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現代史についての雑文その3  連合国の巻き返し
アメリカは参戦当初はアジア太平洋戦線よりもヨーロッパ戦線のほうに力を注ぎました。これはまずヨーロッパ戦線での連合国側の劣勢がかなり切羽詰まっていたというのが最大の理由で、更に言えば、真珠湾攻撃で太平洋艦隊が壊滅的打撃を受けてしばらくまともに機能しなかったので太平洋戦線で反攻作戦の立てようが無かったというのも理由でありました。また日本軍の実力やアジア植民地の現地民の反感などを過小評価していたため、太平洋艦隊の態勢を立て直すまでのしばらくの間は各国植民地軍だけで東南アジア地域では日本軍の攻撃を持ちこたえることは出来るだろうと楽観視していたともいえます。
そこでアメリカはまずイギリスへの支援やアメリカ軍自体のヨーロッパへの派遣を円滑に行うために北大西洋の制海権確保に着手しました。ドイツは第一大戦の敗戦国であったので軍艦の保有を制限されており、一方イギリスは伝統的に海軍国で、海軍力はイギリスのほうがかなり優勢でありました。それなのに北大西洋の制海権をドイツが握っていたのは、ドイツが保有制限枠に引っ掛からない潜水艦を大量に建造して非対称戦を行っていたからです。またドイツは潜水艦を使って徹底的な通商破壊戦、つまり軍艦ではなく主に輸送船や民間の通商船を沈め、海外植民地やアメリカとイギリス本国を分断するという戦い方をしていました。こういう作戦に慣れておらず有効な対処が出来ていなかったイギリスは兵糧攻めにあっていたわけです。
そこでアメリカ海軍はドイツ海軍の通商破壊戦を徹底研究し、潜水艦に対しては駆逐艦と航空機による対処が最も有効と判断し、イギリス海軍と共同作戦でドイツ潜水艦を沈めていく作戦を実施することにしましたが、すぐに北大西洋の制海権を取り戻すことが出来たわけではありません。広い北大西洋に大量に航行する敵潜水艦を捕捉するのは手間のかかることだったのです。なお、この時のアメリカ海軍による通商破壊戦の研究成果はさっそく太平洋戦線で活用され、アメリカ海軍は潜水艦を大量に建造して日本の海上輸送路に通商破壊戦を仕掛けていくようになります。
とにかく北大西洋の制海権はなかなかアメリカ海軍も確保出来ずにいたのでした。ましてや地中海は完全にドイツの制海権下にあり、北アフリカではチュニジアあたりを根拠地としたロンメル軍がエジプトのイギリス軍を押しまくり、イギリス軍は1942年夏には降伏寸前まで追い詰められていました。そこでアメリカは北アフリカのイギリス軍に援軍を送ることにしましたが地中海経由で援軍を輸送出来ないので、南大西洋から喜望峰を回ってインド洋に出て紅海軽油でエジプトに至る超長距離輸送で援軍を送りました。これによってイギリス軍はなんとか戦線を持ちこたえることに成功し、北アフリカ戦線での連合国軍の反撃が開始されることとなりました。だが、とにかく輸送路が長距離であったので効率的な支援とはいかず、戦局を一気に逆転するほどの大増強とはいかず、この後もしばしば連合国軍はロンメル軍に押し込まれることになり苦戦は続いたのでした。

