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現代史についての雑文その4  絶対国防圏の崩壊
1943年11月には東京で大東亜会議が開かれてアジア地域の現地民の仮政府の代表者が一堂に会して大東亜共栄圏の結束が誇示されました。これは開戦以降、着々と進んでいた大東亜共栄圏建設事業の1つの大きな画期をなすものとなりましたが、この頃にはギルバート諸島とビルマにはそれぞれアメリカ軍とイギリス軍がいよいよ反転攻勢を本格的に始めようとしていたのでした。
そして同じ11月にはカイロとテヘランで相次いで連合国側の首脳会談が行われたのでした。これらは一連の会談だったが、カイロではアジア戦線、テヘランではヨーロッパ戦線を議題とし、会談参加者もルーズベルトとチャーチルに加えて、カイロにはシナ国民党総統の蒋介石、テヘランにはソ連のスターリンが参加しました。このカイロとテヘランの会談から初めてもはやドイツと日本の降伏を決定的なこととして公式に戦後処理に関連した話題が出てくるようになります。


イギリスもアメリカも基本的に海軍国で、ドイツとも日本ともこの時点ではまだ大規模な地上戦を戦ってはいません。しかし戦争というものは最終的には地上戦で雌雄を決するものであります。特にこの大戦で連合国が求めるものはドイツと日本の無条件降伏であり、講和というものはあり得ないのです。ならば両国の国土に軍隊で攻め込まなければ戦争は終わらないのです。しかしイギリスもアメリカもまだドイツと日本とは局地的な地上戦しか戦っていません。大軍を繰り出して地上戦を戦い続けてきたのは、ドイツに対してはソ連であり、日本に対してはシナ国民党でありました。
ドイツを倒すための最重要の戦いはロシア平原の戦いであり、そこで勝利したソ連軍がドイツ本国へ雪崩れ込んで戦争は終わるのです。イギリス軍やアメリカ軍はあくまでその援軍なのです。敵の本拠地に地上軍で攻めていけば味方も大きな損害を受けます。イギリスはともかくアメリカはあくまで助っ人なのです。もともとヨーロッパ人同士が戦争をしていたのです。どうして助っ人のアメリカ軍が敵の本拠地まで突っ込んでアメリカの若者が大勢死ななければならないのでしょうか。そこまでやる必要は無いのです。そしてアメリカ軍がやらないなら大戦で疲弊したイギリス軍が独力でドイツと戦える状況でもないのでイギリス軍もアメリカと同一歩調を取ることになります。1943年11月時点では連合国内の認識はそういうものであったし、ヨーロッパの戦争はこの後実際にそのように展開していきました。
そういうわけなので1943年11月末に行われたテヘラン会談は、スターリンを中心とした会談でした。ソ連がドイツとの戦争を行いやすいようにアメリカとイギリスが何を協力するのかというのが会談のテーマでありました。だからスターリンの要望がほぼそのまま会談の結論となったと言ってよく、かなりソ連に都合の良い内容となりました。まずアメリカとイギリスは独ソ戦におけるソ連軍を支援するためにドイツ軍の背後を突く、つまり1944年春に北フランスに上陸作戦を行い西ヨーロッパに新たな戦線を構築することを約束しました。そして東ヨーロッパやバルカン半島における反ナチス勢力への支援はソ連が行うということになりました。これはあくまでナチスへの抵抗運動への一時的支援についての取り決めでありましたが、これによって暗に東欧やバルカン半島における戦後のソ連の影響力増大を米英が容認したことにもなりました。戦争の主役はあくまでソ連なのだから、主役にはそれにふさわしい報酬が支払われなければいけないのです。もちろん米英もこうしてソ連の権益を保証したことによってその戦後のソ連の仕切る東欧市場にも自分達が優先的に参画させてもらえると期待していたのであります。

