KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


現代史についての雑文その5  東条内閣の退陣
このように1944年7月にマリアナ諸島の要であるサイパン島は陥落し、既に6月末に激しい抵抗の末にビアク島も陥落しており、絶対国防圏の防衛ラインは突破されてしまいました。また同じ7月に莫大な犠牲者を出して退却したインパール作戦の中止が決定し、イギリス軍がビルマに侵入してきました。ここでも絶対国防圏は綻びを見せたのでした。これは明らかに戦争指導政策の失敗であり、東条内閣は責任を取らざるを得ない立場に追い込まれたのでした。特に東条は陸軍参謀総長も兼任していたので、作戦失敗の責任は重大でもあり、東条が首相兼参謀総長として戦争指導にあたり続けるのは不可能な情勢となっていきました。いや、本当は作戦失敗の責任の大部分は海軍にあるのですが、海軍の戦果の虚偽報告のおかげで、作戦失敗の責任はいつも陸軍にあるように見なされていたのです。
また、サイパンが米軍のものになったということは日本全土がサイパン基地を飛び立つB-29の戦略爆撃可能範囲に入ってしまうということです。実際の空襲は11月開始となったが、この7月のサイパン陥落の時点でそうした日本の運命は決定的となったのでした。戦略爆撃の脅威に晒されるということは、常に敵に匕首を突きつけられているようなもので、そうした状態で敵と交渉しても決して対等な交渉にはなりません。つまり日本に有利な条件で講和出来る可能性はこれで無くなったということで、簡単に言えば負け戦が確定したのです。いくらやっても負け戦が確定しているのだから戦争を続けても益は無い。戦争継続よりも和平交渉の方が優先されるべきとなったのです。日本としては早期に講和を結んで戦争を終えたほうがいいのです。

しかし連合国は日本の無条件降伏を目指しているのです。無条件降伏とは敗者が勝者に絶対服従するということで、敗戦国は主権を放棄して戦勝国に与えることになります。こんなことはまともに敗戦国側の政府が機能している限りあり得ないことです。敗戦国側の政府が機能停止して敵国にその機能を明渡し、敗戦国首脳が敵国によって殺されるか拘束されるかしている状態でなければ国家の無条件降伏というものは起こり得ません。敗戦国側の政府が機能しているということは交渉によって終戦するということであり、その場合に政府首脳が「どうぞ私を拘束して、後は何でも好きなようにしてください」という交渉をするということはあり得ないからです。個人対個人なら稀にそういうケースもあるであろうが、多数の国民を預かる政府首脳という立場でそんな無責任な交渉は出来ません。だから無条件降伏を要求されたら交渉の余地が無くなり逆に意固地になって戦うしかなくなるものです。つまり無条件降伏を要求するということは、交渉をするつもりは無いということであり、敵国の政府を打倒してその首脳達を殺害するか拘束するまでとことん戦うという意思表示に他ならないのです。
しかし戦争というものは普通は外交の延長であって、まず何らかの国際紛争が生じてその外交交渉で折り合いがどうしてもつかないので武力を使って状況を変えてから再交渉することが目的で起こされるものであります。戦争開始前に打ち切られた外交交渉において自国が主張していた要求を実現させることがそのまま戦争目的となります。更に戦況次第で要求を積み上げていったり、逆に譲歩を余儀なくされていくことになります。戦争中は殺らなければ殺られるのだから必死で殺し合いをするものです。しかし人間誰しも殺し合いなどしたいものではありません。出来ればやめたいものです。相手がやめようと言ってくればやめたくなるものです。しかしそうして停戦した時の戦況が自国が優位であれば開戦前の要求分に新たに要求を上積みすることも出来ますが、戦況が劣位で停戦すれば開戦前の要求分から大幅に譲歩することになってしまいます。それがイヤなので戦況が良くなるまで戦争を継続することになります。後は戦況と損得勘定と厭戦気分とを天秤にかけて妥協点を探り、最終的には交渉によって終戦となります。
これが通常の戦争というものであります。こうした通常の戦争には正義も悪もありません。どちらの主張や要求が本当に正当であるかなど通常の戦争においては意味は無いものです。外交の段階では大いに正当性は主張すればいいですが、いざ戦争に訴えればもうそんなことには意味は無いのです。勝った側の要求が正当な要求ということになるだけのことなのです。

