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現代史についての雑文その6  本土に迫る戦雲
このようにして、小磯内閣においては陸軍ルートでソ連やシナ国民党に向けて講和に関する交渉を秘かに持ちかけつつ、同時にアメリカとの交渉を実現するためにまずアメリカ軍に一撃を与える機会を窺っていくことになりました。そのためにはアメリカ軍の次の動きを予想する必要があったのですが、これは予想は簡単につきました。アメリカ軍の次の目標はまず間違いなくフィリピンでありました。
このフィリピンを決戦場としてアメリカ軍を迎え討ち、勝つとまではいかずとも万全の態勢で一撃を与え、大きな被害を受けたアメリカ軍がこれ以上日本本土に近付けば更なる被害を受けるという危惧を抱いてくれればいいのです。戦争を続ければ日本本土に部隊を近づけていかざるを得なくなります。そうなると被害が増えると予想すれば、戦争を続けるのがイヤになってくるはずです。日本の無条件降伏などということのためにアメリカの若者の血が必要以上に流れることをアメリカ国民は望まないはずです。被害が増えればアメリカは講和に傾くはずなのです。

思えば、日本人の戦というものは無駄な血を流さずに勝つということを尊ぶものでした。民間人には手を出さない、丸腰の者を攻撃しない、ということを美しいと感じるものでありました。戦いは武器を持った者同士でやるべきであり、いっそ無駄な兵の血は流さずに大将同士の果たし合いで勝敗を決めようというのが理想の姿でありました。例えば日本海軍の艦隊決戦への異様なほどのこだわりはこの伝統を引くものであったのでありましょう。輸送船を沈めたり通商破壊戦などして余計な血を流すよりも、正々堂々の艦隊決戦をして雌雄を決したらいいではないかという戦争思想があったのでしょう。そういう考え方は確かに美しいといえば美しいです。そういう美しい思想で日本海軍はマリアナ沖で念願の艦隊決戦を正々堂々行い、そして敗れたわけですが本望であったことでしょう。そこで戦争が終わればなお良かったのですが。しかし非情にも戦争はまだ続くのであり、ここからは美しく勝つための戦いというわけにはいかないのです。いや実際もう勝つことなど出来ないのです。勝つためではなく、どんな醜く無様でもいいから、とにかく敵に多くの余計な血を流させるための戦いをしなければいけないのです。それが祖国を破滅から救う道なのです。
人間、負け戦では案外生命を惜しまないものですが、勝ち戦では生命を惜しむものです。もうすぐ勝利の美酒に酔いしれて平和な時代を生きていくことが出来るという見通しが立つと、その直前に自分だけがつまらないことで死んではバカバカしいと思ってしまうのです。だから、米軍の勝利が確定的になった今こそ、米軍を大きな被害が襲えば、それは大きな悲劇となって厭戦感情を引き起こすのです。

では米軍に大きな被害を与える方法にはどんなものがあるでしょうか。まずフィリピンは島であるから米軍は船に乗ってやってきますので、それを迎撃するのが良いです。船を迎撃するのは海軍の仕事です。当時の日本軍は空軍というものが無かったので海軍と陸軍にそれぞれ航空隊というものがありました。つまり海軍には主戦力としては連合艦隊と海軍航空隊の2つがありました。大東亜戦争における日本海軍はおおまかに言って真珠湾からミッドウェーまでは連合艦隊が主に戦い、ミッドウェーで機動部隊に大きな損害を受けてから連合艦隊はほとんど活動しなくなり、ソロモン諸島、ニューギニア、ギルバート諸島、マーシャル諸島の戦いでは海軍航空隊が主に戦い、誤った基地航空信仰によって航空戦力を消耗し尽くし、そのためマリアナ沖海戦で久しぶりに出てきた連合艦隊は機動部隊を壊滅させることとなったのでした。
