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日本史についての雑文その372 世界宗教史7
さて、ユーラシア大陸の東半分で大唐帝国が世界帝国を形成しつつあった630年頃、その遥か西のアラビア半島で急速に勢力を拡大していたのがイスラム教でした。このイスラム教がユーラシア大陸東部の大唐帝国に匹敵する世界帝国をユーラシア大陸西部に作り上げ、その後、騎馬遊牧民族と共に中世世界の最重要要素となっていくのです。このイスラム教誕生に至るユーラシア大陸西部の思想状況をまず、ざっと振り返ってみます。
古代ローマ帝国が最盛期を迎えたのが2世紀前半の五賢帝時代で、この頃はローマ帝国のあった地中海世界の西のオリエント地方にはパルチア王国があり、ユーラシア大陸の西側ではこの二大国が勢力を均衡して共存していました。この頃のローマ帝国にしてもパルチア王国にしても、これらは多様な価値観の存在する世界帝国でありました。

多様な価値観が存在する世界帝国とは、つまり帝国内のそれぞれの共同体や身分集団において別々の「統治の倫理」が適用されていて、それでいて、それらの共同体を繋ぐ「市場の倫理」が機能している状態ということになります。ローマ帝国やパルチア王国においては、それぞれの共同体ごとの別々の神々への信仰が「統治の倫理」として適用され、それらの神々を繋ぐ多神教の体系が「市場の倫理」として機能するというように、多神教世界が「統治の倫理」と「市場の倫理」を包含するという状態になっていたのでした。
つまり、各共同体の「統治の倫理」を体現するのが帝国に包摂された各地の王や神官たちであり、それらを連帯させる「市場の倫理」の体現者がローマ帝国においては「皇帝(インペラトール)」であったといえます。多様な「統治の倫理」を連結させて機能的に運用するために「市場の倫理」や「皇帝」は存在するのであり、「統治の倫理」が均質であればわざわざそれを「市場の倫理」で繋ぐ必要は無く、わざわざ1人の皇帝のもとで統治される世界帝国という形をとる必要は無くなります。ローマ帝国やパルチア王国が世界帝国たり得たのは「統治の倫理」の多様化がまず前提条件であったといえます。

しかし2世紀後半になって地球が寒冷化し始めたことによる税収不足を補うために3世紀初頭にローマ帝国において統治階級たるローマ市民の資格を全住民に開放したために身分集団の特性が失われて多様な価値観が失われ始め、「統治の倫理」が均質化するようになったローマ帝国は世界帝国である必然性が無くなったため、気候不順やゲルマン民族の圧迫などを受けて皇帝権力が揺らぐと一気に軍人皇帝が乱立する分裂状態に陥ったのでした。ちなみにほぼ同時期にユーラシア大陸東部においては後漢帝国が黄巾の乱を契機に三国志の分裂状態に陥っていますが、こちらは元来「魔術の倫理」たる儒教が「統治の倫理」となることによって「統治の倫理」が均質で世界帝国たり得ないという本質を、シナ皇帝が強大な「統治の倫理」を独占する皇帝専制体制で押さえつけていたものが気候不順による統治力低下でとうとう破綻したというものでした。
このローマ帝国の混乱の中、軍人皇帝たちによってローマ軍が無闇にパルチアと交戦したため、パルチア王国も弱体化し、3世紀前半にイラン高原を根拠地として挙兵したササン朝ペルシアがパルチアの王室を倒してパルチア貴族によってオリエントの支配権を承認され、イラン東部に勢力を及ぼしていたクシャナ朝を討って臣従させて西インドにまで影響力を及ぼす大帝国を築き、メソポタミアも支配下に収め、介入してきたローマ帝国軍も3世紀後半には打ち破り、オリエントの支配権を握りました。
このササン朝ペルシアは建国当初からゾロアスター教を国教としていました。ゾロアスター教は光明神アフラ・マズダーのみを信仰する一神教でしたが、アフラ・マズダーは唯一神ではなく、多神教世界における主神という扱いであったので、ササン朝ペルシアにおいては多様な「統治の倫理」の状態は保持されていたといえます。また、そもそもササン朝はパルチア時代からの土着の貴族勢力によって支えられた政権であったので、多様な「統治の倫理」が維持されていたのはむしろ当然でありました。
むしろ、このササン朝ペルシアにおいて建国間もなくの3世紀中頃に預言者マニによって生みだされたマニ教のほうがグノーシス主義の反宇宙的二元論に基づいて霊的世界の光の神のみを唯一神と認めてその他の現世のあらゆる神を偽神とするという教義によって、多様な「統治の倫理」に敵対する性格の宗教であったといえます。しかしこのマニ教はササン朝ペルシアにおいては弾圧されて支配的原理になることはなく、ササン朝ペルシアの多神教世界を構成する多くの宗教の1つという位置づけであったようです。だいたいササン朝の前期においては宗教には寛容であったのですが、マニ教、ユダヤ教、キリスト教は弾圧されがちでした。それは、これらの宗教こそが他の宗教に対して不寛容な面が強いからであり、宗教寛容政策を維持するためにはこれらの宗教に対しては厳しい姿勢で臨む必要があったからだと思われます。

そのササン朝ペルシアにおいて弾圧されたマニ教はササン朝支配地の周辺に広がっていきました。ササン朝支配地の周辺というと、東北方向は中央アジアの草原地帯、東方向はインド西部地方、西南方向はアラビア砂漠、西方向はシリア地方とその背後にあるローマ帝国領ということになります。中央アジアの遊牧民諸族には仏教やゾロアスター教と共に多様な宗教の1つとして受容され、インド西部にはクシャナ朝経由で影響を与えてヒンズー教の成立に繋がりました。アラビア砂漠の遊牧民であるアラブ人にもマニ教は受容されましたが、特にマニ教が大いに受け入れられたのが3世紀後半のローマ帝国で、この時期のローマ帝国では同じくグノーシス主義の影響を強く受けた救世主信仰宗教のミトラ教も流行しており、やはり多様な価値観が失われたローマ帝国社会のほうがこうした「魔術の倫理」は受け入れやすい状態にあったのだといえます。そうしたローマ帝国の傾向の1つとして3世紀にはユダヤ教の分派であったキリスト教もグノーシス主義の影響を受けて「魔術の倫理」となって世界宗教としてローマ帝国内で大いに流行するようになりました。
結局、4世紀になって、分裂したローマ帝国をシナ帝国のように皇帝専制の中央集権体制で単一の「統治の倫理」で無理に統一することによって、ローマ帝国は一時的に復活することになりますが、ここにおいて「魔術の倫理」化したキリスト教が「統治の倫理」として採用されて、皇帝権力と結びついたキリスト教によってマニ教やミトラ教、その他の多神教などが排斥され、またキリスト教内でも皇帝によって正統とされたアタナシウス派が他の宗派を弾圧していきました。
この4世紀の初めにはユーラシア大陸東部ではシナ帝国が崩壊して華北は侵入してきた北方遊牧民族の居住地となってしまったわけですから、ローマ帝国はこうした無理な延命によって一応は北方のゲルマン民族の侵攻をギリギリで食い止めていたわけで、まだしぶとく頑張っていたほうですが、しかし、既に世界帝国としてのローマ帝国は寿命が尽きており、4世紀の間はササン朝ペルシアとメソポタミアの支配権を巡って何度も戦いますがほとんど連戦連敗という状態で、内実はガタガタでありました。