シナ大陸の市場における日本の特権的立場を巡って1930年代からこうした通常の戦争が繰り返されてきました。1920年代後半からシナ国民党と米英が共同して日本に対してその特権的立場の放棄を求めるという図式が鮮明となり、まず満州における日本の権益の特権的取扱いに対してシナ国民党から異議申し立てがあり国際紛争が生じました。紛争と言っても日本の特殊権益は国際協約に基づいたものであり、実際の国民党の行動は野盗同然のものでありましたが、彼らに言わせればレジスタンスであり彼らなりの正当性はあったのでしょう。
どちらが正義であったかなどここではどうでもいいです。とにかく紛争は交渉では解決出来ず、日本は武力を行使して状況を変えることにしたということです。戦争となった以上はどちらが正しいかなどどうでもいいのです。勝ったほうが正しいということになるのです。逆に言えば武力を行使する時はそれぐらいの覚悟は持ってやるべきであり、やるからには絶対に勝たないといけないのです。この時の日本軍は勝てると思ったから武力行使に踏み切ったのでありましょう。
こうして1931年に満州事変が起きて、日本軍は満州から国民党勢力を排除しました。そしてそうした新しい状況を作り上げた上で国民党とは停戦協定を結び、満州における日本の特殊権益は認めさせました。つまり日本は戦争に勝ったことによって開戦前の自らの要求を相手に認めさせることに成功したのです。満州国の非承認などの形式的なトラブルはありましたが、満州市場における日本の特権的立場についてはこの後、一度も国際紛争にはならなかったのです。つまり、この問題は満州事変の停戦時に解決済なのです。

その後、華北や華中における日本の特権的立場に関してもシナ国民党と米英からの異議申し立てによる国際紛争は続き、これも様々な事件が起きるたびに何度も交渉は持たれたが、交渉では事態が進展しないと見たシナ国民党は共産党とも手を組んで1937年に日本に対して武力で挑んできました。これが日支事変ですが、国民党とその背後にいる米英の目的は日本勢力をシナ市場から排除することであり、この目的は国民党が戦争に勝てば実現したのでしょうが、結果は日本軍が反撃して逆に国民党は山奥の重慶に押し込められました。ここで日本は国民党の分派勢力である武漢政府と停戦協定を結んで既存の権益に加えて新たに増えた占領地における日本の特権的地位をも認めさせたのでした。シナにおける日本軍の駐兵権もこれに含まれます。これも日本が戦争に勝ったから可能になったのであります。
しかし重慶の国民党の蒋介石政権はこの停戦協定は認めない立場でありました。武漢政府自体の正当性も認めておらず、だからそのようなものが日本軍と停戦協定を結ぶ資格は認めないのでした。よって重慶政権の見解によれば、まだ日本軍と国民党は戦争継続状態であり、確かに戦況は劣勢ではあるが、とにかく日本のシナにおける特権的立場は認めないという主張は取り下げていないということになります。重慶政権を支援する米英も同じ主張を振りかざし、武漢政府を認めず、日本にはシナからの撤兵、特権的立場の放棄を迫りました。
日本としてはこれらの問題は既に武漢政府との間で解決済であり、口出し無用という立場をとりました。この時点でもう実質的戦闘はシナ大陸ではほとんど行われておらず、この新たな局面となった国際紛争は米英支と日本の間の交渉の段階となりましたが、米英支が問題の解決を迫り、日本が問題は解決済として無視するという図式となりました。

そこにヨーロッパで第二次大戦が始まり、ヨーロッパではイギリスが苦境に陥りました。日本は交渉ではシナ問題は解決不可能と見て、この機会に乗じてドイツとの連携を深めてイギリスの勢力範囲である東南アジアに武力で侵攻して重慶への支援ルートを遮断してシナ問題を決着しようとしました。それを止めようとしてアメリカが日本へ経済制裁を科して、それをテコに日米交渉を開始させたのでした。実際はアメリカのヨーロッパ戦線への参戦なども見越した戦略的行動だったのですが、とにかく形としてはアメリカは日本に対してシナからの撤兵、そしてドイツと連携して南進しないように日本に要求し、日本はアメリカに経済制裁の解除を要求しました。
アメリカは自らの要求が受け入れられない限り経済制裁の解除はしないと主張し、交渉は行き詰まりました。そこで日本は交渉ではこの日米間の紛争は解決しないと見て、戦争で解決することにしたのです。つまり、予定通り南進してイギリス領を侵して重慶への支援を断ってシナ問題の解決も図りつつ、アメリカを叩いて戦意を挫き日本の要求を呑ませるために1941年に大東亜戦争を開始したのでした。
日本はアメリカやイギリスや重慶に侵攻するために戦争を開始したわけではありません。あくまでシナ問題に関する外交交渉に行き詰ったので、武力を行使して交渉相手を叩き、既成事実を作ってそれを認めさせることを目的に戦争を始めたのでした。だから最初に既成事実を作ってしまい、その後、敵を叩いて戦意を失わせた後は、満州事変や日支事変のように早々に日本に有利な条件で講和しようと思っていました。開戦時の東条内閣はそうした構想を実現するために戦争戦略を立てて実行していったのですが、それは結局失敗し、こうして1944年7月には負け戦は確定的となり、日本に有利な条件での講和は不可能な情勢となったというわけです。