これで連合艦隊は攻撃力をほぼ喪失したので艦隊決戦ではもう勝てません。ここにおいて遂に連合艦隊も従来の艦隊決戦絶対主義を放棄せざるを得なくなりました。つまり敵の輸送船をターゲットとする作戦を検討するようになったのですが、ところが敵輸送船にも護衛の艦隊はつくのであり、攻撃力を失った連合艦隊にはこれに打ち勝つ力は失われていました。一方、海軍航空隊のほうは主に台湾とフィリピン諸島にある基地航空戦力であり、これを有効活用すればフィリピン海域まで引きこんだ敵艦隊に対しては有効な攻撃手段となり得るという考え方はありました。しかし実際はこの海軍航空隊のほうも南方での消耗戦で熟練パイロットを消耗していたので内実はスカスカであったのです。
日本海軍のこのような惨状については、海軍内部にしか知られていませんでした。海軍が虚偽の戦果報告ばかりしていたからです。いや、もうこの頃になると虚偽報告が現場レベルでも常態化してきていたり、戦果確認要員の能力の劣化も著しくなっていたため、海軍首脳部でも正確な実態把握が出来ていなかったようです。だから政府や陸軍ではまだまだ海軍は十分な戦力を持っているという前提で期待してくるとなると海軍も自信満々で強気な方針を示さざるを得なくなります。それで艦隊決戦や航空決戦などと威勢の良い作戦を立てることになってしまったのです。海軍内部でも航空隊などでは本気で何とかなるのではないかと信じてしまっている者も多く、自らの言いだした威勢の良い作戦方針に引っ張られて、各戦線から基地航空戦力の総力をフィリピン方面に集中すれば敵艦隊は撃滅出来るのではないかと希望的観測が主流になってしまいました。一方、連合艦隊のほうはそれほど楽観的ではなく、まともにやってもどうしようもないという認識は持っていたので、表向きは艦隊決戦などと言いつつ、裏では後述のような奇想天外な作戦を立案するようになりました。

では日本陸軍のほうはフィリピン決戦についてどう考えていたのでしょうか。陸軍の現地守備隊は先のサイパン島の戦いとビアク島の戦いを比べて、艦砲射撃や空襲を使って立体戦を仕掛けてくる敵に対しては平地の水際陣地での防衛は不利と判断し、山地に籠っての持久戦で敵を苦しめるのが最も敵に出血を強いる戦い方だと判断しました。そこでフィリピン諸島最大の島であるルソン島を決戦場と予定していたのです。ルソン島ならば山地が多く台湾の日本軍基地からの補給も可能であったからです。ルソン島の山地に陸軍の精鋭部隊の大軍を潜ませておき、上陸してきた米軍に対して執拗なゲリラ戦を仕掛ければ、米軍の被害は大きなものとなるでしょう。そういうわけで陸軍はルソン島に満州やシナ、沖縄などから精鋭部隊をどんどん引き抜いて集結させ、一大決戦に備えることになったのです。
ところが海軍が航空決戦に自信満々であったので、フィリピンでは航空決戦で米艦隊を撃滅すれば勝負はつくと強く主張するようになり、陸軍部隊はフィリピン諸島の中でも特に日本の航空基地のあるレイテ島に集結して飛行場防衛にあたるべきだと言うようになりました。しかし陸軍部隊をそんな平地に置けば、もし日本側の航空攻撃が失敗した場合、米艦隊の艦砲射撃や空襲の格好の的となってしまいます。だから陸軍はレイテ決戦案には反対しルソン決戦案にこだわりました。実際、フィリピン攻略の前哨戦として米軍が1944年9月に上陸したパラオのペリリュー島ではビアク島の戦いを参考にして天然の洞窟を陣地に改造して持久戦を戦い、米軍に大きな損害を与えることに成功していたのですから、ルソン決戦のほうが正解だったのです。
しかし、10月中旬に米機動部隊に台湾沖で海軍航空隊が攻撃を行い壊滅的打撃を与えたという虚偽戦果を海軍がまたもや発表し、今こそ航空決戦で米艦隊に止めを刺そうという海軍の強い要望を受けて陸軍首脳部もレイテ決戦に方針変換してしまい、抵抗する現地守備隊を強引に説得して兵力をレイテ島に集結させて上陸してくる敵に備えて飛行場を防衛させることになりました。そして陸軍航空隊の精鋭戦力もフィリピンに集中させて海軍航空隊と共同作戦をとらせて航空決戦に備えさせました。そして、連合艦隊もまた今こそ好機と見て、奇想天外な作戦を発動させたのでした。
