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日本史についての雑文その371 世界宗教史6
中央アジアから北アジアの草原地帯や砂漠地帯のオアシス等には古代からイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系などの騎馬遊牧民族が住んでいました。彼らは遊牧民という特性上、部族集団ごとにかなりバラついて居住しており、遊牧は農耕と違って労働を集約すれば効率が上がるというようなものではないので、それぞれの部族集団は基本的に独立性が高かったのでした。
しかしその一方で、遊牧民というのは移動しながら家畜を育てるという生活の特性上、肉や乳など以外の食料や生活材が慢性的に不足するので、それらを交易によって得る必要があり、交易によって他民族や他部族と自然と繋がっていき、交易路の安全を確保するということが多数の部族集団の共通の課題となりました。また気候不順などが原因で交易品全体が大幅に不足した際には戦争に訴えてでもそれらを確保する必要もありました。

それらの事情によって遊牧民の部族集団は連合して交易連合体や軍事連合体を形成するようになりましたが、これはあくまで交易や戦争の時だけのパートタイム連合であって、各部族集団は緩やかでドライな関係で結びつくことになりました。部族内部の生活や政治の細部にまで干渉するような関係に至るには、あまりにも各部族が分散し過ぎていたのでした。つまり農耕民のように部族が密着して常時連合することによって部族間の力関係や役割分担が固定化し、世襲的な主従関係に発展していくということがなく、その場その場で利害次第でくっついたり離れたりする流動的な関係であったといえます。
そうなると遊牧民の部族連合のリーダーは、固定した一族の者が務めるのではなく、その場その場の状況に合わせて、交易や戦争に関するリーダーシップのある者が選ばれるようになっていき、それは部族の族長たちが話し合ったり選挙したりして選ぶということになり、すると遊牧民連合のリーダーは中央集権的な絶対的君主ではなく、相対的な地位のリーダーとなり、それによって率いられる遊牧民部族連合というのは単一の価値観によって束ねられるのではなく、それぞれの部族が独自の多様な価値観を持った連合ということになります。つまり中央アジアから北アジアにかけての遊牧民社会というのは多様な価値観が併存する世界であったのです。

その中央アジアから北アジアにかけてのイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系などの騎馬遊牧民族の各部族の世界における価値観としては、当初はそれぞれの部族における素朴な精霊信仰のみが存在したものと思われます。部族ごとの素朴な遊牧生活のみを送っていく分にはそれだけでも十分であったと思われますが、上述したように遊牧民にとっては戦争や交易は不可欠のものであったので、複数部族をまとめて戦争や交易を行っていくためには素朴な精霊信仰だけではなく、何らかの倫理が必要となり、戦争のためには「統治の倫理」が必要となり、交易のためには「市場の倫理」が必要となっていき、それぞれの部族ごとの精霊信仰の上に、更にそれぞれの部族連合ごとに独自の「統治の倫理」や「市場の倫理」を包含した何らかの土着宗教が成立していったと思われます。
通常、農耕民社会が文明社会を形成した場合には、各部族の精霊信仰が次第に廃れていって、その上部の部族連合を律する土着宗教が各部族の生活単位にまで浸透してくるのですが、遊牧民社会の場合はとにかく部族が分散していて社会の密度が薄いので、部族連合の土着宗教が各部族の精霊信仰にあまり干渉せずに、精霊信仰と土着宗教が共存するような関係となり、社会の多様性が維持されるのでした。そして、それはそれぞれの部族連合の土着宗教同士もあまり干渉し合わずに共存し合い、複数の部族連合を更に束ねる大部族連合を律する何らかの宗教もまた個々の部族連合の土着宗教や個々の部族の精霊信仰に干渉せず、結局、遊牧民社会というのはそれがどんな大規模集団を形成するようになっても、宗教や価値観の多様性というものは維持されるようになっているのです。それゆえ、遊牧民社会というものは、その多様な価値観の世界を1つにまとめる必要が生じる時、世界帝国というものが形成されやすいのだといえます。
そのように多様な宗教を受け入れる世界である中央アジアから北アジアの遊牧民社会に、古来の精霊信仰や土着宗教に加えて、4世紀以降はゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、そして大乗仏教の唯識派や法華派などのような、世界宗教クラスの宗教も徐々に広まるようになっていきました。ただ、これらはこの地域の支配原理として広まったのではなく、あくまで遊牧民部族社会における多様な宗教の1つとして、それぞれが個別の部族集団において信仰されるという形で受け入れられたのでした。
よって、これらの中にはマニ教やキリスト教のような「魔術の倫理」も存在したのですが、それらが唯一の「統治の倫理」となって他の宗教を排他的に排斥するというようなことは、この中央アジアから北アジアの遊牧民社会においては生じなかったのでした。