アメリカとイギリスはカイロ会談についてもテヘラン会談と同じような考え方で臨んでいました。つまりテヘラン会談におけるソ連のスターリンの位置づけにシナ国民党の蒋介石を据えていたのであります。「日本と長年地上戦を戦い続けてきたのはシナ国民党の蒋介石である。もともと米英は蒋介石をずっと支援してきたのだし、善良な蒋介石を助けるために悪辣な日本と戦争を始めたのだと自国民には説明してきた。だから対日戦争の主役はあくまで蒋介石で、米英はその援軍であるべきである」と。そして「対日戦争の最重要の戦いはシナ大陸での戦いで、シナ大陸で蒋介石軍が日本軍を撃ち破って、その勢いで日本列島まで攻め込んで戦争は終わるべきである。アメリカとイギリスは蒋介石軍が戦いやすいように側面支援するのが主な役割となる」と。
そういう発想のもとで行われたカイロ会談は、テヘラン会談がスターリン会談であったのと同じように、蒋介石会談でありました。そしてその会談の結果発表されたカイロ宣言は蒋介石宣言そのものでした。そしてこれがその後の連合軍の対日基本方針となるのです。アメリカとイギリスはシナと共に戦い日本の無条件降伏を目指すことが約束され、戦後処理については満州や台湾をシナが領有し、朝鮮は独立させるということが宣言されましたが、台湾や朝鮮は第二次大戦とは何ら関係無いのであり、これはシナの伝統的な冊封体制的な歴史観や地理観に基づいた要求であり、蒋介石の主張がそのまま採用されたものでありましょう。つまりシナ大陸は丸ごと国民党に支配させ、戦後はそこでの商売で優先的に儲けさせてもらおうというのが米英のスタンスでありました。日本にはシナ軍を攻め込ませて無条件降伏させ、その処理は三国で話し合って決めようという感じでありました。

こういう感じであるから、対日戦争計画についても、この1943年11月のカイロ会談の時点では米英はあくまでシナ国民党を主役に据えてのシナ大陸での決戦、そしてそれに続けて朝鮮を経由しての日本侵攻を想定していました。そうでなければ台湾や満州、朝鮮などのような報酬がシナに与えられるはずがないのです。そこで米英の予定される役割ですが、まずイギリスはビルマを奪還して重慶への支援ルートを再開させてのシナ国民党軍を増強します。そしてアメリカはまずフィリピンを奪還します。これはもともとアメリカ領なのでなんとしても奪還することになります。そして奪還したフィリピンを拠点として米海軍が南方の資源を日本本土やシナの日本軍拠点に送るシーレーンを遮断します。また同時にフィリピンを中継基地にして米海軍がシナ国民党軍への南シナ海からの補給や支援を行います。ただフィリピン奪還がすぐに可能かどうか不透明なので、とにかくさしあたり潜水艦を使ってでも日本側のシーレーンへの通商破壊とシナ国民党への南シナ海からの支援は行います。これでシナ国民党軍は増強されていき逆にシナの日本軍は弱体化していきます。そして地上戦でシナ軍が日本軍を破ってまず華南を制圧し、そこにアメリカ軍が飛行場を多数作って日本本土に長距離爆撃機を飛ばして戦略爆撃を行い、日本本土を弱体化させ、同時にシナ軍は日本軍を撃破しつつ北上していきシナ全土を制圧した後、朝鮮半島を通って日本本土へ攻め込むということになります。だいたいこういうシナリオになります。
米英の役割があまり大したことが無いようにも見えますが、ヨーロッパ戦線も同時に抱え、本国も遠く離れた米英両国の場合、これぐらいが精一杯というところでしょう。あくまで主役はシナ軍であるのですから、これぐらいでいいのです。アメリカ国民の一般的理解としては、もともと日本とシナの戦争が起きて、その解決を仲裁していてアメリカが戦争に巻き込まれたということになっています。実際はそうではなくアメリカ政府は進んで戦争に参加していったのですが、とにかく助っ人であるアメリカの若者が多くシナや日本の地上戦で死ぬようなことはアメリカ国民も望んでいませんでした。ただアメリカ人の多くはフィリピンを取り戻し真珠湾の騙し撃ちを復讐して日本を凝らしめることが出来ればよかったのです。既に太平洋の島々で多くの日本兵を殺しまくり、真珠湾攻撃の首謀者である山本五十六連合艦隊司令長官は1943年3月に戦死させ、一定の復讐は果たしています。日本に勝ち目はもう無いとアメリカ国民は思っていた。後は東洋の猿同士が戦って、卑怯なほうの猿が負ければそれで良いというのがアメリカ国民の感慨であったでしょう。そういう状況であったから、アメリカ国民の多くはフィリピン攻略以外にはアメリカの若者が多く死ぬほどの危険な作戦に前のめりになる必要性は感じなくなりつつありました。
