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現代史についての雑文その1  前置き
さて、久しぶりにブログを再開しますが、「日本史についての雑文」の連載をしばし中断しまして、現代史について色々書いてみたく思います。少し時代的には飛んでしまいますが、これが一段落したら、また「日本史についての雑文」の続きを書きます。ではここから「現代史についての雑文」というタイトルでやっていきますが、まずはその前置きを少し書きます。今回、未曾有の金融危機が起きまして、これがおそらく歴史の大転換期の始まりとなるでしょう。そこで歴史の大きな流れをふまえて今後の日本を考察してみました。これがそもそも私が「日本史についての雑文」を書いている動機ですから。すると、やはり現代史について整理していかないといけないと思うようになったのです。そういうわけで、今のペースではおそらく遥か先に書くことになったであろう現代史部分を先に書くことにしました。これからしばし「現代史についての雑文」を書くことになった理由がそれで、その結論に至るまでの最初の考察部分が今回掲載する前置き部分ということになります。
日本は一国家で一文明である特殊ケースといわれますが、これが誤解なのです。確かに日本列島に日本文明といえるような特異な文明が存在したのは確かですが、日本列島において1つの統一国家が存在していた時代は奈良時代と近代以降のみです。近代以前はずっと複数の国が存在していたようなもので、それゆえ日本文明は他の文明と同じように活力あるものであったのであります。それに国家が分裂しているほうが文明の求心力も維持されやすくなるものです。国家が分かれてしまっているからこそ日本文明なるものへの考察が生まれます。その日本文明の中心には天皇がいるということです。近代以降、国家と文明が一致してしまったので天皇の位置づけがおかしくなってしまいました。だいたいこの人口規模で中央集権の民主政治というのが難しいのではないでしょうか。日本は昔からインドネシアと並んでアジアで有数の人口密集地帯なのです。国土は狭いがそもそも1つの国にまとまるのが適当ではないのです。

元来、日本列島には大小さまざまな国があり、それぞれの国を支配していたのが豪族ですが、実質的には王というべき存在で、その大小の王国の同盟の盟主が大王でした。大王は最も大きな国の王であったのです。そこに唐の勢力拡大によって朝鮮半島が唐の勢力下に入り、日本列島は唐の脅威に晒されました。それに対抗するために7世紀後半に大王を中心にした中央集権国家を作ったのが日本という国の始まりで、この時に大王は天皇と名乗るようになり、日本列島の土地や人民を一元支配するようになりました。豪族は土地や人民を天皇に譲渡して天皇の下で官僚として仕えるようになりました。近代以前において日本列島を一元支配したことのあるのはこの時の天皇のみであり、だから日本列島の最高支配者は天皇ということになります。
しかし8世紀後半以降、次第に唐が弱体化するにつれて日本の中央集権制も緩んでいき、中央政府の実力者であった貴族たちや寺社などが私有地を保有するようになっていきました。そして9世紀に入って実質的に唐の脅威が消滅したことを受けて中央集権制は崩壊し、その後は各地方の出先機関がほとんど独自に現地の豪族と共同で各地を統治し、そこからの上納物で形骸化した中央政府を維持するようになりました。その各地の公領とは別に貴族や寺社の私有地である荘園が増えていくようになり、11世紀ぐらいには日本全国はほとんど荘園だらけになり公領がほとんど少数派となったため、中央政府は実質的には破綻し消滅しました。荘園領主が実質的な日本の支配者であり、それぞれの荘園領主は自分の領地では王のようなものでした。そうした王達が集まって合議で政治を行う場が形骸化した中央政府たる朝廷でしたが、その中心に祭り上げたのが天皇で、それは神仏習合の日本独自の宗教の祭主として権威ある存在であったからであり、その権威に寄生して官位や知行を得て荘園獲得につなげようというのが貴族たちの実態でありました。
政治的には貴族たちの合議政治で、天皇は支配権はほとんどありませんでした。日本列島は貴族たちの荘園に細分化されて統治されていました。言ってみれば朝廷は貴族たちの連合政府で、その祭主が天皇。貴族は武力で領国を得るのではなく中央政府での地位などによって公の支配からの免除特権を得て荘園や財物が集まるようにしていたので、貴族の寄生先として中央政府はまだ意味はありました。だから中央政府には統治能力は無いにもかかわらずこの時代は中央政府における権力闘争は熾烈でした。その権力闘争に勝ち抜いて栄華を誇ったのが天皇の外戚となることで中央政府での官位を独占した藤原氏でありました。

