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現代史についての雑文その7  沖縄戦始まる
硫黄島の戦いも日本本土空襲も戦史に名高い事件です。しかし硫黄島があれほどの激戦になるとは日米ともに予想はしていませんでしたし、絨毯爆撃による本土空襲はとにかくそれまでにあまり例の無い作戦であっただけに、本当に成功するのか、成功したとしてもどれほどの効果を発揮するものか今一つ分かりませんでした。
1944年の末に日米決戦の舞台フィリピンをほぼ手中に収めた米軍も、フィリピンを失った日本軍も、そこで戦争が終わらなかった以上、次の決戦の舞台を考えるしかないのであり、その決戦場は自然に日本本土となってくるのでした。当時の日米両軍の首脳部が最も重視していたのは硫黄島や本土空襲ではなく、やはり次の日本本土を舞台とした日米決戦であったのです。そういうわけで1945年1月になると、日本政府や日本軍の中ではにわかに本土決戦構想が叫ばれるようになりました。米軍のほうでも、本当にやるかどうかはとにかく、まだ戦争が終わらない限り軍を進めていかねばならないのであり、日本本土侵攻計画を立案していくようになったのでした。


日本国民にはよく戦争中に酷い目にあったという人がいますが、自分自身が軍隊に召集されて激戦地に送られたか軍隊内のしごきやイジメにあったか、家族の一員が戦死して悲嘆に暮れた人を除けば、それはだいたいこの1945年1月から8月の終戦までの8か月間ほどの記憶に起因するものです。
1941年の大東亜戦争の開戦当初は戦争特有の緊張感に大東亜共栄圏の理想主義的スローガンに乗せられ、むしろ引き締まった心地よさがあり、次々に発表される戦勝報道に世論は歓喜し、戦時経済は活況を呈していました。しかし南方での消耗戦によって兵力が不足するようになって1943年10月にそれまで兵役を免除されていた大学や旧制高校などの文科系学生にも兵役が適用されるようになって、全国各地でこうした学徒出陣の壮行会が大々的に催されるようになったあたりから苦戦が意識されるようになり、1944年7月にはサイパン島が陥落して東条内閣が総辞職しました。
海軍は嘘の誇大戦果ばかり発表していたが、さすがにサイパン陥落や東条内閣総辞職の件はちゃんと報道されたので、国民は明らかに日本が劣勢であることは意識するようになり、敵が本土に迫りつつあることに不安を覚えるようになりました。政府も国民に空襲に備えるように呼びかけるようになり、危険を身近に感じて国民の緊張感と不安感は更に高まりました。1944年秋にはフィリピン決戦が叫ばれるようになった一方で、とうとう11月には実際にB-29が日本本土へ飛んできて軍需施設に爆弾を落とすようになりました。この頃にはフィリピンの戦況は明らかに日本不利に傾いていたのですが、そこまで詳細には知らない国民も空襲の開始には危機感を覚え、これでますます先行きに不安を募らせていたところに、1945年の1月になると突然に本土決戦だの一億特攻だの叫ばれるようになり、本土もいよいよ戦場になるということが明白となり、極度の緊張と不安で国民はヒステリー状態に陥っていったのでした。
それ以降、人員も物資も何もかも本土決戦の準備に投入されるようになり、全国で大きな混乱が生じました。まずこれで酷い目にあった人が多いのです。そして3月にはB-29による無差別爆撃で主要都市が焼き払われ始め、6月以降は地方都市が標的とされるようになり、全国各地で民間人が大量虐殺され、さらに多くの人が家を失い、インフラも破壊されて日本経済は破綻しました。そうした中でますます本土決戦の絶叫のボルテージは上がっていったのでした。それは一種の集団ヒステリーであったのですが、民間人を躊躇なく焼き殺すような敵軍が日本へ上陸してくればどのような残虐な振る舞いに及ぶかと考えれば、戦闘員でもない民間人ならばヒステリー状態になっても当然というものでしょう。
空襲によって経済が破綻しているのに本土決戦に物資を投入しなければいけないのですから、全国でトラブルが続出することになります。そこに集団ヒステリーが火に油を注ぐ形で、様々な事件が起きたであろうと思われます。ここで酷い目にあった人も多いことでしょう。
ただそれでも終戦まで日本国民はバラバラになることなく一致団結を守りました。それは、確かに巧妙なプロパガンダの結果と言えばそれまでなのかもしれませんが、まず第一に天皇への尊崇の心があり、また非道な敵に対する怒りがあり、そして自分達よりも苦しい境遇でなおも戦っていた英雄の存在を日々意識させられていたからでありましょう。
それらを国民に宣伝鼓舞するのは確かにプロパガンダであり、プロパガンダ機関を効果的に運用出来るだけの全体主義的な体制が権力機関に存在したということも重要なポイントではありますが、しかし確かに、戦時プロパガンダ以前から天皇への尊崇の念というものは伝統的に存在していたのであり、敵への怒りはむしろ自然かつ当然なものであるし、そして実像は幾分極端な美化によって歪められてはいましたが、一般国民よりも更に苦しい戦いに身を投じている者達は確かに存在したというのも事実でありました。それは硫黄島をはじめ南方の島々で玉砕していった兵士達であり、特攻機で敵艦に突っ込んでいった者達であり、そして実際に戦場となった沖縄の兵士や県民たちでありました。

