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現代史についての雑文その2  第二次大戦の開始
イギリスは伝統的にヨーロッパ大陸に統一した大きな勢力が現れることを阻止する戦略をとっており、1914年に勃発した第一次大戦でヨーロッパ大陸の最強国であったドイツを破って以降、ドイツの国土を分断して弱体化させてヨーロッパ統一の芽を摘むという戦略をとっていました。第一次大戦終了後の1919年にイギリスおよびその同盟国フランス主導で発足したヴェルサイユ体制とはそうしたものでありました。ドイツは巨額の賠償金を課されたため経済が破綻しハイパーインフレを起こし、ドイツ国民は塗炭の苦しみを味わうことになったのでした。このためドイツ国民は反英感情、反仏感情、反ヴェルサイユ体制感情を強く持つようになり、これが後に第二次大戦を引き起こすことに繋がります。
一方、1911年に清朝が滅びた後、軍閥による内戦状態であったシナでは、第一次大戦によってドイツが敗れロシアが崩壊し、シナ北部にあった両国の権益は日本に回収されて、日本がシナ北部の市場を押さえて、シナ南部の市場を押さえるイギリスと対峙することとなりましたが、日英両国は同盟関係にありました。つまりヨーロッパも極東もイギリスの主導下で平和が保たれた状態にあり、その中間にあるインド植民地をイギリスがしっかりと押さえていたことがイギリスの覇権を支えていました。
またユーラシア大陸の内陸部においてイギリス勢力圏と衝突を繰り返していたロシア帝国は第一次大戦中の1917年に勃発したロシア革命で倒れてソ連に変わり弱体化してイギリス権益を脅かすこともなくなっていました。そして1914年にパナマ運河を開通させて太平洋方面に進出してシナ市場を窺っていたアメリカに対してはイギリスはカナダと南米諸国、オーストラリア、そして日英同盟で封じ込めていました。
このように第一次大戦後は表面的にはイギリスが世界の覇者であったのですが、イギリスは大戦で疲弊しており、次第に経済面でアメリカに依存するようになっていったのでした。第一次大戦はヨーロッパを戦場として長期間続いたのでヨーロッパ経済は疲弊し、戦場とならなかったアメリカは軍需物資の供給元となり、大戦後もアメリカから荒廃したヨーロッパへの復興物資などの輸出が増え、アメリカは世界一の経済大国になりました。ここでイギリスからアメリカへと世界覇権の交代が起こったのです。アメリカはイギリスを支援しつつイギリスに対する影響力を強め、南米諸国やカナダやオーストラリアをイギリスから引き離し、1921年には日英同盟を解消させました。そしてシナ市場への参入を求めるようになったのでした。

1917年のロシア革命で誕生したソ連は当初は世界革命など標榜していたが、1924年からのスターリン時代になると支配地における独裁権力の維持を第一目的とするようになり、周囲を取り囲む資本主義諸国からの防衛のために勢力圏を拡大していくという戦略をとっていました。それは資本主義国同士を戦わせて疲弊させ、革命を扇動して撹乱するというものでした。その主な工作対象はヨーロッパとシナでありました。
ソ連の西にはヨーロッパがあり、東にはシナがあったからです。そしてヨーロッパを押さえていたのはイギリスで、シナを押さえていたのはイギリスと日本だった。となるとソ連の国家戦略としてはヨーロッパとシナからイギリスと日本の勢力を駆逐して自らの勢力圏とすることになります。つまり国際社会における既得権者であったイギリスと日本を追い落すという点についてはアメリカとソ連の利害は一致していたともいえます。
ソ連はヨーロッパとシナにおける共産主義運動を扇動し、イギリスと日本は強く反発しましたがアメリカは共産主義に寛容でありました。これは共産主義がイギリスと日本の勢力を後退させるのに有用と判断したからでありましょう。ソ連はイギリスの弱体化のためには海外植民地を撹乱することが有効と考え、インドで独立運動を支援し、シナ南部に勢力を持つシナ国民党勢力を支援し配下のシナ共産党勢力を潜り込ませてイギリスの権益を侵害させました。
日本には幕末以来、底流にアジア主義の流れがあり、アジア諸国の連携によって西洋列強の侵略を撥ね退けようという理想主義的思想がありましたが、明治維新以降は現実主義的に行動し西洋、特にイギリスと協調して国際社会でサバイバルしてきました。しかし第一次大戦で世界の五大国の1つとなったことで余裕が生じ、アジア主義が頭をもたげてきたのでした。1921年の日英同盟の解消もそうした傾向に拍車をかけました。また、1925年に中央集権体制のままで普通選挙制を導入したことで政治は大衆受けする理想的なスローガンを建前に振りかざすようになり、アジア主義や道義的な皇国主義などが叫ばれるようになってきたのでした。