ところで9世紀以降、中央政府の崩壊と共に常備軍も消滅して各地の治安が維持出来なくなってしまったので、有力農民などが自力で武装して自衛するようになり、10世紀になるとそれら武装農民をまとめて各地の地方政府から委託を受けて治安維持にあたる武士が現れるようになりました。武士団の大部分は武装農民の出自だったが、いわゆる武家として朝廷に公認されて武士団の統率にあたったのは、中央政府で出世できなかった貴族の子弟などでした。これら武家は地方政府から活動地に所領を与えられて、そこを拠点に地方政府からの治安維持任務を請け負いつつ、家業として武技を伝え、弟子をとって武士団を拡大していきました。この武士団が荘園制の進展につれて荘園領主の家来のようになっていき地域で勢力を拡大していき、11世紀後半から藤原氏に対抗して勢力を伸ばした院の勢力がこの武士団を積極的に活用したため、武士は独自の所領を増やして急速に勢力を拡大していったのです。
12世紀後半には最初の武家政権である平氏政権が出来ましたが、これは従来の貴族政権と同質のもので、朝廷の官位を平氏一門が独占して、その権威を背景にして全国に大量の荘園を得るという寄生虫的手法の域を出ませんでした。この平氏政権を打倒した源氏を中心とした東国武士団は12世紀末に源氏の棟梁を征夷大将軍として東日本に独立政権を樹立することを朝廷に認めさせました。これは東日本においては将軍が独自の裁量で配下の武士に所領を分け与えることが出来るもので、中央政府の権力闘争に参加して朝廷で出世しなくても独自に権限を振るうことが出来るという意味で画期的なものでした。また東日本の武士領以外の荘園においても将軍配下の武士は地頭や守護として警察権や徴税権を行使することが出来るようになり、東日本全体を実質的に支配下に置くようになったのでした。こうして東日本には将軍を頂点に戴いた鎌倉幕府という完全自己完結型の地方政権が生まれたのです。
ただこの鎌倉幕府にしても東日本が将軍によって一元支配されていたわけではなく、東国武士団の連合政権であり、それぞれの武士の所領は自治領のようなものでした。源氏の将軍家は3代で滅びて、藤原氏から傀儡の将軍を迎えて、その後は東国武士団が合議で幕府を運営していきました。いわばミニ朝廷のようなもので、それゆえ武士同士の幕府内権力闘争が頻発しましたが、こちらは武力衝突を伴うものでありました。そうした権力闘争を勝ち抜いたのが将軍の補佐役として幕府の実権を握っていた北条氏で、13世紀後半のモンゴル軍の来襲を契機に一気に北条氏独裁体制を固めて他の武士を圧迫するようになりました。同時にモンゴル来襲後は西日本にも幕府の権限が及ぶようになったため、幕府所属の武士と西日本の貴族や寺社の荘園やその所属の武士との間でトラブルが頻発するようになったのでした。また鎌倉時代を通しての貨幣経済の普及の結果、新たに勃興してきた商人階級と貴族や武士など既存支配階級との間にもトラブルが起きるようになり、商人勢力と結びついた武士の勢力も生まれるようになっていきました。
北条氏が一時的に中央集権に近い体制をとることが可能になったのはモンゴル来襲という外敵の脅威を受けてのことでした。また外敵の脅威は日本という文明の一体感を強め、神仏に戦勝を祈願し、たまたま暴風雨でモンゴル軍の撃退に成功したため、神風信仰が生まれ、神国思想が生まれました。これが生き神としての天皇への求心力を高める結果となったのです。モンゴル来襲以後、中央集権的傾向と天皇の復権が起こったことになります。

こうした情勢の中、14世紀前半に天皇による一元的な中央集権制の復活を目指して倒幕の動きを起こしたのが後醍醐天皇でありますが、幕府や北条氏に不満を持つ全国の武士がこれに呼応して鎌倉幕府は滅びました。しかし、これは武士の力で成し遂げられた倒幕であり、また中央集権への流れもモンゴル来襲後の一時的なものであったので後醍醐の目指した天皇親政は一時的なものに終わり、源氏の末裔の足利氏を将軍に戴いた室町幕府が京都に開かれることになりました。後醍醐の勢力は吉野に逃れ、全国の武士団は南北朝の陣営に分かれて争うことになりました。武士のための政権は幕府のほうであったので多くの武士は幕府側につき、常に幕府側が優勢ではあったが、それでも吉野側につく武士もおり、戦乱は50年間ほど続きました。これは武士団同士の利害関係の絡んだトラブルが表面上は南北朝の争いという形で各地で続いたからであります。
室町幕府は鎌倉幕府とほぼ同じ統治形式で、各地を支配する武士団の連合政権でした。鎌倉幕府と違った点は、室町幕府の場合はその支配権は全国に及んでいたという点と、各地を守護として支配する有力武士が南北朝の争乱を経て周囲の中小武士を配下に組み込んで大きな武士団を形成して守護大名化し、その強大な武力を背景に支配地にある貴族や寺社などの荘園を侵食して実効支配を進めていき、商人勢力への統制も強めて任国を一元支配するようになっていったことです。こうして守護大名はより確固とした地方政権となっていったのであり、そうした守護大名の利害調整的な合議組織、連合政権が室町幕府の本質でありました。
ただ守護大名の権力の源泉となっていたのは、あくまでまだ鎌倉幕府の場合と同じく将軍による守護の任命であったので、彼らは京都に置かれた室町幕府の政庁内において常に権力闘争に勝利する必要に迫られることになりました。そのため守護大名は京都に張り付くことが多くなり、領国の実際の経営はそれぞれの土地で配下に組み込んだ土着の地侍たちに任せており、商人への統制なども十分なものではありませんでした。
