろうはずはなく、おそらく実際にこの現実世界の因果律では説明不可能な現象が発生し、人々がそれを目撃したということも多々あったのだと思います。特に多数の信者を獲得した世界宗教などの場合、その布教にかけるエネルギーは並大抵のものではなく、布教にそれだけのエネルギーを注ぎ込むだけの何らかの強烈なインパクトのある事件がその宗教の創始時に起こったことは間違いないでしょう。おそらく釈迦やその弟子たちは悟りに伴う超越的ビジョンや感覚を共有したのでしょうし、イエスの弟子たちはイエスの死後の復活を目撃したのでしょうし、またムハンマドは確かにアッラーフの声を聞いたのでしょう。これらはおそらくこの現実世界に重なって存在している何らかの異次元世界に由来する現象であろうと推測できます。
この現実世界に重なって複数の異次元世界が存在し、時にその異次元世界からこの現実世界への干渉がなされているとはおそらく事実でしょう。それらが人間の精神や歴史に重大な影響を及ぼしてきたこともあったかもしれません。それら異次元世界は人間から見て超越的世界であるかもしれません。しかし、それと、人間が太古からイメージしてきた超越的な「神」の正体がそれら異次元世界に由来するかどうかという問題はまた別問題で、やはりまずはイメージが先に存在して、その後に異次元世界に関連する目撃事件があったのだと考えたほうが自然なようです。何故なら、世界中の人が同じ現象を目撃したとは考えられないにもかかわらず、「神」の基本イメージは世界共通の要素が多いからで、それはつまり、まずは人間の共通した集合無意識が「神」のイメージを創り上げ、その後、世界各地で個別の超常的な目撃例を重ねて、「神」のイメージの肉付けがバラバラになされていったという順序を仮定したほうが自然だからです。では、何故、人間は神などという超越的存在をイメージするようになったのでしょうか。それがここで問題となるのです。

人間は根本的には自己のみでは自己を統一体として認識できない存在であるので、他人の目に映った自分の姿を通して自己の姿を想像します。そんなことはないという人もいるでしょうが、実際、他者というものが全く存在しない(想像上の他者ももちろん存在しない)世界で自己の像を具体化することなど出来ないはずです。
それゆえ人間は他人との繋がりを求め、自己を他人の欲望の対象として同一視しようとします。例えば赤ん坊の時には母親の愛情(欲望の一種)の対象として自分を認識することによって「自我」というものを見出すのです。しかし実際には母親が不在の場合もあるし、母親がいても愛情が常に自分に向けられるということはあり得ません。母親でそうなのですから他人ならば尚のことでありましょう。自分が他人の欲望や愛情の対象となることも確かにたまにはあるでしょうが、それらを全て総合したとしても、自分というものの全てを映し出す鏡のように作用するというまでには至らないものです。自分の頭の中で作りだした想像上の他者ならば、都合よく自分のみに膨大な愛情や欲望を向けてくれるかもしれませんが、これはあくまで想像上の存在であり、現実的なものではありません。
つまり、この他者(の欲望)という鏡に映った自分の姿というものは現実的なものではなく、あくまで想像上のもので根拠のあるものではないのです。このように実は自分というものはこの世界においては不確かな空虚な存在であるという事実があって、その事実を隠蔽して安心するために想像的世界においてでっち上げられた概念が「自我」なのです。「あらゆるものに実体というものは無く無常であり、あらゆるものは相互の関係性(縁起)としてのみ存在する」という仏教の根本思想である「空」の思想は、これを表現したものであり、仏教においては「無我」、つまり「自我というものは無い」と説かれます。また、このことを自分の側から見れば「自分も含めてこの世のあらゆる事物はあくまで自分の想像的世界における認識によって存在しているものであり、実体というものはない」というふうにも言い換えることは可能で、これを仏教では「唯識」といいます。

人間は幼児期においてはこうした想像的な「自我」の世界、これを「想像界」といいますが、つまり母子一体世界に安住しているものなのですが、心理学的にはここに父親という「母親を奪う存在」が現れて母子一体が引き裂かれることによって幼児は想像界から象徴的世界である大人の社会へと移行するとされます。
これはつまり、幼児が成長するにつれて、自分を他者の欲望の対象として同一視しようとすればするほど、その想像的な「自我」の根拠が実は曖昧であり、自分が実は空虚な存在であるということが薄々判ってくるために、その事実から目を背けるために一旦自分を他者(この場合は特に母親)の欲望の対象とすることを断念せざるを得なくなるのですが、その断念の根拠として「自分は空虚である」と認めるわけにはいかないので、「自分を母親の欲望の対象とすることを外部から禁止する超越的存在」という架空の存在を創り出すことになるということなのです。この架空の存在が「父親」なのです。
つまり「父親」というのは一種の象徴的存在なのであって、子供にとって心地よい「想像界」を否定して、子供に禁欲を強制して大人社会のルールに強引に従わせようとする超越的存在として子供(人間)が頭の中で創り上げた概念の代名詞なのであり、これは「神」と同義といっていいでしょう。そしてこの「父親」や「神」や「絶対者」が子供や人間に対して遵守を強制する禁欲的なルールの体系は言語化され象徴化されていることから、このルールによって支配される世界は、幼児の安住の地であった「想像界」に対して「象徴界」といわれます。この「象徴界」が私達が通常、現実社会と捉えている世界ということになります。そしてこの「象徴界」における禁止の体系、禁欲的ルール、倫理観というものが、つまり「統治の倫理」に相当するわけです。
人間は幼児期においては「想像界」に閉じこもり純粋な「自我」を持って自らを全能な存在だと錯覚しているわけなのですが、父や神という存在の絶対性によって「自我」を否定され、全能性を損なわれ、「象徴界」のルールである「統治の倫理」を受け入れ、自らが不完全な存在であることを認めることによって、逆説的ですがここにおいて初めて不完全な存在としての自己を確立することになるのです。言い換えれば、いわゆる現実社会である「象徴界」においては完全なる自己というものは得ることは出来ず、自己は「神」や「統治の倫理」によって否定されることでしか存在しない空虚な存在なのです。