それにしても米海軍がやけに慎重なように見えますが、そういう批評はその後の戦争の経過、すなわちマリアナや日本本土の防衛線があっけなく崩壊していった歴史的事実を知っている現代人の視点でしかないでしょう。1943年11月時点においては、米海軍首脳部もそこまで日本海軍がニューギニアやソロモンの愚かな戦いによって弱体化しているとは思っておらず、むしろそれらの戦いにおいて主力の空母や戦艦を出し惜しみしていたことから考えて、マリアナを拠点に相当強固な防衛線を築きあげているはずだと予想していました。だから日本側の内懐である絶対国防圏の中に下手に手を出したら大火傷をするだろうと警戒していたのです。そういう意味では米海軍はアメリカ一般国民のように日本人を猿扱いして舐めきっていたわけではなく、フィリピン奪還作戦も苦戦を予想していました。ただフィリピン奪還だけはどんな苦戦が予想されてもアメリカは国家の威信を賭けてやらねばならないのであり、だからこそアメリカ軍もマリアナや日本本土方面などに目を向ける余裕は無かったのです。だからフィリピン攻略に集中しつつ、同時に通商破壊戦とシナ国民党への海からの支援を行うというのが米海軍の基本戦略でありました。

ただ、この対日戦構想は、シナ国民党軍がヨーロッパ戦線におけるソ連軍と同じ役割を果たすほどに精強であるということが前提となっていました。しかし現実にはシナ国民党軍は単なる軍閥の配下の匪賊の寄せ集めのようなもので、日本軍に対して組織的な戦争を遂行する能力など無く、実際ゲリラ戦を仕掛けるのが関の山というのが現状だったのです。しかも蒋介石は専制的な独裁者で人望も無く、国民党は恐ろしく腐敗した組織で、せっかく米英が支援した物資も横流しされて幹部の懐を潤したり、共産党との内戦用に隠匿されたりする始末でありました。もともと蒋介石は米英を利用してシナの覇権を狙うことしか頭に無く、米英にとっては対日戦略を共有するのは難しい相手であったのです。
誠意が無いという点ではスターリンや毛沢東も同じようなものだが、蒋介石の場合、実力も伴っていないというのが最大の問題でありました。こうした蒋介石や国民党の実態はアメリカ政府内の国民党シンパによって隠蔽されており、ルーズベルトら政府首脳にまでは認識されていなかったので、カイロ会談ではこうした無理のある戦略構想をもとにした話し合いがもたれることになってしまったのです。
カイロ会談は、テヘラン会談におけるソ連の役割を無理矢理にシナ国民党に当てはめたという意味で、最初から無理があるものだったのです。米英側もなんとなくそういう危惧は感じていたと見えて、テヘラン会談の席でスターリンに対して、ドイツを降伏させた後に日ソ中立条約を破って日本に宣戦することを求めています。これはシナ国民党が使い物にならなかった場合にシナ大陸で日本軍と戦わせる地上軍の代替としてソ連軍を想定したということでしょう。この時はスターリンも、まだヨーロッパ戦線の行方も流動的な時期であったから、一応前向きではあったまののあまりこの話は具体的に突っ込んだものにはならなかったが、この構想は後にヤルタ会談の際に大きく浮上してくることになります。