北アフリカ戦線ではこのように数的劣勢にありながらドイツのロンメル軍が奮闘していたのですが、ドイツ政府は北アフリカへの軍の増派をしませんでした。ヒトラーにとって本来の主敵はソ連であったので、ドイツ軍は主力のほとんどをロシア戦線に投入していたからでした。そのロシア戦線では1941年6月の独ソ戦開始以降、ソ連軍が潰走しドイツ軍はモスクワに迫っていましたが、例年より早い冬の訪れによって膠着状態に陥り、ドイツ軍は伸びきった戦線のために補給に苦しむようになって明けて1942年の春以降は進撃の勢いが衰えました。
それでもドイツ軍はソ連領内奥深くに広大な占領地を得ることになり、こうした新しい事態を受けて1942年1月頃にはヒトラーはヨーロッパのユダヤ人の追放先としてマダガスカル案を却下して、ロシア地方に移住させることにしました。マダガスカルへの移送には船舶輸送が必要でしたが、ドイツ海軍もインド洋の制海権までは手が回らず、インド洋には連合国の船舶も出没していたので危険があり、だいいちヨーロッパ在住ユダヤ人300万人を全て移送する船舶を調達するのはあまり現実的な話ではありませんでした。ヒトラーはロシアをヨーロッパとは見なしていませんでしたから、ユダヤ人はソ連を滅ぼした後、陸路でロシア方面に追放してしまえばいいだろうと思うようになったのです。
ただヒトラーの本音は別のところにありました。それは定説となっているユダヤ人絶滅などではなく、独ソ戦開始以降、大軍をロシア方面に送り続けていたためにドイツは労働力不足となり、新たな安上がりな労働力が必要だったということです。つまりヒトラーはロシア方面へのユダヤ人移送の準備段階という口実でヨーロッパのユダヤ人をポーランドやハンガリーなどの東欧地域の強制労働収容所に送り込んで、そこで奴隷的労働で軍需物資の生産にあたらせるようになったのです。要するにユダヤ人強制収容所はロシア戦線の後方兵站工場であったのです。ナチスはもともとユダヤ人の人権など認めていませんから、劣悪な環境で過酷な労働を強いることになり、伝染病なども蔓延して多くのユダヤ人が生命を落とすことになりました。まさに悪魔の所業と言うべきですが、それでもユダヤ人が死に絶えてしまっては奴隷労働力が失われてしまってナチスも困ってしまうので、生かさず殺さず程度の最低限のケアはしていたようです。だからこれは絶滅収容所というものではありません。
この手の強制労働のための収容所の設置に関してはソ連が世界一の規模で既に実施しており、ナチスはそれを模倣したに過ぎません。ソ連は1920年代から1990年の冷戦終了まで大規模に冷酷な強制労働収容所の運営を続けており、その中には日本人捕虜のシベリアにおける強制労働も含まれますが、それらはソ連経済の根幹を支えるものでありました。そこで犠牲となった天文学的な人数に比べれば、ドイツの強制収容所で亡くなったユダヤ人の人数など取るに足りないものです。こういう強制労働収容所の原型はかなり昔から世界各地に存在し、アメリカにおけるインディアンに対する措置などは露骨な絶滅政策とも言えます。またアメリカは第二次大戦時に日系人を強制労働収容所に収容しましたし、沖縄戦の後で民間人を強制収容所に入れています。共産主義国家では強制労働収容所は不可欠のもので、戦後はカンボジアのポル・ポト政権のものが特に凄惨な例ですが、現在でもシナや朝鮮には多くの強制収容所が存在し、これらの実態は未だにヴェールに包まれています。要するに、ナチスドイツのユダヤ人に対する所業は鬼畜の所業ではありますが、アメリカやソ連、シナなどにそれを非難する資格があるとも思えないということです。

さて、一方、ドイツ軍に奥深くまで攻め込まれてしまったソ連軍のほうは国内主要地の大部分をドイツ軍に押さえられてしまいましたが、1942年になると大戦に参戦したアメリカが大っぴらにソ連への武器や物資の支援を開始したため、徐々に戦力を盛り返すことが出来たのでした。このソ連への物資補給もインド洋からイラン経由で行われました。
そして6月のスターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗れたのをきっかけにソ連軍の反攻が始まり、ここからロシア戦線では独ソ両軍の大軍同士の互角の戦いが各所で繰り広げられることとなり、ロシア戦線が第二次大戦の帰趨を決する決戦の場となりつつあったのでした。なお、この6月にアメリカではドイツの原爆研究に対抗して原爆開発計画であるマンハッタン計画が極秘裏にスタートしています。
ロシア平原でドイツ軍と一進一退の攻防を繰り広げるソ連軍は、なんとか戦局を打開するためにドイツ軍の主力を別方面に振り向けさせようとし、アメリカとイギリスに対して何度もしつこく第二戦線の構築を要求してきていました。それはドイツの南方、地中海方面から連合国軍の大攻勢をかけて枢軸国中最も弱体のイタリアを陥落させてドイツを南から圧迫するというものでした。そのための連合国の反攻の拠点は北アフリカということになりますが、北アフリカにはドイツのロンメル軍が頑張っていたので、まずは北アフリカに連合国軍の大軍を上陸させねばなりません。地中海の制海権はドイツが握っていたので危険な作戦でありましたが、1942年秋頃にはようやく北大西洋の制海権を連合国側が押さえ、11月にこの一大反攻作戦は強行され、北アフリカに地中海経由で連合国の大軍が送られたのでした。
これ以降、さしものロンメル軍も劣勢となりましたが、ドイツ政府はそれでも東部戦線から北アフリカへ向けて主力軍を送ることはしませんでした。それだけ東部戦線を重視していたのです。これで北アフリカの戦局はほぼ決定し、1943年1月にはモロッコのカサブランカでルーズベルトとチャーチルが会談してドイツに無条件降伏を勧告する余裕も生じるまでになったのでした。その後ロンメル軍は次第に追い詰められ、1943年5月にはとうとうドイツ軍は北アフリカから撤退し、地中海の制海権は連合国側が握ることとなりました。
これによって連合国軍が地中海方面からヨーロッパ侵攻を行うことは確実な情勢となり、ヒトラーもさすがに東部戦線の主力軍の一部を割いてヨーロッパ戦線に回すことを決定し、その前に東部戦線でソ連軍に大きな打撃を与えて戦局をドイツ有利な状態で安定させておくため、1943年7月にクルスクに戦車部隊を結集してソ連軍と一大決戦を行いました。戦闘はドイツ軍が優勢でありましたが、その最中にチュニジアからシチリア島に向けて連合国軍が上陸作戦を敢行し、ヨーロッパ方面へ戦力を回す必要が生じたのでドイツ軍はクルスクから撤退することとなり、ソ連軍は追撃態勢に入り、これによって東部戦線でのソ連軍優位が決定的となりました。そして連合国軍の侵入を受けたイタリアでは政変が起きてムッソリーニが失脚し、9月にはイタリアは連合国軍に降伏、ムッソリーニは脱出して北イタリアを拠点としてドイツと共に抵抗を続けることになりましたが、とにかく三国同盟の一角であるイタリアはこれで実質的に離脱し、ヨーロッパ戦線における連合国側の優勢もまた決定的となったのでした。