そうしたところに4世紀終盤に東方から侵攻してきたアジア系の騎馬民族フン族に押されてゲルマン民族がローマ帝国領内に雪崩れ込んでくると、あっという間にローマ帝国の地中海世界の支配は崩壊して、ローマ帝国は東西に分裂しましたが、実際に帝国として命脈を保ったのはゲルマン人の侵攻をなんとか撃退した東ローマ帝国だけで、西ローマ帝国は形の上ではその後、約1世紀後の5世紀終盤まで残りますが実質的にはゲルマン諸侯が支配する地となりました。
よって、皇帝専制の中央集権体制と、それと結びついたアタナシウス派キリスト教(正教会)による支配体制は地中海世界の東部では東ローマ帝国と共に命脈を保ち、5世紀に入っても東ローマ帝国領では相変わらず正教会による他宗教、他宗派に対する迫害が続き、これはむしろ5世紀から6世紀にかけて最高潮に達したといえます。このように、東ローマ帝国からもササン朝ペルシアからも迫害されがちであったマニ教やキリスト教異端派などは西ヨーロッパ、北アフリカ、アラビア半島、そして遠くは中央アジア方面へ拡散していったものと思われます。
世界帝国ではなくなった東ローマ帝国では5世紀以降も正教会を単一の「統治の倫理」とした硬直した体制が継続したわけですが、西ヨーロッパや北アフリカにおいてはゲルマン諸侯の様々な共同体の「統治の倫理」が乱立する多神教的状況となり、その多神教的状況の中にマニ教やキリスト教異端派なども混在している状況でありました。正教会の西ヨーロッパ支部であるローマ教会も皇帝権力の後ろ盾を期待できない西ヨーロッパにおいてはそうした多宗教のうちの1つに過ぎない状況でした。

一方、ササン朝ペルシアも4世紀終盤から5世紀前半にかけてフン族の攻撃を受けましたが撃退し、またキリスト教徒弾圧を巡って東ローマ帝国との間に生じた紛争にも勝利して安定的状況を得ましたが、5世紀中頃からクシャナ朝を滅ぼしてペルシアに国境を接するようになった中央アジアのイラン系遊牧民エフタルの侵攻に悩まされることになります。ササン朝にとって最大の脅威となったのはこのエフタルで、エフタルの侵攻は6世紀中頃まで約1世紀の間、断続的に続くことになります。この間、ササン朝は東ローマ帝国とも断続的に戦争をしていますが、これらは大規模な戦争ではなく、エフタルに押されまくっていたササン朝がエフタルに支払う賠償金を稼ぐために東ローマ帝国のシリアやアルメニア領地を荒らしていたというのが実際のところでした。
このエフタルの深刻な脅威に対処するためにササン朝では6世紀前半に軍制改革が行われました。そしてそれに伴って貴族の勢力を削いで皇帝への権限集中を図り、官僚制を強めて中央集権化を図ったのでした。これは、この時期に東ローマ帝国で最高潮に達した非キリスト教徒への迫害の影響で非キリスト教系の知識人が大挙してササン朝へ亡命してきたのを受け入れて、彼らから東ローマ帝国の中央集権制度を学んだ結果でもあろうと思われます。この結果6世紀中頃にササン朝は中央アジアに台頭してきた突厥と手を組んでエフタルを挟撃し、ついにエフタルを滅ぼしてその脅威を取り除くことに成功しました。
ここにササン朝ペルシアは外交面でも内政面でもその皇帝権力は最盛期を迎えることになったのでした。この時期、東ローマ帝国においてもユスチニアヌス大帝のもとでイタリア半島など地中海沿岸部全域を征服するなど最盛期を迎え、ライバル関係にあったこの両国ともに同時に最盛期を迎えたのでした。しかし、すぐにササン朝と突厥との同盟は破れ、今度はササン朝は東北方面の国境では突厥の脅威を受けることになりました。

しかし、ここでササン朝にとって真に問題であったのは東ローマ帝国と類似した中央集権官僚制を導入したために「統治の倫理」の多様性が失われていったことです。これによって各共同体が均質化していったササン朝ペルシアは世界帝国としてまとまっていく必然性を失い、6世紀後半以降、内乱が頻発していくようになります。そして、そのようにバラバラになり始めた帝国を統一していくために皇帝権力は対外的冒険に走るようになり、7世紀に入るとササン朝ペルシアは初めて本格的に東ローマ帝国征服のための攻撃を開始するようになり、東ローマ帝国も本格的に応戦し、両国は7世紀前半、シリア、エジプト、アナトリアを巡って激しい領土の奪い合いを展開し、互いに疲弊していくことになります。
このようにササン朝が内戦と外征によって疲弊していくようになったのは世界帝国たり得る条件が失われていったからなのですが、それと並行してササン朝の国教たるゾロアスター教も正教会と東ローマ帝国政府との関係性をお手本にして中央集権官僚制と密接な関係を持つようになったために寛容さを失い、世界宗教たり得る資格を欠いた偏狭な教えになっていきました。
しかし、このオリエントの地は重要な交易路であったので、通商の必要上、この地に安定した世界帝国が存在することは多くの人々の望むところでありました。ササン朝がもはや安定した世界帝国たり得ず、その支配原理であるゾロアスター教が世界宗教たり得ないというのであれば、それに代わる世界帝国や世界宗教が用意されねばならないのでありました。

6世紀後半になってユーラシア大陸東部においては、中央アジアから北アジアにかけての突厥帝国の急速な発展、そしてシナ世界においては律令制の急速な整備と世界宗教としての仏教の急速な台頭、その結果としての隋帝国の成立というように、新たな世界帝国たる大唐帝国成立へ収斂していく動きが展開していくようになっていました。それと同じようにユーラシア大陸西部におけるササン朝と東ローマ帝国のこうした状況も新たな世界帝国であるイスラム帝国へと収斂していく動きであったのだといえます。
6世紀になって東ローマ帝国内における正教会以外の宗教・宗派に対する迫害は最高潮に達し、またササン朝ペルシアにおいてもゾロアスター教の変質によって他宗教排斥の動きは激しくなり、特に正教会にもゾロアスター教にももともと目の敵にされていたマニ教、ユダヤ教、キリスト教異端派などはこの両国には身の置き処が無くなり、この両国に挟まれた真空地帯のようになっていたアラビア半島に追いやられるような感じになり、この地に住んでいた砂漠の遊牧通商の民であったアラブ人にこれらの宗教の信者が増えました。これらのグノーシス主義と関わりの深い「魔術の倫理」の混淆状態の中から7世紀になってイスラム教が誕生してくることになるのです。