さて、このカイロ宣言が1943年12月初めに発表されると日本政府は危機感を高めました。太平洋方面でアメリカ海軍が、ビルマ方面でイギリス陸軍が、それぞれ攻勢をかけてくるのが予想されたからです。しかしこの後、政府には海軍がギルバート諸島やマーシャル諸島の海域で米海軍に大打撃を与えているという報告が入ってくるようになりました。もちろんこれは相も変わらずの海軍の虚偽報告だったのですが、これですっかり政府は太平洋方面は大丈夫だと思ってしまったのでした。
ただ不可解であったのは海軍が大戦果を報告しているのに陸軍からは太平洋の島々で守備隊が全滅して米軍の占領を許しているという報告が上がってきていたことでした。ここで政府も陸軍も海軍の報告はおかしいと疑うべきだったのですが、官僚主義の弊害なのか楽観論に逃げ込み、もともと放棄予定の島々の失陥は大した問題とされず、おびき寄せた米艦隊に大損害を与えたということで良しとしてしまったのでした。むしろ陸軍が海軍の足を引っ張っているかのような印象となってしまったのです。
一方、ビルマ方面はカイロ宣言の発表によって大いに危機感が高まり、1944年1月に陸軍首脳部はビルマからインド東部のイギリス軍の拠点インパールに侵攻する作戦を3月に開始することを決定したのででした。これはかねてから検討されていた計画で、イギリスのビルマ侵攻計画の出鼻を挫く攻勢的な防御作戦というべきものでしたが、太平洋戦線に兵員を回したせいで兵員調達に手間取っている間にイギリス軍が増強し、しかも陸軍航空隊を太平洋に回して消費してしまったためにビルマの制空権も失っており、既に実施は困難となっていた作戦でありました。しかし太平洋で海軍の足を引っ張っているかのような扱いをされて大いに自尊心を傷つけられた陸軍首脳部は名誉挽回の意識も強く、この無謀なインパール作戦の実施を決定してしまったのでした。

ただ、カイロ宣言発表によって米英の動き以上に日本陸軍を警戒させ激怒させたのは蒋介石の動きでありました。カイロ宣言が蒋介石の主張が前面に出たものであるのは日本側にはすぐに分かり、米英が蒋介石軍を中心とした戦略でこの後の戦局を動かしていこうとしていることも分かりました。しかし日本陸軍から見れば蒋介石などゲリラ集団の頭目程度の扱いであり、そのような者が米英に取り入って日本に無条件降伏を勧告するなど許せないことでありました。1938年以降のシナ大陸での日本軍は戦争をしているというよりは、むしろ占領地の治安を国民党や共産党のゲリラ攻撃から守るというような程度のものであったのですが、カイロ宣言に激怒した陸軍首脳部は1944年1月に、久しぶりにシナ戦線で大攻勢に出る方針を決定し、その作戦の開始を4月としました。
それはカイロ会談参加の三国の中で最も弱体のシナ国民党勢力を叩いて、カイロ宣言の裏にある米英の対日戦略を崩壊させる狙いを持った作戦であったのです。まず日本陸軍の大軍でもってシナ国民党軍を徹底的に叩いて組織的戦闘能力を喪失させます。そして南京からシナ大陸南端まで縦断するベルト地帯を占領し、その回廊を通って南方資源を華北、満州、朝鮮を経て日本本土までほとんど陸路で運べるルートを確保して米海軍の南方海域における通商破壊戦を無効化し、逆にその回廊でもって米海軍が南シナ海ルートで陸揚げしたシナ国民党への支援物資を遮断するという壮大な作戦でありました。また、この作戦の遂行に伴って華南の地においてシナ国民党が建設しつつあった米軍戦略爆撃隊のための飛行場も破壊し、飛行場用地となりそうな地を占領してしまうことによって米軍の日本空襲計画を未然に潰すという狙いもありました。これが大陸打通作戦です。
この大陸打通作戦のほうは勝算はかなりありました。それに先立つインパール作戦に意味があるとするなら、ビルマで軍を動かすことで重慶の蒋介石の目をビルマ方面に逸らせることと、奇襲でインパールまで一気に陥落させて敵補給基地を破壊してイギリス軍のビルマ制圧を少しでも遅らせて、その間にシナ大陸でシナ国民党軍をズタズタにする時間を稼ぐことでした。それを出来るだけ犠牲を少なくやり遂げるにはインパール作戦は迅速に攻めて迅速に退却することが必要でありました。