この間、アジア太平洋戦線はどうなっていたのでしょうか。日本軍は1942年3月までに東南アジア地域を全て手中に収め、4月には海軍機動部隊がインド洋に進出してイギリス東洋艦隊を撃破してインド洋東部の制海権を握りました。これで日本軍はインド上陸作戦も可能となり、大東亜共栄圏構想の当初の構想通りにインドへ侵攻し、インド独立勢力と呼応してイギリスの海外最重要植民地であるインドを解放してしまえる可能性も高くなったのでした。もしこのまま日本軍が作戦を継続して1942年秋までにイギリスがインドまでも失陥するようなことがあれば、その時点で北アフリカではまだ大反攻作戦は実施されておらずソ連と英米の間はまだギクシャクしておりましたし、ロシア戦線でもドイツ軍はまだ互角に戦っていたことから考えて、戦意喪失したイギリスがドイツとの講和に傾いた可能性も十分あります。
あるいはインド解放作戦まで一気に行う余裕は陸軍には無かったかもしれませんが、少なくとも陸軍はセイロン島攻略作戦は行うつもりでありました。1942年夏までにインド洋の中央に位置するセイロン島を攻略して海軍の拠点とすれば、既にイギリス海軍は日本海軍を恐れてマダガスカルまで撤退していたのですから、インド洋の西側も日本の制海権下に入ることになりました。そうなればアメリカによるソ連軍への支援や北アフリカのイギリス軍への補給や増援も不可能となります。ならば日本軍がセイロン島を押さえればソ連軍は東部戦線で攻勢に出ることは出来ず、北アフリカのイギリス軍はロンメル軍に撃滅されてしまう可能性が高くなるのです。
そうなれば大戦の様相は大きく変わっていた可能性もあります。アメリカは打つ手が無くなり、ソ連軍とドイツ軍の戦闘は膠着状態が続き、北アフリカを失ったイギリスはドイツと講和してソ連と敵対したかもしれません。しかし日本軍はこの時点でセイロン島侵攻作戦を実施しませんでした。それは海軍が機動部隊を太平洋方面へ引きあげてしまったからでした。つまりインド洋の制海権をみすみす放棄してしまったのです。いくらなんでも日本陸軍も海軍の支援無しでセイロン島攻略作戦は実施出来ませんし、そもそも海軍がインド洋の制海権に興味が無いのでは、この作戦を実施する意味自体が無いのです。

第二次大戦を戦った国家の中で日本だけの際立った特徴として、陸軍と海軍の連携が非常に悪かったことがあります。もともと大東亜共栄圏の構想は陸軍主導で出てきたもので、大東亜戦争の初期作戦であった南進作戦も陸軍の立案した作戦に海軍が協力するという形で進められました。だから海軍としてみれば大東亜共栄圏だとか植民地解放だとかインドだとかインド洋支援ルート遮断だとか、そういうことにはほとんど興味は無く、もともと大東亜戦争自体、陸軍がシナ駐兵にこだわって軍艦を動かす重油が輸入出来なくなったせいで引き起こすことになってしまったものと捉えており、むしろ海軍は巻き込まれて迷惑しているという程度に思っていました。だから陸軍の都合にこれ以上引きずり回らされるのにはウンザリしていたのです。海軍は海軍なりの戦争の構想を持っており、それは単純明快なもので、日本にとって最大の脅威であるアメリカ太平洋艦隊を撃滅すればアメリカは戦意喪失して講和に応じるというものでありました。
ただそのアメリカ艦隊撃滅のシナリオについては海軍内部でもまた2つの考え方に分裂していました。1つは攻めてくるアメリカ艦隊を日本側の本拠地近くで迎え討ち撃滅するという迎撃作戦の考え方でありました。海戦は本拠地近くで戦う方が断然有利なのであり、また日本軍はアメリカ本土方面へ侵攻するつもりも無かったので、この迎撃作戦がごく当たり前の考え方であり、伝統的な日本海軍の戦法でありました。元来の伝統的な迎撃作戦のシミュレーションは日米戦争の場合は米艦隊がハワイから日本本土へ向けて侵攻してくることを想定して、日本本土から出撃した連合艦隊が小笠原諸島沖で米太平洋艦隊を迎撃するというものでありました。しかし陸軍の南進作戦を伴った大東亜共栄圏構想が唱えられるようになるとフィリピンを巡って日米決戦が行われる公算が高くなり、そのためハワイからフィリピンへ向かう米太平洋艦隊をマリアナ諸島沖で迎撃する必要が生じ、そのための日本連合艦隊の新たな出撃拠点としてマリアナの南にあるトラック諸島が基地化されるようになりました。つまり1941年の日米開戦直前の時点の日本海軍の迎撃作戦の決戦場はマリアナ沖と想定されていたことになります。
しかしこの迎撃作戦の場合、アメリカ艦隊が攻めてくるまで待たなければなりません。そこでもし開戦しても米太平洋艦隊がすぐに攻めて来ずに、国力で圧倒的に勝るアメリカが戦時経済体制をフル回転させて艦隊を大増強してから攻めて来たとしたら日本海軍には勝ち目は無くなるという危惧が生じました。それゆえ、迎撃作戦とは別に、開戦したら日本海軍のほうが早期に積極的にアメリカ側の本拠地のほうへ攻めていって、まだ増強していないうちの米太平洋艦隊を撃滅し、その上で米海軍の太平洋における本拠地であるハワイを奪ってしまい、アメリカ側の戦意を挫いて早期講和に持ち込むべきであるという考え方が新たに海軍内で唱えられるようになっていきました。これが2つ目の考え方である攻勢作戦です。この攻勢作戦派の戦争思想に則って開戦時の真珠湾攻撃が行われたのでした。