そのため、アジア主義的傾向を強めた日本政府はシナ国民党に対して宥和的姿勢を示し、シナ南部のイギリス権益への侵害を黙認する傾向が強かったのです。これによりイギリスは日本に対して不信感を持つようになり、アメリカと協調を深めてシナ国民党の侵害に対抗していくようになっていきました。ところがシナ南部に確固たる地盤を築いたシナ国民党は1927年に用済みとなったソ連と断絶してシナ共産党を追放し、イギリスやアメリカと協調するようになったのです。そしてシナ国民党はシナ共産党との内戦を継続しながら、シナ北部を制圧してシナ統一を図るようになり、シナ北部にある日本の権益とトラブルを起こすようになっていきました。こうした事態に対して日本政府はアジア主義と国際協調主義の間を揺れ動き、シナ国民党やその背後のイギリスやアメリカに対して譲歩を重ね、中央政府の意識と現地の危機意識とのギャップが広がっていったのでした。

アメリカでは空前の好景気に沸き投機熱が過熱していたが、実際はヨーロッパ経済が立ち直りつつあった中でアメリカの実体経済は縮小し始めており、異常に上昇した株価と実体経済との乖離が激しくなり、それが限界に達して1929年にウォール街の株価が大暴落してそれが世界中に波及して世界大恐慌となりました。これによって世界中で膨大な資本が失われた上にアメリカからの投資が引き上げられたため経済が大混乱して失業者があふれるようになったのですが、社会主義計画経済を採用していたソ連だけはこの影響を受けず経済発展を続けました。
大恐慌の影響を受けてイギリスは海外植民地の維持が困難になり、独立志向の強かったカナダやオーストラリアなどを独立させることと引き換えにこれらと英連邦を設立して連携を深めるブロック経済体制で乗り切ろうとしました。またアメリカでもフーバー政権が保護貿易政策をとりましたが、こうした政策は世界各国の不況を深刻化させました。この時期のアメリカはまだ世界覇権国家としての自覚も乏しく、こうした利己的な政策で世界を混乱させてしまったのでした。
このように資本主義国家で経済が混乱しているのに乗じてソ連は撹乱工作を激化させるようになり、大恐慌後のヨーロッパや日本では共産党勢力が勢いを増しました。これに危機感を覚えた各国政府はソ連のような極端に中央集権的な統制経済を国家主義的に行う政策を採用するようになったのです。

ドイツではもともとヴェルサイユ体制によって課された巨額の賠償金のせいでハイパーインフレ状態にあったが、そうした中で勢力を伸ばしたのがナチス党でした。ナチス党はもともとはドイツ民族主義と共産主義思想を合わせたような泡沫政党でしたが、ヴェルサイユ体制に対する大衆の不満を吸い上げて勢力を伸ばしたのです。ヴェルサイユ体制下では敗戦国ドイツの国民は様々な不利な条件下に置かれており、そこに国を持たない民族であるユダヤ人が流入してきて、一部の資本家階級のユダヤ人がドイツ人が不利な条件下にあるのを良いことに悪どい商売をしたのは確かに事実です。もともとヨーロッパではユダヤ人に対する根強い差別感情がありましたから、この時、ドイツではユダヤ人への強い憎悪が生まれました。ナチス党はもともとはこの反ユダヤ感情を煽ってドイツ民族主義を勢力拡大に利用した共産主義系の政党であったといえます。
ところがヒトラーがナチス党の党首になると、ドイツ民族主義のほうが党是の中心となるようになり、共産主義的な要素は手法として活用されるようになっていきました。そしてドイツで勢力を伸ばしていた共産党への攻撃姿勢を強めるようになり、そうした流れの中でヒトラーは独自理論であるユダヤ・ボルシェヴィズム論、すなわちユダヤ人と共産党が一体であるという持論を展開するようになります。これはそれほど根拠のある論ではなかったのですが、反ユダヤ主義のエネルギーを共産党攻撃に利用しようとした一種の共産党へのネガティブ・キャンペーンだったといえます。そうした時に大恐慌が起きて、その影響でドイツは完全に国家経済が破綻してしまい、共産党が勢力を伸ばしました。それに対抗するためにナチス党に保守層の人気が集中し、ヒトラーは共産党による国家乗っ取りの危機を煽り立てて共産党を弾圧し、その勢いで一気に1933年に独裁権力を握り、その後、統制経済体制で経済再建を成し遂げました。これによってヒトラーはソ連の侵略からヨーロッパを救った救世主と見なされ、イギリスをはじめ他のヨーロッパ諸国でも称賛されました。

しかしこうした極端な中央集権国家は拡大政策を取らざるを得なくなるもので、第一次大戦後の過酷な仕打ちによって国民の間に強く植えつけられた反英感情、反仏感情、反ヴェルサイユ体制感情の後押しも受けてヒトラーはヨーロッパからイギリスの影響力を排除してヴェルサイユ体制を打ち破って旧領土を回復して強いドイツを復活させてヨーロッパを統一する盟主となることを志向するようになったのでした。それはイギリスが伝統的に絶対に許容出来ないことであったのですが、当初はイギリスは対ソ連の同盟者としてヒトラーに宥和的であったので対応が後手後手となりました。また、ヒトラーは本質的には反共産主義、反ソ連であったが、イギリス勢力のヨーロッパからの駆逐という点ではソ連と利害が一致しており、またこの点ではヨーロッパへの影響力を強めたいアメリカとも利害は一致していました。これらの事情もあってナチスドイツはあまり大きな反発も受けずに急速に勢力を伸ばしていったのでした。