ところがレイテ沖に現れた米機動部隊は海軍航空隊の戦果報告とは全く異なり、全く無傷であったので、基地を出撃した日本側の陸海軍の航空隊は膨大なアメリカ側の艦載機に迎撃されて壊滅的損害を受けてしまったのです。これで先の台湾沖での被害とも合わせて、日本の航空戦力の大部分は壊滅してしまいました。
そしてレイテ島に集結していた日本陸軍の精鋭部隊は空襲と艦砲射撃で半死の状態にされた後、10月下旬に上陸してきた敵に各個撃破されていくことになったのでした。これで陸軍も満州や沖縄方面の重大な戦力を喪失することとなったのです。

そして、この米軍の上陸部隊に対して日本連合艦隊の奇想天外作戦の捨て身の攻撃が炸裂するはずでした。それは連合艦隊の残存戦力を結集してそれを4つに分け、1つを艦載機をほとんど載せない空母を中心とした偽装機動部隊とし、これを囮として敵機動部隊主力をレイテ湾から引っ張り出して、制空権が手薄になったレイテ湾に残り3つの戦艦部隊を突入させて艦砲射撃で敵輸送船や上陸部隊を撃ちまくるというものでした。そして、この戦艦部隊がレイテ湾に突入する間だけでも敵艦載機の邪魔を排除するために敵空母の飛行甲板を使用不能にするため、ゼロ戦に爆弾をつけて敵空母の飛行甲板に体当たりする特別攻撃が敢行されたのです。
この戦史上類を見ない奇想天外な作戦は、なんとほとんど成功の寸前までいきました。偽装機動部隊は囮の役目を見事に果たし、2つの戦艦部隊は敵艦隊に捕捉されて撃滅されたが結果的にこれも囮の役目を果たし、特別攻撃隊は体当たり攻撃によって敵空母甲板をいくつか使用不能とし、主力戦艦部隊のみが途中で損害を受けながらも、敵艦隊が空になって輸送船団と上陸部隊のみがひしめくレイテ湾への突入に成功したのでした。しかしここで何故か突入を断念して湾外へ去ってしまい、作戦は失敗に終わったのでした。そして結局、この10月下旬に行われたレイテ沖海戦で多数の艦船を沈められた連合艦隊は、これ以降は組織的行動をとれなくなり、ここにおいて事実上、連合艦隊は消滅してしまったのでした。
これで日本軍はフィリピンにおいて遂に航空戦力と連合艦隊の大部分を失い、日本列島近辺の制空権も制海権も失うことになってしまったのです。そしてズタズタになってレイテ島に残された日本陸軍部隊は上陸した米軍によって追い詰められていき、慌てて救援に追加派兵した部隊も既に制海権を完全に掌握した米軍によって輸送船ごと沈められてフィリピンに辿り着く前に全滅し、ますます犠牲を重ね、遂に12月下旬にレイテ島の放棄が決定されましたが、この頃には陸軍部隊もほぼ壊滅状態となり、残兵はルソン島の山中に籠って、1945年1月にルソン島に上陸してきた米軍に対するゲリラ戦に突入しましたが、各地から集めた精鋭部隊もレイテで消耗し尽くして見る影もなく、もはや米軍に脅威を与える存在ではなくなっていました。この絶望的なゲリラ戦は終戦まで続けられることとなります。こうして海軍に比べてまだ損害の軽微であった陸軍もまた、このフィリピン決戦の失敗によってその兵力の基幹部分に大きな損害を負うことになったのでした。
このように日本陸海軍の残る力を結集して米軍に一撃を加えようとして企図されたフィリピン決戦は大失敗に終わり、一撃を与えるどころか、取り返しのつかない大打撃を受けてしまい、米軍は1944年11月下旬には日本軍守備隊の健闘著しかったペリリュー島も遂に陥落させ、そして1945年2月にはフィリピンもほぼ制圧しました。フィリピンの陥落によって日本本土と南方資源地帯を結ぶシーレーンは完全に遮断され、しかも連合艦隊が壊滅したことによって日本近海まで米海軍の制海権が及び、米軍の潜水艦が日本の内海にまで平気で入りこむようになったのでシナや朝鮮経由でもなかなか資源が入ってこなくなり、日本は勝敗以前に戦争継続が困難な状況となってしまったのでした。そして米軍に一撃を与えて厭戦感情を煽ろうという作戦目的は空振りに終わり、アメリカを講和交渉の場に引き出す見込みも立てることは出来なかったのでした。