ところが真珠湾では米機動部隊を討ち漏らしてしまいました。この米機動部隊については日本海軍も気にはかけていたのですが、開戦後しばらくは陸軍の南進作戦への協力が優先され、それがほぼ完了した1942年3月あたりに海軍は再び太平洋方面で米軍への対処をどうするかについての作戦検討に入りました。この際、海軍内部では相変わらず作戦方針の統一が図られず、迎撃作戦と攻勢作戦の併用となりました。
このうち迎撃作戦のほうは大東亜戦争初期の戦果が予想以上に大きくフィリピンからアメリカ軍を完全に追い出してしまい米太平洋艦隊が当面ハワイからフィリピンに向うという可能性は無くなりマリアナ沖が決戦場として想定されなくなってしまったため、作戦方針の変更がなされました。
フィリピンから逃げだしたアメリカ陸軍司令官マッカーサーはオーストラリアに逃げ込み反攻の拠点としました。迎撃作戦の思想に則るならばマッカーサー軍を乗せた米艦隊がフィリピン奪還のために北上してきたところをフィリピン南方海上で待ち受けて撃滅すればいいのですが、オーストラリアは日本海軍にとって最重要ともいえる油田地帯を確保したインドネシアのすぐ南にあり、このオーストラリアが敵側の拠点となっている状況は非常に危険な状況と海軍では受け止めました。海軍の艦艇は石油が無いと動けなくなるからです。
そこで海軍はオーストラリア侵攻作戦を提案しましたが陸軍に兵力不足を理由に断られてしまいました。もともと陸軍はシナ国民党への支援を断つことや東南アジアでのイギリス勢力の排除が大東亜戦争の第一目的であり、オランダ領インドネシア侵攻は海軍のために仕方なくやったことという意識が強く、その防衛のために更に大兵力を出してオーストラリアを攻めるなど思いも寄らないことだったからです。
オーストラリア侵攻作戦を断念した海軍の迎撃作戦派は、次にニューギニアからソロモン諸島、フィジー諸島、サモア諸島を占領してそこに海軍の防衛線を築いてオーストラリアとハワイの間のシーレーンを遮断する米豪遮断作戦を立案し、これは陸上兵力が少なくて済むということで陸軍も了承しました。この防衛線が出来上がればハワイから出撃する米太平洋艦隊はこの防衛線を突破しようとしてくるのでソロモン諸島の北の海域こそが日本海軍の迎え撃つ決戦場ということになります。それは日本海軍の根拠地トラック島の南方海域ということになり、その方面の守りは手薄であったので、まずは日本軍は1942年3月にニューギニア北岸に進出し、その北方のニューブリテン島のラバウルに航空基地を建設し、同時にこのラバウルを米豪遮断作戦の防衛線形成の支援基地としようとしました。
ところがこのラバウルの南方、ニューギニア南岸の最大都市であるポートモレスビーには連合国軍の飛行場があり、ラバウルはその脅威に晒されたので、5月に日本海軍は機動部隊を派遣してポートモレスビーを海から攻略しようとしたのですが、珊瑚海で米機動部隊と遭遇して戦闘に突入し、互いに損害を出して撤退しました。ここで日本軍が機動部隊を増援してポートモレスビー攻略および敵機動部隊殲滅を強行しなかったのは、別の海域での一大決戦が迫っていたためでありました。