そうした中、15世紀の中頃から小氷期に入ったために各地で飢饉が深刻化し、農村において水源や土地を巡っての争いが頻発するようになりました。そのため農村は自治を進め武装するようになっていったのです。この自治農村は地侍や商人勢力などとも手を結んで守護大名や幕府に様々な訴えを起こすようになり、それが容れられない場合は一揆も起こすようになっていきました。こうして守護大名の領国経営は足元から揺らぐようになっていき、それにつれて守護大名家内部での地侍間の勢力争いも激しくなっていったのです。

そうした中、室町幕府内の権力闘争に複数の守護大名家の内紛が絡んで京都を舞台に応仁の乱という大乱が起きて、その結果、15世紀末には足利将軍家の権威は地に墜ちて、その権威を後ろ楯にしていた守護大名による領国経営も破綻することになりました。代わって自治農村の支持を得た地侍層を巧みにまとめて家臣に組み込んでいった土着の有力武士が戦国大名となり、将軍や朝廷の権威などとは全く無関係に自立した地方政権を打ちたてて、領国を強固に一元的に統治していくようになりました。
こうした戦国大名が各地に割拠し、配下の地侍同士の土地や水を巡る争いに起因して相争う時代がおよそ1世紀続くのですが、これら戦国大名の領国はそれぞれが完全に自己完結していたため、戦国大名たちは自らの領国を富ませることに腐心し産業を振興しました。そのため各地の物産が豊かに多彩になり、それを売買する商人の活動が活発になっていったのでした。戦国大名たちはそうした商人の活動を統制し各所に設置した関所などで数々の税を徴収して利益を上げていったのです。
しかし商人たちは物産が豊かになるほどに自由な商業活動を欲するようになり、またその恩恵は農民や武士も含む全ての民も潤すものであったので、商業活動の自由を求める気運が高まりました。そうした気運に乗って16世紀終盤に畿内を支配下に置いた織田信長は支配地内の商業活動を自由化することで商業を振興して大きな富を生み出し、ちょうど全国で掘り出されるようになっていた金銀を支配地に引きよせ、その金銀を使って、これもちょうど日本にやってくるようになっていた南蛮船との交易を盛んにして莫大な利益を手中にしました。その莫大な財産を使って信長は兵農分離を押し進め常備軍を編成し、他の戦国大名を圧倒して天下統一を進めていったのです。
信長の目指したものは武士を生産活動や商業活動から引き離して軍事官僚化して配下に置き、生産活動や商業活動を自分の下に一括して管理する絶対王政のようなもので、日本全土を自分の下に一元支配する中央集権制でありました。信長は志半ばで倒れましたが、その遺志は家臣の豊臣秀吉に引き継がれ、16世紀末には秀吉によって天下は統一されました。
といっても、秀吉による天下統一は信長の目指した絶対王政の段階にはまだ達しておらず、多くの戦国大名の領地はそのままで、単に戦国大名が秀吉に臣従しているだけのもので、豊臣政権は戦国大名の連合政権に過ぎませんでした。中央集権制というのは外敵との戦いを意識して初めて機能する制度であって、かつての奈良時代の中央集権制もそうでした。信長も海外進出を企図しており、外征と連動して絶対王政を実現しようとしていました。信長の事業を引き継いだ秀吉は明国征伐という形で外征を実行に移し、これを達成することで豊臣政権を中央集権制の絶対王政の形に変容させようと企図していましたが、この外征は軍事的に失敗に終わりました。

これによって大名連合政権から脱皮出来なかった豊臣政権は、この軍事的失敗で動揺し、秀吉の死後、分裂して崩壊してしまいました。その混乱の中で関ヶ原の戦いに勝って主導権を握った徳川家康は東日本の主要な土地をほぼ手中に収め、17世紀初頭に征夷大将軍となって根拠地の江戸に幕府を開き、全国の武士の頂点に立つことになりました。江戸幕府が鎌倉幕府や室町幕府と違う点は、武士団や諸大名の連合政権ではなく、あくまで徳川氏の独裁政権であったという点です。諸大名の力を借りる必要が無いほど徳川氏の実力が圧倒的であったからそれが可能でした。そういう意味で江戸幕府は中央集権的志向を持った政権であったのです。
ただその一方で諸大名の領地は西日本や遠隔地においてそれなりに残されており、独自の統治は許されていました。これは家康が秀吉の外征の失敗が政権を崩壊させたのを見て教訓とし、外征を自制したため、中央集権制を急速に徹底させることが出来なかったからであります。しかし兵農分離によって武士は生産活動や商業活動から切り離されて官僚化し、商業活動は幕府がほぼ一括管理したため、諸大名は幕府に逆らう力を持つことは出来なくなっており、幕府は外征ではなく交易活動によって海外進出を策して、幕府の実力を更に上昇させ諸大名を取り潰していったり海外に移転させていったりして、徐々に中央集権制を完成させていくつもりでありました。状況が許せば外征もするつもりはあったでありましょう。