ただ、1944年10月のレイテ沖海戦の際に初めて実施され、その後も日本航空隊の主力が壊滅した後も1月に航空隊がフィリピンを放棄して台湾に後退するまで独自編成で断続的に繰り返された特攻機による米艦隊への体当たり攻撃は、米軍将兵に大きな精神的ダメージを与えつつあったのでした。
この特攻作戦はもともと軍用機と熟練パイロットの枯渇によってまともな編隊の編成が出来なくなり、膨大な敵機の攻撃と対空砲火をかいくぐって敵艦隊に爆撃で損害を与えることが困難になってきた情勢の中で、大量の爆薬を積んだ猛スピードで飛ぶ飛行体を操縦して敵空母に体当たりして大きなダメージを与えて敵の艦載機の発着を阻止して航空戦の数的劣勢を補おうという1944年に入ってから検討されてきた作戦で、当初は体当たり攻撃専用の兵器の開発計画でありましたが、その兵器開発が進まないうちに戦況は切迫してきて、フィリピンでの決戦において、当時日本海軍の航空機で最もスピードの出たゼロ戦に爆弾を積んで敵空母への体当たりを敢行する案が検討されるようになり、台湾沖航空戦で日本航空隊が大損害を蒙ってまともな編隊編成も困難となったため、実施が決定されたものでありました。その後、陸軍航空隊もそれに倣って特攻隊を編成するようになり、陸海軍の特攻隊がフィリピン沖の敵艦隊にしばしば突っ込んでいくようになったのです。
ゼロ戦もそれに乗るパイロットも帰還してくれば再使用は出来るのですから、みすみす1回の攻撃で消耗してしまうのが確実な特攻作戦は非合理的な作戦のようにも思えますが、訓練も十分でない新米パイロットばかりで少しばかりの機体で飛び立って敵艦隊に通常攻撃を仕掛けても撃墜されてしまうのは確実であり、かといって飛び立たずに飛行場に置いておいても敵の空襲や艦砲射撃で破壊され、パイロットも戦死してしまうのであり、どうせ失われてしまうのです。ならば体当たり攻撃で1回で失われても同じことであり、むしろ効果が高いのであるから、それはそれで一定の合理性はあるのです。
ただ自ら進んで自軍の消耗を進めていくのであるから作戦としては下策中の下策といえます。また、特攻専用機ではないゼロ戦での特攻は効果が万全ではなく、非効率的でもありました。しかしもうこれしか方法は無いわけですから、仕方なかったといえます。

戦争というのは殺し合いであり、戦う以上は生命は捨てる覚悟は常に持っていなければなりません。生きようと思って戦えば死ぬことになるものです。敵を殺すのが兵士の務めであり、殺した者は殺されることも当然有り得るのであり、自分だけがそうした運命を逃れるということはないのです。だから死ぬことに抵抗は無いものです。しかしそれはあくまで覚悟の問題であって、個人の自由意思として納得して行うべきものです。他人が決めるべきことではないし、他人に命令される筋合いのものではありません。それに死の覚悟をもって戦うのと自ら死を選びとるのとでは天と地ほどの違いがあります。やはり尋常のことではありません。そういうものに組織が介在した時点もやはり何か不自然であり、釈然としないものは残ります。透徹した精神を持った者であれば、俗世の事象を捨象してあくまで個人の自由意思の境地に昇華させることも出来たのでしょうが、多くの兵士は凡人であり、その心は動揺したでありましょう。
やはり彼らとしてもこのような不自然な作戦を自分の中で最終的に納得させる要素は戦況であったと思われます。勝っていればまずこんな作戦は実施されません。また負けていても講和が結べるような状況であれば、やはりここまでする必要もないでしょう。もはや味方の勝利は絶望的であるのに敵は講和も拒否して徹底的に日本を破壊しようとして攻めてくるのです。このままでは敵によって自分の肉親も皆殺されてしまうでしょう。なんとしても敵を講和の交渉に引き出さねばならないのです。そのためには敵に一撃を加えるしかありません。しかし通常攻撃で一撃が与えられるなら、そもそもこんな不自然な作戦が実施されるわけがないのであり、こんな不自然な作戦が行われているということは、もはや肉親達を戦禍から守るためにはこの方法しか残されていないということであります。だからイヤでもやるしかなかったのです。実際、これしか方法は無かったであろうし、通常攻撃よりも戦果は上がりました。そういう意味ではこの作戦の選択は間違ってはいないし、そうやって特攻隊員たちは自分を納得させていったのでしょう。しかしこれしか選択肢が残らないまでに戦局を悪化させた政府や軍の首脳部の責任は限りなく重いでありましょう。