戦争に負けるということは、講和したとしても開戦前の交渉での日本の要求はもう通らないということです。具体的には、まずシナからは撤兵しなくてはならなくなるであろうし、シナにおける特権的立場も失うでありましょう。もちろん南進して得た占領地は全て旧宗主国に返還しなければならないでしょう。最低限でもこれらは確実で、負け戦の場合は更にこれに開戦前には交渉内容には無かったものまで譲歩分として上積みされていくことになります。それは戦況がさほど悪くないうちに講和すれば少なくて済むが、戦況が悪くなってからの講和であるほど、上乗せ分は多くなっていき、その内容も深刻なものになっていくでしょう。
上積み分として考えられるのは、まず米英支は満州国を承認しておらずシナの一部と見なしているので、日本は満州国を不承認することになり、満州国から日本軍は撤兵させられ、満州国における日本の権益も放棄させられるでしょう。また、かなり長期間にわたってシナ市場から締め出される可能性もあり、懲罰的に経済制裁が継続したり巨額の賠償金を科せられる可能性もあります。海空軍の軍備制限も科せられる可能性もあるでしょう。既にアメリカが占領しているマリアナ以南の南洋諸島も手放すことになる可能性が高いでしょう。また、第二次大戦とは全く無関係の事柄なので無茶な要求なのですが、シナ国民党の要求が通れば台湾や朝鮮も奪われる可能性もあります。
負け戦となると、こうした過酷な講和条件を日本は呑まざるを得なくなるのです。これらは比較的軽微なものであったとしても、近代国家としての大日本帝国の国家存立が危うくなるほどのダメージを十分に与えるでありましょう。このような事態にならないように、少しでも戦局を優位なものにするのが東条内閣の絶対的使命であったはずです。実際、何度でもそうしたチャンスはありました。しかしそれらのチャンスを悉く逃して戦局をズルズル悪化させてしまった東条内閣の戦争指導責任は極めて重いといえます。

もちろん東条はまだまだ戦局は挽回出来ると主張しました。実際シナ大陸では陸軍は勝っていたのです。シナでは勝っているのにシナ権益を手放さねばならないということに不合理を感じるのは分からないでもありません。東条は陸軍大将でもあり、参謀総長でもありました。海軍の壊滅的状況は首相である東条にすら報告されていませんでしたし、東条がまだ日本は負けていないと実感するのも無理もありません。いや、海軍の実情を知らない政府首脳や重臣、陸軍首脳部なども確かに戦局の挽回の可能性は無いことも無いとは思っていたでしょう。もしかしたら相変わらず基地航空信仰にとりつかれた海軍首脳部もそう思っていたかもしれません。
戦局は挽回出来るかもしれません。しかし出来ないかもしれません。確実なことは言えない状況でした。しかし確実に言えることはサイパンが奪われた以上、本土空襲がいずれ始まるということでありました。宮城のある東京も空襲されるでしょう。そうなった時、戦局が少しも挽回出来ていなかったとしたら、その時に慌てて講和のための交渉をしても、講和条件は最悪なものになるでありましょう。だから、戦局の挽回のために万全を尽くすのは当然としても、それと同時進行で、早急に講和に向けて交渉を開始していかなければならないのです。しかしそうなると、開戦前の交渉で本心であったかどうかはともかく、ひたすら強硬意見を主張し、結局は交渉を取り止めて戦争を始め、その後ずっと勝つための戦争指導を継続してきた東条政権が講和交渉を担当するわけにはいかないのです。
東条自身は、サイパン陥落となれば戦局挽回のための継戦と講和に向けての交渉の同時進行が必要であるとは思っていたでしょうし、個人的にはかなり能力の高い人物であり、また他人をあまり信頼していなかったようであるから、継戦にしても交渉にしてもかなりの難事ですから、そのような難事をやりこなせるのは自分をおいて他にいないであろうという自負と責任感を持っていたと思われます。それで退陣は拒絶したのでしょう。しかし東条個人の本意や能力、人間性はこの際大した問題ではなく、論理の一貫性の問題として、やはり「戦争に勝つための政権」は退陣して、新たに「戦争を終わらせるための政権」を立てて、そこを窓口にして講和へ向けての交渉を始めるのが筋なのです。そういうわけで、結局、寄ってたかって東条は政権から引きずりおろされ、1944年7月22日に東条と同じく陸軍出身の小磯国昭を首班とした小磯内閣が成立することとなったのでした。