しかし家康の死後、しばらくすると海外における西洋諸国の勢力争いと諸大名の力が結びついて幕府に反抗することを恐れて交易は制限されるようになっていき、それに伴って中央集権制の徹底の志向も薄らいでいきました。こうして17世紀前半には幕府による制限的な管理貿易体制が完成し、外敵を意識しての中央集権制の構築の大義は失われました。それでも幕府は徳川氏による絶対的な独裁制が完成しており、幕府が諸大名に対して圧倒的な力を誇っていたので諸大名の取り潰しなどは続けられましたが、大義なき大名苛めは浪人を増加させて社会の平穏を脅かすこととなったので、17世紀後半以降は大名の取り潰しはほぼ無くなり、国内枢要地を治める幕府と地方政権としての諸大名が併存する体制に落ち着きました。諸大名は幕府とは全く別の統治を支配地で行い、幕政には全く参画しないが、将軍の臣下として従うという形であります。

この江戸時代において、幕府支配地であれ大名支配地であれ、武士は行政官僚化して農村から離されて城下町に集められたため、農村は農民の自治によって管理され、商業に関しては幕府や大名主導で全国に流通網が整備されていき、産業が振興されていきました。言うなれば、全国一律の中央集権制は実施されなかったが、それぞれの地方の天領や藩単位では中央集権制が敷かれ、それらが幕府が築いた経済インフラによって経済共同体として結びつきつつ、地域間競争をしていくという形でありました。特に貨幣経済が完全に浸透したために領主側の財政が破綻するようになってしまった18世紀以降は財政立て直しのために各地で産業振興が積極的に図られるようになり、それに伴って各地方の経済活動は非常に活発になっていきました。ただ、経済が発展すればするほど領主経済は赤字になるという構造的矛盾があったため、なかなか領主側の財政は好転しませんでした。
こうして地方が発展したということは地方にかつてないほど強力な地方政権が出来たということになり、ほとんど日本文明圏内に多数の独立国家が出来たような状態でありました。日本列島内の分裂感は17世紀後半以降はかつてなく高まったといえます。それゆえにこそかえって日本文明としての統一感を求める意識が強く働くようになり、17世紀から18世紀にかけて儒学や国学が日本的な発展を遂げて日本文明に関する自意識が高まったのです。そこでは日本文明の中心には天皇が意識されるようになっていきました。
19世紀に入ると独裁制の弊害が出て幕政の腐敗は修復不能な状態になり、経済発展によって成長した民衆の経済活動や自治農村の活動などを統制出来なくなっていきました。また地方政権である藩の中には直接生産活動に従事して民衆の経済活動と結びついて大きな力を持つものも出てきました。そうした中、帝国主義列強の脅威が迫ってきて文明的な危機感が高まり、権威の失墜した幕府に代わって天皇が日本文明圏統合の象徴として強く意識されるようになっていきました。

そうして1853年の黒船来航以降、江戸幕府は急速に衰退していき、大きな混乱の中から切迫する対外的脅威に対抗するために天皇を中心とした中央集権体制が1868年以降、日本文明圏全体をカバーする形で作られることになりました。この近代日本政府は日本に脅威を与えていた西洋の近代国民国家をモデルにしたもので、中央集権官僚制と議会制民主主義を柱としたものでありました。そして、江戸時代に各地方において疑似的な中央集権官僚制と農村自治のシステムを経験してきていた日本は、そのモデルを咀嚼して日本的に発展させることが可能であったのです。また、近代国民国家を帝国主義世界の中でサバイバルさせていくために不可欠の資本主義システムの受容についても、江戸時代後期の産業振興政策の経験が大いに役に立ちました。
この近代国民国家システムは1889年の明治憲法発布によってひとまず完成し、最初は上手く機能していき、20世紀初期には日露戦争に勝利し日本は国難を脱して、その後、第一次大戦を経て帝国主義列強諸国の仲間入りをしました。近代日本は成功し、その成功体験ゆえに愛国心が高まり、国民は政治参加を求めるようになっていきました。19世紀の民主主義というのは民主主義とはいっても制限的なもので、国民の全部が参政権を持っていたわけではありません。それが世界標準でした。しかし20世紀になって大衆はより広範な層の政治参加を求めるようになり、そうした世界の潮流に乗って日本の大衆も政治参加を求めて運動するようになったのでした。
しかし民主主義というものは本質的に腐敗するもので、その腐敗を防ぐためには政治参加する人数を制限する必要があります。その上限はだいたい1000万人ぐらいと推定されます。人口の多い国ではこの上限を超えないための工夫として連邦制にするか制限選挙にするかどちらかをしなければならないのです。しかし近代日本は単一の中央集権体制で日本全土を支配するものであったので、制限選挙で民主主義の健全さを保つしかなかったのです。それが1925年に普通選挙が採用されたことによって民主主義の腐敗を防ぐ政治参加人数の上限を超えてしまい、衆愚政治に陥ってしまいました。事実、これ以降の日本の政党政治は腐敗迷走を始めることになったのです。