人間が元来有していた汎神論的信仰、すなわち精霊信仰というものは人間の霊魂の延長線上の存在である精霊を信仰するもので、精霊自体に大して際立った個性や超越性というものを認めるものではありませんでしたので、この場合の「精霊」は「神」とは異質な存在であるといえます。人間がこうした超越的かつ絶対的存在である「神」というものをイメージするようになったのは、四大文明が成立して文明生活を営むようになって以降、文明生活の中で様々な事象に触れ複雑な人間関係を構築していく中、つまり社会生活が複雑化していく中で、自己の万能性を否定され、不完全性を自覚せざるを得なくなる機会が増えて以降のことでありました。
こうして、人間が社会生活を営むようになると自然に「象徴界」が形成されるようになり、「神」は不完全で空虚な存在である人間から見れば超越的で絶対的な存在という概念的な地位を確立するようになり、そうした「神」の概念に合致するような超越性を有した自然の事物が神そのものと見なされるようになったり、概念そのものが新たなイメージを追加していって抽象的な神格を完成させていったりしたのでした。世界中に散見される「神」というものはこうやって形成され、多神教や一神教が成立するようになったのです。そこでは人間独自の自己確立のための欲望充足が「神」によって禁止される代わりに、その「神」による禁止命令に従う見返りに一定の恩恵が人間に与えられるという世界観が形成されました。つまり、人間は余計なことは考えず、「神」の支配下に入って、全て「神」にお任せしておけば良いという考え方です。

しかし、そもそも人間が「父親」や「神」のような絶対者を設定して「象徴界」を創造したのは、自我の根拠が曖昧で自分が空虚な存在であるという事実、つまり仏教で言うところの「無我」という事実から目を背けるためであったのであり、「象徴界」も「想像界」の上に継ぎ足して作ったようなものであったのですから、「象徴界」において「父親」や「神」によって完全に自己を否定されることを潔しとするはずがないのです。
父親や神という存在は自分を他者の欲望の対象とすることを禁止するために幼児や人間が創りだしたフィクションなのです。何故禁止しなければいけないのかというと、禁止しなければ自分が他者の欲望の対象として自己同一化を図ることが出来ない空虚な存在であるということが見えてきてしまうからです。だから、神による禁止の目的は、欲望を諦めるためではなく、むしろ欲望の延命のためであるといえます。
すなわち、「象徴界」において自己を他者の欲望の対象と同一視することを停止するのは、本当はそれによって「自分が空虚な存在である」という事実に辿りつかないようにするためであるのですが、それを「父親」や「神」という絶対的超越者からの禁止命令によるものだと設定し直すことによって、「不本意ながら一時的に諦める」という形に転化し、「自分が空虚な存在である」という事実に気付きかけていた自己の認識そのものを隠蔽してしまい、「本当は自我の確立や欲望の充足を諦めてはいないのだが、父親や神に禁止されているから仕方なく一時撤退しているだけ」という認識を創り上げて、禁止措置の彼方に欲望の対象を先送りするのです。本当は自己の空虚さに気付くのが怖いから先送りしているに過ぎないのですが、それを「神による禁止」という形にすることによって誤魔化し、自己を他者の欲望の対象としての同一化をすることが可能であるという認識を維持するのです。
しかし「象徴界」においては「神」や「父親」の与えた(と自己が設定した)「統治の倫理」によってそうした欲望充足作業は禁止されており、出来なくなっていますから、ひとまず先送りされます。しかも「象徴界」においては完全なる自己というものは否定され、自己が空虚な存在であることを認めるような圧力が常にかかってくることになります。そうした状態への反発から、禁止の彼方に完全なる自己を求める欲望はかえって大きくなり、それがまた禁止されていくと、その禁止の向こうにまた新たに完全なる自己が存在するのではないかという設定が無限に繰り返されるようになっていくのです。つまり「象徴界」における「禁止」というのは欲望を消滅させるためではなく、実は欲望を生じさせ維持するためのものなのです。
完全なる自己を求める作業というのは、他者の欲望の対象を自己と同一化する作業ですから、それが無限に繰り返されるということは、様々な他者の欲望の対象を自分の欲望として追い求めることで自己の空虚を埋めようとする作業が延々と繰り返されるということです。このように「象徴界」においては欲望の対象は禁止される度に新たな欲望が未知の場所に充足可能なものとして設定し直され続けていくのであり、欲望は無限に存在することになり、その無限に存在する欲望を無限に禁止していく存在が「神」であり「父親」であり、その禁止体系が「統治の倫理」なのです。

もちろん、実際には自己というものは空虚な存在であるので、いくら欲望を追い求めてその対象を得ても、それによって本来の自己というものが見つかるということはあり得ません。むしろ欲望充足のたびに喪失感を味わうことになり、新たな欲望の対象を見出すことによってその喪失感を埋めていくことを繰り返すことになるのです。そうした喪失感を味わうという苦しみを積み重ねていくのが人生であり、つまり「人間が生きるということは苦であり、この世の一切のものは苦であり、苦の原因は人間の執着(煩悩)にある」という仏教の根本思想はこういう「象徴界」(いわゆる現実世界)の状態を表現しているのです。
仏教においてはこの苦を滅した境地を「悟り」といい、「悟り」に至る方法こそが仏道であるとします。苦を滅するにはその原因である「執着(煩悩)」、すなわち欲望充足作業の無限ループを断ち切ることが必要ですが、それは禁欲の強制によっては成し遂げられません。何故なら上述のように「象徴界」においては禁欲の強制はむしろ欲望充足作業の無限ループを引き起こすからです。仏教においては執着によって引き起こされる苦の連鎖を断ち切るためには、自己が空虚な存在であるということを認めてしまうことを解決方法とします。それによって、「想像界」の上に「象徴界」を付け足すことによって「想像界」を温存するという方法を選択するのではなく、「想像界」という「自我」の存在を許容する世界を完全に否定して、完全なる自己を求めての欲望充足作業が発生しないようにするのです。
つまり仏教というのは「神」や「父親」のような概念を用いて「象徴界」において禁欲の体系、すなわち「統治の倫理」を創り出すような思想とは本来は種類を別とした思想体系であり、「象徴界」というものがそもそも無い思想体系で、「倫理」を超越した思想なのだといえます。「倫理」というものは人間の欲望や執着というものの存在をそもそも前提とした思想体系であり、逆説的なようですが、執着や欲望というものの存在を認めないところに禁欲的な「倫理」というものは成立しないといえます。仏教は執着や欲望の消滅そのものを目的とした思想体系であるので、「倫理」的な発想が生じる余地が無いわけです。