この頃ヨーロッパ戦線はどうなっていたのでしょうか。1943年7月にほぼ同時に行われたのが東部戦線のクルクス大戦車戦と、地中海におけるシチリア上陸作戦でした。その後、9月にイタリアが連合国に降伏したが、更迭されたムッソリーニがドイツへ亡命し、ドイツ軍の支援を受けて北イタリアにドイツの傀儡政権を立てて、南イタリアを占領した連合国軍と戦い、これが結構健闘してローマも奪回して連合国軍の北上を食い止めていました。
一方、クルスク大戦車戦で東部戦線の主導権を握ったソ連軍はドイツへ逆侵攻することを企図するようになり、11月に行われたテヘラン会談の席でスターリンは米英両国に1944年春に北フランスに上陸して西部戦線を構築するよう求めました。これはソ連軍のドイツへの侵攻作戦を背後からバックアップするための作戦を意味していました。その後、ソ連軍はロシア平原の南北エリアでドイツ軍を撃破していき、1944年春にはロシア平原中央部においてドイツ軍の主力部隊である中央軍との最終決戦を残すのみとなりました。
このドイツ中央軍はドイツ陸軍の最精鋭軍で、ソ連軍が容易に勝てる相手ではありませんでした。ドイツ陸軍は訳の分からないことばかりして自滅した日本海軍などとは違い、ちゃんと頑強な抵抗をしており、ソ連軍や米英軍にもかなりの被害が出ていました。しかし、6月に北フランスに米英軍が大挙して上陸してくることを察知したドイツ政府は、さすがにこれに備えないわけにはいかず、東部戦線からかなりの兵力を引き抜いて北フランスに送り、これによってさしものドイツ中央軍もやや戦力をダウンさせることになったのでした。
そして1944年6月6日に米英軍は北フランスのノルマンディーに大軍を上陸させる作戦を敢行し、上陸を阻止しようとするドイツ軍と激戦を繰り広げましたが、結局上陸作戦は成功し、西部戦線が構築されました。これと同時にイタリア半島でも米英軍は攻勢に出て、ローマを再び奪還しました。しかし、西部戦線ではドイツ軍の抵抗は激しく、米英軍は北フランスで上陸後もなかなか進撃出来ず、戦線は膠着状態となりました。
そうした状況の中、西部戦線の戦いに呼応するように6月22日に東部戦線でソ連軍がベラルーシに布陣するドイツ中央軍に大攻勢をかけるバグラチオン作戦を発動し、大激戦の末、ソ連軍に自軍以上の損害を与えながらも数に劣るドイツ中央軍は壊滅し、ソ連軍は7月下旬には一気にポーランドへ侵入しました。
なおノルマンディー上陸作戦はよく「史上最大の作戦」などと言われますが、確かに上陸作戦としては大規模ではありましたが上陸軍の兵力は15万ほどで、迎え撃つドイツ軍が40万弱という規模であり、ほぼ同時に行われた東部戦線でソ連軍がバグラチオン作戦に投入した兵力が170万で、迎え撃つドイツ中央軍が80万ですから、ノルマンディー上陸作戦は結局はバグラチオン作戦の陽動作戦でしかなかったといえます。同じ米軍の上陸作戦でも後の沖縄戦では米軍は18万(予定では24万)の兵員を上陸させており、更に日本本土上陸作戦としては南九州上陸作戦に34万、関東上陸作戦には50万の兵員を上陸させる予定でいましたから、決してノルマンディー上陸作戦が史上最大の上陸作戦ではないのです。
このノルマンディー上陸作戦は軍事的には決して成功したとも言えず、6月下旬の上陸後はかなり手間取って1か月ぐらいは連合国軍は進撃出来ていなかったのですが、それでも東部戦線でソ連軍がドイツ中央軍を撃破してポーランドに侵入した7月下旬には西部戦線の北フランスでも米英軍はドイツ軍の防衛線に猛烈な空爆を浴びせてようやく防衛線を突破して進撃を開始し、8月にはパリが解放され、南フランスにも米英軍が上陸し、9月にはフランス全土が奪還されました。その後、西部戦線では9月以降はベルギーとライン河防衛線を巡って一進一退の攻防が繰り広げられていくことになりました。
一方、東部戦線では8月に入るとソ連軍はバルト三国とバルカン半島に侵入していったのですが、ポーランドでは何故か軍を進めず、ポーランド国内のレジスタンスにドイツへの反乱をそそのかして蜂起させ、それに対する支援を行わずにドイツ軍によってレジスタンス勢力が虐殺されるのを見殺しにしました。これは、ポーランド国内のレジスタンス勢力というのがイギリスの支援を受けていた勢力であったので、後々、ソ連にとって邪魔者となる恐れがあったため、ドイツ軍の手で始末させるように仕向けたのです。この事実を知ってチャーチルはソ連に対して不信感を抱くようになりました。いや、そもそもチャーチルはソ連など全く信用はしていなかったが、この時以降は明らかな危険性を感じ取ったと言ったほうが良いでしょう。
さて、このように1944年7月にドイツの東西で連合軍が大攻勢に出てフランスとポーランドに連合国軍が侵入し、ベルリンへ真っ直ぐ進撃していく道が開かれたことによってドイツの敗北は確定的となりました。特にドイツ軍の主力が東部戦線で壊滅したことによって大勢は決したと言っていいでしょう。同じ頃、サイパンが陥落し、ビルマへのイギリス軍の侵入を許した日本の東条内閣が崩壊していますが、この同盟国ドイツの敗北の確定もまた、日本政府内の講和交渉への気運を高めて東条内閣を引きずりおろす大きな原因となったと思われます。