イスラム教はもともとは7世紀初頭にアラビア半島の商業都市メッカのアラブ人商人であるムハンマドによって始められたアラブ人の民族宗教でした。しかしその教えはアラブ人の独創ではなく、明らかにマニ教やユダヤ教、キリスト教の強い影響を受けています。ムハンマドは唯一神アッラーフの啓示を受けた預言者を自称しますが、預言者を開祖とした宗教という点ではマニ教と同一といえます。そしてイスラム教においてはムハンマドは唯一神の最高にして最後の預言者とされており、最後ということはその前にも預言者がいたということで、こういう点もマニ教と同じなのですが、先行するキリスト教のイエスやユダヤ教のモーセも同じ唯一神の啓示を受けた預言者という扱いになっています。イエスはローマ人に向けて、モーセはユダヤ人に向けての唯一神の預言を仲介したのだが、その教えは完全なものではなく、完全な教えはムハンマドを仲介にして全世界の人々に対して下されたということになっています。この預言はアラビア語で下されたのですが、ここでポイントなのは、この教えはあくまでアラブ人に向けられたものと限定されているのではなく、全世界の人々に向けられたものだという点です。
それはさて置き、イエスが説いた教えを下したのと同じ神ということは、アッラーフの正体はキリスト教の神である「主」と同じということになります。実際にはイエスが信仰した神は「主」ではなく、あくまでユダヤ教の神ヤハウェなのですが、それは現代視点で見た歴史的事実という意味でしかなく、7世紀当時のアラビア半島に伝わっていたキリスト教の解釈としてはキリスト教の神というのは霊的世界の「真の神」である「主」なのであり、ユダヤ教の神であるヤハウェもその「主」のイメージの中に包摂されていたのでした。それゆえ、本来はヤハウェと「主」は全く別の神であるにもかかわらず、ムハンマドの主張においては「主」もヤハウェも共にアッラーフの別名であったとされるのです。
結局、アッラーフとはグノーシス主義の反宇宙的二元論で言うところの真の世界である霊的世界の神であり、イスラム教においても他のグノーシス系の「魔術の倫理」と同じように、穢れた偽の世界である物質世界の住民である人間はその霊魂に秘められた真の神の要素を昇華させて真の神との合一を図ることで真の世界における真の自己に到達して救済されることを目指すべきとされるのです。

このように基本的にはイスラム教は「魔術の倫理」なのですが、その他の「魔術の倫理」の宗教とはそれぞれ明らかに異なった特徴を有しています。まず真の神との合一の方法ですが、秘教的なグノーシス主義の場合とは違い、イスラム教においては特別な神秘的方法よりも神がムハンマドに示した戒律を守るという、むしろ正教会に近いようなオーソドックスな方法が重視されます。それはグノーシス主義者のように積極的に真の神の世界を引き寄せようという能動的姿勢ではなく、真の神の世界が決められた時に到来するのを身を律して待つという受動的姿勢であるといえます。
だからといって正教会のように個々が戒律を守って後の死後の世界での救済を待つという姿勢に終始するわけではなく、真の神の世界の到来は明確に終末思想の形で現れます。つまりこの世の終わりにおいて善と悪の大戦争が起きて、そこで真の神の遣わした救世主の働きなどによって善が勝ち悪は滅び、真の神の世界が到来するのであり、そこで戒律を守っていた善人の魂は救済される(最後の審判)というわけです。こうした終末思想はグノーシス主義の系譜においては一般的で、特にマニ教においては明確な形で現れていますが、7世紀当時のキリスト教においてはこの終末思想がどうも曖昧になっていました。
何故なら、キリスト教正統の正教会においては開祖のイエスが救世主であり神そのものでもあるとされており、異端の宗派においてもイエスが救世主であるという点では一致しており、しかもキリスト教は現世の支配者である東ローマ皇帝(彼ら正教会信者は「ローマ帝国皇帝」と認識していた)の権力と一体となった国教となっており、つまり現世は既に救世主の出現を経て救済済みで善の神によって支配されているという解釈も成り立つようになっていたからでした。もちろんイエス自身が聖書の中では終末思想を述べている(しかもイエスは自分を神とも救世主とも言っていないし、それを否定すらしている)のですから、キリスト教の本来の教義としてもこうした考え方は誤っているのですが、この頃は聖書など一部の聖職者しか読まない時代であり、皇帝権力と一体化した高位聖職者たちが勝手に決めた教義のほうが一般には浸透していました。
その公式教義はいかにも皇帝権力に都合よく現状肯定的で、教会権力の正統性を高めるためにはイエスは神であったほうが都合よく、将来において善悪が峻別されるような終末思想など余計なものでしかなかったといえます。皇帝や教会の背後には真の神が存在するという解釈のほうが体制側にとっては好都合であったことでしょう。そういうわけで極めて体制的宗教となっていたキリスト教においては「魔術の倫理」においては肝心要であった終末思想が曖昧なものとなってしまっていたのでした。

その点、開祖が超越的存在である救世主ではなく、単なる人間に過ぎない預言者であるマニが開祖であるマニ教の場合は、マニの出現によって現世に大きな変化は生じておらず偽の悪の神が支配するという現世の状況は維持されているのであり、また実際にマニ教は体制側から迫害されることが多く、体制側の宗教となることも少なかったので、マニ教は「魔術の倫理」としては元祖のグノーシス主義の特色を純粋に受け継いで終末思想が明確となっていたのでした。
しかし、では同じように預言者ムハンマドを開祖としたイスラム教もマニ教と全く同じかというとそういうわけではなく、確かにイスラム教においては預言者ムハンマドは救世主ではなく生身の人間であり、イスラム教においてはイエスもまた単なる預言者の1人であるので、この世にはまだ救世主は登場していないということになり、こういう点ではマニ教と全く同じで、最後の審判は遠い未来のことと設定されており、明確に未だ真の神の世界が到来しておらず、現世は悪の神の支配する世界だと規定されており、そういう点で曖昧なキリスト教とは明確に違いマニ教と類似しているのですが、イスラム教においては最後の審判に向けての人間が現世で行うべきことがマニ教よりもかなり明確かつ現実的なものとして規定されていることに大きな特徴があるのです。
マニ教の最大の弱点は、その教義の非現実性でした。最後の審判に向けて人間が物質世界たる現世で行うべきことはこの穢れた物質世界にありながら霊魂を浄化していくことなのですが、そのために物質世界(肉体)の穢れを避けることを重視したのがマニ教で、極端に肉欲を忌避する教義を持つことになりました。マニ教において忌避された肉欲には過度の性欲や食欲などだけではなく、そもそも悪しき物質世界を存続させるものとして生殖行為そのものが否定されていました。ただマニ教の場合、その厳格すぎる戒律が適用されるのは聖職者のみに限られていて、一般信者と聖職者は明確に分けられ、一般信者はそこまで極端な肉欲忌避の義務は負いませんでした。それゆえマニ教は多くの信者を獲得することが出来ていたのですが、この方式だと一般信者は楽ではありますが逆に考えれば魂の浄化が不完全ということになり、最後の審判時に聖職者と一般信者の間に救済において格差が生じるということになり、マニ教の信者内で不平等が生じることになります。