1944年3月に開始されたインパール作戦はそういう意味では大失敗に終わったのですが、目的そのものは最終的に達成したとも言えます。日本軍は一気にインパールを包囲しましたが攻略に手間取り、そうこうしているうちに4月初旬にイギリス軍がインパールへの補給体制を整えて本格的な反撃を開始しました。逆に補給を断たれた日本軍は敗走することとなったのでした。しかしインパールで戦局が逆転した直後の4月中旬にシナ大陸では大陸打通作戦が開始され、日本軍が華南に進出してきていたシナ国民党軍を一気に掃討し、シナ大陸を縦断する回廊の建設を開始し、米軍の海からのシナ国民党軍への支援を遮断したのです。その後インパール方面は日本軍の悲惨な退却戦が展開され、膨大な犠牲者を出すこととなったのですが、7月にインパール作戦中止が発令されるまでイギリス軍に抵抗を続け、更にイギリス軍がビルマに侵入した後も果敢に抵抗し、9月に北ビルマが制圧されるまで重慶への支援ルートの再開を許さなかったのでした。この間、シナ国民党軍の主力は重慶に押し込められ、日本軍は国民党ゲリラの抵抗を排除しつつ8月には遂にシナ大陸縦断回廊を完成させてしまったのです。
これで重慶の蒋介石は手も足も出なくなってしまいました。回廊の完成によって南方の資源がシナ大陸の日本軍に陸路で運ばれることになり、米海軍による通商破壊戦の影響は軽減されたのです。一方、回廊で米海軍からシナ国民党への支援は遮断され滞るようになり、再開したビルマルートもラングーンに司令部を置くビルマの日本軍によって間断ない妨害を受けて十分には機能しませんでした。シナ大陸の日本軍は弱体化はせず、重慶に押し込められたシナ国民党軍の増強も望めなくなったのでした。ただ日本軍も太平洋方面で消費した兵力が多く、既に兵力の限界に達しており、重慶まで攻め込むことも出来ず、占領地や回廊を維持するのが精一杯となりました。こうしてシナ戦線は膠着状態となったのでした。また大陸打通作戦によって華南を根拠地とした米軍による日本本土に対する戦略爆撃計画も実施困難となりました。つまりカイロ会談を成り立たせていた連合国の対日戦略は破綻したのです。

このようなことになってしまった最大の原因はシナ国民党軍が日本軍の攻勢を受けてあまりにもあっけなく蜘蛛の子を散らすように四散してしまったからでした。こうして1944年4月にはあっという間にシナ国民党の弱体と腐敗の実態は明らかとなり、ルーズベルトもチャーチルも呆れてしまい、蒋介石はこの後、大戦中の連合国の首脳会談の場には二度とお呼びがかからなくなってしまいました。しかしシナ国民党が使い物にならないとしたら困ったことになります。既に米英はカイロ宣言で日本を無条件降伏させる方針を発表してしまっています。しかしそのためにはシナ大陸にいる日本陸軍の主力を撃ち破ってくれる味方の大規模な地上軍が必要なのです。それをシナ国民党がやってくれるはずであったのですが、それがダメとなると代わりを探さなければいけません。米英軍がその代わりを務めるわけにはいかないのです。アジア人同士の戦いで米英の若者を地上戦に送り込んで大量の血を流すわけにはいかないのですから。
そこでアメリカ政府首脳が目をつけたのが延安を拠点とするシナ共産党勢力でした。しかしこれも実態は山賊に毛の生えたような集団で、単独で日本軍に対抗出来るような代物ではありませんでした。となると、この共産党を背後から支援しているソ連にも極東戦線に参戦してもらうしかなくなってきます。しかしソ連はこの頃にはヨーロッパの東部戦線でドイツ軍に対して優勢に戦いを進めており、やや余裕が生じていたとはいえ、まだ極東に兵力を回す余裕はありませんでした。だからこのシナ共産党軍とソ連軍をシナ戦線の主役にするプランはすぐに実行は不可能でありました。しかしヨーロッパ戦線が終結すれば実行可能なプランとして温められることとなり、アメリカは秘かにシナ共産党やソ連と接触し対日戦略や戦後処理について話し合っていくことになったのです。アメリカは日本さえシナから追い出せば戦後はシナ市場はアメリカのものとなると信じており、ソ連やシナ共産党とも共同歩調をとっていけるものと思っていたのでした。