1944年7月という同じ時期に敗戦が確定的となった日独両国だが、日本政府がこの後は表向きは徹底抗戦を叫びつつ裏では講和に向けて動いていくのに比べ、ドイツ政府は講和に向けての動きを起こしませんでした。正確に言えば起こせなかったと言えます。何故なら、東部戦線でソ連軍がポーランドに入り、西部戦線で米英軍がノルマンディーの防衛線を突破し、また日本では東条内閣が退陣に追い込まれたのとほぼ同じ7月下旬、ベルリンではヒトラー暗殺未遂事件が起きていたからです。反ナチス勢力によるヒトラー暗殺未遂事件はそれまでもたびたび起きていましたが、この時のものはそれまでで最も大掛かりなもので、ドイツ軍内の反ナチス勢力がヒトラーを暗殺した後クーデターを起こし、政権を掌握して米英と講和するというものでした。
ナチスはドイツ民族優越主義に凝り固まった一種の原理主義的カルト集団であり、第一次大戦で奪われた国土を回復する戦いは彼らにとっては聖戦でありました。第一次大戦後の外から強制された急激な人工的民主化によって国家の芯を失ったドイツが全体主義的空気に傾き、大恐慌後の社会不安の中でナチスの一党独裁の全体主義国家となってしまったのがナチスドイツであり、それ以降、ドイツ国家は国民が望んだことではありましたがナチスに国家を乗っ取られたような形になり、ナチスの原理主義的な国土回復政策を熱狂的に押し進めることとなり、その結果、第二次大戦が起こったのでした。
つまり、もともとナチスドイツの周辺への領土拡張は彼らなりの聖戦の実行であり、第二次欧州大戦の直接の引き金となったポーランド侵攻にしても第一次大戦で奪われたポーランド回廊を巡る国際紛争が原因でありました。第二次欧州大戦もまた大東亜戦争と同じく国際紛争から発展した通常の戦争なのであり、開戦時の懸案となっていた紛争におけるドイツ側の主張を取り下げることで講和も不可能ではないのでした。つまりポーランド回廊は諦めればいいのです。しかしポーランド回廊はナチスにとってはホーリーランド、つまり聖地なのです。また敗勢濃くなってから講和するとなればおそらくポーランド回廊に加えてオーストリアもズデーテンもラインラントも手放さなければならないのですが、これらもナチスにとっては手放せない聖地でありました。
よってナチスという原理主義的思想集団がドイツを支配している限り、連合国と講和することは難しいのです。そこでドイツの敗北が確定的となった1944年7月、このままではドイツは取り返しがつかないことになると危機感を強めた現実主義グループがクーデターを起こしてヒトラーを殺してナチスを排除して、米英と講和しようとしたのでした。ところがこれが失敗に終わり、国内不穏分子の反乱を警戒したナチスはこの後、終戦直前までドイツ国内で大粛清を行ったのです。つまりナチスは東西に迫りくる敵軍と戦いながら同時に国内では自国民相手に戦争を仕掛けていたことになります。むしろこの時期のナチスにとって真に恐ろしい敵は自国民のほうであったのかもしれません。このような状況ではナチスが敵である反ナチスグループの唱える講和路線に歩み寄るはずもなく、以前よりも更に頑なになっていったのです。英米との講和など唱えようものなら反乱軍の一味と見なされて処刑されてしまうのは明白でありました。この時期、北アフリカ戦線の英雄ロンメルまでも処刑されているのです。

こういうわけで1944年7月に敗北が確定的になってもドイツでは講和への動きが起きなかったのでした。この点、日本とは対照的でありました。ドイツでは政府が講和を認めないカルトに乗っ取られており、講和を目指す反乱軍を警戒し弾圧して、結局は講和への動きを封じ込めてしまいました。一方、日本では政府は講和を目指す現実主義グループで構成されており、むしろナチスに似た皇国原理主義的カルトは非主流派となっていた皇道派の流れを汲むグループで、このグループが講和に反対して反逆を起こすことを警戒して政府がなかなか講和への動きを大っぴらに出来ないという状況となりました。
どうしてドイツでは政府が反乱軍を抑え込んだのに日本では反乱軍にビクビクすることになったのかというと、それはナチスドイツのほうが政府への権限集中が徹底していたからでした。つまり日本のほうが全体主義が不徹底で中途半端であったのです。これは日本は天皇が中心にいることで権力中心部の空洞化が常に進むからで、この作用と全体主義とが中和して、全体主義が不徹底となったのでした。この不徹底を嫌い、天皇を中心とした徹底した原理主義的全体主義国家を作りたかったのが皇道派で、要するにナチスドイツの日本版を作りたかったのです。しかしこれは全く日本的ではありません。日本的というのは権力の中心が空っぽなのです。こうした日本的な傾向と妥協しつつ天皇を戴いて官僚統制の中央集権国家を作ろうとした、やや中途半端なグループが1944年7月時点では日本政府を牛耳っていたのでした。このグループが原理主義的グループの突き上げにビクビクしながら、遅々とした歩みながら講和の可能性を模索していくことになるのです。