一方、イスラム教においては信者内の平等を重視し、聖職者階級というものが基本的に存在せず、全員が一般信者という扱いになります。そうなると信者全員に平等に同じ戒律を課すということになりますから、マニ教の聖職者に課しているような極端な肉欲忌避的な戒律は無理となります。
そもそもマニ教において極端な肉欲忌避主義が生じたのは、現世が穢れた悪の世界であり、その環境の中でマニ教信者の清浄性を保つためでした。つまり自らを現世において孤立した少数派の存在と認識して受け身に徹した考え方であったといえます。実際、キリスト教正教会のように「既に救世主が現れた」という思い込みでもしなければ、グノーシス主義的な認識の下では現世において善なる勢力である自らを少数派と認識するのが当然というものでありましょう。ただ、マニ教においては自らを少数派と見なしたゆえに受け身の立場に立ったのに対して、イスラム教においては逆に少数派ゆえに、少しでも多数派となることを目指して攻勢の立場に立ったことが大きな特徴であったのです。
言い換えると、マニ教の場合は世の中に現実に存在する悪と戦って自分を守ったりすることを回避して、その代わりに自己の内面に存在する悪とのみ戦う、極めて内向きの教えなのであり、それに対してイスラム教の場合は、この世が悪の世界であり自分達が善なのであるのならストレートに世の悪と戦うべきであるとシンプルに考えることにしたのです。そうして外の悪と戦うようになった分、イスラム教においては内なる悪との戦いの義務はマニ教に比べて幾分は軽減されるようになり、もちろん最低限の肉欲の制限は戒律に含まれますが、マニ教ほど極端なものではなくなり、ちゃんと生殖活動も肯定され、むしろ食欲も性欲も一定の条件下では積極的に推奨されるようにすらなりました。
その代わり、外の悪と戦う義務は大きくなり明確にもなりました。この外の悪と戦うというのは内なる戦いとは違って現実社会での出来事ですからより具体的なイメージが必要となります。つまり内なる戦いのように自分が満足すればそれでいいというものではなく、敵も現実社会で組織や共同体を形成しており、味方も組織や共同体を成しているわけですから、戦いは自己だけに完結したものではなく、悪の共同体と戦って自己の属する善の共同体を守るという形になります。

そういうわけでイスラム教においては「イスラム共同体」という共同体が教義において重要な位置を占めることになります。これは他の宗教における信仰集団や教団などとは少し違い、同じ信仰を共有する共同体であるという点では教団と同じなのですが、教団のように信仰そのものを目的とする共同体なのではなく、あくまでイスラム共同体は現実に根ざした生活を目的とした共同体なのです。その中にはもちろんイスラム教への信仰も含まれるのですが、信仰以外の俗なる要素も含まれるのであり、イスラム共同体を律するルールには信仰に関するもの以外にかなり俗っぽいものも含まれることになり、またイスラム共同体を守る戦いというのは精神的なものだけではなく、実際に武器を使って現実の共同体を守る本格的な戦争になるのです。
こうしてイスラム教の教義においては、礼拝、喜捨、断食、巡礼などの重要な信仰行為は全て個人単位の行為ではなく、信者全員が一斉に行ったり、共同体内で行うべきものとされ、イスラム共同体の団結を強調するという目的を備えたものとなったのでした。そしてこのイスラム共同体を守り、イスラム共同体を拡大していくために武器を持って戦うという「聖戦」も重要な信仰行為とされるようになったのでした。
このように生活全般に関与する共同体と信仰が一体化することや、信仰を守るために実際に武器を持って戦うなどということは、俗世との関わりを不浄なものとしがちであったグノーシス系の「魔術の倫理」においてはそれまで見られなかった画期的な特徴で、イスラム教がこうした傾向の元祖ということになります。
では、どうしてイスラム教においてこのような飛躍が可能となったのでしょうか。確かにイスラム教が俗世を過度に不浄なものとして遠ざけることがなくなったのは、悪との戦いというグノーシス的に正しい行為を内面的なものから外面的なものに転化したからでした。しかし、この戦いの外面化ということ自体が現世の穢れに触れることなのですから、それによってイスラム教信者は自らを霊的世界の善なる「真の神」に繋がる存在とする根拠を薄弱なものとすることになるのです。そうしたことへの躊躇いがあるからこそ、マニ教やキリスト教などの既存の「魔術の倫理」においては悪との戦いの外面化という一線がなかなか超えられなかったのです。それがイスラム教において可能になったのは何故なのか。それはイスラム教においては別の何らかの方法で「真の神」に繋がる回路を確保できたからなのでしょう。

「魔術の倫理」において肉欲が忌避されていたのはどうしてであったのか思い出してみると、それは「魔術の倫理」が禁欲の体系であったからではなく、逆に肉欲忌避によって「真の自己」に近づきたいという欲望に忠実であるゆえであったからであり、「魔術の倫理」の本質は禁欲ではなく、むしろ「欲望の解放」であるとするなら、肉欲忌避などはそのための1つのステップに過ぎないのであり、真の「魔術の倫理」を極めるならば「象徴界(物質世界)」の中心に「現実界(霊的世界)」から突き出た「想像界」を目指して、この「象徴界」において欲望充足の道を極めるべきなのです。それも並みの欲望ではなく、真の霊的欲望であり、「想像界」とは「欲望を触媒とした世界の変成(象徴界から現実界への進化)」という「真の神=真の自己」の根源的欲望のシンボルであり、「究極の欲望」であり、その「究極の欲望」に自己を同一化することが「魔術の倫理」の本質であるので、その目標に向って現世に存在するあらゆる欲望を充足していくことになります。
何故なら、「究極の欲望」などという得体の知れないものは現世においては直接認識することは出来ないので、それを触媒とした世界の進化を実行するためには、さしあたりは現世に存在するあらゆる欲望と自己を同一化して充足していくことを通して「究極の欲望」へと近づいていくしかないのです。そして、その欲望充足の先にある「究極の欲望」は現世においてはその本質の姿(神そのもの、欲望そのものともいえる)で現れるということはなく、抽象化、シンボル化された姿でしか現れません。それが物質世界の真ん中に異界から突き出た「想像界」なのであり、その「究極の欲望のシンボル」に向って現世の欲望を充足していくというのが「魔術の倫理」のスタンスとなります。
その「想像界」が既存の「魔術の倫理」においてはこの世に現れた「神」や「救世主」の姿であったりしたわけですが、このあらゆるものを外面化し具体化するイスラム教という宗教においては「想像界」はより具体的な姿を持ったシンボルとして現れることになりました。それがあらゆる現世の欲望と交換可能な「欲望のシンボル化された物体」である「貨幣」というものなのです。