それでもまだ日本の政治は完全に破綻するまでには至っていませんでした。実は明治維新は中央集権制を志向したものではありましたが明治大正期にはまだ江戸時代の分権体制の遺産が残っていて、言わば中央集権は不徹底でありました。それゆえ中央集権制下での民主主義の弊害が人数上限を超えても最悪の形では出るまでには至らなかったのですが、当時の人達は近代日本の成功体験から明治維新の方向性を絶対視していたため、迷走し始めた日本の現状を明治維新の精神の不徹底によるものと解釈してしまったのです。そこで更なる天皇中心の中央集権制の徹底による国家改造を目指す動きが起きました。これが昭和維新運動でありました。
そこに折り悪く1929年に世界大恐慌が起きて国家破綻の危機に瀕したので、中央集権制の徹底によってこれを乗り切ろうという動きに正当性が与えられ、実行されてしまいました。本当は普通選挙導入によって人数上限を超えてしまった以上は政治健全化のためには地域主権化をすべきであったのですが、逆に中央集権を徹底してしまったために民主主義の腐敗や衆愚性は極度に高まり全体主義の域に達してしまいました。また中央集権の徹底のために外敵を強く意識するようになり海外進出気運が高まり、その結果アジア地域で摩擦が生じるようになりました。
こうして国家の舵取りを誤り戦争に巻き込まれる下地が出来上がってしまったのです。この後戦争に至る過程を見る限り、日本が戦犯国家であるとか侵略国家であるなどというのは濡れ衣に過ぎませんが、1925年以降、根本的に国家の針路を誤った結果、ズルズル戦争に引きずり込まれて国家を破滅させたことは明白です。ただ大恐慌が無ければどうなっていたか分からなないとも言えます。運が悪かったともいえますが、第一次大戦後のバブルに酔っていた自業自得ともいえるかもしれません。

こうして1945年に日本は敗戦を迎えるのですが、まず戦後しばらく1952年まではアメリカ軍が日本を統治しましたが、その際は中央集権体制のほうが占領行政がやりやすかったので戦前の中央集権体制は温存されました。つまり日本はアメリカ合衆国の51番目の州のような存在で、日本政府は植民地総督政府の出先機関のようなもので、主権を持った中央政府ではなかったので、真に日本に関する重要な政治決定を行うことが無かったため、中央集権体制の弊害が表面化しなかったのです。また戦争によって日本は国力が最低レベルまで下がっていたため、それを急速に復興していくためには中央集権体制は有効に機能したという事情もあります。実際は戦前から引き続き政治は機能不全状態であったのだが、このように戦後しばらくはその弊害が表面化しませんでした。
つまり日本は地域主権体制が機能しているアメリカ合衆国という国家の一地域に組み込まれたため、その日本という一地域内の中央集権制の弊害が表面化しなかったのです。そして日本国内そのものは戦後復興のために中央集権体制は有効に機能しました。こういう図式は1952年の独立回復後も日米安保体制として基本的には継続し、アメリカ政府による日本統治は直接的なものではなくなったが、日本政府は中央集権体制の弊害が出ないようにして中央集権体制の継続を図るために真に日本の主権に関わる重要な決定は一切行わない方針を貫いたのでした。何故、日本政府が中央集権体制の継続を望んだのかというと、まず何といっても自らの属する支配体制の変化を望まないのは体制側の本能であるというのが最大の理由であり、そもそも中央集権体制は中央政府にしてみれば非常に統治に便利なシステムであったからでもあります。また戦前以来の政治家も官僚も中央集権制が戦前日本の政治を機能不全にした元凶であるということに気付いていなかったからであり、また、独立回復後の日本はまだ国力が回復しておらず中央集権体制は確かに必要であったからでもあります。
ただ、そうは言っても日本の人口は膨大で、民主主義人数制限の1000万人を大幅にオーバーしているのであるから、どうしても中央集権体制下では機能不全が生じます。1950年代に戦後復興が一段落すると中央集権体制の意義は薄れ、政治の機能不全が表面化し、その中で中央集権を弊害を糊塗するためにますます日本政府は政治的不作為方針を徹底しました。それがすなわち日本の主権防衛におけるアメリカの役割を増大させる安保条約改訂でした。アメリカによる日本疑似占領体制であった旧安保体制から、非対称な日米同盟体制への変化でありました。アメリカがこのような負担を引き受けたのは深刻化していた冷戦が背景にありました。しかし、ここで日本政府は自らの体制維持のために真に日本にとって必要な政治決断を放棄するというような実態を示し、日本を統治する政府としての正統性の欠如を露わにしたのです。それに対する国民の反発が60年安保闘争という形であらわれたのでした。