一方、この遊牧民世界の東に存在したシナ世界というのは、もともとはこの中央アジアや北アジアの遊牧民世界のイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系などの騎馬遊牧民族や、南アジアのオーストロネシア系の海洋民や農耕民などが黄河中流域で集まって交易都市を中心として周辺に農業地域などを抱えた生活圏を形成するようになったことから始まった世界であり、もともと固有の「シナ人」という民族が存在したわけではなく、東西南北から集まった雑多な部族の人々のうち交易都市の会員となっている人々がこの特定エリア内にそれぞれ部族ごとに都市国家を築いて居住するようになったものでした。
よって、このシナ地域では多くの部族のコロニーがバラバラに存在していたのであり、当初は中央アジアなどと同じような、精霊信仰や土着宗教などの多様な価値観の世界を形成していたのですが、ここは都市国家であったので遊牧民社会とは違って密度の濃い世界であり、価値観が統一されていく傾向が元来強かった上に、紀元前7世紀ぐらいから始まった都市国家同士の長く激しい戦乱の時代の中で部族共同体が崩壊していって多様な価値観世界が崩れていき、代わってシナ世界独自の価値観が生まれてきたのでした。
自然に乏しいシナ世界においては自然界に霊魂が遍く存在するという汎神論的な精霊信仰というものは定着せず、霊魂(魂魄)は死後の肉体の埋まる「地」と抽象的な死後の世界である「天」とに分離するものとする独特の霊魂観が普遍的となっていき、それゆえ死後の肉体を祀るという独特の祖先信仰が発達しました。個人単位、家族、部族単位での最も基本的な信仰世界が精霊信仰ではなく、こうして祖先信仰となっていったのでした。
そして部族共同体の解体と共に祖先信仰は家族単位のものとなっていき、新たに戦乱の中で「シナ人」としての共同体が再編されていく中で、土着宗教(多神教)が廃れていき、代わって老荘思想、儒家思想、墨家思想などのようなシナ世界独自の倫理が「統治の倫理」あるいは「市場の倫理」として生まれてきたのです。このように春秋戦国時代において初めてシナ世界は周辺のアジア世界の多様な価値観の世界とは異質な独自の世界を形成するようになったのでした。
そうした独自のシナ世界は約500年にも及ぶ戦乱の中でイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系、オーストロネシア系などの混血した「シナ人」という新しい混血民族(といっても多数の部族集団に分かれていたが)を作りだし、シナ世界独自の価値観を完成させていき、紀元前3世紀には黄河流域の華北地方を中心として「シナ帝国」という、「天」の代理人である「皇帝」という唯一の絶対的君主によって支配される単一な価値観を持った中央集権国家を作りだすことになったのでした。そして紀元前2世紀にはこの「シナ帝国」の国教として儒教が採用されることとなりました。
結局、この儒教によって権威づけられた皇帝思想、すなわちシナ帝国の統治思想というものは一種の「魔術の倫理」であり、シナ帝国は「魔術の倫理」を「統治の倫理」としたことによって多様な価値観を否定して、単一な価値観を押し付ける腐敗した社会であったのでした。こうした単一な社会はシナ帝国のような大きな帝国を維持するのは本来難しく、バラバラになりやすい傾向があるのですが、それを皇帝権力が力ずくで抑え込んで統一を維持するというのがシナ帝国の実態でありました。また、そうした社会の裏面で潜在するようになった「市場の倫理」としての老荘思想も一種の「魔術の倫理」でありました。

このシナ帝国が紀元前3世紀に成立して以降、シナ帝国はシナ世界を越えて周辺のアジア世界に侵食してくるようになり、北アジアや中央アジアの遊牧民世界もそうしたシナ帝国の侵略を受けて、それに対抗するために大きな部族連合を組むようになり、モンゴル系部族を中心とした匈奴帝国などが作られるようになっていきました。ただ、この匈奴帝国はシナ帝国とは違い、あくまで遊牧民の帝国でしたから、内部の価値観も多様で、あくまで戦争のためのパートタイム連合が発展したものでありました。それゆえ、戦争そのものは極めて強かったのですが、結束において脆弱な部分があり、シナ帝国と抗争を繰り返しつつ、その間に何度も内部分裂を起こし、結局、1世紀に匈奴の主力は西方へ移動して、後に4世紀にヨーロッパに侵入するフン族になったといわれます。
匈奴に代わってシナ帝国と対峙することになった北方遊牧民の帝国は2世紀に現れた鮮卑帝国でありましたが、この頃になるとシナ帝国はその内部の腐敗が最高潮に達して、中央アジア経由で伝わった初期の大乗仏教の流れの弥勒信仰と老荘思想が合体して成立した道教というシナ独自の「魔術の倫理」を「市場の倫理」とした一種の過激革命思想が暴発して引き起こされた黄巾の乱以降、シナ世界は収拾のつかない内乱状態に突入して、同じような価値観を持った小国が群雄割拠するバラバラな状態に陥っていったのでした。これが中央による無理な統制が解消された、自然なシナ世界の姿なのだともいえます。
この2世紀末から3世紀末にかけてのシナ世界の大混乱の中、シナ人の人口は激減していき、ほとんど絶滅状態となり、代わって鮮卑族などをはじめとしたトルコ系、モンゴル系、ツングース系、チベット系などの北方系の騎馬遊牧民族が華北地方に侵入するようになり、4世紀初頭にはシナ帝国は滅んで、華北はこれら中央アジアや北アジアの遊牧民の支配する地となったのでした。一方、シナ人の生き残りは華南地方に移住して、華南のオーストロネシア系部族と混血しながら、シナ帝国の後継国家のようなものを細々とやっていくことになりました。