ただ、これはあくまで本来の釈迦の説いた仏教の教えであり、ここまで人間に根本的な意識変革を迫る厳しい思想だけではなかなか普遍性を獲得することは難しく、後世の仏教家たちによって仏教にも倫理的な側面も導入されていくことにはなります。ただ、それでも仏教の根本思想がこうしたものであるという点は今に至るまでしっかり受け継がれてもいます。
仏教というものはこの世界の実体を認めず、この世界を不完全で空虚なものとすることから現世否定的な教えのようにも思われますが、釈迦は欲望を否定しているだけであり、現世を否定せよなどと述べているわけではなく、現世における苦しみを根本的に解決する方法を述べているに過ぎません。むしろ欲望のままに新たに獲得した対象をその度に自分の欲していたものと違うと言っては否定し憎み、また新たな欲望の対象を求めていく姿勢のほうがよほど現世の事物に対して否定的なのではないでしょうか。釈迦の本来述べたかったことは現世が不完全で空虚なものであると認めることで欲望を捨て去り、不完全で空虚な現世の事物を有りのまま受け止めて肯定するという生き方であったのです。とりあえずはそうした現世肯定的なスタンスで死ぬまでは生きていくべしと釈迦は述べているのであり、ことさらに現世からの脱出や現世の破壊を命じたりしているわけではないのです。
もちろん、そうした生の中で現世を現時点よりもベターなものに変えていく努力が否定されているわけではなく、ただそれは本来の仏教の思想とは関係ないことであるというだけのことで、それはそれで勝手にやればいいのです。仏教思想において否定されていることは現世においてベストやパーフェクトを求めて苦悩する無意味さであり、ベターを求める限りにおいては現世を変革する努力まで否定されているわけではないのです。ただそうはいっても、欲望というものが現世における人間の変革も含むあらゆる活動の現状での活力源ともなっているのも事実であり、なかなか欲望の存在を否定しての変革というものが難しいのが実際のところではありますが。

このように「象徴界」を持たない仏教においては超越的かつ絶対的存在としての「神」というものも存在せず、仏教成立時点で他宗教において信仰されていた「神」なるものについても、それもまた人間が認識することによって存在しているものであるという点で人間や他の事物と同様に不完全で空虚な存在であると解釈し、たとえ人間を超える何らかの能力を有していたとしても、「神」もまた空虚から逃れるための欲望充足作業から脱しない限りは苦の連鎖である輪廻の無限ループから逃れられないという点では人間や他の動物のような生命ある「衆生」と同様の存在であるとされました。
それに対して、「神」を「象徴界」における絶対的かつ超越的存在と見なす思想は仏教成立以前から存在しており、こうした類型の思想においては「神」は人間に対して空虚から逃れるための欲望充足作業の禁止を強制する「統治の倫理」を下す存在であり、それに対抗して人間は「神」による禁止の目を盗んで、次々と他者の欲望の対象を自らの欲望の対象として追い求めていくようになりました。人間の本質は空虚ですからこの欲望の充足が達成されることはなく、人間の秘かな欲望充足作業は無限に続いていき、それを押さえつけようとする「神」による禁止措置もまた延々と繰り返されていくのであり、この「いたちごっこ」は永遠に続いていきます。これらの神と人間の抗争は「神」の造った(と人間が見なした)「象徴界」における言語的かつ象徴的なルールを順守するか違反するかを巡るものであり、あくまで「神」を中心とした「象徴界」の中の出来事で、人間は無限に自己の確立の欲望を追求しつつもそれらは必ず無限に神によって禁止されるという意味で予定調和的であり、結果的には総合して比較的安定した秩序を形作っていきます。
つまり、この「象徴界」を持つ思想類型においては、欲望の禁止を建前とするのですが、実際は欲望の存在を肯定しつつ欲望のコントロールがなされていくことになります。「神」なき思想である仏教が「欲望の消滅」を目標とするのに対して、「神」を中心とした思想、すなわち「統治の倫理」は「欲望のコントロール」を目標としているのです。
この「神」を中心とした思想においては人間は自らが空虚な存在であるということを「悟る」ということはなく、「象徴界」において永遠に煩悩の連鎖の中で苦しむことにはなるのですが、延々と繰り返す欲望充足作業を常に「神」によって禁止されることによって、その欲望追求は常に不完全なまま先送りされ、それによってこの「象徴界」の秩序は破綻することなく維持され、人間は不完全ながらも適度に欲望を充足させつつ新たな欲望への渇望を活力源にして、ベストを求めながらベストを得ることの出来ない無力感に苦しみながらも結果的にはベターへ向かって少しずつ進んでいくことになります。つまりは、この「象徴界」という世界はあくまで「神」が中心であり、人間の苦しみの存在を前提としつつ世界の秩序維持と漸進的な改良を目標とする世界なのだといえます。