このように正統性の欠如を露わにしてしまった日本政府がそれでも中央集権制を維持するためには対外的膨張によって国内の一体感を高めるという手段をとるしかなかったのだが、日本は軍事力の行使を自ら封印していたため、それは経済的進出に限られました。そこで日本政府は中央集権制をフル稼働させて政府主導で日本の製造業を育成して日本を工業大国として、円安固定の為替レートを利用して全世界に日本製の工業製品を売りまくる輸出大国化を図りました。これが戦後日本の奇跡といわれた1960年代の高度成長であったのです。この官民一体となった対外的成功体験によって日本国民は一体感に酔いしれ愛国心を満足させ、中央集権体制の日本政府は正統性を回復することに成功したのでした。
これは確かに中央集権制が上手く機能した結果でもあり、また日本人の元来の勤勉さによるものでもあったが、その中央集権制の矛盾を糊塗するために国家の重要決定をアメリカが肩代わりしてくれていたからこそ中央集権制が維持出来ていたのであり、日本における製造業のための資源輸送、製品輸送のためのシーレーン防衛もアメリカが肩代わりしていたから高度成長は可能であったのであり、また日本製品の主な輸出先はアメリカであったが、これもアメリカが円安レートを容認し日本製品への関税をあまりかけずに優遇していたからこそ高度成長は可能であったのです。つまり高度成長は日本が自力で成し遂げたものというよりは、冷戦期のアメリカの世界戦略の中で日本政府による日本統治を維持させることがアメリカにとってメリットがあったから容認されていたに過ぎません。
しかし何はともあれ日本は高度成長によって豊かになりました。そして日本企業の偉いところは国策としての高度成長そのものではなく、それによって得た利益を研究開発に回して製品の品質向上に努めていたことであります。これは江戸時代以来の地域主権時代における限定された世界における産業振興の工夫の伝統を民間が受け継いでいたからでありました。

日本が豊かになったことによって円が強くなり相対的にドルが弱くなっていたのをアメリカも容認してきていましたが、輸入超過による製造業の空洞化、冷戦の激化とベトナム戦争の泥沼化による軍事費の増大など、アメリカの貿易赤字と財政赤字は深刻化し、ドルはますます弱くなり、とうとう我慢も限界に達して1971年にアメリカは金とドルの交換を停止し、これによってドル固定相場制から変動相場制に移行していくようになりました。これがニクソン・ショックであり、これにより円は1ドル360円の固定レートから一気に1ドル308円に跳ね上がり、その後も円高は進んでいきました。これによって日本の高度成長時代も終焉を迎えたのです。
しかし日本の製造業や輸出産業が一気に崩壊せずにその後も世界でかなりのシェアを占め続けたのは、高度成長時代から研究開発に利益を回していたことによって高品質化に成功していた上に、アメリカ以外にも新たな輸出先を開拓していったからでした。これは国策ではなく個々の企業努力であった。こうして日本経済は低成長ながら発展は維持していったのでした。しかし中央集権制を維持するための対外的な目覚ましい発展というほどのレベルのものではありませんでした。そこで日本政府は国民生活をとにかく豊かにすることによって満足を与え、世界一豊かな社会を実現することによって中央集権政府の統治の正統性を示そうとしたのです。
それは中央政府主導で地方に公的資金をバラまいて国土開発を行うというもので、戦後の中央集権体制の成功によって得た利益を日本全土に還元するという意味で確かに善政ではあったのですが、あくまで中央集権体制の徹底を図るという側面も持っており、地方は中央からの補助金に依存する体質が強められることになり、中央主導のハコものばかりが作られる中、見た目の豊かさの実現の陰で次第に地域独自の自力が奪われていくことになりました。また国民生活の豊かさの実現のために福祉の充実が図られるようになったため、政府の財政は悪化していくことになりました。
一方、ニクソン・ショック後もアメリカの景気は回復せず、相変わらず対日貿易赤字は減らなかったため、貿易不均衡是正のために強引な円高誘導が図られることになり、日本政府の国土開発政策や豊かな社会における内需喚起も相まって国内の株価や地価が1980年代に入ると急上昇して日本国内は空前の好景気に沸くことになりました。これは見せかけの豊かさの実現のために中央政府主導で投機熱が煽られた結果のバブル景気でした。この1970年代から1980年代にかけての時期の日本政府は相変わらず国家の重要な決定については不作為を決め込んでアメリカ任せとし、やっていたことはアメリカとの経済協議と、地方に公的資金をバラまくこと、そしてバブル景気を煽ることぐらいでした。ただ実際やるべきことがそれぐらいに限定されていたのだから、中央集権の弊害がそれほど表面化しないで済んでいました。また、多少の弊害が出てきても、見せかけの経済成長によって糊塗されていたのでした。

しかし1989年に冷戦が終結してアメリカ一極支配の時代となったことでドルが上がり始め円安に転じ、株価が下がり始めたことをきっかけに異常に膨れ上がったバブル経済がはじけて崩壊し、株価や地価が暴落して景気は冷え込みました。これによって地方自治体の財政赤字も膨れ上がり、地方への補助金の増大によって国家財政も大きな赤字を抱え込むようになった。そのため地方への補助金も減らされ、もともと補助金漬けで地力を奪われていた地方経済は崩壊していきました。