そして、この特攻攻撃を受けた米艦隊の兵士たちはパニックに陥りました。まず、このフィリピン戦の段階ではまだ特攻対策というものが確立されていなかったので、特攻攻撃を防ぐこと自体が困難であり、かなりの被害を蒙ってしまったという純粋軍事的な意味での混乱がありました。しかしそれ以上に、大部分がキリスト教徒である米軍兵士たちには自殺は強いタブーであって、自殺攻撃を平然と行う日本人を前にして精神的混乱をきたしてしまったのでした。ある者は日本を狂気の独裁国家と見なして恐れて憎悪していっそう敵対心を高め、ある者はこんな狂った連中と戦うのはもうごめんだと厭戦感情を募らせ、またある者はタブーを超越した日本兵の行動にいい知れぬ気高さを感じて敬意を表したりしました。
そうした反応は個々の兵士ごとに千差万別であり、何か目に見えた効果がもたらされたというほどのことはなく、またアメリカ国民には当面は特攻については秘匿されたので国を挙げての厭戦感情を引き起こすという効果があったわけではありませんが、米軍兵士の感情を大きく揺さぶり、日本人に対して何か不気味で得体の知れない恐怖心を植え付けたのは事実でありました。これがこの後の終戦工作や戦後政策にも関係してくるのです。

こうして1945年2月には散発的なゲリラ戦を除いてはフィリピンでの戦いはほぼ終息したのですが、この頃には既に日本本土への空襲は開始されていました。サイパン基地を拠点とした最初のB-29による東京への戦略爆撃は1944年11月末であったが、これには幾つか問題があり、当初はあまり効果が上がりませんでした。B-29の最大の長所は日本側の戦闘機や対空砲火が届かないくらいの超高空から爆弾を降らせることが出来ることでしたが、日本上空の高空には強い偏西風が吹いているため、高空から爆弾を降らすと風に流されて標的の軍需施設などにあまり命中しなかったのです。またサイパン島はやはり遠いので燃料をたくさん積んで出撃せねばならず、その分、あまり多くの爆弾を積めなかったのです。命中率が低いのならその分たくさんの爆弾を投下せねばいけないところなのですが、このように爆弾を少ししか積めないのでは爆撃の効果はあまり上がりませんでした。
アメリカが日本への戦略爆撃を行ったのは日本の継戦意欲を奪うためでありました。この頃にはフィリピンはほぼアメリカの手中に落ちていたので日本の継戦意欲、そしてそれ以前に継戦能力そのものが失われつつありました。しかしアメリカは無条件降伏を大方針としているので、いくら日本側が継戦意欲を失って講和を持ちかけてきても応じることは出来ません。そうなると日本側も継戦能力は無いのに仕方なく継戦意欲だけは奮い立たせて、とにかくアメリカに一撃を与えて講和への道を開こうとします。それは日本にとってかなり無茶な戦いになり、例えば特攻作戦のような尋常ではない戦い方をすることになるのですが、それは日本軍に取り返しのつかないダメージを与えつつ、同時にアメリカ軍にもダメージを与えるものでありました。ただ日本軍にいくらダメージを与えても日本の国家そのものを蹂躙しない限り、日本が大人しく無条件降伏などするわけもないので、延々と戦いは続くことになってしまうのです。