人間というものは自らの空虚さを受け入れるのは困難であり欲望を好むものですから、そうした性癖を逆手にとった、この「神」の思想のほうが仏教よりもむしろ普遍的であったのかもしれません。世界各地でこのような「神」を中心とした思想体系(「統治の倫理」)が生まれるようになり、この思想は「神」が絶対的に正しいということが前提となっていますから、「神=善」で、「神に逆らうもの=悪」という善悪二元論という世界観もここから派生していくことにもなりました。
この善悪二元論が生まれたのは紀元前7世紀ぐらいで、その最初の例がゾロアスター教であったのですが、「神」は禁欲を強制する存在であり、その「神」が善であるということは、「神に逆らうもの」としての「悪」とは人間の欲望そのものであるということになります。実際、正統派の善悪二元論の世界では欲望は罪悪視されていくことになります。しかし、あまりに欲望が完全に否定されてしまうと、実は「象徴界」は欲望が存在しないと秩序が維持されないという秘密がありますから、ちょっと困ってしまいます。そこで、善悪二元論が普及していくにつれて、「罪悪視されないレベルの欲望」というものが新たに設定されるようになっていきます。
それは、「神」の下した「統治の倫理」に合致するわけではないが抵触するまでにも至らない程度の、あらかじめ「象徴界」の秩序の中で制御された範囲の欲望であり、「象徴界」や「統治の倫理」を破壊しないようにそれなりのルールを備えた限定的な欲望であり、「統治の倫理」と一応は対立関係にありながら、即刻取り締まらねばならないほどの悪ではないというほどの存在で、善悪二元論によって全ての欲望を抹殺してしまうという事態を避けるための玉虫色の存在として設定されたものです。これが限定的な欲望の肯定としての「市場の倫理」の原型になるのです。
こうして善悪二元論の登場以降は、「象徴界」においては「善なる神」による禁欲的な「統治の倫理」が「悪魔」のもたらす欲望を駆逐していくという世界観を建前としつつ、実際はその極端な「悪魔的欲望」は存在すら許されなくなるので、「神」の下した禁欲体系である「統治の倫理」と、「人間」の持つルール化された(飼い馴らされた)欲望体系である「市場の倫理」が対峙し合っていたちごっこを繰り返すことによって総合して比較的安定した秩序を形成していくことになります。こうした「象徴界」(一般に言う現実社会)における「統治の倫理」と「市場の倫理」の対峙状況は、善悪二元論が更に後に一神教を生みだすようになっても同じように継続していったのでした。

この「罪悪視されないレベルの欲望」としての「市場の倫理」の原型とはどのようなものかというと、例えば他者の愛情を求めたり他者に愛情を注いだりすることであったり、相互に助け合ったりすることであったり、互いに心を通わせることであったり、一般的には欲望とは言い難いようなものですが、これらとて「空虚を埋めるために他者の欲望に自己を同一化させる」という行為の一環には違いなく、「統治の倫理」によって禁止されるべきものとされるのです。ただ、それが独自のルールによって歯止めがかけられていると見なされたものだけが暫定的に禁止対象から外されて「捨て置かれる」という状態となるというわけです。
これを人の一生に喩えてみるとこうなります。「想像界」というものが赤ん坊が母親の愛情の対象として自己を認識することから始まる幼児期の母子一体状態を指すとして、そこに父親が割り込んで幼児の母子一体状態における安住が誤った認識であることを教え、「想像界」を否定して大人社会のルールに従うように幼児に強制することによって「象徴界」へと幼児は移行して、幼児はそこで一旦は自我を否定されて自己が空虚な存在であることを認めるような圧力を受けることになりますが、次第に父親に反発して父親の禁止措置の隙間を見つけては新たな欲望を見出して自我形成を企てていくようになり、父親との間でいたちごっこを繰り広げるようになります。
そうして幼児が少年といえるぐらいまで成長してくると父親もある程度は少年の独自の世界を許容せざるを得なくなり、例えば学校の友達との世界や、更にもう少し大きくなるとバイトでちょっとした小遣いを稼いだりとか、子供が父親の目の届く範囲から外れて自律的に動いて独自の社交関係や経済関係を築くことを認めることになります。但し、この段階ではまだ父親のルールは子供に完全に及んでおり、大抵は子供の独自世界構築は父親の呈示したルール順守の約束の再徹底が交換条件になっており、父親は子供の逸脱を常にチェックすることは可能であり、また父親は保護者として学校関係にもバイト先にも手を回して、いつでも自由に子供の独自の世界を引っくり返すことは可能な状態は維持しています。つまり、この段階での子供の独自の世界は父親の理解によって辛うじて存在を許容されているだけの「かりそめ」のものに過ぎないのだといえます。「象徴界」において「市場の倫理」というものが生まれた時の状況というのは、このような人の一生における少年期のちょっとした子供独自の世界の芽生えの段階に相当すると見ればいいでしょう。

しかし、人の一生においても、この少年期のちょっとした独自世界の芽生えがきっかけとなって父親と子供の間で維持されていた秩序が崩れていき、父親の手に負えないような事態にまで発展するということも多々あるわけで、しかもそれが子供の真っ当な独り立ちに繋がればいいのですが、そうではなく非行に繋がってしまう場合もまたあるわけで、人類の思想の歴史においても同じようなことが進行したのでした。
真っ当な独り立ちに相当するものとしては、「市場の倫理」が独自の発達を遂げて、抑制的な自利の追求と、それとバランスのとれた利他行為の実践に喜びを感じる倫理感の形成によって人々の連帯が拡大していったことでした。「統治の倫理」においては欲望はタブーとされ、触れてはいけないものとされましたが、良質の「市場の倫理」においては他者の欲望を自分の欲望として自己の空虚を埋めるのではなく、他者の欲望を満たすことによって自己の空虚を埋めることが肯定されたのでした。
ここでは「統治の倫理」においては否定されていた「欲望」が肯定されていますが、「欲望」は「求めるもの」ではなく「与えるもの」に転化されています。「他者の欲望」が「自己の欲望」と同一であるのなら、「他者の欲望」を自己のものとして追い求めるという道があると同時に、逆に「自己の欲望」が他者のものともなっているわけですから、自分は他者の欲望が把握できるはずで、それならば他者の欲望を実現させてあげれば、それは「自己の欲望」でもあるわけですから、「自己の欲望」が満たされたことになり、自己の空虚がいくらか埋められるはずなのです。これが「自分の欲するところのことを他人に施すべし」の精神です。この場合の「欲望」を「愛情」と言い換えれば、無償の愛情を他者に注ぐことが自己の空虚を埋めることに繋がるのです。これが博愛精神というものです。こうして「統治の倫理」には存在しなかった「市場の倫理」における独自の倫理観である「愛」を駆使して、あたかも少年期の人間が父親の手の及ばない世界で友人や恋人などの新たな人間関係を構築していくように、人間は「市場の倫理」を発達させたことによって、「統治の倫理」のタブーを乗り越えて共同体を超越した連帯を広げていったのでした。そして同時に「市場の倫理」においては「統治の倫理」の制約を乗り越えた部分においてタブーを乗り越えた真理の探究も行われるようになったのでした。