ともあれ、1944年4月時点でシナ大陸で連合国側の反転大攻勢は不可能ということになってしまいました。それでもアメリカとしては日本の無条件降伏に向けて出来ることをやっていくしかないのです。まずはフィリピンの奪還でありました。これは日本を降伏させるためというよりは単にアメリカにとっては奪われた自国領の回復という意味を持ったものでありましたが、同時に南方の資源地帯と日本本土を結ぶシーレーンの遮断という意味合いも持っていました。しかし日本は大陸打通作戦でシナ大陸に南北を縦断する回廊を設けて南方資源の陸路輸送を可能にすると予想されたので、フィリピンの確保だけでは日本を屈伏させることは出来ません。やはり日本本土方面へ侵攻していき、日本海軍の連合艦隊を壊滅させて日本近海の制海権も確保しなければ日本を兵糧攻めすることは出来ないのです。しかしそれは頑強な抵抗が予想され、そう簡単に事は運びそうにありませんでした。そして、もしそれでも日本が降伏しなければ、地上軍を日本に送らなければいけなくなります。これは更に激しい戦闘が予想され、多くのアメリカの若者が犠牲になります。これはアメリカの世論が黙っていないでしょう。
そこで出来るだけアメリカ側の犠牲を少なくして日本を屈伏させる方法として、せめて長距離戦略爆撃を日本上空に飛ばして日本本土の工業施設を空襲で破壊して日本の戦争遂行能力を喪失させることは出来ないかと考えられるようになったのでした。空襲だけでは日本は屈伏しないかもしれませんが、かなりのダメージは与えられるはずで、後で別の手を打つことになるにしても、やっておいて損は無い作戦でありました。実際、この時点で日本降伏に向けてアメリカ側に出来る現実的かつ実効的な作戦といえばこれぐらいしか無かったのです。
もともとこの戦略爆撃のプランは華南を爆撃機の出撃基地とするプランとして存在していました。華南からなら米国新鋭爆撃機B-29の航続距離から考えて日本列島全域が爆撃可能だったからです。しかし日本軍の大陸打通作戦によってそのプランは実施困難となってしまいました。そこで日本列島から華南とほぼ同じ距離に位置するマリアナ諸島を占領してB-29の出撃基地として、日本本土空襲を行うという新たなプランが浮上してきたのでした。
マリアナ諸島は日本海軍の連合艦隊がトラックから退いてから新たな拠点としている地域で、さぞ堅固な防備が敷かれているであろうが、それでも日本本土に攻め込むのに比べれば危険は少ないと思われました。離島を攻略する戦闘ならばソロモン諸島やギルバート諸島、マーシャル諸島などでアメリカ軍も経験値は高いのです。容易ではないでしょうが、新鋭機動部隊の総力で支援すればなんとかなるだろうと考え、アメリカ軍はマリアナ諸島攻略作戦を決定したのでした。

日本軍が拡大した太平洋戦線を縮小して絶対国防圏を設定し直したのは1943年9月末のことでした。そして米軍がマリアナ諸島に攻め寄せてきたのは1944年6月のことだから、その間8か月弱というところであります。この間、太平洋の防衛態勢を立て直す時間的余裕は十分にありました。ところが日本軍、特に海軍はこの間、何もしていなかったのです。この間、1943年11月から1944年2月にかけてはギルバート諸島とマ?シャル諸島の戦いがあり、そこから学ぶ教訓は山ほどあったにもかかわらずです。