ヒトラーの中で終始一貫していたのは反共産主義、反ユダヤ主義でした。ドイツ民族主義については大衆人気獲得のためのもので、領土拡張政策や反ヴェルサイユ体制政策も、どちらかというとドイツ国民の熱望に応えたものであったと思われます。また、ヒトラーが独裁権力を獲得していく過程でドイツ国内のユダヤ人への迫害が激化しますが、この頃は強制収容所に収容するというようなものではありませんでした。ドイツに強制収容所はありましたが、この時期のものは主に共産主義者や政治犯を収容するためのもので、もちろんその中にはユダヤ人もいましたが、ユダヤ人を見境なく大量に収容するというものではありませんでした。この時期のナチスのユダヤ人迫害政策は伝統的にヨーロッパで繰り返されてきた襲撃や放火などの暴力行為の延長線上に更に公職追放や財産没収などを加えたものでありました。これは絶滅政策というよりは極めて悪質な嫌がらせといえるもので、ユダヤ人をドイツから追放することを目的としたものでした。
こうしたナチスをユダヤ人の資本家グループが支援したことによってナチスは勢力を伸ばし、またドイツの経済復興も成し遂げられたというのは一見すると不可解なことのように思えます。しかしユダヤ人資本家グループにはシオニストと呼ばれる「ユダヤ人はパレスチナに国家を作って住むべき」という主張に原理主義的に染まった人達が多く、一般庶民のユダヤ人はシオニズムには反対していたという事実に照らせば不思議でもなんでもないのです。ナチスはユダヤ人をドイツから追い出して何処かへ移民させたいのであり、シオニストはユダヤ人を今いる国から追い立ててパレスチナへ移民させたいわけですから、ナチスドイツの一般庶民ユダヤ人への迫害はシオニスト達の目的と利害が一致するのです。だからシオニストのユダヤ資本家たちはナチスに協力し、その見返りにパレスチナの地にユダヤ人国家を作る計画への支援を求めたのでした。このように国際金融にも大きな影響力を持つユダヤ人グループがナチスに好意的であったため、イギリスやアメリカもナチスに宥和的であったのです。しかし、ヒトラーの反ユダヤ主義は筋金入りでしたから、実はヒトラーはシオニスト達をも利用していただけだったのです。

日本でも大恐慌以後は国家社会主義の統制経済体制が志向されるようになり、それに内政的には中央集権体制を強化するための求心力として皇国主義が結びつき、外交的には中央集権体制強化に伴う海外市場拡大の大義名分としてのアジア主義が結びついていきました。こうした状況の日本の満州に持つ権益がシナ統一を目指して北上するシナ国民党勢力に侵害されたため、満州の権益死守のために日本軍は1931年に満州全域を電撃占領してシナ国民党に関係する勢力を満州から駆逐しました。これに対してシナ国民党を支援するイギリスとアメリカが反発しましたが、日本は満州に満州国という独立国を作り影響下に置き、更に満州国の安全確保のために華北にも影響力を強めました。
その後、アメリカでは1933にルーズベルトが大統領に就任し、前任者フーバーの保護主義的政策が恐慌を悪化させたと非難し、自由貿易主義を標榜するようになりました。このルーズベルトの自由貿易絶対主義が後に第二次大戦後の新世界秩序の経済面の基調となるのですが、実際、そんな理想主義だけではどうにもなる状況ではなかったので、ケインズ経済学に基づいた一種の統制経済政策であるニューディール政策が実施されました。しかしこれも大した効果は上がらず、結局シナ市場の獲得が至上命題となっていったのですが、直接日本と戦争してシナ市場を奪取するわけにもいかなかったので、ルーズベルトは秘かにドイツやソ連と連携してシナ国民党とシナ共産党を同盟させて、一気にシナにある日本の権益を奪取させようとして1937年に日本のシナ権益に攻撃を仕掛けさせたのです。
しかし逆にこれが返り討ちにあい、これを好機に日本軍はシナ国民党勢力を打倒してシナにおける権益を拡大しようとして進撃し、1938年にはシナ国民党は重慶に追いやられてしまいました。日本はシナの主要部を押さえて、親日的な政権を立ててその支配地に治安維持のために日本軍を駐兵させました。こうしてシナは武漢の親日政府、重慶の国民党勢力、延安の共産党勢力の3勢力が3つ巴の内戦を行う状況となったのです。武漢政府にしつこく抵抗を続ける重慶のシナ国民党への物資の支援は主にイギリス植民地のビルマやフランス植民地のインドシナなどからなされており、その背後にはアメリカがいました。こうしてシナ内戦を舞台に日本と英米との対立構図が鮮明になったのです。

一方、ヨーロッパで東方に拡大政策をとっていたナチスドイツは突如、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでポーランドへの侵攻の構えを見せました。ポーランドには第一次大戦時まではドイツ領であったポーランド回廊といわれる地域があり、ナチスドイツがこの返還を求めて紛争が生じていたからです。これに危機感を覚えたポーランド政府がイギリスとフランスに泣きつき、両国はポーランドと急遽、相互援助条約を結び、ポーランドを侵略した国家に自動的に宣戦布告すると宣言しました。イギリスとフランスはこれでヒトラーはポーランド侵攻を思いとどまると思っていたのですが、しかし直後の9月にソ連とドイツが東西から呼応してポーランドに侵攻してポーランドを分割してしまいました。