しかし、全ての人がこの利他の効用に気付くわけではありません。また、「市場の倫理」によってとことんまで空虚を埋めていったとしても空虚が全て埋めきれるということはありませんし、全ての真理が解き明かされるということもありません。何故なら、人間は本来空虚な存在であるからです。良質の「市場の倫理」を駆使しても、得られるのは不完全な空虚の充足や不完全な真理なのです。つまり、「市場の倫理」で得られるものはあくまでベターなものであって、ベストやパーフェクトではないのです。言い換えれば、現状より幾らかマシになるというベターな改良で満足するのが「市場の倫理」の基本精神だといえます。これは先述の仏教思想と相性が良いものであるといえます。
しかし、ベターではなくベストやパーフェクトを求める人にとっては「市場の倫理」では物足りなく思えることでしょう。つまるところ、完全や完璧なものにこだわる人間、「完全なる自己」などというものが存在するという迷妄に囚われる人は、あくまで利己的に自己の空虚を埋める作業に戻ってきてしまい、「神」による禁止の反動として他者の欲望を自らの欲望として追い求める作業をひたすら繰り返していき、その欲望を充足していく度に、それが本来自分の求めていたものではないことに失望し、喪失感を味わうことになるのです。そうなると人間はそうした喪失感を積み重ねた挙句に、この現実社会(「象徴界」)において自分が真に求めている「真の自己」とは一体どういうものであるのか考え込むようになるのです。
実はこの「真の自己」というようなものは存在しません。人間は本質的に空虚な存在だからです。しかしその「無我」という前提は否定した上で「象徴界」は成り立っているわけですから、仏教的発想によらずして「象徴界」の住人はそれに気付くことはありません。しかし、「象徴界」の住人もさすがに、いくら目先の欲望を手当たり次第に達成していっても真の自己が得られないという事態の異常性には気付いていきます。特に欲深く、「完全」への渇望が強く、多くの欲望を実際に達成した者ほど、そういう実感を強く得ることでしょう。
そういう人間は「実は真の自己はこの現実世界には存在しないのではないか?」「真の自己は別の世界に存在するのではないか?」と考えるようになります。「真の自己」は欲望の対象によって構成されているこの現実世界を周縁から見た場合、その彼方にある中心にぽっかり開いた穴の向こうに覗いて見える得体の知れない異世界に存在し、その穴から「真の自己」の存在の気配が感じ取れるから人間はこの現実世界でその穴に向かって欲望充足の旅を続けていくのだと考えるのです。それならば現実世界においていくら欲望を充足し続けても「真の自己」に辿り着けないのは合点がいきます。その「真の自己」こそが全ての他者の欲望が同一化したものであるわけですから、一種の究極的存在の持つ欲望そのもの、つまり「究極の欲望」「欲望本体」であるともいえます。
このような世界観においては、人間が現実世界のあらゆる欲望を充足していって、この現実世界の中心のぽっかり開いた穴の縁まで辿り着いたとしても、そのような得体の知れない「もの」を人間は掴むことは出来ませんし、得体の知れない異世界に人間がそのまま入っていくことは出来ません。しかし、それが「真の自己」「真の存在」であるとするならば、それが存在する異世界こそが「真の現実世界」であり、逆にこの現実世界は本当の現実世界ではなく、現実世界の要素が象徴的に映り込んだバーチャルな世界、かりそめの世界、象徴的秩序の世界であるということになります。そしてこういう世界観を持つ人々はその真の現実世界である異世界を「現実界」と呼び、通常言うところの現実世界である象徴的秩序の世界を「象徴界」と呼ぶようになったのです。
つまり、この現実世界である「象徴界」は実は実体の無い偽の世界であり、この「象徴界」の背後に真の実体の世界である「現実界」が人知の及ばない形で存在し、そこにこそ「真の自己」が完全な形で存在しており、それは究極的存在であり究極的欲望そのものでもあるということになります。その「現実界」に隠された「真の自己」こそが「象徴界」における全ての欲望を引き起こす源泉であり、人間はその「真の自己」の呼ぶ声に導かれて「神」の禁止命令に反逆して「象徴界」においてひたすら欲望充足作業を繰り返して「象徴界」の中心にぽっかり開いた「現実界」へ通じる穴の縁を目指すのです。つまり、「現実界」に存在する「真の自己」は「象徴界」の「神」に反逆する存在であるということになりますが、「現実界」こそが真の世界で、「象徴界」が偽の世界だとするならば、「現実界」の「真の自己」「真の存在」こそが「真の神」なのであり、「象徴界」、つまり通常言われる現実世界で欲望充足を禁止する「神」のほうが実は「偽の神」であるということになり、むしろ「象徴界」の偽の神のほうが「現実界」の真の神に反逆しているのが真実なのだが、「象徴界」の住人である人間にはそうした「事実(?)」が感知できないのだということになります。