ではドイツでも、もし1944年7月のクーデターが成功してヒトラーが爆死しナチスを排斥して現実主義派が政権を奪取していれば米英との講和が成ったのかというと、それはやはり難しかったでしょう。何故なら連合国はドイツに無条件降伏を求めていたのであり、講和での終戦の可能性を否定していたからです。ただ、この無条件降伏の勧告の持つ意味合いですが、まずこれは連合国のうちの何処か1国が利に釣られてドイツと単独で抜け駆け講和をしてしまわないようにする目的があって、無条件降伏という方針で統一していたというのが基本でしょう。
そして、これは国際紛争の解決手段として安易に戦争が引き起こされるのを防止する狙いも込められているとも解釈できます。つまり「戦争の勝敗などに関係なく戦争によって条件闘争に応じるなどということは無いのであり、戦争相手には無条件降伏しか求めないのだ」と相手に明確なメッセージを送ることによって、戦争を起こしても得は無いと悟らせ、それによって安易に戦争で国際紛争を解決しようとする動きを事前に封じ込めようという意図があるとまず考えるべきなのです。それは戦後の戦勝国支配下の恒久平和体制構築を見据えての方針であったともいえます。
そうとなれば、これはあくまで建前論であり、ギリギリの段階まで交渉すれば講和に応じてくる可能性もあるとも考えられます。しかし、この時のドイツに対する米英の無条件降伏を求める方針はそうではなく、本気の方針であったと思います。確かに第二次欧州大戦のきっかけとなったドイツ軍のポーランド侵攻は国際紛争の結果起こったものですから、ドイツが領土獲得を諦めて加えて何らかの懲罰的条件を受け入れれば講和は成り立ちます。しかし、そもそもドイツは第一次大戦の敗戦時にもそうした条件を受け入れて講和し、そしてその結果、ドイツ国民は懲罰に対しては恨みを募らせて再び領土を求めてナチスを選び、第二次大戦を引き起こしたのではありませんか。ならば今回講和しても、やはりまた同じことを繰り返すのではないでしょうか。ドイツの場合、前科者であるのだから穏便な処置では済まないのです。ドイツの国家そのものの存在から問い直さなければならないのではないか、とそのように米英は考えて、中途半端なところで講和せずにドイツ国家を一旦解体するところまで徹底的に戦争を続けようと思っていたのでしょうか。

そうした考え方自体はそれなりに論理的蓋然性はあります。しかし実際にドイツ国家を壊滅させるまで戦争を継続するのは大変な犠牲を伴うことであり、実際に米英だけでそこまで出来たかというと微妙でしょう。やはりここでソ連軍という存在について考えてみなければいけません。実はポーランド侵攻から始まった第二次欧州大戦と独ソ戦争とは全く別の戦争なのです。いや、というか独ソ戦争こそが第二次大戦の核心にあたる戦争だといえます。
この第二次欧州大戦と独ソ戦争の間に連続性は無く、むしろソ連はポーランド侵攻に関してはドイツの共犯者であり、独ソ戦争は両国間に何ら国際紛争も存在しないのに唐突にドイツ軍がソ連領に侵攻して始まったのです。つまりこれは通常の「国際紛争を解決するための戦争」ではありません。純粋なる侵略戦争なのです。しかも何ら条件を提示することもなく真っ直ぐモスクワを目指して熾烈な殲滅戦を展開したのですから、これは無条件にソ連という国家の破壊のみを目的とした戦争であったといえます。このような無条件戦争を仕掛けられ、膨大な犠牲を払ってそれを撥ね退けて勝利を手にした場合、相手国に対して何を求めればいいというのでしょうか。相手は何ら条件をつけていないのですから、こちらとしても条件などつけようがないでしょう。無条件降伏という名の相手国の徹底的な破壊をもってしか戦争を終結させることなど出来ないのです。
ソ連としてはそのように考えるしかないのであり、それを実行に移すだけの強大な陸軍力と野蛮さを持ち合わせていました。そしてドイツ以上に徹底した全体主義国家であり共産主義国家であるソ連には徹底的な侵略性と残虐性もありました。だいたい、第二次大戦で最悪の侵略国家は間違いなくソ連です。ポーランド侵攻にしてもドイツとポーランドとの間には国際紛争はありましたが、ソ連とポーランドの間には国際紛争すら存在しませんでした。だからドイツの侵略にはまだ必然性は見いだせますが、ソ連のポーランド侵攻こそ純粋なる侵略です。他にもソ連による第二次大戦中の外国への侵攻は全て国際紛争など無いのに侵略のための侵略でしかないものばかりです。ソ連はその独裁権力を維持するために周辺に楯となる衛星国が欲しいだけのことなのです。そんな利己的な理由で周辺国を侵略し革命を扇動する、極めて残酷な侵略国家がソ連の本性でありました。
ヒトラーは同じく全体主義国家の独裁者としてソ連の危険な本質をよく理解しており、自らと共に並び立つべきものではないと同族嫌悪に駆られてソ連を無条件に滅ぼしてやろうとしたのでしょう。そしてそれに失敗し、今度はソ連がドイツを無条件に滅ぼしてやろうとして東部戦線を逆侵攻してくることになったのです。要するに独裁的な社会主義国家同士の内ゲバであり、カルトにおける内ゲバというのは限度の無い暴力の応酬になるものなのです。