こうしてシナ帝国が滅びたことによって、シナ帝国に「統治の倫理」として寄生していた「魔術の倫理」である儒教は「統治の倫理」としての影響力を失い、廃れていきました。そして、ちょうどこの4世紀ぐらいから中央アジアや北アジアの遊牧民社会にゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、大乗仏教などがオリエントやインドから浸透してくるようになりましたが、これらの遊牧民の各部族が侵入して居住するようになった華北地方にも、さんざん荒廃した華北地方から見れば文化先進地帯である中央アジアや北アジアから、これらの多様な宗教世界がそのまま移植されてくることになったかというと、それはそうでもありませんでした。
同じトルコ系、モンゴル系、ツングース系、チベット系の部族といっても、中央アジアや北アジアの草原地帯で遊牧生活を送る場合は遊牧民独特の多文化状態を維持し、一方、シナ世界では遊牧生活を送ることは出来ませんから、シナ世界独特の風土の中で農耕文化に適応していくことになるのです。それゆえ、華北に侵入して居住するようになった北方部族も、次第にシナ世界独特の祖先信仰や道教、儒教を信仰するようになっていきました。
また、4世紀になって新たに中央アジアや北アジアに広まっていった西方起源の諸宗教の中でも、どちらかというとマニ教やネストリウス派キリスト教のような「魔術の倫理」の傾向の強い宗教は遊牧生活との相性が良かったようで、中央アジアや北アジアで主に広まっていき、シナ世界に伝わるのは遅れました。マニ教やネストリウス派キリスト教がシナに伝来したのは7世紀の唐の時代になってからでした。
一方、ゾロアスター教や大乗仏教は、もともとイランやインドでの農耕民の信仰するところのものであったからなのでありましょうか、農耕生活との相性が良く、遊牧民の暮らす中央アジアや北アジアを通って、むしろ農耕生活が主であるシナ世界に早くから伝わりました。ゾロアスター教は5世紀に華北に伝来しました。そして大乗仏教は、もともとシナとインドの間に交流ルートがあったと思われ、1?2世紀あたりから断片的に大乗仏教が伝わっていたという下地があったため、これら諸宗教の中では最も早く本格的に伝来し、4世紀には初めてシナに体系的な大乗仏教がもたらされました。こうして西方起源の外来宗教の中では大乗仏教は特にシナにおいては主要なものとなっていったのでした。

実質的にはこの4世紀からシナ仏教の流れが始まるといっていいでしょう。ただ、この時期において中央アジア経由でシナに伝わった仏教経典はまだ完全なものではなく、この時期にインドにおいて完成されつつあった唯識論や法華思想などの関連の最新の仏教経典類はまだシナには伝わっておらず、主にそれ以前の初期大乗仏教の経典、すなわち空理論や弥勒信仰、阿弥陀信仰などに関連したものが多く伝わっていたようです。
そういうわけで5世紀になるとシナにおいては、元来のシナ独自の祖先信仰や道教、儒教などに加えて、阿弥陀信仰、すなわち浄土教が流行するようになり、教団が形成されるようになったのです。そして、ちょうどこの5世紀になると華北における北方遊牧民部族の群雄割拠状況が収拾されてきて、統一国家のようなものが出来てきます。その最初のものが北魏なのですが、これは複数の北方部族を支配下に組み込んだ連合王国のようなものになりますから、それぞれの部族の元来遊牧生活を送っていた頃から持つ宗教のどれをその統一国家の「統治の倫理」としても揉め事の原因となります。そこでシナの地において普遍的な宗教を「統治の倫理」として採用することで、支配下の各部族の間を円満にしようということになり、最初は道教を「統治の倫理」として採用しました。
これは単にシナにおいては道教の信者が最も多かったからであったのですが、道教というのは極めて「市場の倫理」の要素の強い宗教で、「統治の倫理」としては不向きでした。その上、道教の起源は老荘思想や弥勒信仰のような「魔術の倫理」に由来するものが多く、道教の本質は「魔術の倫理」であったので、こういうものを「統治の倫理」とすると他の宗教に対する弾圧を引き起こす場合が多く、この時は仏教への弾圧を引き起こしましたが、実際はおそらくゾロアスター教など他の様々な宗教に対しても弾圧は及んだことでしょう。
しかし仏教はなかなか根強い人気があり、弾圧を受けても廃れなかったので、5世紀後半になると北魏の政府は今度は逆に、「統治の倫理」としては不向きな道教ではなく、仏教のほうを「統治の倫理」として採用するようになっていきました。仏教も本質的には「統治の倫理」としては不向きなのですが、インドでは不完全ながらも「統治の倫理」として使われていたこともありますし、大乗仏教独特の「利他行」の思想を発展させた「仏国土思想」、すなわち、為政者が仏教的な善行(布施や喜捨など)を積むことによってその徳性が上がり、安寧な国家が実現するという思想が「統治の倫理」として採用されたのでした。少なくとも「なんでもあり」の道教よりは規律正しい「統治の倫理」となったのでした。