ギルバート諸島やマーシャル諸島においては島々の日本軍の守備隊は敵部隊が上陸すると数日で壊滅してしまいました。これはどうしてなのかというと、敵が上陸する前に艦砲射撃や空襲によって陣地を破壊されて大損害を蒙っていた上に、連絡系統も寸断されて組織的戦闘が出来ない状態にされてしまっていたからです。そうした瀕死の状態のところに物量に勝る米軍が上陸してきて、陣地を失って逃げ惑う日本兵を各個撃破していったのです。では、どうして日本軍の陣地が艦砲射撃や空襲で壊滅させられてしまったのかというと、日本軍の陣地のほとんどが海岸線や飛行場の近くの平地にあって、艦砲や空襲を避けることが出来なかったからです。何故そうなっていたのかというと、これも日本海軍の意向に沿ったもので、ミッドウェー以来の不可解な基地航空信仰が原因であったのです。
つまり日本軍は必ず島に飛行場を作ります。正確には飛行場を作れそうな平地の多い島を占領して、飛行場を作ります。そしてその飛行場を死守するための要員として守備隊を置きます。守備隊は絶対に飛行場を敵に奪われてはいけないと厳命されるから、まず敵を上陸させてはいけないわけです。それで海岸線で敵を食い止めるための陣地を作ります。そしてそこを突破された場合に飛行場周辺で敵を食い止めるための陣地を作るのですが、これもだいたい平地に作られることになります。そういうわけで日本軍陣地は敵の艦砲射撃や空襲であらかた破壊されて、それから敵が上陸してくるのです。そうなると当然ながら日本兵は蹴散らされるのですが、夜になると必ず集まって敵の占領した飛行場に夜襲をかけます。飛行場死守が絶対命令だから、敵に奪われた飛行場はとにかく奪還しなければいけないからです。敵も1日目は驚いて混乱するが、2日目は警戒しているから返り討ちにします。それでも3日目に突撃してくる頃には敵も待ち構えているから突撃してきた日本兵は全滅します。そうして散り散りになって追い詰められた残兵に対して米軍は投降も許さないものですから、最後はヤケになってバンザイ突撃となります。こうして数日で日本軍守備隊は全滅するのです。
艦砲射撃や空襲で陣地を破壊されないようにするには陣地は入り組んだ山地に作るのが一番良いのです。しかしそんなところに陣地を作っているとみすみす敵の上陸を許し、敵に飛行場を奪われてしまいます。だから平地に陣地を作るのですが、それで守備隊が壊滅してしまっては結局は飛行場は奪われてしまうのです。だいたいそこまでして後生大事に守ろうとした基地の航空戦力が戦の役に立ったかというと、多勢に無勢の上に熟練パイロットを既に失って質も敵に劣り、加えて無茶な長距離攻撃を繰り返したため消耗し、敵艦隊が近付けば艦砲射撃と空襲で穴だらけになった飛行場からは離陸も出来ず、陸上で残骸となって失われただけでした。だいたい基地航空だけで敵機動部隊に正面から立ち向かえるはずもなく、味方機動部隊の援護無しでは戦えなかったのです。いや、味方機動部隊と共同作戦であったとしても、アメリカの新鋭機動部隊は正面からまともに立ち向かうには危険すぎる相手でした。

これらのギルバートやマーシャルの戦訓を活かすならば、日本軍が絶対国防圏内の太平洋の島嶼で取るべき作戦は、飛行場などは敵をおびき寄せる囮程度に考えておき、守備隊は山中や洞窟にでも要塞陣地を築いて艦砲射撃や空襲を凌いで身を潜めておき、敵の地上部隊が上陸したら神出鬼没のゲリラ戦で持久消耗戦に持ち込み、味方機動部隊と他の島の基地航空戦力を使って敵の後方補給線に通商破壊戦を仕掛けつつ、味方への補給支援を行わせ、機会を見ては敵艦隊を分断して撃破していくというものであったはずです。これをやれば米軍は絶対国防圏の中になかなか入ってこれずに攻めあぐねているうちに犠牲者が増えてきて、アメリカ国内でも厭戦ムードが高まり、無条件降伏を求める方針を撤回して講和に傾く可能性も高くなるのです。そうなれば、ヨーロッパでのドイツの敗北も濃厚であり、アメリカも戦力を増強してきていることからも日本の勝利という形は無いとしても、とにかくシナの主要地と東南アジアのほぼ全域は日本が押さえているのですから、それらを取引材料とすればそれなりに日本に有利な形での講和も可能でありました。