それは海軍内の攻勢作戦派の立案した全く別の作戦でした。攻勢作戦派はハワイ攻略を大目標としていましたが、さすがにもう奇襲は通用しないので、まずは真珠湾で討ち漏らした米機動部隊をハワイからおびき出すために太平洋におけるハワイに次ぐ米海軍の根拠地であるミッドウェー島侵攻作戦を立案したのです。これは島への侵攻よりも米機動部隊をおびき出すのが目的であり、そうして米機動部隊を撃滅した後にミッドウェー、次いで裸になったハワイを攻略し、アメリカ西海岸に脅威を与えて早期講和に持ち込むというものでありました。また同時にアラスカ西方のアリューシャン列島も攻略し航空基地化してアメリカ本土への爆撃も行いアメリカ国民の戦意を挫く計画も立てました。このミッドウェーとアリューシャンへの侵攻作戦の実施が1942年6月だったのです。
この作戦は真珠湾のように奇襲でもなく敵の本拠地近くでの本格的戦闘で非常に危険度が高いものであったので日本海軍は万全の態勢で臨むはずでありました。ところが5月の珊瑚海海戦で日本機動部隊は損害を出していたためミッドウェーでは万全の態勢では臨めなくなったのです。それでも日本側は戦力的にはやや優勢であったのですが、結局ミッドウェー海戦では作戦ミスで敗北して空母4隻を失う大損害を出して撤退しました。確かに空母や艦載機を多数失ったのは痛手ではありましたが、空中戦では日本側が勝っており、油断して空母が沈められただけのことであり、艦載機の搭乗員の損害は軽微でありました。攻め込んでいって撃退されただけのことで、北西太平洋の制海権も資源もシーレーンも引き続き日本が握っており日本本土は戦時経済で賑わっていました。空母や艦載機はまた作り直せばいいのであり、そもそもミッドウェー海戦後も日米海軍力はまだ日本がやや優勢でありました。再びミッドウェーやハワイを脅かす作戦も可能でありましたし、アリューシャン作戦のほうは成功しており、この後9月にはアリューシャンを飛び立った日本軍爆撃機がアメリカ本土空襲を行ったりもしています。
ところが日本海軍の攻勢作戦派はミッドウェーの敗戦で何故かひどく意気消沈してしまい、二度と積極的攻勢の作戦立案をしなくなってしまったのです。それならそれで迎撃作戦に一本化されて好都合といえば好都合なのですが、この攻勢作戦派の連中は海軍に2つの大きな悪影響を残してしまいました。それはミッドウェーの作戦ミスを隠蔽するために海軍以外に対しては戦果の虚偽報告をしたことと、海軍内部に対しては敗戦の原因を自身の作戦ミスではなく敵側の基地航空隊の存在であると報告したことです。前者の戦果の虚偽報告はこの後日本海軍の悪弊となり、陸軍や政府に対しても徹底的に嘘の誇大戦果が報告され続けたため、戦争後期の作戦計画や政治判断において重大な判断ミスを何度も引き起こす原因となりました。そして後者の誤った戦訓は地上基地航空隊に対する過大評価に繋がり、同時に敵基地航空隊に対する過度の警戒心や恐怖心を海軍全体に抱かせるようになり、この後のガダルカナルやニューギニアの戦いに大きな影響を与えていくことになったのです。

まずニューギニア南岸のポートモレスビーに敵側の航空基地があるという理由で海軍機動部隊を近づけることを躊躇するようになり、北岸に駐屯していた日本陸軍部隊を制空権の無い中で山脈越えルートでポートモレスビーに進撃させるという無謀な作戦が立案されるようになり、1942年7月に泥沼のニューギニアの陸上戦が始まることになりました。
また、基地航空隊への過大評価と機動部隊を温存したい意識とが合わさって米豪遮断作戦に機動部隊を使わず、離島に飛行場を建設して不沈空母化して代用しようという計画が採用され、7月に手始めとしてソロモン諸島のガダルカナル島に海軍設営隊を送って飛行場を作らせることになりました。
ところが8月にこのガダルカナル島を米軍海兵隊が上陸して占領してしまい、出来あがった飛行場は米軍に奪われてしまったのです。ならば日本側も機動部隊をつけて大輸送船団で陸軍の大部隊を送り込んで島と飛行場を奪い返してしまえばいいのですが、ミッドウェーの誤った戦訓のせいで日本海軍は飛行場の敵航空兵力を恐れて機動部隊を島に派遣しようとはしなかったのです。それでもさすがに陸軍部隊は送り込みました。しかし、陸軍は海軍の要請を受けてシナ戦線や満州から部隊を貸すわけですが、海軍が地上戦について無知なのと陸軍にあまり貸しを作りたくないからなのか、常に過小な兵力ばかり要求して、それが敵の攻撃でやられるとまた過小な兵力を要求するという、兵力の逐次投入という愚策中の愚策をとってしまったのです。
ただでさえそんな愚策を犯している上に、輸送船の護衛に機動部隊をつけないものだから制空権の無い中での上陸作戦や補給作戦となり、護衛艦隊はガダルカナルに近づくとすぐに敵の基地航空機を恐れて輸送部隊を置いて逃げ帰ってしまうので、陸軍部隊の兵員や物資には大きな損害が出て、地上部隊は常に人員や物資の欠乏状態での戦闘を強いられました。しかも島の制空権は米軍が握っているのだから日本軍は常にジャングルに潜んでの大変苦しい戦いとなったのです。