つまりイスラム教においては「貨幣」というものを現世に現れた「究極の欲望のシンボル=真の神のシンボル」として尊重し、使用して流通させて、「貨幣」を通して現世の欲望を充足させることが「究極の欲望」との一体化へのステップ、すなわち「世界の進化」へと至る方法の1つであるとされるのです。それは「世界の進化」への道という意味ではイスラム共同体の形成と同じ意味合いを持っているのであり、「貨幣経済の進展」はイスラム教徒にとっては一種の「聖戦」であったのだといえます。
つまり、イスラム教徒にとっては「貨幣」は「神」のシンボルなのであり、それゆえイスラム教圏において流通した貨幣は「金貨」であったのです。何故、「金」なのかというと、金は古くから人間の身近に多く存在した金属の中で最も化学的腐食に強い金属であったからです。それは単に長持ちするという実用的意味だけではなく、腐食しないということは不滅の存在であり完璧な存在であるという象徴的意味も持つのであり、それは神のイメージに通じるのです。それゆえ古くから金は装飾品や貨幣の材料とされてきたのですが、イスラム教においては更に「魔術的に」明確な象徴的意味を持つようにもなりました。
すなわち、化学的腐食とは、熱や湿気や酸素などであり、つまり自然による浸食ということであり、言い換えれば現世、物質世界、象徴界による浸食といえます。そうした侵食によって侵されない「金」という物質こそは、霊的世界、現実界の支配者たるグノーシス主義の反宇宙的二元論における「真の神」をシンボル化する物質として相応しいものであり、その「真の神」の要素がこの物質世界において唯一現われているという人間の霊魂の高貴性、完全性を象徴する物体としても相応しいともいえます。いや、人間の精神が「現実界」の「真の自己(真の神)」と同一化した時の高貴性や完全性、万能性を象徴する物質が「金」なのだといえるでしょう。それゆえ「魔術の倫理」であるイスラム教世界において「神」のシンボルとして流通される貨幣の材料として最も相応しい物質は「金」であったのです。
「金」に高貴性を見出して貨幣の材料に使うという程度のことは古代からよく行われてきました。しかしイスラム教においては「魔術の倫理」の文脈においてそれが「金」に対する信仰の形にまで昇華され、その信仰と共に貨幣経済がイスラム圏に広く浸透したということが歴史上重要なのだといえます。
もちろんイスラム圏において貨幣経済が浸透していったのには、ウマイヤ朝においてササン朝から引き継いだ中央集権官僚制の官僚や軍人階級をアラブ人が独占して各都市に派遣されたため、そうした不産階級の給与として大量の貨幣を支払う必要が生じ、彼らの経済生活のために貨幣経済の浸透が不可欠であったという事情もあり、また金の産出地との交易が成立したという要素もありました。しかし、こうした条件が揃ったとしても、マニ教などの旧来型の「魔術の倫理」や、やたら禁欲的な各地の「統治の倫理」のみの支配した世界においてはここまで急激に貨幣経済が浸透するということには障害が多く、きっと困難であったと思われます。やはりイスラム教との関連において金貨を真の神のシンボルとして尊重する思想が生まれたことが人類社会最初の本格的な貨幣経済の誕生の大きな前提となっていたと思われます。

このように「貨幣経済」という「真の神」へと繋がる新しい回路を確保したからこそ、イスラム教は殊更に肉欲を忌避しなくても霊的な優位を確保することが出来るようになり、それによって現世における悪との戦いを外面化して、過度な肉欲忌避の戒律で自己の内面を律する教義を廃して、代わりにイスラム共同体を拡大したり聖戦を戦うというような「魔術の倫理」としての画期的な思想的飛躍が可能になったのでした。すなわち、イスラム教においては「信仰共同体と生活共同体の一致」「聖戦思想」「貨幣経済の浸透(金への信仰)」という思想は不可分の関係にあるわけです。
もちろん、これらは取扱いを誤ると大変な逸脱や退廃を引き起こす危険思想であり、この「魔術の倫理」を突きつめた危険思想はイスラム教においては本質部分ではありますが奥儀であり、むしろ表面的なイスラム教というものは、こうした奥儀である「魔術の倫理」の部分が暴走しないように制御するための「統治の倫理」や「市場の倫理」の壮大かつ緻密な体系であるといえるでしょう。特に貨幣経済については禁欲の体系である「統治の倫理」では制御困難であったので、自然に「市場の倫理」によって制御されるようになっていき、イスラム教においては「統治の倫理」よりも「市場の倫理」の部分のほうが発達するようになっていったのでした。

こうしたイスラム教が7世紀初頭にアラビア半島に生まれ、そのイスラム共同体拡大の聖戦思想という攻撃性をもって630年頃にアラビア半島を統一し、この7世紀前半において互いに激しく争って疲弊していたササン朝ペルシアと東ローマ帝国という2つの旧時代の帝国に襲いかかることになるのです。疲弊した上に「統治の倫理」の均質化によって既に世界帝国としての資質を失っていたササン朝と東ローマ帝国はイスラム教の攻勢の前に領土を維持することは出来ず、ムハンマドの後継者(預言者の代理人)であるカリフの2代目であるウマルの時代の640年代にはイスラム共同体は東ローマ帝国からシリアとエジプトを奪取し、ササン朝からはメソポタミアを奪って王朝を滅ぼし、ササン朝の残存勢力はイラン高原に亡命しました。ササン朝の国教であったゾロアスター教も東ローマ帝国の国教であった正教会も共に均質化された「統治の倫理」と一体化してしまっていたため世界宗教としての力を失っており、「市場の倫理」が発達した新たな世界宗教であるイスラム教の浸透を阻止することは出来なかったのでした。
ウマルはこの新たに獲得した先進文明地帯を統治するためにササン朝の中央集権官僚制を引き継ぎ、アラブ人イスラム教徒が官僚と軍人となって統治にあたるアラブ帝国を建設します。これによって都市における貨幣経済体制がアラブ帝国全域に広がり定着していくことになるわけですが、この中央集権官僚制の採用はササン朝末期と同じように「統治の倫理」の均質化を招き、アラブ帝国の世界帝国としての資格にいささか傷をつけて内乱を招くようになり、そのためにこの後650年代以降、イスラム教はスンニ派とシーア派に分裂して争うようになり、分裂の萌芽が生じることになりました。
ただ、それでもアラブ帝国は初期の4代の正統カリフ時代を経てカリフを世襲化したウマイヤ朝の時代になっても順調に世界帝国として領土を拡張していきました。中央集権官僚制を採用してもササン朝の場合と違ってアラブ帝国の世界帝国としての資格はそれほど損なわれなかったのは、ササン朝の国教であったゾロアスター教がササン朝末期には他宗教に対して不寛容であったのに比べて、イスラム教は他宗教をあまり弾圧しなかったからでした。しかし、イスラム教は現世の神々を「偽の神」と見なす「魔術の倫理」であり、実際「偶像崇拝」を固く禁じる教義を持っているのですから他宗教に対して不寛容であるはずなのです。それがこのアラブ帝国においては他宗教に対しては割と寛容(もちろん平時の統治下でという意味であって聖戦の相手としての場合は徹底して不寛容だが)であったというのは特殊な事情によるものでした。
それはアラブ帝国が統治階級であるアラブ人イスラム教徒の官僚や軍人に支払う給与の財源が非イスラム教徒に課される税金であったからなのです。つまり、もしアラブ帝国の全住民にイスラム教への改宗を強制したりしてアラブ帝国から非イスラム教徒がいなくなってしまったりしたら困るのはアラブ帝国政府自身なのです。そういった事情があったため、本来は他宗教に不寛容であるはずのイスラム教が他宗教に対して改宗の強制などもせず、他宗教の文化や共同体を保護するようになったのです。これによってアラブ帝国においてはイスラム共同体以外にも他宗教や非アラブ人の共同体が混在するようになり、多様な「統治の倫理」が共存するようになり、アラブ帝国は世界帝国としての資格を有するようになったのです。