ところが日本海軍はこうした戦訓を全く活かすことなく、マリアナ諸島の防備態勢は相変わらずギルバートやマーシャルと同じ水際陣地を中心としたものでした。いや、そもそも海軍は米軍の次の目標がマリアナ諸島であるとは思っておらず油断しきっていました。日本海軍は米軍の次の目標はフィリピンだと想定し、まずはニューギニア西端まで達していたマッカーサー軍がニューギニアの北西にあるビアク島からパラオ諸島を経由してフィリピンへ向かうのを支援するために米機動部隊がマーシャル方面からパラオ方面へ向かうはずであると見て、そこを味方機動部隊と基地航空戦力で迎え討って撃滅するという作戦構想を持っていました。
だが、このパラオ方面の作戦においても持久戦や通商破壊戦という構想があったわけではなく、島の防備はやはり水際殲滅作戦の発想でありましたし、それゆえ海上戦も持久的な通商破壊戦ではなくあくまで短期の艦隊決戦の発想でありました。5月末に始まったビアク島の戦いは日本軍守備隊の陣地が艦砲射撃や空襲に耐えて生き残り、米軍上陸後も熾烈なゲリラ戦で抵抗を続けて持久戦となりましたが、これはこの島の独特の地形、すなわち海岸線に台地が迫って切り立っており、その台地に多数の洞窟があったので、そこを日本軍が水際陣地として使ったので艦砲射撃や空襲で潰されなかったからでありました。そうした特殊事情で持久戦となったのですが、日本海軍はそれを支援する通商破壊戦は行わず、6月にビアク島付近の米艦隊を叩くために連合艦隊主力を向かわせたところ、突然、マリアナ諸島に米機動部隊が侵攻してきたとの報告を受け、慌ててマリアナ沖に連合艦隊を結集して米機動部隊と艦隊決戦を行うことにしたのです。

実は米軍によるビアク島侵攻はフィリピンへの足掛かりというよりも、マリアナ沖で活動する米機動部隊への長距離爆撃機を使っての支援基地の確保のためであったのですが、結局ビアク島では日本軍が6月末に玉砕するまで抵抗を続けていたので6月中旬のマリアナ沖海戦には間に合いませんでした。しかしそれでも米機動部隊はマリアナ諸島に進出してくると艦砲射撃と空襲でサイパン島の守備隊を半壊状態とした後、地上部隊を上陸させて数日で日本軍守備隊を組織的抵抗の不可能な状態まで追い詰めて山中に追い払い、島内の戦いの勝敗を決してしまったのです。
そして一足遅れて到着した日本の機動部隊とマリアナ沖で対峙し、正面から航空戦を行いましたが、あっという間に一方的な米軍の大勝利に終わり、更に魚雷攻撃などで日本側は空母3隻を失い撤退しました。この戦いで日本海軍は艦載機のほとんどを失い、膨大な数のパイロットをも失ったため、この後、日本海軍は機動部隊の編成が不可能になってしまい、事実上この戦いによって日本機動部隊は消滅しました。但し、もちろんのことですが、この事実は海軍によって隠蔽されました。
この後、山中に籠って細々と抵抗を続けていたサイパン島の守備隊も7月には玉砕し、その後、8月までに米軍はマリアナ諸島の他の島々も制圧してしまいました。こうしてあっけなくマリアナ諸島の戦いは日本側の完敗で幕を閉じたのでした。それにしても、島々の守備隊の惨敗は準備不足の当然の結果としても、連合艦隊のあまりに無残な敗北は驚きであります。連合艦隊としては意外な米艦隊のマリアナ侵攻ではあったが、日本側の内懐にノコノコ入り込んできた敵艦隊に対して、飛んで火に入る夏の虫という意識があったのでありましょう。自らの本拠地での海戦であるから自信はあったのであろうと思われます。それで今こそ艦隊決戦の好機だと思って正面からぶつかったのですが、既に連合艦隊はガダルカナル以降の無意味な消耗戦のおかげで艦載機や駆逐艦の質が大幅に低下しており、マリアナ沖の空中戦では全く勝負にならず、魚雷に対する防御もままならない状態だったのです。こうして日本の機動部隊はあっけなく消滅したのですが、これによって艦隊決戦で日本がアメリカに勝利する可能性はゼロになったのでありました。
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