つまりアメリカは自分の要求した無条件降伏という条件に自縄自縛になって日本との戦いが泥沼化し始めている状況であったのです。日本の陸軍兵力を撃滅して日本の国土を蹂躙しない限り、日本を無条件降伏させることは出来ません。だから米軍を日本本土に上陸させて日本軍を打ち破り日本を占領してしまえば日本の無条件降伏で戦争は終わるのですが、さすがに激しい抵抗が予想され、多くのアメリカの若者が死ぬでしょう。フィリピンはアメリカ領だからその奪還のためにアメリカの若者の血が流れても仕方ありません。しかし日本はアメリカにとってあくまで外国です。アメリカの世論が日本での戦闘で自国の若者の血が多く流れることを容認するとは思えませんでした。

自国の陸軍を送れないのならば、他国の陸軍に日本軍を撃ち破ってもらうしかないのですが、シナ軍ではお話になりませんでした。そこで極東ソ連軍を引っ張り出そうということになったのです。この頃ソ連軍はヨーロッパ東部戦線でバルカン半島に雪崩れ込んでおり、もはやヨーロッパの戦争の勝敗は決した状況で、1944年10月にはモスクワでチャーチルとスターリンの間で首脳会談が行われ、この場でスターリンはドイツ降伏の3か月後に極東に兵力を移動させて日本に宣戦布告すると約束しています。つまり、9月までにはアメリカとソ連の間でソ連の対日参戦問題で合意が成立していたと思われます。おそらくソ連は対日参戦の見返りにシナ大陸におけるかなりの権益を手に入れることが許されたのでしょう。
ソ連に対しては日本もアメリカとの和平仲介を頼みこんでおり、これもシナ大陸におけるかなりの権益をソ連に渡す条件にはなっていたであろうと思われます。それを袖にしてアメリカと組むことを選択したソ連の腹の中は、おそらくアメリカのほうがシナ国民党に対する影響力が大きいので、シナ大陸の権益に関する約束の履行はスムーズにいくだろうと踏んだからでしょう。ただ、更に深い部分では、あくまで陸軍兵力の投入に躊躇するアメリカの弱さを見透かして与しやすいと判断したからではないでしょうか。大陸での影響力は大陸の奥深くまで陸軍を投入出来るかどうかにかかっています。それが出来ないアメリカとの約束など、実際に参戦した後でいくらでも反故にして約束された権益以上のものをソ連が自力で得ても大丈夫ということになります。また参戦の勢いに乗じてアメリカ軍の動く前に日本列島に侵攻してソ連の勢力圏にしてしまうことだって出来るのです。

ルーズベルト政権はあくまでソ連に宥和的でありましたが、ソ連軍のバルカン半島などにおける振る舞いを見て警戒する米軍関係者は多く、米ソ首脳間の密約の内容は知らずとも、極東でソ連軍を自由に行動させるのは危険であろうという認識は持っており、そういう人達はもしソ連軍が極東戦線に参加してきたら厄介なことになると思い、なんとかヨーロッパの戦争が終わるまでに極東の戦争も終えてしまいたいと考えるようになりました。ヨーロッパではドイツはライン河とベルギー、そしてポーランドで連合国軍の攻撃を耐えていましたが、いつ戦線が破綻してドイツ国内が蹂躙され終戦を迎えるか分かったものではありませんでした。それまでに日本を無条件降伏させなければいけないのですが、米軍の地上部隊は使えないとなると空襲で日本に壊滅的ダメージを与えるしかないのですが、サイパンからのB-29による爆撃は効率が悪く、壊滅的ダメージにはほど遠かったのです。
だいたい空襲だけで敵を無条件降伏させるなどほとんど不可能なのですが、その不可能を可能にするために米軍は戦略爆撃の方針を大胆に転換することにしました。まず標的を軍需施設から住宅地に変え、投下する爆弾を軍需施設を破壊するための通常爆弾から、一般民家に火災を起こすための焼夷弾に変えました。そして命中度を上げるために低空飛行で大量の焼夷弾を無差別に集中投下して大火災を起こし、日本の都市を壊滅させることにしたのです。この絨毯爆撃で地上軍の侵攻に匹敵するほどの壊滅的打撃を日本に対して与えて国家機能を麻痺させて無条件降伏せざるを得ない状況に追い込むのです。