世界帝国とは多様な「統治の倫理」を連結させる力を持つ「市場の倫理」を有する帝国であり、アラブ帝国はアラビア半島、シリア、エジプト、メソポタミアにおいてもともと存在した多宗教や多文化状態に基づく多様な「統治の倫理」をイスラム教において発展した「市場の倫理」で連結することで成立した世界帝国であったのです。そして、同じように多様な「統治の倫理」の乱立する状況でありながらそれらを連結する「市場の倫理」を欠いた地域はそうした世界帝国の進出を求めるようになるもので、アラブ帝国に隣接したそうした多文化地域はアラブ帝国の進出を受け入れていきました。
まず650年代にはもともと多神教文化地域であったイラン高原がササン朝という世界帝国の「市場の倫理」を失った後、新たな「市場の倫理」としてイスラム教を求めてアラブ帝国に組み込まれました。こうしてアラブ帝国は東方国境で突厥とインド諸王朝と接することとなりましたが、中央アジア方面は多文化状況にありましたが伝統的に遊牧民特有の「市場の倫理」によってまとまっており、最初は突厥がプレゼンスを及ぼしており、次いでやがて大唐帝国が世界帝国として「市場の倫理」を提供してまとめていったので、しばらくはイスラム教を「市場の倫理」として必要とする状況にはありませんでした。また、インド地方も多文化状況にありましたが、この7世紀時点では既にそれら多様な「統治の倫理」がヒンズー教という更に大きな「統治の倫理」のもとに再編されてまとめられていきつつあり、「市場の倫理」であるイスラム教による連結を必要とする状況ではありませんでした。そういうわけでアラブ帝国の東方進出はパミール高原とインダス河のラインでひとまずストップすることになります。ただ中央アジア方面には宗教としてのイスラム教の布教は進み、7世紀中頃には唐の首都の長安にもイスラム教は伝播しています。
一方、アラブ帝国の西方には東ローマ帝国がありましたが、東ローマ帝国はもともとオリエント特有の多神教の伝統のあったシリアとエジプトはアラブ帝国に奪取されましたが、残ったアナトリア半島とバルカン半島地域に関しては強固な正教会の支配下にあり、正教会の長年にわたる異教への迫害のせいでもともと文化の多様性が失われており、「統治の倫理」も東ローマ皇帝専制体制という全く単一のものとなっていました。つまり世界帝国の進出を求めるような状況ではなく、アラブ帝国の進出を拒絶することになりました。そこでアラブ帝国としては東ローマ帝国に対しては力攻めすることになり、8世紀末まで東ローマ帝国はイスラム勢力の熾烈な攻撃に晒されることになりますが、東ローマ側もよく戦い、なんとかアナトリア半島とバルカン半島の版図は維持することになります。

アラブ帝国が最も目覚ましく領土を拡大したのはその東ローマ帝国と地中海を挟んだ対岸に位置したエジプトから西へ延びていく北アフリカ方面で、7世紀中頃にエジプトから西進を開始して7世紀末には北アフリカの太平洋岸に到達したのでした。どうしてこの地域でアラブ帝国の進出が目覚ましかったのかというと、北アフリカは西ローマ帝国の解体以降、マニ教やキリスト教異端派やその他の土着やゲルマン諸族の多神教など、長年にわたって様々な宗教の混淆状態であり、それらをまとめる「市場の倫理」が全く不在の状態であったから、イスラム教を多様な「統治の倫理」を連結させる「市場の倫理」として歓迎したからでした。
この北アフリカとほぼ同じような状況にあったのが当時の西ヨーロッパで、西ローマ帝国解体以降は多様な「統治の倫理」がバラバラに存在し、それらをまとめる「市場の倫理」を全く欠いた状態であったのであり、世界帝国であるアラブ帝国の進出を受けやすい状況にありました。その西ヨーロッパとジブラルタル海峡を挟んだ北アフリカ西端の地までアラブ帝国が進出してきたのが7世紀末のことで、8世紀に入るとアラブ帝国はジブラルタルを北へ越えて西ヨーロッパの南西端にあるイベリア半島に進出し、720年までにイベリア半島をイスラム化して続いてフランス南部へ進出してきましたが、732年にフランス南部のツールとポワチエの地においてゲルマン民族の一派であるフランク族の諸侯連合軍がアラブ軍に対してほとんどマグレ的な大勝利を収めて、ここで一旦、アラブ帝国の進出は止まりました。