つまり、まとめると、ドイツに対する無条件降伏の勧告の根拠となっているのは、建前論的な部分を除けば、米英側からすれば前科者ドイツに対する厳罰の必要性であり、ソ連側からすれば無条件侵略戦争を仕掛けられた当然の報復という論理であり、そして何より重要な根拠となっていたのは、実際にドイツの徹底的な破壊を可能にするソ連陸軍の実力と犠牲を恐れない復讐の狂気と文明破壊衝動という野蛮でありました。こうした背景を持つ連合国の無条件降伏要求に対して、ドイツの反ナチス派が政権を掌握して講和を持ちかけたとしても、それが通用したとはあまり思えないのです。
ここで問題になるのは日本に対する無条件降伏の勧告の意味合いです。連合国はドイツもイタリアも日本もひっくるめて、三国同盟側の国を枢軸国と呼称し、悪魔のような存在として喧伝しました。これは戦時プロパガンダであり、こういうのは分かりやすいほうが良いので、この三国は一緒くたにされて、全てドイツと同じように無条件降伏をすべきだということにされました。しかし日本はドイツのように前科者ではないし、重大な国際協約違反をしたわけでもありません。また日本は敵を滅ぼすことを目的としたような無条件侵略戦争など仕掛けてはいません。日本が行った幾つかの戦争は全て国際紛争に関する交渉の不調の結果起きたものであり、本来、講和交渉で解決するはずのものでありました。だからドイツと同列に無条件降伏を要求される筋合いなど無いのです。
そして何といっても日本の周辺には、日本に侵攻し日本陸軍を壊滅させて国土を蹂躙し、日本政府を打倒して日本国を解体して無条件降伏を実効化させることの出来るほどの実力と旺盛な士気を持った大規模な陸軍戦力は存在しませんでした。つまりドイツに対する場合とは違って日本に対する無条件降伏の要求は、その論理的裏付けも弱く、実効性も低かったので、絵に描いた餅のようなものであったのです。

そういうわけであるので1944年7月下旬に成立した小磯内閣は、連合国の日本に対する無条件降伏の要求はあまり気にせず、早期講和への道を探っていくことになりました。まずこれは負け戦であるので講和条件で日本側はかなりの譲歩を覚悟しなければなりません。シナからの即時撤兵、シナにおける権益放棄、東南アジア占領地の放棄、南洋諸島の放棄、賠償金の支払いあたりは覚悟すべきでありましょう。
これらは国家の一大事です。こんな講和条件では到底納得出来ないという者が国内には山ほどいるでしょう。特に陸軍の大部分は納得出来ないでありましょう。何せ日本はシナ大陸では勝っているのです。この時期はまさに大陸打通作戦が大成功のうちに完了しようとしている時期でありました。南方の資源地帯もしっかり押さえています。南方から本土への資源輸送もシーレーンは敵潜水艦に邪魔されていましたがシナ大陸に出来た回廊で輸送可能になりました。海軍もまだまだ健在でした。いや実際は健在ではなかったのだが、海軍以外にはそのことは知られていませんでした。
少し考えれば不自然さには気づいたはずではあります。陸軍は勝っていて海軍も健在なら負け戦になるはずはないのです。海軍が健在なのにどうしてシーレーンは妨害され続けるのでしょうか。どうしてサイパンが陥落して奪還することも出来ないのでしょうか。実際、政府首脳や陸軍首脳の一部はさすがにこの頃には海軍の報告は話半分ぐらいに聞いておくほうが良いという程度の認識はあったでありましょう。ただ実際は話半分どころではなかったのですが、そこまで気づくのはもっと後になってからのことでした。
その他の陸軍の大部分や一般国民は海軍の発表を完全に信じ込んでいました。だから負け戦など青天の霹靂であろうし、日本に不利な条件での講和を政府が進めているなど知れたら大騒ぎになるでありましょう。陸軍や国民には大東亜共栄圏の理想に燃えて必勝の信念で奮闘している者も多いのです。今更あれはプロパガンダだったと言うわけにはいかないのです。おそらく講和となれば東南アジアの独立運動の志士の人々を見捨てることになるでしょうが、それはあまりに忍び難いものでありましょう。また肉親を戦場で失った者も多いでしょうが、ここで降参してしまえば、あの犠牲は何だったのかということにもなります。とにかく日本人は負け戦に慣れていないのです。負け戦を前提とした講和の動きが知られたら何が起きるか分かったものではありません。特に陸軍には原理主義的な皇国不敗思想にとりつかれた過激分子も存在しており、暴発の危険性もあります。また、あまりに講和条件が深刻なものとなれば、社会不安や不満が広がり、それに乗じて革命を扇動する共産主義者の動向も警戒しなければならないのです。