その一方で日本海軍はこの海域でしばしば米艦隊との海戦に勝利し、1942年10月にはとうとう米海軍の太平洋戦線での稼働空母はゼロになってしまいました。しかしいくら海戦で勝利しても日本海軍は米国側の輸送船を攻撃しなかったのでガダルカナルの米軍は増強されていき、いつまでも島内の戦局は米軍有利であったので飛行場は米軍の手中にあり、日本海軍の艦艇は島に近づけませんでした。日本海軍には艦隊決戦の意識が強すぎ、また輸送船を攻撃するなど卑怯であるという意識があったのか、とにかく通商破壊戦という意識が全く無かったのでした。それに比べ、北大西洋でのドイツ潜水艦との戦いで通商破壊戦を徹底研究した米海軍は通商破壊戦の意識が非常に高く、潜水艦を使って日本の輸送船を沈めまくりました。
本拠地から遠い海域へ行こうとすればその分その途中で狙われるリスクが高くなります。だから海戦の場合は迎撃作戦は本拠地の近くのほうが良いのです。このソロモン諸島は日本海軍にとっては既に迎撃作戦の決戦場としては補給路が長大になり過ぎており、迎撃作戦の体をなしていなかったのです。しかしそれでも対策をとれば被害は少しでも減らすことは出来たはずです。しかし艦隊決戦しか頭に無い日本海軍はこの米軍の通商破壊戦に対してまともに対策をとらなかったのでした。また逆に米軍輸送船に対して潜水艦で通商破壊戦を仕掛けても良かったのです。日本海軍にも多数の潜水艦があったのですから。しかし日本海軍には潜水艦を有効活用するという発想もありませんでした。これでは戦線を後退させて米軍の補給路を逆に長大にして真の迎撃作戦の形にしてもその強みは発揮できません。
とにかくこのように日本の輸送船が沈められまくったためにガダルカナルに送られた日本軍将兵は多くが海に沈み、島に上陸出来た将兵も武器弾薬食糧が不足してまともに戦えなくなりました。あまりに多くの輸送船が沈められて日本側は艦船不足に陥り補給が出来なくなってしまったので海軍は仕方なく駆逐艦を使って輸送を行うようになりました。駆逐艦は軍艦の中で最も小型で船足が早く小回りがきいていたので輸送に適していると判断されたのでしょう。また艦隊決戦しか頭に無い日本海軍においては駆逐艦は護衛任務ぐらいしか価値の無い艦として軽く見られていたのでありましょう。しかし駆逐艦こそは対潜水艦戦闘において最重要の働きをする艦なのであって、通商破壊戦に対抗するために不可欠の戦力でありました。その駆逐艦を見当違いに輸送船代わりに使って消耗させて、多くの駆逐艦が本来の戦力を発揮出来ずに潜水艦攻撃を受けて沈むことになってしまいました。これは通商破壊戦への対抗手段を失うのと同時に、艦隊の防御力も著しく低下させることにも繋がっていくのでした。

こうしたガダルカナルの苦しい戦いを支援するために日本海軍はラバウル航空基地からガダルカナルまで爆撃機や護衛戦闘機を飛ばして敵の航空戦力に打撃を与えようとしました。空母を使わずにラバウル基地を使ったのはミッドウェー以来の基地航空への過大評価思想によるものです。しかしラバウルからガダルカナルまでは片道1000キロ以上離れており、燃料を満タンにして出撃しても往復に使う燃料分を考慮すればガダルカナル上空では正味30分ぐらいしか活動出来ません。それでは大した戦果を上げることは出来ないでしょう。それどころかパイロットの疲労は並大抵のものではないので撃墜されたり墜落する機が続出して航空戦力は消耗していくことになったのです。
このように日本側の航空戦力は甚大な損害を出し、一方で敵航空戦力には打撃を与えていないという現状がありながら、日本海軍は虚偽の華々しい戦果を発表し続けたので、この無謀な作戦は効果を上げているものとされて継続されることになり、しまいには空母の艦載機までラバウルに陸揚げしてこの無謀な作戦で消耗させていったり、陸軍航空隊の軍用機までビルマ方面から回してきたりするようになりました。大勝利の連続のはずなのに敵機はいつまでも存在して味方機は減っていくのだから普通に考えればおかしいと気付くはずなのですが、往々にして組織防衛のための建前のほうが事実よりも優先されるとこういう滑稽なことになるものなのです。こうして膨大な数の軍用機と熟練パイロットが失われていったのでした。
こうした愚かな戦いがガダルカナル島を巡って1942年8月から始まり、結局、どうにも補給が無理になってガダルカナルから日本軍が撤退した1943年2月まで半年間継続したのですが、ガダルカナル撤退後もソロモン諸島の他の島々でも同じような状況が継続したのでこの愚かな作戦は続き、またニューギニアでも1942年9月に陸路でのポートモレスビー攻略が大失敗に終わった後、ニューギニア北岸の日本軍に対してアメリカ軍が攻勢をかけてきて、それに対して日本軍がガダルカナルと同じようなパターンの愚かな作戦で泥沼の戦いに入り込み、結局、米海軍の通商破壊戦によって補給がままならなくなり1943年9月末にこの東部ニューギニアとソロモン諸島の放棄を決定するまでのほぼ1年ちょっとの間に、膨大な数の陸軍将兵、熟練パイロット、軍用機、輸送船、駆逐艦およびその乗組員が失われることになったのでした。