ただ、「統治の倫理」の本質は禁止の体系であり、仏教にも戒律というものはありましたが、それはあくまで仏教徒のみを対象としたものでありましたから、仏教だけでは多文化のシナの民衆を束ねる「統治の倫理」としてはやはり不足な部分が多く、結局は北魏のような広大な範囲を一律に治める帝国の国家機関を律していくには、かつてのシナ帝国と同じような法家思想と儒教に基づいた皇帝制度を採用していくことになったのでした。
そうなると結局はかつてのシナ帝国がそのまま復活したのかというと、それはそういう単純な話ではなく、このトルコ系の部族の王が他の北方系諸部族を配下に従えた北魏王朝というのはかつてのシナ帝国の王朝のような極端な中央集権体制ではなく、配下の貴族たちの権力をある程度認めつつ統制していくという遊牧民的な分権体制になっていたため、かつてのシナ帝国のような儒教的な建前論(天命を受けた君主は皇帝ただひとり)だけでは治まりきらず、統治の建前論として「仏教的な善行によって徳を積んだ王族や貴族が共同で統治にあたる」というような仏教治国論が必要とされたのでした。
つまり、5世紀終盤の北魏において確立された「統治の倫理」は、その建前論の顕教として大乗仏教の仏教治国論があり、その本質部分の密教としてはシナ的な儒教的皇帝思想があったのでした。それは新たにシナ世界の人民となった北方遊牧民とシナ人の生き残りの混血した新しいシナ人民たちをシナ的な流儀で支配しつつ、同時に北方部族の貴族たちを遊牧民の流儀で統制していくという、二重支配体制であったからでした。
この二重支配体制を統治システムとして緻密に制度化したものが6世紀を通して北魏から続く華北王朝で様々な試行錯誤の末に完成した「律令制」というシステムでした。律令制という制度は一口で言えば、シナ的な皇帝専制体制の中でいかにして北方貴族の特権を確保していきつつ、人民の生産力や労働力を有効に動員していくのかということをテーマとしたものでした。この律令制によって貴族と人民のパワーを有効活用して強大化した華北のトルコ系王朝によって、最終的に6世紀末にシナ全土が再統一されて第二次シナ帝国が成立することになります。
このように5世紀後半にはシナの北朝における「統治の倫理」に仏教が入ってくるようになり、それが南朝、つまり旧シナ人の生き残りと華南のオーストロネシア系部族の混血王朝のほうにも波及して、6世紀になると南朝でも仏教が同様に「統治の倫理」として採用されるようになりました。こうしたシナ南朝政権の仏教への傾倒は、伝統的に南朝と友好的関係にあった朝鮮半島南部の百済や新羅などに影響を与え、これら諸国においても6世紀に仏教が「統治の倫理」として採用されるようになり、ついには6世紀後半には日本にも仏教が伝来し、紆余曲折を経て6世紀末には日本においても仏教が「統治の倫理」として採用されるようになったのでした。
ただ、この5?6世紀のシナにおける「統治の倫理」の顕教は、別にどうしても仏教でないといけないというわけでもなく、とりあえず北方系貴族たちが揉めることなくまとまることが出来るような普遍的価値観であればよかったわけで、そういう意味ではシナ世界に信者の多かった儒教(祖先信仰)や道教(多神教)でもよかったのです。だから、時々、儒教や道教の勢力の巻き返しによって仏教が「統治の倫理」から外されて弾圧されるようなこともありました。ただ、それでも基本的には仏教が「統治の倫理」の顕教であることが多かったのは、やはり仏教が儒教や道教などに比べて高度な思想体系を備えていたからであり、貴族たちによって根強い支持を得ていたからでした。

5世紀には阿弥陀信仰の浄土教が成立した他、インドから中央アジア経由で法華経、涅槃経などの法華思想に関連する代表的な経典がシナに伝来してくるようになり、これらの経典に基づいて6世紀には天台宗が成立するようになりました。これら浄土教や天台宗などは大乗仏教の中でも「全ての人が成仏可能である(善行の有無にかかわらず成仏可能)」と説く法華思想に基づくものであり、布施や喜捨のような金のかかる仏教的善行を行うことが難しい一般民衆に支持され、多くの信者を獲得して教団を形成しました。
一方、貴族たちに支持されたのは、この法華思想のほうではなく、同じ大乗仏教の中でも利他行を重視する派のほうで「善行や修行を積んだ者が成仏する資格を得る」という考え方のものでした。実際、こちらのほうでないと仏教治国論が成立せず、「統治の倫理」としては意味が無いので、為政者階級である貴族たちが「統治の倫理」として採用した仏教というのはこちらのほうを指すのでした。こちらの流れに属する仏教というのは、浄土教や天台宗のように教団を組織するのではなく、貴族の支援を得て経典の研究を行うような学僧集団を形成しました。こうした学僧集団として6世紀には「空の理論」を主に研究する三論宗などが成立し、6世紀末にはトルコ系王朝の隋がシナ全土を統一して第二次シナ帝国を建設し、こうした仏教理論を「統治の倫理」の顕教として、律令制を「統治の倫理」の密教とした国家を作った後、隋が短命で滅びて同じくトルコ系の唐が興り、7世紀中頃には玄奘三蔵によってインドから利他行を重視する派の大乗仏教の最新学説である「唯識論」がシナに伝えられ、それを基に学僧集団として法相宗が成立し、この法相宗や、法相宗と表裏の関係にある華厳宗などが唐における「統治の倫理」として採用されることになったのでした。
このように、大乗仏教の中でも一乗思想の法華派はシナにおいては主に民間宗教、すなわち「市場の倫理」として受容され、一方、利他行重視の唯識派のほうは為政者階級の統治哲学、すなわち「統治の倫理」として使われることが多く、同じ大乗仏教でも、シナにおいては全く別個のものとして扱われていたと考えていいようです。そして、そのどちらについても言えることですが、仏教は「市場の倫理」としても「統治の倫理」としても、多くのシナ人の支持を得るようにはなっていましたが、それでもそれは絶対的なものではなく、多くの宗教の中の1つという扱いであったのでした。むしろ、この仏教隆盛時代においてもなお、シナ人にとって最も基本的な宗教観であったのは、自らの男系血族の先祖を崇拝する祖先信仰と、それに深く絡み合った儒教的な宗族重視主義という、一種の血族共同体を律する「統治の倫理」と、そうした血族共同体を超えた相互扶助的な連帯に関連した「市場の倫理」としての道教的価値観でありました。