ヒトラーの反ソ連姿勢はドイツ共産党への激しい敵意の延長線上にあるもので、これも筋金入りのもので、実際に後に満を持して大軍でソ連に奇襲攻撃を仕掛けているわけですから、ヒトラーにしてみればこの不可侵条約やポーランド分割などはソ連を油断させるための方便程度であったのでしょう。だからこの時点でヒトラーはイギリスやフランスと戦争するつもりは無かったと思われます。イギリスやフランスとは反共産主義で一致しており、ポーランドに侵攻してもイギリスやフランスが宣戦布告してくるとはヒトラーは思っていなかったようです。また、そんな度胸も無いだろうと舐めていた節もあります。
しかし、相互援助条約の規定により自動的にイギリスはフランスと共にすぐさまドイツに対して宣戦布告することになったのです。ヴェルサイユ体制を紙屑のようにしか考えていなかったヒトラーとは違い、この体制側の二国はやはりギリギリのところでヴェルサイユ体制を守ろうという意識が働いたのでしょう。しかし英仏両国は反共産主義で一致していたはずのヒトラーがソ連と手を組んで自分達と戦うという現実に混乱し、宣戦布告はしたもののドイツ領へ攻撃することなく冬を越すことになりました。ポーランド侵攻までのドイツの行動は一応第一次大戦以前の旧領回復運動と見なすことも出来て、それなりに正当性もありました。成り行き上宣戦はしたものの、イギリスやフランスはドイツが本気になって攻めてくるとは思えなかったようです。イギリスなどではそのまま休戦するのではないかという気分が支配的であったといいます。
ところがドイツ軍は1940年4月になると北欧に侵攻し、5月に電撃的にベネルクス三国を制圧すると、そこからマジノ線を迂回してフランス領に一気に侵入し、6月にはフランスはドイツによって占領され、フランスに駐兵していたイギリス軍は本国へ逃げ帰る羽目となったのでした。ヒトラーはあくまで主敵はソ連という意識であったのですが、英仏両国の宣戦布告によって、もともと反英、反仏、反ヴェルサイユ体制感情の強いドイツ国内世論が燃え上がり、そうした感情はヒトラーももちろん共有するものであり、いっそここで一気にヴェルサイユ体制を打倒してしまおうと思い、ここにナチスドイツはイギリス勢力をヨーロッパ大陸から排除する姿勢を露わにしたのでした。
こうしてヨーロッパ大陸はナチスドイツの覇権下に置かれることになり、7月にはドイツはイギリス本国への攻撃を開始し激しい空襲を浴びせるようになり、またドイツの同盟国イタリアが参戦して北アフリカのイギリスの拠点へも攻撃を開始しました。イギリスはチャーチル首相のもと国民が一致団結し、1年にも及ぶ熾烈な航空戦の結果、なんとかイギリス本土の制空権は死守しました。また北アフリカ戦線でもイギリス軍はイタリア軍を撃破しましたが、劣勢となったイタリア軍を支援するため1941年2月にはドイツは名将ロンメル率いる戦車軍団を北アフリカに投入し、戦局を引っくり返したのでした。

このようにヨーロッパで激しい戦いが続いている間、ソ連は着々とバルト三国やフィンランドなどを侵略して勢力範囲を拡大していました。ソ連としてはドイツと不可侵条約を結んでポーランドを分割したことで上手く資本主義国家同士が相撃ち合うという目論見をまんまと実現させたということになります。一方、こうした大戦の状況を受けて、当初はヨーロッパにおけるイギリス覇権を切り崩すためにドイツを利用していたアメリカのルーズベルトも、ヨーロッパがドイツの支配下に入ってしまうことや友好国イギリスが潰されてしまうことは許容出来ず、ヨーロッパ戦線への介入を図るようになりましたが、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいませんでした。
ヒトラーはイギリス占領に失敗したため、当時イギリスの支配地であったパレスチナにユダヤ人国家を作ってそこにヨーロッパのユダヤ人を移住させるという案を実現するのが難しくなり、むしろ占領したフランスの持っていたアフリカの植民地のマダガスカルにヨーロッパのユダヤ人をみんな移住させる案に傾くようになっていきました。ヒトラーにしてみればヨーロッパのナチス占領地からユダヤ人を追放することさえ出来れば、行先など何処でも良かったのです。しかしシオニスト達にとっては行く先はパレスチナでなければ絶対にダメなのであって、ここにナチスとシオニストとの間には決定的な対立が生じ、ヒトラーは利用するだけ利用したシオニストとの関係を打ち捨てました。そこでシオニストのユダヤ人資本家らはイギリスやアメリカに協力するようになり、協力の見返りにナチスドイツの打倒とパレスチナにユダヤ人国家を作ることを要求するようになります。こういうわけもあってルーズベルトもユダヤ・ロビーによって反ナチスに転じたのです。