こうした絨毯爆撃という発想はもともとヨーロッパで熾烈な航空戦、それも空爆戦を繰り広げていたイギリスとドイツの戦いの中で、より効果的な空爆の方法として立案されるようになって生まれてきたものでした。それに影響を受けたアメリカ軍が日本に対して大規模に絨毯爆撃を行おうとしたものです。なお、このヨーロッパのほうの絨毯爆撃の思想は東部戦線のソ連軍からの航空支援の要請に応えて英米空軍による東ドイツの戦略拠点都市への無差別爆撃が立案されるようになり、それが1945年2月にドレスデン空爆という形で結実することとなり、その後、ドイツの諸都市に対して終戦まで無差別爆撃が続けられることになります。
ただ、この都市への無差別絨毯爆撃という作戦には幾つか問題がありました。まず第一に、これは民間人の無差別大量虐殺であり、明確に戦争犯罪であるということでした。しかしこれについては戦争に勝つためにはやむをえないということと、相手を無条件降伏させてしまえば勝者の戦争犯罪は裁かれないということで問題にはされませんでした。また、戦時プロパガンダによって罪の意識というものがそもそも麻痺していたということもあります。特に日本に対しての場合は、人種差別的感情から、無差別大量虐殺に関してもそれほど大きな抵抗は無かったようです。
次に問題となったのはサイパンから飛ぶB-29には燃料を多く積むので焼夷弾を多く積めないということでした。これの解決のために、まず燃料消費の激しい編隊飛行をやめて単機で飛行することにしました。そして更に焼夷弾を多く積むために乗員数も最低限まで減らし、銃座なども外して対空戦闘機能をゼロとしました。これで低空飛行するのですから日本側の迎撃戦闘機や高射砲に対してほとんど無防備となります。無差別爆撃なのだから正確に標的を目視する必要はないので空襲は夜間のみにして、少しでも敵の迎撃を困難にすることにしましたが、それでも危険は大きすぎました。やはり護衛戦闘機はつけないといけません。しかし護衛戦闘機の航続距離はB-29には遠く及ばず、サイパン基地から飛ばしても日本まで行って戻ってくることが出来ないのです。そこで米軍が目をつけたのが硫黄島だったのです。

硫黄島は小笠原諸島に属する22平方キロほどの小さな火山島で、地形はほぼ平坦で飛行場を作るのに適していました。ここは東京とサイパンのほぼ中間地点に位置し、ここに護衛戦闘機の発着基地を作ればB-29の日本本土爆撃に護衛戦闘機をつけることが出来るのです。そうなれば日本の都市への無差別爆撃が可能になり、日本の国家機能を破壊して、米軍の陸上部隊を日本本土に上陸させずに日本を無条件降伏させられる可能性が出てくるのでした。だから米軍はなんとしても硫黄島が必要になったのです。
日本軍のほうでも硫黄島はもともと敵艦隊が日本本土に接近した際に迎撃する航空戦力の要の地として重視しており、既に飛行場を建設しており、守備隊も陸海軍合わせて2万にも及ぶ大きな地上兵力を置いていました。と言っても、精鋭部隊はフィリピン方面に集められたので硫黄島の2万は数は立派でしたが急遽召集された素人兵が主体でした。しかもフィリピン決戦の準備のために小笠原からも航空戦力は根こそぎ持っていかれて、硫黄島には飛行場はあっても航空機が無く、単に2万の将兵が取り残されたという状況となっていました。しかしサイパン島などよりも遥かに小さな島で、しかも平坦な火山灰地が荒涼と広がるだけで、ペリリュー島のような天然の洞窟も無ければルソン島のような山地やジャングルがあるわけでもなく、全く2万の将兵が身を隠す場所も無い島でした。米軍がサイパンで見せたような艦砲射撃や空襲などの立体戦を展開すれば、硫黄島の日本軍守備隊はあっという間に壊滅するしかない状況でした。
しかし硫黄島守備隊ではサイパンの戦いを研究し、1944年6月のサイパン戦の直後から、火山灰地の柔らかい地質の特徴を活かして島内全域に地下壕を掘り、それらを地下トンネルで連結し、島の地下全体に巨大地下要塞を建設し、そこに2万の将兵が籠って艦砲射撃や空襲をやり過ごし、上陸してきた敵兵に対して組織的なゲリラ持久戦を展開するという前代未聞の作戦を立案し、すぐに作業に取り掛かったのでした。