こうしたシナ人の基本的な宗教観とは別扱いとして仏教というものは存在していたのですが、こうした「非シナ的」な宗教がシナ世界において「市場の倫理」としてそれなりに信者を持ち、また「統治の倫理」として尊重されるようになった最大の理由は、7世紀に成立した唐帝国というものがそもそも「非シナ的」な帝国であったからです。
6世紀末に華北が隋によって統一され、次いでその隋が南朝を征服してシナ統一がなされ、その隋が7世紀初頭に滅びて、代わって隋に仕えていた李淵というトルコ人の将軍が唐朝を興して628年に唐がシナを統一するのですが、このシナ統一というのは唐朝にとっては帝国建設事業の一部に過ぎないのであって、6世紀末の隋による華北統一の少し前に中央アジアから北アジアにかけての草原地帯の遊牧民部族が突厥というトルコ人の帝国によって統一されており、シナの地を統一した隋朝の楊家にしても唐朝の李家にしてもトルコ人であり、これら楊家や李家が突厥とユーラシア大陸東半の覇権をかけて争ったトルコ人同士の争いというのが6世紀末から7世紀初頭にかけて実際に起きたことなのであって、唐によるシナ統一というのはそうした大きな出来事の一部に過ぎないのです。すなわち、630年に唐朝が突厥を破って中央アジアから北アジア、シナ世界を支配下に収める大帝国を築くことになったのですが、シナ帝国というのはそうした世界帝国としての大唐帝国の一部に過ぎなかったのでした。
つまり大唐帝国の本質はトルコ人による遊牧帝国なのであり、中央アジアや北アジアの遊牧民による連合であったのです。それは伝統的に多様な価値観を容認する性格を持っており、それゆえ大唐帝国は世界帝国であり得たのです。実際、唐が支配下に組み入れた中央アジアや北アジアの遊牧民たちの間にはマニ教やネストリウス派キリスト教が広まっており、唐によるアジア統一後の7世紀にシナ世界にもマニ教やネストリウス派キリスト教が伝来することになるのです。また玄奘三蔵による仏教経典を求めてのインド旅行も唐によってアジアが統一されて以降に可能になったことであり、シナ世界に大乗仏教の唯識論がもたらされたのも唐によるアジア統一の恩恵ということになります。
このように大唐帝国という世界帝国は多様な外来宗教に対して寛容な、多様な価値観を認める帝国であったのであり、大唐帝国の成立によって東アジアに多様な宗教世界が実現することになったのです。そうした現象の一環として仏教が興隆したのであり、また、そうした多様な宗教世界を維持するためには、帝国の「統治の倫理」として排他的性格を持つ儒教や道教を中心に据えるよりは、他宗教に対して排他的傾向の少ない仏教を据えるほうが無難であったのでした。
こうした多様な宗教世界である大唐帝国に、多様な外来宗教の新たな1つとして、7世紀中頃に西方から伝来してくることになったのがイスラム教でありました。また、インドで6世紀に興った密教が7世紀末にシナに伝来してくるようになったのも、大唐帝国が多様な宗教に寛容な世界帝国としてインドとシナの間の中央アジア地帯を一元的に支配していたからでした。

4世紀に興ったヒンズー教がインドで勢いを増すようになってきて、次第に仏教はインドで劣勢に立たされるようになったため、6世紀に大乗仏教がヒンズー教と同じようにインド古来のヴェーダ神話の多神教の神々への信仰を組みこんで密教が発生しました。多神教の信仰を取り込んだということは、簡単に言えば呪術的要素を取り入れたということで、「マントラ」という呪文を唱えて現世利益を祈願するようなもので、これはハッキリ言って、仏教といえるものかどうか甚だ疑問符のつくものでした。
そもそも仏教というものは神のような超越的存在への信仰によって現世における自己の欲望の達成を図るというようなものではありません。現世の自己というものは実体が無い虚しいものであるということを悟ることが仏教の目的ですから、現世利益を目的とした密教は仏教の対極にある宗教ということになります。それでいて仏教の一派だというのですから、話はややこしいのです。しかし、こうした本来は仏教とは無縁の要素まで取り入れて一般民衆の気を引かねばならないほど、インドにおける仏教の劣勢が深刻なものであったということでしょう。
ただ、この初期の密教があまりに仏教とはかけ離れたものになってしまったため、7世紀に入るとこの現世利益追求型の種々の密教を仏教理論のもとに統合しようという動きが起きてきました。これが中期密教といわれるものの誕生なのですが、厳密に言えば、それ以前の初期密教というのはやはり仏教というよりは、仏教的な呪術というべきもので、仏教の一派としての密教というものは、この7世紀の中期密教における種々の呪術の仏教理論のもとでの統合整理の試み以降に成立したものであるといえるでしょう。
仏教というものはやはり様々な宗派はあれども、「この世に実体というものはないということを悟って煩悩を脱却する」という悟りを開いて成仏を目指すという部分においては共通しているべきものであり、初期密教はこうした基本的部分が欠けていたのであり、中期密教ではこうした部分が整理されて補われたのでした。つまり、密教における呪術的要素というものは現世利益を得ることが目的なのではなく、成仏に至ることが目的となっているのだという理論付けを行ったのでした。