一方、ナチスドイツがイギリスを打ち破ったのを見て日本ではドイツと連携してイギリスと対抗していこうとする気運が高まり、1940年には近衛内閣のもとで新体制運動という名でナチスドイツを模範とした天皇のもとでの疑似的な全体主義体制を志向する運動が勢いを増し、大東亜共栄圏という新たな国家戦略が唱えられるようになりました。これは西洋諸国の植民地となっている東南アジア諸国を解放して日本やシナと共にアジア人の共同体を作り上げようというものでありましたが、その真の目的はフランス領インドシナとイギリス領ビルマを押さえて重慶のシナ国民党への支援ルートを断ち切りシナ内戦を日本側の有利なものとし、更に進んでイギリス領インドの独立運動と連携してインドを独立させてイギリスの海外植民地を喪失させて大打撃を与えてヨーロッパ戦線でのドイツの戦いを援護するというものであったようです。その第一歩として日本軍はフランスに新たに出来た親独政権の要請に応じるという形で1940年9月にインドシナに進駐し、同時に日独伊三国軍事同盟が締結されました。
イギリスとヨーロッパで激しい戦火を交える独伊との軍事同盟であるからイギリスとその友好国アメリカは日本を非難し、日本の南進政策を警戒しました。日本軍は精強でイギリスの植民地軍では太刀打ち出来なかったので、日本軍が本格的な南進を開始すればマレーもビルマもインドも攻略されてしまう可能性が高かったからです。もしそうなればイギリスはヨーロッパ戦線でも敗北は必至となります。
日本軍がアジア地域で恐れていたのはアメリカ太平洋艦隊の西進とソ連極東軍の南下でありましたが、アメリカ国民は海外の戦争に参加することを拒絶していたので日本はアメリカの参戦を心配せずに南進作戦の準備に取り掛かりました。そしてソ連軍の南下という後顧の憂いを取り除くために1941年4月には日ソ中立条約を締結しました。ソ連としてはそれによって日本とイギリスが極東で戦火を交えることになり資本主義国同士で戦い合って疲弊してくれれば好都合であったのです。

ところがこの直後の1941年6月22日、ヒトラーは突如、独ソ不可侵条約を破ってソ連に宣戦し、膨大な数のドイツ軍をソ連領内へ侵攻させ、完全に不意をつかれたソ連軍は総崩れとなってドイツ軍はソ連領内奥深くに攻め入ったのです。ヒトラーの思惑としては、イギリス本土侵攻に失敗したことを受け、ソ連を攻撃することによって戦争目的を反共産主義のための戦いに転換して、イギリスと和睦して、イギリスとアメリカの間を分断し、アメリカの参戦の口実を奪ってしまおうとしたと思われます。そのためには電撃的にソ連を打倒して反共の盟主としてのヒトラー像を既成事実化してしまわねばならず、ドイツは主戦力を投入してソ連領内に西から侵攻しつつ、日本にも東からソ連へ侵攻するよう要請しました。
しかしこれはソ連と和睦してイギリスと戦う準備を進めていた日本としては受け入れられることではなく、日本政府の道義主義的な傾向もあって、結んだばかりの日ソ中立条約を踏みにじるようなことも出来ず、日本はドイツからのソ連侵攻要請を拒絶しました。これによってソ連は極東の兵力をドイツとの戦闘に振り分けることが可能になりました。これは後のロシア戦線の行方を左右する重大な要素の1つとなったといえます。
一方、イギリスは独ソ戦の推移を見守りつつ、ヒトラーの誘いには乗らずドイツとの戦争を継続しました。ヒトラーや後のスターリン、毛沢東などのような絶対的独裁者はこのようにしばしば常人には考えられないような裏切り行為を行いました。それは狂っているわけではなく、それなりの優れた戦略眼に基づいた冷静な行動なのでありますが、あまりに自由に好き勝手は決断が行えるために周囲がついていけなくなるということに本人が無自覚になりがちでありました。政治というものは本質的には悪事なのですが、民衆というものは政治に大義名分を求めるものであり、あまりに裏切り行為の目立つ人物に正当性を見出すことは出来ません。絶対的独裁者であればそういう声も無視出来るのでしょうが、民主主義国家の指導者は自国民を説得しなければいけないのです。仮にドイツと結んでソ連を討つことにチャーチルが意義を見出したとしても、ヒトラーという人物と組むことをイギリス国民に理解させることは出来ないのです。そうした機微というものを独裁者はついつい忘れがちになり、突拍子もない行動を取ってしまうものなのです。

こうしてイギリスがドイツとの戦争を継続したので、日本としてはドイツとの同盟に則って南進作戦の準備を進めました。アメリカのルーズベルトはヨーロッパにおけるドイツの覇権拡大を阻止する姿勢に転じていたので、ドイツと戦うソ連を支援するようになり、さらに友好国イギリスの窮地を救うためにヨーロッパ戦線への参戦と日本の南進作戦阻止を図るようになりました。そこで日本のシナ駐兵とインドシナ進駐を非難して日本に対して経済制裁を課し、それらを議題とした交渉で解決を目指す外交の場に日本を引き出すことにしました。