この間、日本海軍はソロモン海や南太平洋での洋上の海戦では何度も勝利を収め、相変わらず空母や戦艦など主力艦の数では優勢を維持していましたが、空母の艦載機はラバウルで消耗して実体は空洞化しつつあり、駆逐艦は消耗し、これによって日本海軍の対空、対潜の防御力は格段に低下し、通商破壊戦対策をとる意識も能力も無いために北西太平洋の制海権は形骸化しつつありました。
ニューギニアの日本陸軍はそれなりに奮戦して米軍にもかなり被害は出ており、なかなか米軍も進撃出来ていませんでしたが、日本海軍が通商破壊戦を行わない以上、いくらでも米軍は兵員や装備を補充することが可能で、そうして増強した米軍は制海権の形骸化した日本海軍を恐れることなくニューギニア北岸の海上を移動して日本軍の拠点をスキップして西へと進んでいき、1943年10月にはニューギニア西端からフィリピンを窺うようになったのでした。一方、ニューギニアには補給に事欠く有様となった20万もの日本軍将兵がジャングルの中に分断されて無意味に残されることとなりました。
アメリカ政府は1942年6月のミッドウェー海戦勝利の段階ではまだ日本海軍によるアメリカ本土西海岸への脅威に怯えていましたが、その後、日本海軍がソロモン諸島付近で意味不明な行動ばかり繰り返して一向にハワイやミッドウェーに向ってこないのを見て安心するようになり、西海岸の防備用に取っておいた兵員や物資、舟艇などを北アフリカにおける大反攻作戦に回すことが可能になりました。それによって1942年11月からの北アフリカ戦線の戦局の逆転が生じて、1943年5月の北アフリカからのドイツ軍撤退、7月のクルスク大戦車戦とシチリア島上陸作戦、その結果としての東部戦線でのソ連軍の優位確定と9月のイタリアの降伏へと繋がっていくのです。

アメリカ軍は1943年5月にはアラスカ西方のアリューシャン列島を奪還してアッツ島では日本軍守備隊を皆殺しにしました。これは日本兵が降伏を潔しとせず玉砕を選んだとも言われていますが、実際はアメリカ軍が日本兵の投降を認めす殺戮したという側面もあったと思われます。投降しても殺されるのだと分かればヤケクソのバンザイ突撃でも行うしかないのです。こうしたアメリカ軍の日本兵に対する残虐性はガダルカナル戦あたりから顕著になっており、この後、ニューギニアや太平洋の島々で抵抗出来なくなった日本兵に対する虐殺や捕虜虐待などの戦争犯罪が横行していくようになります。
これはもともとアメリカがインディアンを虐殺して作られた国であることから、黄色人種に対する憎悪や蔑視が教育によってなんとなく刷りこまれており、そこに真珠湾攻撃以降、本土を攻撃されたことによるパニック心理に戦争プロパガンダで日本への復讐心を徹底的に煽られて、完全にキレた状態で米軍の将兵が太平洋の過酷な戦場に送り込まれたことによって起こった現象だといえます。