法華思想においてはこの世界には仏陀(如来)が常在しているという考え方が基本となっており、しかも歴史上、釈迦以外にも多くの仏陀が存在したという考え方ですから、ここで法華思想に基づいて、大日如来という名の仏陀が新たに設定されて、この大日如来の下に多神教の神々が眷属として組み込まれ、多神教の神々への呪術的信仰は、究極的にはこの大日如来との合一による成仏を目指す修行の過程として解釈されることとなったのです。
大日如来は宇宙の根本原理そのものとされ、光明や火をその属性とする最高仏で、これはゾロアスター教の最高神である光明神アフラ・マズダーへの信仰を仏教に採り入れたものではないかとも言われます。ただ、宇宙の根本原理となるとウパニシャッド哲学におけるブラフマンのイメージに近く、そうした宇宙の根本原理との合一を解脱として目標とするというのは、バラモン教と似通った考え方だといえます。そうしたバラモン教的な解脱観と結びついた光明神というと、これはヒンズー教における三主神の1つであるヴィシュヌであり、大日如来というのはヒンズー教のヴィシュヌに対抗して作り出された仏陀なのではないかと思われます。
この大日如来の下に眷属として組み込まれた神々もヒンズー教で信仰される神々と同一のものも多く、その信仰内容も呪術的信仰なのであり、結局、中期密教というのは信仰生活的にはほとんどヒンズー教と同じようなものであったといえます。それはやはりヒンズー教に奪われた信者を取り戻そうとするための苦肉の策で、インドにおける仏教はこうして密教という段階に至ることによって大きく変質したのだといえます。
中期密教においては、こうしてほとんどヒンズー教と同一の信仰形態となり、現世利益を求める呪術を肯定しながらも、そうした呪術を得るための修業はその最終目標として「魔術の倫理」たるウパニシャッド哲学のような宇宙の根本原理との合一を置くことになりました。いや、密教の場合、その合一が肉体を持ったままでも可能であるとする点で、それはウパニシャッド哲学というよりは、神人合一によって真の存在への到達を目指すグノーシス主義の考え方に近いものでありました。つまり密教は極めて「魔術の倫理」の要素が強いものであったのです。

しかし、密教はそれでもあくまで仏教であるということを強調したのが中期密教であり、このように宇宙の根本原理という「真の実体」といえるような存在との合一を成し遂げることによって到達する境地が、あくまで仏教的な「この世に実体というものは無い」という悟りの境地であるという、なんとも分かりにくい展開となるのでした。これはまるで「魔術の倫理」を突きつめた結果、「無常の倫理」に到達するというような不可解な話で、そもそも呪術によって悟りに至るというのが論理的に理解するのが難しい話です。
つまり、ヒンズー教的な信仰形態を採り入れつつ、それでも仏教という建前を維持しようとしたために、ヒンズー教と仏教を無理矢理繋げたようなことになってしまい、その繋ぎ目の部分が不自然となってしまったのでした。その不自然さはどうしても論理的に言葉で説明できるものではなく、それゆえ密教においてはその教義内容を説明するのに経典だけではなく、曼荼羅という象徴的な図形を用いるようになり、教義の継承も経典を通じてではなく、師匠から弟子への口伝の形で秘密裏に行われるようになったのでした。
これは要するに、言葉や文章で論理的に説明しようとすれば、この「魔術の倫理」と「無常の倫理」を無理矢理繋げた部分がどうしても破綻してしまうゆえに、それを誤魔化すために、そうした言葉や文章になった教えは表面的な仏教、すなわち「顕教」であって、真の仏教の教えは言葉では説明不可能なものであり、それを伝えるために象徴的な方法や一子相伝のような方法をとった秘密の仏教、つまり「密教」というものが存在するのだと主張したのです。これが「密教」という名称の由来ということになります。
こうして7世紀にインドにおいて密教が成立し、インドにおける仏教は密教的な内容を多く含むものに変質したのですが、この密教は表面的にはほとんどヒンズー教と同じようなものであったため、むしろヒンズー教との区別がつかなくなり、ヒンズー教ではない独自の宗教としての存在意義が逆に薄らいでしまい、しかもその上に、不自然に仏教本来の教義と繋げるために象徴的体系などを多用して極めて難解、というか不可解な教義を作り上げてしまったために、一般民衆にとってとっつきにくいものになってしまい、かえって民衆の仏教離れを加速する結果になってしまいました。
インドにおいてはそうした皮肉な結果をもたらした中期密教でしたが、7世紀末にはシナにも伝来し、今までにない呪術的体系も備えた新しいタイプの現世利益に肯定的な仏教として受け入れられるようになり、8世紀にはシナにおける「統治の倫理」にも「市場の倫理」にも密教的な要素が取り入れられるようになったのでした。このシナにおいて受け入れられた密教が9世紀初頭に最澄や空海によって日本にももたらされることになるわけです。