また、冷戦が終結したことによってアメリカの世界戦略の中で日本政府による日本統治を必要以上に手助けする意味が無くなりました。それゆえ日本政府の支配正統性の証となっていたバブル景気を崩壊させるきっかけとなった円安ドル高への移行をアメリカ政府は黙認あるいは誘導したのだともいえます。世界の一極支配者となったアメリカとしては冷戦終結後は日本をソ連の脅威に対抗するための防波堤として優遇する必要も無くなったため、むしろ対日強硬姿勢に転じて、ドル高を維持したままで数値目標を設定させて日本に強引にアメリカ産品を買わせたりすることも出来るようになり、規制緩和を迫ってアメリカ企業の日本市場での優遇を求めたりするようになりました。
そのため、アメリカは日本がアメリカへの依存を断ってアメリカから完全に自立した国家となることは望みませんでした。しかし日本政府の統治を手助けするために必要以上に日本政府の政治的不作為の穴埋めをする必要性も感じなくなり、主権国家として応分の負担は求めてくるようになりました。そのため、日本政府は戦後ずっと回避してきた主権に関する重要な決定を迫られるようになり、その機能不全ぶりを露呈してしまうことになったのであります。こうして日本政府はその支配正統性の欠如を露わにして、日本政治は1990年代から迷走の時代に入ることになりました。
戦後日本を支配してきた自民党政権はバブル崩壊後の経済危機の収拾も出来ず、アメリカからの経済面と軍事面の要求に対して全くの無為無策の醜態を晒して政権を失い、代わって非自民連立政権が出来ましたが、そもそも日本政府の中央集権体制そのものの機能不全が冷戦終結をきっかけに露わになってそうした状態になったわけですから、政権政党が変わったところで事態が変わるわけでもなく、日本政治は何度も政権の枠組みを変化させながら迷走を続けることになりました。
日本の製造業は確かな技術力や資本力を持っていましたが、バブル崩壊の影響で大きな打撃を受け、その上に1990年代から2000年代にかけては新興工業国の安価な製品に世界市場で押されるようになり、生産拠点を海外に移転する企業も多くなりました。一方、世界唯一の超大国となったアメリカの製造業は既に弱体化しており、アメリカはドルを大量に刷って世界中に投資して富を築くという完全なる投機経済体制に移行しました。日本政府もこのアメリカからの投資によって見せかけの経済成長を実現して支配の正統性を確保しようとあがくようになり、アメリカの言いなりに規制緩和を受け入れて投資を得るようになっていきました。これによって恩恵を受けたのは大企業のみで、地方経済はむしろ打撃を受けることになりました。一方、大企業は東京と海外を拠点としていたので、東京一極が繁栄することになりました。しかし日本政府は財政再建のために地方は切り捨てて大企業優遇政策をとったので、日本政府は日本全土を統治する中央集権政府としての正統性をほとんど失っていきました。

2005年以降、この規制緩和・構造改革路線の失敗が明らかになっていくにつれて、日本政府は内部抗争によって何も決定出来ない状態に陥り、完全に機能不全となりました。そこにアメリカの投機経済が2008年のサブプライムショックではじけて崩壊し、全世界規模で株式の大暴落と金融危機が起こり、実体経済にも大打撃が生じました。これによって日本の大企業も大きな打撃を受け、東京周辺の一極的な繁栄の灯も消えました。しかも弱体化を余議なくされるアメリカは超大国の地位を失い、日本から軍事的に撤退する可能性も高くなってきました。
こうなると、もともとアメリカの占領統治の代官のような存在であった日本政府はその出自からして日本統治の正統性を保持することが難しくなってきます。そんな政府が主権国家としての真っ当な判断など出来ないと思われるからです。そもそも1億以上の人口を抱えた地域を中央集権体制で一括支配する民主主義政権がまともな政治判断など出来るはずがないのです。それが今までなんとか可能であったのは、あくまで占領軍の代官として重要な決定を回避できる立場だったからに過ぎません。今後はそれが無理になる上に、既に現時点でも経済崩壊、特に地方経済の壊滅という大きな中央集権の弊害が出ているのですから、もう近代日本の中央集権制の延命措置の賞味期限は終わっていると考えたほうがいいでしょう。
それどころか、そもそも2008年の全世界同時不況は世界史的事件であり、近代国民国家というモデルの終焉を意味しているのではないかと思われます。国民国家はそもそも強力な中央政府のもとに国民が一致団結する中央集権制が理想モデルで、国民が力を合わせて国家を盛り立てていくものでした。明治維新が目指したものはまさにそれであります。しかし1つの国の抱える人数が増えていくにつれて上手くいかなくなっていきました。国民が国を支えるシステムのはずであったものが、いつしか国が国民を養っていくシステムに変わっていってしまいました。しかもその公平性の問題で常に揉め事が起きるようになっていきました。これが中央集権制の弊害なのです。そして国が国民を養うのに金が足りなくなってくるので、とうとう国が投機で金を稼ぐようにまでなってしまったのです。それで国家主導で投機経済が膨れ上がったのだが、それもとうとう今回破綻してしまったのでした。もう中央集権制の国民国家というモデルは限界なのではないでしょうか。つまり近代の終焉です。今後は全世界的に地域主権制への移行が始まるのではないでしょうか。