これらの不安要素とまともに向き合い、いちいち対処しながら講和交渉をしていくのでは手間がかかって仕方ありません。そうしてモタモタしている間にサイパンからの本土空襲が始まってしまうでしょう。その段階になると更に講和条件は不利なものになり、ますます妥結が難しくなってしまいます。そうこうしているうちに戦局は更に悪くなり、事態は最悪になっていくでしょう。だから講和交渉は内密に迅速に行われなければなりません。だいたい、講和交渉が妥結するまでは戦争は続くわけなのですから、それまでは国民の戦意が挫けてしまっては困るのです。だから政府がもう負け戦を覚悟しているなどと知られてはまずいのであり、政府は裏では講和交渉を進めながら、表向きは必勝の信念で国民を鼓舞し続けなければいけないのです。
そうした内密の交渉の相手としては、もちろん最も良いのは、現実に今最も日本を追い詰めている戦争相手であるアメリカでありましょう。アメリカと講和が成立すれば即刻戦争は終わるのです。しかし交渉は内密でなければならないのです。敵国であるアメリカが秘密をわざわざ守ってくれるものでありましょうか。これ幸いとプロパガンダに利用しないとも限りません。だいたい、日本に無条件降伏を要求しているアメリカが日本との交渉に簡単に応じるでありましょうか。アメリカとして本土空襲開始前に日本と交渉するメリットなど無いのです。こうしたアメリカを交渉の場に引き出すには、日本と交渉する必然性を作らねばならないのです。つまり本土空襲開始前に戦闘でアメリカ軍に少しでも打撃を与えて、アメリカ国内の厭戦感情を高めるのです。

ただ、アメリカ軍に打撃を与えることは容易ではありません。失敗するかもしれないし、成功したとしてもそれでもアメリカが交渉に応じない可能性もあります。そうこうしているうちに時期を逃し、空襲のほうが先に始まってしまうかもしれません。これらの場合にも対応するために、アメリカ以外にも交渉相手を探しておいたほうが良いのです。まず考えられるのはソ連でした。ソ連は連合国の一員として米英と同盟してドイツと戦ってはいますが、日本とは日ソ中立条約を結んでおり戦ってはいません。アジア太平洋戦線においてはソ連は中立国なのです。中立国であり、その発言力は大きく、日本とも米英とも関係の深い国であるのですから、講和の仲介の役割を果たす資格は十分にあります。日ソ中立条約は陸軍の戦略構想の中で結ばれた条約であり、つまり陸軍内にはソ連とのパイプがあるのです。ここを通して交渉は可能なのです。ただソ連が米英寄りであるのは明らかであり、普通に頼んでも日本にメリットのある講和の仲介をしてくれるはずもありません。そこはやはりソ連に大きなメリットを与える必要があります。
ここで活きてくるのは日本がこの時点でシナ市場における権益を自力で確保しており、これを脅かすだけの実力を持った敵はシナ大陸には存在しないということです。それでも講和を結べば日本はこのシナにおける権益を手放さないといけなくなります。その権益はシナに回収され、実質的には米英のものになるのであろう。ならばいっそそれをシナにではなくソ連に渡してしまってもいいのではないでしょうか。シナは弱体であるので日本とソ連が結託すれば手も足も出ないでしょう。日本は長い付き合いでアメリカよりはソ連のことをよく知っています。ソ連は決してアメリカと共同歩調など取れないし、取るつもりもないでしょう。シナの権益をぶら下げられたら、この話に乗ってくる可能性はあります。ソ連としては日本と組んで米英を排除してシナ市場を獲得するという戦後構想もそんなに悪くないのではないでしょうか。あるいはシナを巡ってソ連とアメリカが争い合うようになるかもしれません。もしそうなれば日本が漁夫の利を得るかもしれないのです。
他に考えられる交渉相手としてはシナ国民党政府があります。国民党も米英と共に日本に無条件降伏を要求している戦争当事国ですが、大陸打通作戦で日本軍に打ちのめされて以降、連合国の中では明らかに格下扱いとなっており、日本が敗れてシナに持っている権益を国民党に返還したとしても、結局はそれは米英に好きなようにされてしまう可能性も高かったのです。またアメリカはシナ国民党の仇敵であるシナ共産党にも接近するようになっており、国民党としては心穏やかでないはずです。未だにシナ大陸では日本軍が最強なのです。日本が国民党に全ての権益を返還し、共に新しいシナを作っていくということで日本とシナ国民党が合意して独自に講和を結んでしまえば、米英もシナ大陸の中まで手出しはなかなか出来ないし、もともと大東亜戦争はシナ問題の解決のための戦争なのだから、そのシナ問題がそうして片付いてしまい、更に日本軍が太平洋からも東南アジアからも兵を退けば、もう米英も戦争を続ける理由が無くなります。日本陸軍はシナ国民党とは長年戦ったり和平を結んだりを繰り返してきており、太いパイプがあるのです。交渉に乗り出してみる価値は十分にありました。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。