これは、この硫黄島が敵の日本本土空襲の際の護衛戦闘機の基地となるという戦略上の最重要地点であることを鑑みて、必勝の信念のもとに立てられた作戦であって、決して当初は玉砕のための作戦ではありませんでした。硫黄島守備隊の計算では、そうやって守備隊が持久戦を戦って敵の大部隊を硫黄島に引きつけておけば、その敵兵の補給のために何度も米輸送船団や護衛艦隊がやってくると見ていました。硫黄島の重要性を理解している日本海軍ならば必ず連合艦隊を差し向けてこれら敵艦隊や輸送船団を撃滅してくれるはずであり、そうなれば補給を断たれた敵上陸部隊をゲリラ戦で撃滅し、米軍は惨憺たる被害を受けて講和に傾くという見通しが立っていたのです。
ところが、その頼みの連合艦隊はマリアナ沖で機動部隊が壊滅して艦隊決戦を行う能力を喪失しており、しかもその残存艦艇はフィリピン決戦の号令の下、フィリピン方面に集結させられ、10月のレイテ沖海戦でとうとう連合艦隊は壊滅してしまったのでした。これで硫黄島の守備隊への救援の望みも断たれました。連合艦隊の壊滅は海軍の外には秘せられていましたが、硫黄島守備隊は陸海軍が一体化していたので、これは守備隊の知るところとなり、こうなったら敵上陸部隊に対して地下陣地を拠点にして1分1秒でも長く組織的抵抗を継続して、敵の日本本土空襲を妨害するとともに、敵上陸部隊に甚大な被害を与えてアメリカの戦意喪失を図ってやろうという、守備隊の全滅を前提とした開き直った作戦となっていったのです。

米軍はフィリピンの奪還がほぼ確定的となった後、1944年12月上旬には硫黄島に艦隊を派遣し、猛烈な空襲と艦砲射撃を加え始め、これを1945年2月下旬まで毎日欠かさず執拗に続けましたが、地下陣地に籠った日本軍守備隊にはほとんど損害を与えることが出来ませんでした。そして2月下旬に6万の兵を上陸させた米軍はこの狭い平らな島のどこに日本軍が潜んでいるのか皆目見当がつかないまま、22平方キロの土地に敵味方合わせて8万の兵隊がひしめくという超接近戦の地獄に引きずり込まれることとなったのでした。
硫黄島に上陸した米軍は24時間常に日本軍の陣地の中に入り込んでしまったようなもので、異様な緊張を強いられることとなったのです。戦史に残る激戦となった硫黄島の戦いは日米互角の消耗戦が展開されましたが、もともとの兵力が圧倒的に違うので次第に日本軍が押されていくようになりました。そして最終的には3月下旬に日本軍の組織的抵抗は終わったのですが、日本軍は2万余名がほぼ玉砕し、米軍も2万5千名ほどの戦死傷者を出しました。米軍のほうが損害が多かったというのは大東亜戦争の太平洋の島嶼の戦いでは他には例が無く、ほぼ全滅した日本軍はともかく、米軍の被害率も6万人中の2万5千人という恐るべき高さとなっており、この恐るべき数の犠牲者はアメリカの政府や軍に衝撃を与えることになったのでした。
しかし、それはそれだけの代償を払ってでも獲得する価値が硫黄島にはあったということでもあり、この島の飛行場を護衛戦闘機の発着場として使用出来るようになった米軍は、遂に念願のB-29による低空飛行で焼夷弾をバラ撒く無差別都市戦略爆撃を実施出来るようになったのでした。その第一弾攻撃が3月10日の東京大空襲でありました。この東京大空襲では東京の下町一帯が一晩で焼け野原となり、10万人が焼け死んだのです。この後、立て続けに他の大都市も大空襲を受けて壊滅し、更に東京をはじめ大都市は5月ぐらいまで反復して空襲を受け日本の国家機能はマヒ状態となり、一通り大都市が壊滅すると、次いで6月以降は米軍は全国の地方の中小都市も順々に空襲で焼き尽くしていき、これは8月の終戦の日まで続いたのでした。1945年3月10日以降、日本本土は無差別空襲によって戦場となったのでした。これ以降、国民生活は一変することとなり、日本は滅亡の淵に立つことになるのです。
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