当時は軍艦は重油で動いていましたが、まだ中東の油田はあまり発見されておらず、日本は石油はアメリカから輸入していました。つまり日本としては経済制裁でアメリカから石油が輸入出来ないと南進作戦が不可能になるのです。しかしオランダ領インドネシアの油田地帯を押さえれば戦争継続は可能であったので、いっそ交渉には応じずに一気に南進してアメリカに参戦の機会を与えずに対イギリス戦を開始してしまっても良かったのですが、南進作戦の準備が完了していなかったのと、あまりにリスクの高い戦争計画に危惧を感じた昭和天皇が和平を強く望んだこともあり、交渉の場に出て来ることになりました。ルーズベルトとしては和平への努力の姿勢をアピールし、日本がそれを踏みにじって戦争を開始すればアジア戦線への参戦の口実とし、更にはヨーロッパ戦線へも参戦することが出来るという計算であったようです。
そういうわけであるのでアメリカ側はほとんど譲歩の余地を示さず、日本が応じられないような条件を突き付けました。大恐慌以後に統制経済体制となっていた日本には海外市場が不可欠で、シナの占領地における権益は手放すことが出来ないものでありました。これは政府首脳が諦めたとしても国民感情的に受け入れられることではなかったし、そうした国民世論の支持を受けた陸軍もシナ駐兵継続は譲れない条件であったのですが、アメリカは日米交渉においてシナからの撤兵を求め続けたのです。これにより交渉は最初から暗礁に乗り上げ、交渉が妥結しない限りアメリカから石油は入ってこず、ズルズル交渉を続けている間に日本は備蓄分の石油を消費してしまい、南進作戦が実施出来なくなってしまうということになります。
交渉に妥結の可能性が見えない以上、備蓄分が有る間に南進作戦を実施してインドネシアの油田地帯を押さえてしまうしか選択肢はありません。ならば日本としては戦争準備が整い次第、早期に日米交渉を打ち切って戦争を開始するしかなくなったのですが、その場合、アメリカが交渉継続の姿勢を見せている限り、アメリカの表向きの和平意思を踏みにじる形になるので、アメリカの参戦を覚悟せねばならなくなりました。

実際、日本が交渉を打ち切ってイギリスやオランダの植民地を攻撃したぐらいでアメリカ国民が参戦を了承したかどうか微妙ですが、この1941年夏の時点ではロシア戦線ではソ連軍が総崩れになっており、大西洋の制海権はドイツに握られてイギリスへの軍需物資支援もままならず、北アフリカ戦線でもドイツのロンメル軍によってイギリス軍は押されまくっており、この上に日本がビルマやインドを押さえてしまえば事態は最悪となるのであり、とにかくルーズベルトはその状況を座視するわけにもいかず、何らかの理由をつけて強引に参戦するしかなかったのであり、日本の戦争開始と同時に自動的にアメリカはいずれにせよ参戦することになったと思われます。
また、日本がインドネシアの油田地帯を押さえたとして、そこで精製した石油を日本本土に運ぶシーレーンを確保せねばならなくなりますが、その途中の海域にはアメリカの植民地のフィリピンがあり、ここに駐留するアメリカ軍を放置しておくわけにもいかないので、どちらにせよ南進作戦開始時には同時にフィリピンを攻撃してアメリカ軍を追い払わねばならなくなります。そうなると自動的に日本とアメリカは交戦状態に入ることになるのでした。
そこで日本海軍はアメリカとの戦争を不可避と見て、日本軍の南進作戦とその後のシーレーン確保の最大の障害となるであろうアメリカ太平洋艦隊を開戦と同時に叩いておくことを企図し、太平洋艦隊の基地であるハワイ真珠湾への機動部隊艦載機による奇襲計画を秘かに立案しました。この計画は参加部隊と海軍上層部のほんの一部のみしか関知しておらず、日本政府にも知らされていなかったので、日本政府の通信を傍受し暗号を解読していたアメリカ側にも知られることはなかったのでした。
この真珠湾奇襲作戦を行うためには北西太平洋の海域を日本連合艦隊が通過せねばならず、冬場はこの海域に強い低気圧が発生し海が荒れるため作戦に支障をきたす恐れがあり、作戦実施は冬より前でなければなりませんでした。そこで海軍は冬より前の開戦を主張し陸軍の南進作戦準備の進捗状況も勘案して1941年10月開戦と決まりましたが、開戦を不安視する昭和天皇の強い意向を受けて近衛内閣は総辞職し、代わって和平交渉に活路を見出すための東条内閣が成立し、ギリギリの対米交渉が継続されたのですが事態打開には至らず、海軍の意向で交渉期限は11月末と決められ、日本政府内の通信を把握していたアメリカ政府はそのタイミングで日本が戦争に踏切りやすくなるように11月下旬に突如、それまでの交渉の経緯を無視するような強硬案ハルノートを提示し、これによって東条内閣も交渉継続を諦め、12月初旬開戦と決定したのでした。
この時点で既に日本連合艦隊はハワイに向けて出港していましたが、その動きはアメリカ政府には察知されていました。ただ、アメリカ政府に入ってくる日本軍の動向に関する情報は膨大で、この連合艦隊の動きはさして重要視されなかったと思われます。当時のアメリカ政府の最も警戒していたのは日本軍の南方への動きであり、特にフィリピンに対する攻撃が警戒されており、むしろ連合艦隊の動きは陽動と解釈された可能性が高いでしょう。そもそも真珠湾への艦載機による攻撃は当時の軍事技術では不可能とされており、まさか日本軍が真珠湾へ艦載機による攻撃を仕掛けるとは想像出来なかったと思われるのです。日本海軍、特にその機動部隊は当時はまだ全く本格的戦闘に参加しておらず、その実態は秘匿されており、アメリカ政府はその実力をかなり低く見積もっていたので油断したといえます。