こうして、「象徴界」においてとことん完全な自己を求めて欲望充足作業を繰り返していった末に、人知を超えた真の世界である「現実界」と、人間に感知可能なバーチャルな偽の世界である「象徴界」という2つの世界が同時存在しているという世界観が生まれたのでした。こうした二元的な世界観は「人知を超えた世界=霊の世界」、「人間に感知可能な世界=物質(肉体)の世界」の並立する「霊肉二元論」の図式へと発展し、紀元前7世紀に北インドにおいてウパニシャッド哲学を生みだしました。ウパニシャッド哲学においては物質世界を超越した霊的世界が存在すると唱え、その霊的世界を宇宙の根源である実体を「ブラフマン」と呼び、人間が生前にその意識を「真の自己」ともいえる「アートマン」の領域にまで高めていれば、死んだ後にその「アートマン」は「ブラフマン」と融合することが出来るとしました。これを「解脱」といいます。
これは言い換えれば、「象徴界」においてあらゆる欲望充足作業を経て中心の大穴の縁にまで到達した人間が死によって肉体という制約を脱ぎ棄てて大穴に飛び込めば「現実界」に到達して「真の自己」と一体化することが出来るということです。つまり、ウパニシャッド哲学においてはたとえその魂が「アートマン」の段階(大穴の縁)に達していても「死」を経て肉体を捨てなければ「現実界」へ移行して「ブラフマン(真の自己)」と融合することは出来ないのであり、また、「アートマン」の段階(大穴の縁)に達していない状態で単に死ぬだけでは「現実界」へ移行する通路に入ることは出来ず、弾かれて「象徴界」に戻ってきて、「象徴界」で新たな肉体を得て再び中心の大穴へ向かう行程を歩んでいくことになります。これが「輪廻転生」ということになります。
実は、釈迦が紀元前5世紀に開いた仏教というのは、釈迦が生まれた時点で既に北インドにおいて普遍的であったこのウパニシャッド哲学をもとにしたバラモン教の道具立てを駆使しつつ、バラモン教を批判することによって成立した教えであったのです。すなわち、人間というものは本質的には空虚な存在であり「真の自己」「完全な自己」などというものは存在しないということに気づいた釈迦が霊的世界を「ブラフマン=現実界」という完全なる世界として解釈することを否定し、それに対応した「象徴界」という現実世界の解釈の仕方も否定し、「この世に実体というものは存在しない」ということを認識して魂が欲望の連鎖という苦しみから解放されることこそが真の「解脱」(悟り)であるとし、現実世界(物質世界)も霊的世界も共にそのための魂の修行の場であると位置づけ、そうした「解脱」の段階に至らない魂が現世や霊界で「解脱」へ至るまで何度でも転生していくのが真の意味での「輪廻転生」であるとしたのでした。このように、仏教というものはバラモン教と同じような用語を使っているため、一見似通っているように見えますが、実際はバラモン教とは全く異質な教義、いや、むしろバラモン教の対極に位置する教義を有していたのだといえるでしょう。
ウパニシャッド哲学=バラモン教の「霊肉二元論」は霊界を現世よりも優越したものとし、死による肉体の消滅を通じての救いしか提示しなかったという点で完全に現世否定的であり、それに比べ仏教においては実体というものを否定したことによって現世も霊界も共にその完全性は否定され、現世においても霊界においても区別なく常に悟りへの道は開けており、生きたままで悟って輪廻から脱することも可能とされたことで、ある意味では非常にポジティブな現世肯定思想であったので、人々はバラモン教よりも仏教を好むようになり、仏教は北インドにおいてバラモン教を圧倒して広まり、更に紀元前3世紀には南インドへも広まっていったのでした。
仏教は元来は倫理とは異質な思想体系であったのですが、このようにインド全域に広まっていくにつれて教団が多数成立し、なおかつ大規模化してくるようになり、教団を維持していくために戒律重視の傾向を強め、仏道の名のもとに禁止事項が増えてくることになり「統治の倫理」化が進んでいきました。これが上座部仏教です。これが戒律が厳しすぎたために一般在家信者に「悟り」への道が閉ざされるようになり反発を招き、紀元前1世紀に北インドで「市場の倫理」の利他行の思想を取り入れた大乗仏教が成立し、北インドにおいては大乗仏教が主流となり、南インドにおいては上座部仏教が主流となっていきました。そして、1世紀には南インドから東南アジア方面へ海路で上座部仏教が伝わり始め、2世紀には北インドからシナ方面へ陸路で大乗仏教が伝わり始め、その後、波状的に伝来は継続していくようになりました。

さて、紀元前5世紀に北インドにおいて仏教に圧倒されてしまったウパニシャッド哲学ですが、それは霊肉二元論において「真の自己との同一化」すなわち「魂の救済」を霊界においてのみ可能としたことであまりに現世否定的になってしまったからでした。そこで、このウパニシャッド哲学の霊肉二元論がイランにおいてゾロアスター教の善悪二元論と習合してグノーシス主義の「反宇宙的二元論」を形成した時、この弱点は補正されたのでした。
すなわち、反宇宙的二元論においては「人知を超えた世界=霊の世界=真の善なる世界」、「人間に感知可能な世界=物質(肉体)の世界=偽の悪なる世界」の2つの世界が対立する世界観なのですが、この真の世界である霊的世界に存在する「真の自己」「真の存在」と物質世界に存在する人間との同一化が物質世界においても可能であるという教義が唱えられたのです。それは究極的にはこの物質世界を霊的世界の次元にまで上昇させることによって達成されるのですが、そのためには前もって霊的世界(現実界)から物質世界(象徴界)への干渉が必要であり、「象徴界」の中心にぽっかり開いた穴から「物質界」に存在する「真の神」あるいは「欲望の本体」が姿を現すことになるのです。
しかし、人知を超えた得体の知れない「現実界」の物体である「真の神」や「欲望の本体」のようなものが物質世界である「象徴界」に不気味なおぞましい実体のままで現れるということは不可能であり、幻想的にシンボル化されて何らかの抽象的な形で現れることになります。そうすることによって、「象徴界」におけるバーチャルな事物の織りなす秩序と共存可能となり、そしてそれでいて、「象徴界」の事物とは一線を画した「現実界」に連なる奇妙なリアリティを示し、「象徴界」と「現実界」を連結する橋渡しの役割を果たし、「象徴界」における「真の自己」を求める欲望の流れを喚起する重要な役目を果たすのです。
この「象徴界」の中心の大穴に「現実界」から突き出した抽象的かつ幻想的な「余計な突起物」のこそが実は人間が幼少時に母親の欲望と自己を一体化して安住していた万能性に満ちた「想像界」なのだと反宇宙的二元論では解釈されます。「想像界」は幼少時に「神」(偽の神)によって否定されて「象徴界」によって覆い隠されてしまいますが、その「想像界」を再び「現実界」からつまみ出して「象徴界」まで引き伸ばしてきて抽象的な姿で現出させ、その安住の地、万能な自分との同一化を目指して人間は「象徴界」の欲望充足の道を突き進み、そこ、つまり「想像界」に辿り着いた後はその「想像界」を触媒にして「象徴界」全体を「現実界」と同質の世界に作り変えていくのがグノーシス主義の「反宇宙的二元論」の目標ということになります。
この「現実界」(隠された真の世界)の一部でありながら「象徴界」(通常言うところの現実世界)の真ん中に突き出した抽象的かつ万能な「想像界」なるもの、「象徴界」における自己を求める欲望の源泉となり、「象徴界」を「現実界」へと変成する触媒となるものであるこの物体は「賢者の石」と非常によく似た性格を持っています。いや、「賢者の石」というものがこうした「想像界」をシンボル化した物体なのでしょう。そして、この「賢者の石」は「現実界から象徴界への使者」「真の神の使者」である「救世主」、すなわちメシアと言い換えることも出来ます。
この救世主を触媒にして「象徴界」を「現実界」へ上昇させるのがグノーシス主義の目指す目標であるのですが、ただ、それは遠い未来においてやっと達成されるものであり、それに至る過程においては、悪の神によって「想像界」の万能性を否定され「真の自己」を求める欲望充足作業も禁じられた「象徴界」において、隠された「現実界」から「象徴界」に突き出した「想像界」との同一化を求める欲望充足作業を敢行する者こそが、いずれは「真の自己」を獲得してこの「象徴界」を「現実界」の次元まで上昇させる原動力となる「選ばれた者たち」であるというような一種の魔術的な認識が一般的なグノーシス主義者の考え方であるといえるでしょう。