日本も明治維新時に近代への移行と共に導入した中央集権制を捨てて、元来の国の形である地域主権制へ移行するのが自然なのではないでしょうか。全世界でもそれぞれの文明圏の中に多くの地域国家が存在するという世界になるのではないでしょうか。日本も1つの文明圏です。日本文明圏の中に多くの地域国家がそれぞれ主権を持って存在し、経済的に連携し、文明的には一体感を持って、連邦を組んで共に皇室を戴いて安全保障や外交で同一歩調をとればいいのではないでしょうか。

思えば、江戸時代以前の地域主権制から中央集権制への移行のきっかけになったのは西洋列強諸国という対外的脅威に対抗するために急速な近代化を図るためでした。それはつまり近代国民国家という脅威に対抗し自ら近代国民国家となるためでありました。その類の脅威は幕末から現在に至るまでずっと存在し続けて日本に脅威を与え続けてきました。そしてその脅威に対抗するために日本もまた近代国民国家であらねばならなかったし中央集権体制を敷く必要もあったのだといえます。戦後日本においても実は日本に対する最大の脅威はソ連と並んで宗主国アメリカであったのであり、戦後日本の中央集権体制はアメリカによる日本統治の代理人であると同時に、アメリカやソ連に対抗して日本を守るため早急に日本を復興させるためのものであったともいえます。復興が成った後は中央集権制は必ずしも必要ではなかったが、幾らかはソ連による侵略やアメリカからの無理難題に対抗するためにも存在意義はあったともいえます。冷戦終結時にソ連が消滅し、そして今後アメリカが日本から撤退するということは、そのアメリカの脅威も今後消えていこうとしているということになります。近代国民国家という脅威自体が無くなろうとしています。ならば日本が中央集権制を採用し続ける理由も無くなるということになります。
しかし一つ気がかりなことは、日本の隣にあるシナ世界が現在、極端な中央集権制国家であり侵略性が強いという点です。このシナにしても世界同時不況のあおりを受けて経済が失速し、極端な中央集権制の矛盾が一挙に噴出して暴動が多発して、分裂して地域主権化していくであろうと予想されます。おそらく五代十国時代のような混乱期を経て宋のような経済共同体的な緩やかなシナ文明圏連合に落ち着くのではないでしょうか。そこまで至ってしまえばさほど危険なこともないであろうが、現在の中央集権独裁体制が崩壊する以前の段階は危険です。分裂していこうとする国家を一つにまとめようとあがいて対外的に冒険主義に出てくる危険があるからです。アメリカの日本からの撤退や日本の中央集権制から地域主権制への移行の動きがシナから見て防衛面での弱体化と映ればシナは攻勢に出てくる危険があるでしょう。
また、中期的視点に立っても、今後ドルが基軸通貨の地位を失い、物々交換経済のような形になるかもしれず、資源争奪戦が各地域、各文明圏同士の間で起きると思われます。そうした中で日本においては海洋権益がかなり重要になってくるのだが、日本の現在のような安全保障体制ではそうした時代にはどちらにしても対応は出来なくなってくるでしょう。
だから、地域主権化を目指すにしても、国防に関する問題点はクリアにしておいてからということになります。いや、現在の日本政府ではこの問題点を解決することは絶対に不可能なのであるから、地域主権を基本とした新しい国の枠組みの中で、まず第一にこの問題を解決するというプランでしか、国防問題の解決は図れないのです。すなわち新しい国は現在の日本政府との連続性を断ち切ったものでなければならないのです。
社会はゆっくり変化していくものなのかもしれません。特に中央集権制が崩れて地域主権制が固まっていく場合は、最初は混乱した状態となり、その中から50年から100年ぐらいかけて自然に秩序が固まっていくのだと思います。しかし現在はあまり大きく混乱していられる状況でもない。やはりそれなりのプランに従って変革を進めていかねばならないでしょう。
近代国民国家体制の行き詰まり、アメリカの日本からの撤退、日本の地域主権化など、これらは長期的な潮流であり、今後しばらくは押しつ押されつの一進一退の攻防は続くでしょう。その中でいかにより早くより良い方向での変革を進めていくかが大事です。そのためには、まずは現在の日本が出来上がっていった過程を検証していく必要があるのではないかと思われます。そこで第一次世界大戦終了後あたりからの歴史を見ていこうかと思います。
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