こうして1941年12月8日、ハワイ真珠湾は日本機動部隊艦載機の奇襲攻撃を受け、アメリカ太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けました。ただ、地上施設は大した損害は受けず、アメリカ機動部隊はちょうど出港していて無事でありました。それでも機動部隊が護衛艦無しで行動することは不可能なのであるから、当分の間アメリカ太平洋艦隊が機能不全になるほどの大打撃を被ったことは間違いありません。
この際、日本外務省の不手際で宣戦布告が遅れて真珠湾攻撃が騙し撃ちの形になったと言われていますが、これは奇襲攻撃の成功を万全とするためにギリギリまで宣戦布告を遅らせるように外務省に要請した日本海軍の責任が大きいといえるでしょう。日本海軍は日清、日露の戦争でもそうでありましたが、必ず第一撃を騙し撃ち同然の奇襲で行う常習犯と言ってよく、開戦は11月末に決まっていたのですから宣戦布告は何時でも出来たのであり、それをあえて遅らせていたのは騙し撃ちの意図があったわけですから、結果的に騙し撃ちと責められても仕方ないといえるでしょう。
ただアメリカ政府も日本政府が開戦を決断したことは11月末時点で把握していたのですから、第一撃を受けたとしても厳密には騙し撃ちということにはならないはずです。開戦を悟っていたのなら日本軍の動きを読みきって迎撃態勢を万全にし、被害を最小限に止めるのが当然であって、それが出来ずに大損害を出したのは日本軍の実力を過小評価して油断しきっていたアメリカ政府の不手際に他ならないでしょう。その不手際を糊塗するために殊更に日本軍の卑劣を言い立てる必要があったのだといえます。そしてそれをそのまま戦時プロパガンダに使ったということでありましょう。
結局、国際法で戦争のルールというものは一応は決められてはいるが罰則規定があるわけではなく実際にはルール違反は罷り通っているのが実情であって、奇襲攻撃も勝つためには有効な手段であり、よほど悪質な騙し撃ちならいざ知らず、この場合のような十分に攻撃が予想される場合はそれほど責められるようなケースではないといえます。非難は戦時プロパガンダの域を出るようなものではないでしょう。ただ戦争であるから、勝者の側の戦時プロパガンダが公式の歴史とされてしまうのであるから、結果的にアメリカの主張する通りに日本軍の騙し撃ちであったということになっているに過ぎません。そして実際に騙し撃ちと言われても仕方ない面が日本海軍にもあったことは事実であり、それゆえ何となく日本による騙し撃ちという歴史観が長い間定着してきたのですが、最近は少し冷静になってきて、騙し撃ちとまでは言えないという意見も出てきているというところなのでしょう。
中にはルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていて国民の戦意高揚のためにわざとやらせたなどという極端な説も出てきていますが、これはさすがに非現実的でしょう。戦意高揚のためには日本に第一撃を撃たせれば十分なのであって、何も大被害を蒙る必要は無いのです。真珠湾を攻撃してくることを予測出来るまでに日本軍の実力も動向も読み切っていたのなら、返り討ちにした上で反撃を開始すればいいだけの話です。油断して大きな被害を受けてしまったので、いっそそのショックを国民を一致団結させるために使ったところ、上手く図に当たったというところでしょう。

日本は真珠湾攻撃と同時に、本来の戦争目的である南進作戦を開始し、アメリカ領フィリピンやイギリス領マレーやオランダ領インドネシアに陸軍を上陸させ、植民地軍を破って快進撃を続け、戦略拠点を着々と攻略していき、1942年3月までにインドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、インドネシア、タイ、ビルマに至る東南アジア地域一帯は日本軍の占領下に入りました。これは日本軍が周到に作戦準備をしていたのに比べ、植民地軍は日本軍の実力を過小評価して準備を怠っていたこともありますが、植民地軍の中が支配階級の白人層と現地民層とに分裂し、現地民兵士の戦意が低く裏切りが続出したこと、現地民が日本軍に協力的で植民地軍に対して非協力的であったことが日本軍のあまりに圧倒的な勝利の大きな原因であったといえるでしょう。