このようにグノーシス主義においては「象徴界(物質世界)」は偽の神に支配された不完全な世界であり、「現実界(霊的世界)」に比べ劣っていると考えられます。人間が不完全であるのも物質世界のルールに囚われているからなのであり、霊的世界のレベルまで上昇すれば人間は完全になるというのがグノーシス主義の考え方です。言い換えれば偽の世界の素材で作られた肉体の穢れが足枷となって人間を不完全にしているのであり、霊魂のみが完全な世界である霊的世界に繋がっているということになります。この霊魂が人間における「想像界」に相当するのでしょう。
ならば死んで肉体を捨てて霊魂のみになれば「現実界(霊的世界)」にすんなり移行出来るかというと、そんなことはなく、ウパニシャッド哲学の霊肉二元論のところでも述べたように、物質世界において穢れた霊魂のままでは霊的世界の「真の存在」とは合一できないのです。だから物質世界で生きている間に霊魂を「現実界」のレベルに合わせるために浄化して穢れを落としておく必要があるのです。ましてやグノーシス主義においては更に一歩踏み込んで「象徴界」全体を「現実界」のレベルにまで引き上げるために、この「象徴界」で生きたまま自己の霊魂(想像界)を現実界と完全に融合させるまで浄化しなければいけないのです。
そのためには徹底的に「象徴界(物質世界)」の穢れを落とさなければいけません。つまり肉体の穢れを避ける必要があるのです。それゆえグノーシス主義では徹底して肉欲を禁じることになります。まぁそれぞれの信仰グループ毎に細かな戒律は違いますが、例えば食欲についてはさすがに全く食べなければ死んでしまいますから完全断食の例はあまりありませんが、定期的に断食期間を設けたりはします。また動物は他の生物(物質世界の素材)を食べるので穢れているから食べてはいけないが、植物は光(霊的世界の素材)で育つので穢れておらず食べてもいいというふうに解釈されたりしました。また性欲も肉欲の一種として排斥されますが、グノーシス主義においてはしばしば、子孫を作るための生殖行為そのものが物質世界を存続させるものだとして禁止されたりもしました。

こうしたグノーシス主義の肉欲禁止主義は一見、極めて厳格な禁欲主義であるかのように見えますが、これは単に肉体の穢れを忌避しているだけのことで、欲望を抑制しようとしているのとは違います。グノーシス主義において肉体の穢れを忌避するのは、それによって霊的なステージの上昇を望むからなのであって、むしろ霊的、精神的な部分での欲望は積極的に肯定されており、こういうのは禁欲主義とは少し違うと思われます。
欲望といっても食欲や性欲のような肉体的な欲望だけでなく、「自我」や「真の自己」を求める精神的な欲望も立派な欲望なのであり、解脱を求めるのも、この世を神の国のような素晴らしい世界にしたいと思うのも欲望なのです。そもそも欲望というものが「神」によって禁止されるようになったのは、決して欲望が叶わないことを知ることによって世界が不完全なものであるということが明るみに出ることを恐れたためであったからであり、そういう点において肉欲も精神欲も違いなど無く、むしろ精神的な欲望のほうがその目的が核心的なものである分、より強く禁止されなければいけないはずなのです。
いや、グノーシス主義者が物質世界が偽の世界で、霊的世界が真の世界だというのなら、肉欲などは仮の欲望に過ぎず、実は精神的な欲望こそが真の欲望であるはずなのです。その真の欲望である精神的欲望を全く抑制しようとせず、むしろ肉欲を避けることによって露骨に精神的欲望を達成しようとするグノーシス主義が禁欲的であろうはずがないのです。グノーシス主義の本質は禁欲主義などではなく、むしろ正反対の「欲望の解放」なのであり、表面的な「肉欲の忌避」は、最も大事な目標である「精神的欲望(霊的な完全性の達成)」の充足のための手段に過ぎないのであり、霊的完全性が得られないうちは肉欲は抑制されても、霊的完全性が得られたと判断された場合には肉欲すらも解放してもいいという考え方さえも成り立つのです。
ただ、実際は純粋なるグノーシス主義集団(特に地中海地域)においてはその徹底した「肉欲の忌避」の姿勢のために信者を多く獲得することが困難となり、せっかく参加した信者も生殖行為忌避のために子孫を作らないためにすぐに血統が絶えてしまい、安定した信者集団というものを持つことがなかなか出来ませんでした。そうしたリスクを背負ってでも、少数精鋭になってでも、真の自己を求める(解脱を目指す)という霊的欲望(真の欲望)を最優先するというのがグノーシス主義の流儀であったのです。
それは、グノーシス主義者たちが、「象徴界(物質世界)」をその中心に突き出た「想像界(万能のシンボル的存在)」を触媒にして「現実界(霊的世界)」へと変成させること、言い換えれば人間存在における「想像界」たる魂を「象徴界(肉体)」の穢れから解き放ち「現実界(霊界)」のレベルまで浄化することこそ「現実界」に存在する「真の神」(「真の存在」「真の自己」)の欲望なのであり、その「究極の欲望」といってもいいようなものに自己を同一化させることこそが「真の自己確立」であると考えたからです。つまり「真の神」の欲望を自己の欲望と同一化し、「真の神の欲望」のままに人間(の一部の「選ばれた者たち」)が行動することによって「象徴界」は「現実界」へと変成していくということで、そうした世界の進化が神の摂理であるならば、「現実界への進化」こそがこの世界のあるべき秩序であり、その秩序を形成する原動力となるものは「現実界」および、「現実界」由来のシンボルである「想像界」に秘められた「真の神の欲望」だということになるのです。「欲望を触媒とした世界の変成」という、「統治の倫理」とも「市場の倫理」とも仏教の「空」の思想とも異質な、まさに「魔術の倫理」というべきものがグノーシス主義の本質なのでありました。