この中期密教は「魔術の倫理」と「無常の倫理」を無理矢理繋げたもので、「無常の倫理」たる仏教理論が「魔術の倫理」たる呪術体系を無理に抑え込んで仏教理論のものに無理に組み込んだような形になっており、そのために難解な理論先行の頭でっかちの教えになってしまったともいえるのですが、それでもここでは一応「無常の倫理」のほうが勝っている分、この中期密教はあくまで仏教の範疇に収まったものとなっており、「魔術の倫理」の暴走による腐敗を抑え込む形にはなっていたといえます。
ところがインドにおいては中期密教の難解な理論先行という特徴のために民衆の仏教離れが進んでしまったという反省を受けて、8世紀ぐらいになるとますます隆盛になってきたヒンズー教に対抗するために今度は理論よりも実践重視の後期密教が生まれてきました。つまり仏教理論との整合性などにあまりちまちまと拘らずに、とにかくヒンズー教よりも呪術的な実践の面で上をいくようなものを目指そうという方向性が生じてきたのです。それはそれだけ仏教の劣勢がより深刻なものとなったということでしょう。
具体的には、後期密教はインドに古くから伝わる神秘主義思想であるタントラの実践行法の影響を強く受けており、ヨーガによる修行を通して下半身のチャクラから体内のプラーナ(いわゆる「気」のようなもの)を頭頂に導くことによって霊的に覚醒して悟りに至る方法論が突き詰められることになりました。これはシナの道教における神仙術に酷似した一種の神人合一によって超人となることを目指す思想で、かなり「魔術の倫理」の傾向が強いものでした。こういうものが仏教理論よりも重視されるのが後期密教の特徴であり、しかもこのヨーガ行法の中でも男性原理と女性原理の合体による性的ヨガが最も効果的なものとされるようになり、性交が本来の生殖行為という目的を逸脱して、悟りへ至る修行法として大いに推奨されるようになり、一気に性道徳の荒廃を招くようになるに至って、後期密教は仏教とはかけ離れた「魔術の倫理」となっていったのでした。
これによってインドの仏教界では後期密教の在り方に対する賛否両論が渦巻くことになり、大いに仏教思想が揺らぐことになり、混乱の中、次第に衰退していくようになりました。そうした中で11世紀にイスラム教がインドに進出してきて、すっかり多神教化した後期密教はイスラム教の嫌う偶像崇拝の教えとして排斥されるようになり、同様にイスラム教の攻撃を受けたヒンズー教が勢力が強かったためにほどなくイスラム教と共存するようになったのとは対照的に、既に弱体化していた仏教はイスラム教とヒンズー教の挟撃を受けて存在意義を消失させていって、13世紀初頭にはインドから仏教は消滅したのでした。
つまり、後期密教が仏教発祥の地であるインドにおける仏教の最終形態となったのですが、この11世紀のイスラム教のインド進出を受けて後期密教はますます「魔術の倫理」化していったのでした。それは、インド仏教の崩壊や、その遠い未来における復活に関する予言という一種の終末論信仰のような形が現れたということでした。インド仏教崩壊後に異世界にあるシャンバラという仏教の理想郷で仏教が維持され、そのシャンバラの王が最終戦争で悪の王を撃ち破ってインドに仏教を再興し、世界に安定と調和をもたらすという後期密教の到達した終末予言は、まさにグノーシス主義の反宇宙的二元論の終末予言と同じような構造を持ったものとなっており、これは密教が元来持っていた「魔術の倫理」としての側面が強調されたものであると同時に、新来の「魔術の倫理」であるイスラム教の中の終末論の影響も受けたものであるのでしょう。

こうした後期密教はシナ世界へも伝わってはいたようですが、8世紀中頃の安禄山の乱を契機にして大唐帝国は世界帝国の座から退くことになり、中央アジアや北アジアはマニ教を国教としたウイグル帝国によって支配されるようになり、唐はシナ世界のみを支配するようになっていきました。そうなるとインドからシナへの後期密教の伝来もかつてのようにスムーズではなくなり、またシナでは世界帝国の一部という意識が薄れてくるにつれて、律令制の崩壊とそれに伴う貴族層の没落の開始に連動して唐帝国のシナ帝国化が進み、かつてのシナ帝国的な思想傾向が強くなってきて、道教や儒教のようなシナ土着の思想のほうが外来思想である仏教よりも次第に優勢になってきて、シナ土着思想と上手く習合してシナ化していった仏教の宗派のみが生き残っていくことになります。
例えば8世紀にはシナにおいては禅宗が発展することになります。禅宗というのは大乗仏教の法華派の流れから生じたものですが、経典に書かれた釈迦やその他の仏の言説の研究や実践などを通して悟りを目指す従来型の大乗仏教とは違って、釈迦が最初に悟りを開いた時と同じように座禅によって独自に悟りの境地を目指すことを特に重視して、座禅に特化した修行のみを重んじるようになった宗派です。座禅という修行法そのものはインドでもシナでも仏教の各宗派において重要な修行法の1つとして行われてはいたのですが、それはあくまで経典の研究や利他行、念仏などと併用されていたのであり、座禅のみに特化した宗派としての禅宗というものは8世紀のシナにおいて独特のものとして生まれたのでした。
仏教というものは釈迦の到達した悟りの境地、すなわち「この世に実体というものは無い」という仏教理論を抜きにしては成立しないものであったので、たとえ大乗経典のように後世に書かれたものであったとしても、あくまで経典に拘るという姿勢があったのですが、経典から離れて座禅のみで独自の悟りの境地に到達するとなれば、それは釈迦の到達した境地とは違うものになる可能性もあるわけで、それは仏教とは違うものになる可能性もありました。それが仏教的な悟りから外れないように導師が適切な指導を行いつつ座禅をさせていくシステムが禅宗であったわけですが、それにしてもわざわざそのような危ういシステムを作る必要も無いのであり、この禅宗の成立というのは仏教のみをその要因としたものではなく、仏教が道教と習合したことによって生まれたものであるといえます。
道教というものはもともと初期大乗仏教である弥勒信仰と老荘思想やシナ多神教とが習合して出来たものですから、元来仏教的要素を含んでおり、仏教とは結びつきやすい傾向があったといえます。この道教の老荘思想由来の漠然とした空想世界に遊ぶような姿勢が、仏教の悟りの境地という言語化するのが困難な世界と通じるものがあり、この両者の習合によって、経典の言語的世界に拘らずに座禅のみによって非言語的な悟りの境地に遊ぶような感覚が生まれ、それが禅宗の姿勢を誕生させたのではないかと思われます。そして実際、経典の研究や利他行などを行った者で誰一人成仏した者がいなかったわけですから、シナにおいては禅宗こそが悟りに至る道であるとして9世紀以降は大いに人気を博するようになったのでした。