現地民が日本軍に協力的であったのは日本軍が植民地からの解放をスローガンとして掲げていたからです。こうした大東亜共栄圏構想が出てきた経緯としてはシナ国民党への支援ルート遮断、イギリスのアジア地域植民地の奪取、南方資源地帯の確保などであるので、植民地支配から現地民を解放するというのはあくまで日本側の総力戦遂行のための戦時プロパガンダに過ぎませんでした。ただ、プロパガンダということは日本国民をその気にさせないと意味は無いわけで、日本国民の多くは本気でその理想を信じて戦争に協力していったのです。もともと幕末以来のアジア主義が国民意識の底流にあったため、このプロパガンダに共鳴しやすかったといえます。言い換えれば、そうした国民意識を読み切った上で日本政府が植民地解放戦争というスローガンを採用したのだといえるでしょう。だから日本軍の兵士達、いや兵士だけでなく将校から司令官に至るまで、植民地解放という理想はほとんど本気なのであって、そうした本気というものは伝わるもので、現地民にその本気に共鳴する者が多く出てきたのであります。また、それだけ白人国家の植民地支配が酷いものであったともいえるでしょう。

日本国民は大東亜戦争開始以降は明るく活き活きとした気持ちになったという証言が多いが、それはこうした大東亜共栄圏建設という理想に共鳴したことが理由の1つとして挙げられるでしょう。これはつまりは戦時プロパガンダによって気分が高揚したということなのですが、これは他の国も似たようなもので、例えばドイツの場合はそれが「千年王国の建設」であったのであり、アメリカの場合は対ドイツ戦においては「自由を守るための戦い」、対日本戦においては「真珠湾の騙し撃ちへの復讐」であったのであり、これらの場合も国民はそのスローガンに高揚して活き活きと国家のために奉仕したのでした。
しかし、実際、これらの国々で人々が活き活きとして社会に活力があったのは戦時プロパガンダのおかげというよりは、実際に経済が好調だったからです。むしろ経済が好調だったから戦時プロパガンダに乗せられて人々が活き活きと忙しく立ち働くことになったのだといえます。戦争ほど巨大な公共事業は存在しない。国家が総力戦に突入すると、戦場になっている地域以外は軍需産業を筆頭に産業が活気づいて経済成長を成し遂げるのです。アメリカもドイツも日本もこの段階では本国は戦場にはなっておらず、戦争特需に沸き返っていたのです。
アメリカはこの戦争特需で大恐慌の傷跡からようやく立ち直り軍需物資調達のために産業がフル回転し戦後の経済発展の礎を築きました。ドイツではこの時期にロケットや原爆など驚異的な新技術の研究が進められました。そして日本では統制経済体制が求める物資供給先を軍需物資が埋めることにより、開戦時にあれほどこだわった海外権益にさほどのこだわりが無くなり、1943年あたりになると東南アジア諸国の独立を承認したり、シナにおける権益の放棄や撤兵の方針が提起されたり、果ては朝鮮の独立に傾いたり、まさに理想主義的な大東亜共栄圏の建設に実際に踏み出すまでになったのでした。
そもそも日本が対英米戦に突入していったのはシナにおける権益にこだわったからであり、こうなれば何のために戦争を始めたのか分からないといえます。しかし開戦時には戦争特需という恩恵は無かったわけだから、やはり開戦しか選択肢は無かったのだといえます。こうして、いざ開戦してみると戦争目的が当初のものから別のものに変わっていくという奇妙なことになってきました。しかし、この後、皮肉なことに戦局は急速に暗転していくのでした。

アメリカ国民はもともと参戦を望んでいませんでした。アメリカ人というのは基本的に内向きでアメリカ大陸以外のことに関わり合いになりたくない性向があるからです。これは逆に言うと外部の人間にアメリカ内部のことに干渉されることを極度に嫌うという性向ともいえます。そして実際にアメリカ本土はそれまで世界情勢とはあまり関係なくのんびりとしていました。そこに突然の真珠湾への奇襲攻撃です。真珠湾のあるハワイは離島とはいえ植民地などではなくれっきとしたアメリカ本国の一部であり、そういう本国の土地に外国軍の攻撃を受けるというのは近代以降は初めてのことでありました。そういう事態に慣れていないアメリカ国民はパニックに陥りキレてしまいました。精神的に一線を超えてしまい、非常に不安定な状態になってしまったのです。そこに卑怯な日本人をやっつけようと煽られてすっかり戦争モードになってしまい、更に自由のための戦いだといってドイツと戦ってヨーロッパを解放しようと煽られれば、もうそれを拒否する空気などほとんど何処かへ吹き飛んでしまいました。
こういう普段は喧嘩しない臆病な人間が追い詰められてキレた時ほど怖いものはありません。加減というものが分からないからです。アメリカ軍の戦い方は極めて臆病ゆえの用意周到さと、臆病の裏返しの残忍さを備えたものとなったのでした。こういう軍隊は確かに強いが、不祥事も多く引き起こします。それゆえ戦争が終わった後、自らの不祥事を糊塗するために政治的プロパガンダに頼ることになってしまうのでした。
こういうわけでアメリカ国民はドイツとの戦争にも踏み切る決意を固め、もともとアメリカ政府の参戦の最大の目的はイギリス救援であったので、さっそくドイツとの戦争態勢に入りました。それを見てとってドイツもアメリカに宣戦布告し、こうして1941年12月、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争は一体化し世界大戦の様相となったのでした。
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