しかし、これは実際はグノーシス主義者が誤解した世界観なのであり、実際のところは話は全く逆なのです。何故なら、「象徴界」における欲望充足作業というものの原動力は実際には「神」(グノーシス的世界観では「偽の悪の神」とされる)による禁欲の強制なのであり、「象徴界」の「(悪の)神」による禁欲の強制への反発から生じた欲望充足に向けたエネルギーが「神」による禁止と対立しつつ「象徴界」における様々なバーチャルな事象の織りなす秩序を形成していき、そのようにして「象徴界」が明確な秩序を持つことによって初めて、その中心に突き出た「想像界」を「象徴界」とは異質な「現実界」由来の実体として意識させることが出来るというのが実態なのです。
そして、そのようにして「想像界(および現実界)こそが真の実体である」という認識が生じることによって、今度は「象徴界が実はバーチャルな世界である」という認識が明確に生まれるのです。そのように「象徴界」をバーチャルなものとして認識することによって、人間がバーチャルな「象徴界」を脱して「真の実体」である「想像界」やその向こうにある「現実界」を求めて研鑽していく(他者の欲望を自己のものとして追い求める)というスタイルが生まれ、そうしたスタイルの自己を認識することによって、人間は「バーチャルなもの」と「真の実体」を区別することが可能になり、「象徴界」において無限に生起してくる他者の欲望の多くを、それらは実際はバーチャルなものであり現実のものではなく自己の欲望と同一のものではないと認識することが出来るのです。そしてそうしたバーチャルな欲望から一定の距離を置くことによって自己の精神の平静、すなわち「自我」を保っていられるというのが実際の「象徴界(現実世界)」における人間の在り方なのです。
つまり、グノーシス主義において本当の世界の原動力となっているのは実は「現実界」に鎮座する「真の善神の欲望」のほうではなく、「象徴界」の「偽の悪神による禁欲」のほうなのです。もちろん、この「偽の悪神」のほうも人間の認識が創りだした観念に過ぎないのですが、「現実界」や「真の善神」のほうは実はそのバーチャルな「象徴界」における人間の想念が生み出した更に架空の存在に過ぎないのです。

だから、もしグノーシス主義に則った社会で、「真の善神」の世界を実現するという欲望を優先させて、「偽の悪神」およびそれに由来する「統治の倫理」や「市場の倫理」を古臭い不要になったものとして排斥した場合、「偽の悪神による禁欲」という「象徴界」の原動力が失われますから、欲望の連鎖が生じないので「象徴界」の秩序が崩れ、そのため「象徴界」の中心にある「想像界」が異物として認識されず、観念的にそこに押し込めてあった得体の知れない様々な根源的かつ抽象的な他者の欲望の数々が「象徴界」に区別なく散らばり、さらに、「想像界」が真の実体として意識されないことによって「象徴界」が「象徴界」として、つまりバーチャルなものとして認識されないため、人々はそれらの散らばった得体の知れない他者の欲望を他者のものとして客観的に見ることが出来ず、全て自己の欲望として受け止めてしまい、自己の人格と他者の人格の区別がつかず「自我」というものが確立されず、自己を見失い多重人格的に移ろいやすい人々がモラルを喪失し、さして強い目的意識も無く、ただそこかしこに蔓延する欲望に脈絡なく身を任せるというような社会になることでしょう。
そして、それこそがまさに、グノーシス主義の系譜を引く近代科学思想によってこの現実社会である「象徴界」に「真の神」の法則に則って新しい世界を構築しようとして、古い「偽の神」の作った伝統的な倫理に則った秩序を破壊してしまった後の現代社会の姿そのものであるといえるのです。
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この記事に対するコメント

書き込み失礼します。
私はブログを書いております横山と申します。

http://www.oyazisaru.com/

もし、宜しければ相互リンクしていただけないでしょうか?
検討宜しくお願いいたします。

【2008/06/10 14:15】 URL | 横山 #- [ 編集]


が、頑張れー☆超頑張れー☆

全力で物陰から応援しています。

また、コメント書き込みにきま~す♪♪

【2008/06/25 11:27】 URL | ★ことみ★ #- [ 編集]


仕事をはじめるときに参考にしてください http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000001100/hpg000001040.htm

【2008/08/11 12:36】 URL | 品川 #- [ 編集]


うなぎの検索サイト。一色、うなぎ屋、うなぎ釣り、レシピ、天然うなぎなどうなぎに関する各種情報をお届けしています。 http://hawai.stuartmembery.com/

【2008/10/27 05:02】 URL | 57 #- [ 編集]



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