アリューシャン列島とソロモン諸島を押さえたアメリカは南北から挟撃される心配無く日本海軍の本拠地トラック諸島方面へ進出してくることが可能になり、1943年8月には遂に開戦以降の大増強態勢が実を結んで大規模機動部隊が編成されて訓練を経て出撃準備態勢に入っていくことになります。9月にはヨーロッパ戦線でイタリアが降伏したため、連合国側に戦局にやや余裕が生じてアメリカが太平洋方面で本格的な反転攻勢を仕掛ける態勢が整ったといえます。
ニューギニア北岸を西進中の米陸軍の司令官マッカーサーはニューギニアを拠点としてパラオ諸島を経由してフィリピンに侵攻する作戦を主張しましたが、これはトラックとインドネシアの日本海軍の挟撃を受ける危険があると米海軍が主張し、まずはトラックの日本海軍基地を叩くために11月に新鋭機動部隊をハワイからソロモン諸島に送り、そこからマーシャル諸島方面へ侵攻させることとなりました。
一方、日本側は1942年夏以来のソロモン諸島やニューギニアでの消耗戦に多数の部隊をシナ大陸方面から引き抜かれて失った陸軍がさすがに海軍の作戦に疑問を覚えるようになり、ソロモン諸島やニューギニア、南洋群島の大部分を放棄して戦線を縮小して迎撃態勢を整備し直すことを主張するようになりました。1943年夏頃になると北アフリカを制圧して余裕の生じたイギリス軍がインドの兵力を増強してビルマを奪還しようという動きを活発にしてきていたのです。日本軍が1942年3月にビルマを占領して以来、重慶のシナ国民党勢力への主な支援ルートは塞がれ、インド東部からの細々とした空路輸送のみの支援となっていたのでシナ国民党もあまり活発な活動が出来ていませんでしたが、もしビルマを連合国が奪還すればシナ国民党への大規模支援が再開され、更にはイギリス軍やアメリカ軍が重慶に入って南京の日本軍へ大攻勢をかけてくる事態にもなりかねません。そうなるとシナ戦線も風雲急を告げてくるのである。そうした策動を機先を制して叩くために陸軍はインド東部のイギリス軍拠点に侵攻する作戦を立案し、そのために相当の兵力をビルマに集結させねばならず、これ以上太平洋方面に兵力を取られたくなかったのです。
この陸軍の提案に海軍は猛反発したが現実に広大になり過ぎた太平洋戦線を維持する補給もままならなくなっていたため、結局は陸軍の意見が通って1943年9月末に太平洋方面の前線をマリアナ諸島からフィリピン、ニューギニア西部を結んだラインまで後退させて絶対国防圏として設定しました。これでトラックも放棄されることになったので、海軍は本拠地をマリアナに移動させて補給体制を再建してマリアナを堅固な要塞と化し、中部太平洋を西へ突っ切ってフィリピンへ向かう米艦隊を南下して叩く態勢を整えればよいはずでした。

ところが日本海軍は放棄すると決めたはずの太平洋の島々にこだわり、連合艦隊を絶対国防圏の中に退避させつつ太平洋の島々には守備隊を残したままにし、相変わらず島にある基地航空隊を使ってアメリカの新鋭機動部隊を迎撃出来ると唱え、11月に米機動部隊がソロモン諸島に進出してくるとラバウルから相変わらずの超長距離攻撃を行ったのです。既に熟練パイロットを消耗し尽くしていた日本海軍航空隊がこの無謀な攻撃で戦果を上げられるはずもなく、大損害を出しただけであったのですが、海軍は相変わらずの誇大戦果報告を行い、敵機動部隊に大損害を与えたと言い張ったのです。そして今こそ南洋で敵機動部隊を殲滅する好機であると言って陸軍に島の守備隊への援軍や航空隊への支援を要請し、陸軍もついその気になってビルマ方面に回すはずの地上部隊や航空隊を太平洋の島々に出してしまったのです。
そして日本海軍は1943年11月から1944年2月にかけてギルバート諸島やマーシャル諸島に進出してきた米機動部隊に大損害を与えたという華々しい戦果を発表し続けたのです。そもそもソロモン諸島沖で大損害を受けたはずの米機動部隊がギルバートやマーシャルに進出してくるというのが不自然なのですが、あまりに派手な大戦果報告に目を眩まされて陸軍も誇大報告に騙されて太平洋の島々への増派を繰り返してしまいました。実際はギルバート諸島とマーシャル諸島の各島に点在する日本軍の航空隊はあっという間に壊滅し、米機動部隊は1つ1つの島に対して、制海権と制空権を失った日本軍守備隊の水際陣地を空襲と艦砲射撃で分断して組織的抵抗能力を奪った後に海兵隊を上陸させて兵力差で圧倒して各個撃破してあっという間に殲滅してしまったのでした。こうしてギルバート諸島とマーシャル諸島の島々の日本軍守備隊は1944年2月までに順々に玉砕し、米軍によって虐殺され、トラック島の海軍基地も米軍の空襲を受けて徹底的に破壊されてしまいました。
このあたりの島々はもともと放棄する予定であったので、島々の失陥自体は戦略上大きな影響はありませんでしたが、これらの戦闘で多数の兵員と軍用機を無意味に失ったことは日本陸軍のビルマ方面での作戦に甚大な影響を及ぼすことになったのでした。兵員の調達がなかなかつかなくなり作戦準備が大幅に遅れ、そうしている間にインド東部のイギリス軍は更に増強されていき、軍用機を大量に太平洋方面に引き抜かれたビルマの日本陸軍航空隊は作戦地域の制空権を維持出来なくなり、作戦の実施自体が不可能になりつつあったのです。
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この記事に対するコメント

大変、勉強になります。

ところで、アメリカ債の入札がスタートしますが
これだけの額をすんなりと消化できるのでしょうか?それとも日本が購入させられることは織り込み済みなんでしょうかw

本日NYダウの方は金融安定化策への失望売りがはいり、資金は債権市場に逃避しています。
10年債2.79%、30年債3.485%と低下していますが、前日は不安視され10年債が3%まで急上昇しました。

日本が為替にドル買い参入して円高を修正し
その原資でまた米債を購入すれば、奴隷国家のできあがりです。

今後の国際政治でキャスティングボードを握るのは、どうやら中国のようで・・・。台湾あやうし!





【2009/02/12 02:21】 URL | たろう。 #- [ 編集]



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