ただ、アラブ軍の進出が止まったのは局地戦の偶然的な敗戦のみが原因であったのではなく、この頃からアラブ帝国内部で争いが頻発するようになり、外征どころでなくなっていったからでした。どうしてアラブ帝国内部で争いが起きるようになったのかというと、発端はウマイヤ朝成立時に遡るスンニ派とシーア派の根深い対立にイスラム共同体における有力氏族間の勢力争いが絡んだものでしたが、それが帝国を揺るがす大きな争いに発展するようになったのは、非アラブ人のアラブ人に対する不満がそれに結びついたからでした。
それがどういう不満なのかというと、先述の非イスラム教徒に特別に課せられる税金と、アラブ人以外は支配階級になれないことへの不満でした。特にそうした不満はもともとササン朝の支配階級であったイラン人に根強く、アラブ帝国を揺るがす大動乱はイランの地を震源として起こってくることになります。
イスラム教の建前としてはイスラム共同体を拡大していくことこそが正義であるはずなのですが、現実にはアラブ帝国内には非イスラム共同体が温存されていないと支配階級のアラブ人の特権を維持できないために、非イスラム共同体が温存されていました。これは非イスラム教徒にとっては有難いことのようにも思えますが、実際のところは非イスラム教徒の非アラブ人たち、たとえばイラン人なども帝国の支配原理であるイスラム教に改宗して支配階級に入りたいと考えていた人が多かったのに、アラブ人以外のイスラムへの改宗はあまり歓迎されず、改宗したとしても支配階級には入れないというのがアラブ帝国の現実でした。
しかしイスラム教というのはムハンマドに下されたアッラーフの啓示にも明らかに述べられているように、アラブ人のみのための教えなのではなく、全世界の人間に対して下された教えのはずなのですから、非アラブ人の改宗は当然歓迎されるべきことであり、全人類はイスラムの教えの前に平等であるはずでした。だからアラブ帝国の現状に対する非アラブ人の不満はイスラム教的に全く正当なものでした。
そうした状況に対するイラン人の不満が鬱積して、アラブ人支配階級内の勢力争いに結びついて爆発したのが750年のアッバース革命で、これによってウマイヤ朝アラブ帝国は倒れてアッバース朝イスラム帝国が始まります。
このアッバース朝イスラム帝国においては、革命の成り行きからして当然のことですが、非アラブ人もイスラム教に自由に改宗して支配階級となることが出来るようになりました。特にイラン人が高級官僚となることが多かったようです。イスラム教の経典類は「クルアーン(コーラン)」をはじめとして全てアラブ人の言語であるアラビア語で書かれており、イスラム帝国の公用語はアラビア語でしたから、イスラム教に改宗して支配階級となった非アラブ人もアラビア語を使うようになり、そうしていくうちに、それまではアラビア半島に住んでいた特定の遊牧民や商業民を指していた「アラブ人」という概念が、「アラビア語を話す人々」という広い意味で使われるようになり、イスラム帝国の住民はその大部分が広義でのアラブ人となっていきました。
帝国内の非イスラム教徒に対する特別税は継続されましたが、非アラブ人でも自由にイスラム教徒になることが出来るわけで、イスラム教に改宗さえすれば租税面でもアラブ人も非アラブ人も平等になるわけですから、不満はほとんど解消されました。そして、そうした特権階級を無くした帝国の統治を遂行していくためにはウマイヤ朝時代よりも更に徹底した中央集権官僚制とカリフの権威の神格化が必要とされ、イスラム帝国はササン朝時代のような中央集権国家となっていきました。そういうわけで必然的にイラン人官僚が多く登用されるようになったというわけです。

このアッバース朝のもとでイスラム帝国は8世紀後半から9世紀初頭にかけて空前の繁栄を達成することになります。しかしアッバース朝成立と同時に世界帝国としてのイスラム帝国は揺らいでいくことにもなります。それは、非アラブ人でもイスラム教に改宗して支配階級になることが出来るという、画期的な「イスラムの平等」の実現によって、支配階級と被支配階級の間の差が無くなり、帝国内の文化の多様性が失われて全てがイスラム化されて均質化していったことによって、「多様な共同体を連結する」という世界帝国を維持する意味が失われていき、イスラム帝国は1つの政府のもとで世界帝国を維持していく必要性が薄れていったのでした。
実際、アッバース朝成立と同時にウマイヤ朝の末裔がイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を立て、さっそくイスラム帝国は分裂し、次いでモロッコのイドリース朝も分立し、イラン東部も半独立勢力が統治するようになります。9世紀に入るとチュニジアにアグラブ朝が興り、またイスラム帝国のカリフ位を巡る内戦が起きて、それに加担した各地の勢力が自立傾向を見せ始め、821年には中央アジアからイラン東部にかけてターヒル朝が興りました。こうした分立傾向は9世紀後半になるといっそう強まり、エジプトにトゥールーン朝、イラン東部にサッファール朝、中央アジアにサーマーン朝などが自立するようになりました。
このように、イスラム帝国の内部には独自の統治を行う王朝が分立していくようになり、そうした諸王朝の上にアッバース朝のカリフが宗教的権威として君臨するという形になっていきました。これはアッバース朝の「イスラムの平等」の実現によって均質化したイスラム帝国が内部の多様性を欠くようになったために世界帝国として維持していくことが困難になったので、このように各地に独自の王朝が分立して多様な「統治の倫理」を帝国内部に発生させて新たな多様性を生み出していったのだといえるでしょう。そうして新たに発生した多様な「統治の倫理」を連結する「市場の倫理」としてカリフを中心としたイスラム教は機能していくようになったのでした。このようにして内部に王朝を多数抱える極めて緩やかな連帯を特徴とした世界帝国としてイスラム帝国は発展していくことになるのです。
そして10世紀にはイスラム帝国の中枢にあたるオリエント世界もブワイフ朝、ハムダーン朝、イフシード朝、ファーティマ朝などの諸王朝の支配地に分割されるようになり、アッバース朝のカリフはブワイフ朝の庇護化に僅かに勢力を維持する存在となりますが、イスラム教をまとめる権威としては機能しており、そういう意味では世界帝国としてのイスラム帝国は健在であったといえます。
こうしてイスラム教の教えのうち、「統治の倫理」の部分は各地の「統治の倫理」と習合してそれぞれ独自の形となっていき、イスラム帝国全体に通用する価値観としては「市場の倫理」が強調されるようになっていきました。それはイスラム商人の活動する交易ルートの保障のためのルールとして普及していったのでした。そして、「市場の倫理」は真理の探究を旨とし、進取の精神に富んでいるので、帝国内の各地の多様な文化が交易ルートで連結されることで新たな文化や学術的成果を生み出していったのでした。特にアッバース朝成立以降に東ローマ帝国領内から弾圧を逃れて多くの古代ギリシャや古代ローマの文献が輸入されるようになりました。排外的な「統治の倫理」の傾向が薄らいだイスラム教は他宗教や異文化に対して寛容になっていたので、こういうものも受け入れるようになったのでした。それらが10世紀から11世紀にかけてイスラム科学として集成されていくようになり、これが後にヨーロッパに導入されるようになるのです。