シナにおいては安禄山の乱以降、道教の勢力が強くなっていき、唐の皇帝権力とも結びつくようになっていき、道教は「魔術の倫理」ですから、そういうものが「統治の倫理」となると他宗教への弾圧を引き起こしがちになります。そういうわけで9世紀中頃には大規模な仏教をはじめとする他宗教への弾圧事件が起こり、それ以降、宗教の多様性は失われていき、従来型の仏教も衰退していくようになりました。
中期密教は同じく呪術系宗教であった道教と内容が被っており、道教の隆盛に伴って廃れていきました。同様に後期密教も道教と被っていたためにシナには受け入れられることもなく、そのためシナには中期密教までしか入ってこなかったので、日本にも後期密教は伝わっていないのです。また、貴族層の没落によって権力との繋がりが薄くなった三論宗や法相宗、華厳宗などの学派仏教も衰退していきました。法華思想の天台宗も道教や禅宗などに押されて衰えていきました。結局、9世紀末の唐帝国の滅亡以降もシナにおいて生き残った仏教は、シナ化された阿弥陀信仰や弥勒信仰による浄土教と、道教と習合してシナ化された仏教である禅宗という2つの流れということになりました。そしてシナ禅宗は9世紀後半以降は更に道教的な要素が強くなり、インド由来の座禅すら重視されなくなり、「公案」という非論理的、非言語的な思考の積み重ねの中から悟りの境地に唐突に至るという「頓語禅」という形式が主流となっていきました。
唐の時代にシナの地で栄えた浄土教や禅宗以外の仏教宗派の流れは、その後は朝鮮半島や日本において保持されることになりますが、これらもそれぞれ朝鮮や日本における土着の宗教と習合して変質していったのでした。むしろインドで発祥した仏教の正統の流れを直系で引き継いだのはチベットでした。

チベットにインドから仏教が伝来したのは7世紀前半のことでしたが、チベットの国王が仏教に基づいた国家建設を志向し、9世紀前半までに国家事業として上座部仏教から大乗仏教の唯識派や法華派などのありとあらゆるインド仏教の経典を忠実に吸収したのです。
そして9世紀後半以降はチベットでもインドから伝わった後期密教が流行し、その性的ヨーガ重視などの傾向のためにインド同様に仏教界は混乱することになったのですが、11世紀になると戒律が復興されるようになり、後期密教の性的な呪術重視傾向は退けられ、顕教が重視されるようになりました。その中心となった教説は、般若経における空の思想や唯識論などでした。要するに存在や認識に関する論理的思考を突きつめるという顕教的な部分を重要視するのがチベット仏教の特徴となったのです。このように顕教の復興がなされたのは、やはり7世紀から9世紀にかけての顕教部分の受容がしっかりなされていたという基礎部分の充実があったからなのでありましょう。
よく「チベット仏教=密教」というような誤解がありますが、実際は顕教の仏教理論重視がチベット仏教の特色なのであり、11世紀以降は後期密教は無闇な性的修行が禁じられて、また在家信者による現世利益重視の呪術的信仰も否定された上で、その修業法やヨーガを顕教によって理論づけられた悟りの境地を観想するために顕教と併用されていくようになったのでした。そして14世紀に密教が顕教の悟りの境地を観想するための禅定体系として再編されて、顕教の下に組み込まれ、上座部仏教・大乗仏教・密教を統合した総合仏教としてのチベット仏教の体系が完成したのです。
いろいろ問題はあるにせよ、後期密教がインド仏教の到達した最終形態であるのは事実であり、インド仏教初期形態の上座部仏教から最終形態の後期密教までを網羅し、しかもそれらの教えをほとんどインド本国から忠実に直接輸入し、それらを総合して高い論理性のもとに次元の高い哲学体系として再編したチベット仏教は、本国インドの仏教が消滅した後においては、間違いなく仏教の正統を継承する存在となったのでした。
こうした11世紀以降のチベット仏教においては「魔術の倫理」としてインド仏教の末期を頽廃させた後期密教の毒性は「無常の倫理」たる顕教の教説の下に組み込まれることによって中和され無毒化されているといえるでしょう。
かつてオウム真理教などがチベット仏教の流れを受けているかのように自称していたのは、あれはチベット仏教の実態を日本人がまだよく知らなかった時代に可能であった詐欺的言説でしかなく、オウム真理教の主張するチベット仏教というものの姿は11世紀以前のチベットの仏教界が混乱していた時代における退廃した後期密教の部分だけをピックアップしたものであり、そうした頽廃した「魔術の倫理」こそが仏教の正統の姿なのだと主張した上で、自らの教派であるオウム真理教こそがその正統を継承するものだと主張し、自らの退廃しきった「魔術の倫理」の教義を正当化し権威づけようとしたに過ぎず、オウム真理教と後期密教とは確かに関係はあるといえますが、オウム真理教とチベット仏教は実際は何ら関係ないのです。
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