しかし、こうして内部に幾つもの王朝を分立させていったとしても、それが「イスラムの平等」という大原則に則っている以上、結局はそれぞれの王朝の内部でもやはり価値観の均質化は進み、多様性は失われていくのであり、そうしたイスラム帝国が世界帝国であり続けるためには、更に新しい異分子を帝国内に取り込んで多様性を維持していく必要がありました。そのためイスラム世界は更なる拡大を志向するようになり、主に中央アジア方面に拡大していくようになりました。
どうして中央アジア方面なのかというと、アッバース朝成立とほぼ同じ時期の8世紀中頃に唐で安禄山の乱が起こって、これによって大唐帝国の世界帝国としてのプレゼンスが低下して、中央アジアの多様な「統治の倫理」を連結する「市場の倫理」が欠けるようになり、イスラム教の「市場の倫理」の有用性が高まるようになったからでした。大唐帝国に代わって北アジアから中央アジアを支配したのはトルコ系のウイグル帝国でしたが、9世紀中頃に北方から攻めてきたキルギスに敗れたウイグル人は北アジアを追われて中央アジアのタリム盆地に移動し、そこでトルコ系住民をまとめていくことになりましたが、ウイグル人のプレゼンスの低下は否めず、こうした動きの間にもタリム盆地のトルコ系住民の間に新たな「市場の倫理」としてイスラム教は浸透していきました。ウイグル帝国はマニ教を国教としていましたから、このタリム盆地のトルコ人たちにもマニ教信者は多かったと思われ、イスラム教はマニ教を改良したようなものであったので、マニ教からイスラム教への改宗はあまり抵抗が無かったのではないかと思われます。
このようにして新たに多くの中央アジアのトルコ人たちがイスラム教に改宗するようになり、この新たな異分子の一部はイスラム帝国内に移住していき主に諸王朝の軍事力として働き、イスラム帝国の多様性を維持していくことになるのです。また、タリム盆地のイスラム教に改宗したトルコ人たちは10世紀中頃にカラハン朝を興し、ウイグルの支配を次第に押しのけてタリム盆地を制圧していきます。またカラハン朝の西のサーマーン朝に仕えていたトルコ人イスラム教徒の軍人が自立してガズニ朝を興し、10世紀末にはこのガズニ朝とカラハン朝とでサーマーン朝を滅ぼして中央アジアからイラン東部を制圧するようになり、更に11世紀に入るとガズニ朝がインダス河を越えてインド方面へ進出していくようになり、インドのイスラム化が開始されます。こうしてイスラム帝国は更に拡大し多様化していくようになりました。

この中央アジアの西部から勢力を拡大したトルコ人イスラム教徒のセルジューク族がカラハン朝やガズニ朝を破って勢力を拡大した後、部族ごと西遷して11世紀中頃にブワイフ朝を滅ぼしてバグダッドを制圧してセルジューク朝(セルジューク・トルコ)を開き、アッバース朝のカリフを庇護下に置いてスルタンを名乗って、11世紀終盤にはイラン、メソポタミア、シリア、アナトリアに及ぶ領域を支配する大帝国を建設し、イスラム世界の覇者となります。しかしこのセルジューク帝国もまた各地にセルジューク族の有力者が王朝を立ててスルタンに臣従するという分権的な帝国であったのであり、多様な「統治の倫理」を連結する「市場の倫理」としてのイスラム教の権威であるカリフと、そのカリフの下で実権を握るスルタンが存在するという支配形態で、これは基本的にイスラム帝国の支配形態を引き継いだものであったのでした。
こうしたイスラム帝国の支配体制が最終的に崩壊するのは、13世紀中頃にモンゴル帝国の侵攻によってセルジューク朝が滅び、アッバース朝のカリフが廃された時のこととなります。その後のイスラム世界はイスラム帝国のようなカリフを中心とした「イスラム教によって多様な王朝を連結する世界帝国」という支配形態を持つことはありませんでした。
アッバース朝のカリフの末裔はモンゴルの支配を受けなかったエジプトのマルムーク朝に庇護されてその系譜は維持されますが、マルムーク朝は単なる地方政権に過ぎず、そのカリフとしての位は全く名目的なものに過ぎず、そのマルムーク朝も16世紀にオスマン・トルコによって滅ぼされ、その時にカリフも廃されています。また14世紀末から15世紀末にかけてオリエントに覇権を確立したチムール帝国はイスラム教徒を主体とした帝国ではありましたが、あくまで「モンゴル帝国の後継国家」でありましたし、16世紀以降にインドに強大なイスラム王朝を築いたムガール帝国はこのチムール帝国の後継国家でした。また16世紀にイランに建国されたサファヴィー朝はシーア派神秘主義教団の作った地方政権に過ぎませんでした。
そして、最後のイスラムの大帝国であったオスマン・トルコも実際は13世紀末にアナトリア半島において建国されて以降の200年ほどは主にその進出先はバルカン半島方面であったのであり、東方や南方に進出してメソポタミアやエジプト、北アフリカなどを獲得したのはチムール帝国滅亡後の16世紀になってからなのです。そのため、実はオスマン・トルコ帝国はバルカン半島の正教会の信者の取り込みを図るために初期から「ローマ帝国の後継国家」を標榜しており、イスラム教のみを支配原理とした国家建設を行わず、イスラム教と正教会を包摂した支配原理を持った帝国であったのでした。

こうした時代を経た現在、ムハンマドの時代のイスラム共同体やその発展形であるイスラム帝国のような「イスラム教を支配原理とした世界帝国」という支配体制に回帰しようという考え方がイスラム世界で復興してきており、これがイスラム原理主義なのです。しかし、現代においてまさかアラブ帝国のように異教徒を被支配階級として差別的待遇とすることも出来ないであろうことを考えると、イスラム教を支配原理とする以上、「イスラムの平等」によって領域内の価値観の均質化は避けられず、そのために世界帝国を維持することは困難であり、その解決策としては、あくまでイスラム教は「市場の倫理」としてのみ使い、「統治の倫理」はそれぞれ地域別に出来るだけ多様化するようにするということになります。だからイスラム原理主義に基づく新たなイスラム帝国はイスラム的な「市場の倫理」に基づいた緩やかな国家連合という形となるしかないのですが、現在のイスラム原理主義グループの中にはそうした方向性とは異なるものも多いように見受けられ、なかなか今後も大変そうであると思えます。
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この記事に対するコメント

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【2008/09/18 00:24】 | # [ 編集]


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【2008/10/11 00:54】 | # [ 編集]


4.
突然変異と奇形と進化と本能の獲得について、
現在の進化論と摺り合わせながらよく考える事をお勧めします。

科学は合理的な体系であり、最も信頼できる判断基準ですが、
科学者の言葉を鵜呑みにしない事をお勧めします。
「不確定性原理」、「不完全性定理」、「悪魔の証明」、「オッカムの剃刀」や、その他科学の方法論、
科学の中の権威主義を調べ思巡する事をお勧めします。
全ての「絶対」は、「或る判断基準」を仮定した上で、
更にその基準が正しいと仮定した上での「相対的な絶対」であると言う事を頭に留める事をお勧めします。

「ジークムント・フロイト」について調べることをお勧めします。

「シオン議定書」についてその内容まで調べることをお勧めします。

【2008/11/01 13:22】 URL | 虹の蛇 #- [ 編集]


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【2008/11/13 22:37】 | # [ 編集]


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【2008/11/26 18:06】 | # [ 編集]


【2008/12/02 01:52】 URL | 57 #- [ 編集]


女って本気で逝く寸前、おマ○コぶるぶる震えんのな!ww
汁が顔面直撃してビビったわ!!まぁ報酬プラス1万してくれたから別にいいけどwww
http://hevry.net/m_wo/8eix6nh

【2008/12/03 17:00】 URL | ど田舎男 #JDns9Z/Y [ 編集]


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【2008/12/31 00:22】 | # [ 編集]



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