本土空襲で死んだ者は約50万人といわれます。空襲の死者としては確かに凄まじい数字ですが、当時の日本の人口はおよそ7000万人ですから、空襲では日本本土の民間人は0.7%しか死んでいないことになります。まぁ0.7%も死んだとも考えられますが、しかし一方、沖縄戦の時に沖縄本島に取り残されていた民間人は50万人ほどですが、そのうち地上戦に巻き込まれて死んだ者は約10万人であり、実に20%の死亡率なのです。
ちなみに1945年5月のベルリン市街戦においてはベルリン市民約300万人中、15万人が死亡しており、死亡率は5%と沖縄戦より低いのです。これは沖縄戦は3か月続き、ベルリン市街戦は半月で終わっており、また沖縄戦のほうが防御側の抵抗が激しかったぶん激戦であり、その上、民間人が戦闘に積極的に協力した例が多かったため、沖縄戦のほうが民間人の犠牲者が増えたのだと思われます。また、沖縄戦の民間人死者には多く自決者が含まれますが、ドイツの場合はキリスト教徒が大半で自殺はタブーとされているので、沖縄の場合ほどは進退極まった時にすぐ自決するようなことはなく、その分生き残った者が多くなったと思わます。
よって、当時の日本の状況から推測してもし本土決戦が行われていたとするなら沖縄と同じような状況となっていた可能性が高く、人口の20%が死亡していたとすれば1400万人が死亡したことになります。また、もしベルリン程度の死亡率であったと仮定しても350万人が死亡したということになります。このように見てみると、地上戦と空襲とでは被害レベルの次元がそもそも違うのであり、沖縄の蒙った被害は本土の蒙った被害とは別次元のものだといえます。逆に言えば、いくら戦争犯罪を犯してまでも無差別絨毯爆撃を敢行したといっても所詮は空襲レベルでは地上戦の与える戦禍には遠く及ばないのであって、そんな程度で日本を無条件降伏まで追い込むことが出来るというのは、やはり米軍の認識は甘かったといえるでしょう。いや、そんなことは米軍も分かっているから、やはり日本本土上陸作戦を計画していたのです。

日本本土へ軍を上陸させる場合、その補給などを行う前進基地はやはり沖縄島ということになります。日本列島の南方海域には沖縄以外にそうした役割を果たせそうな大きな島は無いからです。そこで米軍は本土侵攻の前に沖縄を攻略する作戦を立てるようになりました。日本側でも沖縄を奪われると次はいよいよ本土侵攻ということになることは分かっていますから、沖縄は絶対に死守しなければいけません。そこで1944年7月にサイパンが陥落して小磯内閣が成立すると、日本軍はさっそく沖縄の守備隊を大増強し始めました。
小磯内閣はサイパンが陥落した時点でもう敗戦は覚悟していました。その第一目的は米軍に一撃を加えて講和に持ち込むことでした。だから、例えばフィリピンでの決戦は重視するが、フィリピンを死守するまでのこだわりは無いのです。もちろん守れれば守れるに越したことはないのですが、もし講和となればどうせフィリピンは放棄することになるのですから、死んでも守るというほどのことはありません。大事なのは米軍にいかに大きな被害を与えるかなのです。
しかし沖縄となると話は別なのです。第一次大戦後に信託統治するようになった南洋諸島や第二次大戦で占領したフィリピンなどとは違い、沖縄は伝統的な日本の領土なのです。少なくとも明治維新以降は明確に日本領で、日本人がずっと暮らしてきました。硫黄島も日本領ですが、こちらはほぼ無人の小島です。沖縄とは全く意味合いが違うのです。沖縄は当時の2府43県のうちのれっきとした1つの県であり、多数の県民が生活している日本本土の一部なのです。ここを絶対に奪われるわけにはいかないのです。

当時の日本人にとっての「本土決戦」というのは、孤島の玉砕戦などとは全く違ったものでありました。玉砕戦というのは敗北や全滅を前提として敵にいかに多くの損害を与えるかを追求する戦い方です。硫黄島がその典型であり、最大の成功例でした。それはあくまで本土を守るための楯でありました。硫黄島には兵士しかいませんでした。兵士の使命は銃後の民間人を守ることなのです。そのために楯となり玉砕する。それは悲惨なことではありますが、武人、軍人としては(硫黄島の兵士は素人兵が多かったが)正当なことではありましょう。
しかし本土には民間人がいるのです。だから本土に敵軍を上陸させてはいけないし、上陸してきても撃退しなければいけないのです。それが本土を守る兵士の使命なのです。敗北や全滅などを前提にした玉砕戦など論外なのです。勝たなければいけないのです。本当に勝てるかどうかは相手のあることであり、実際どうなるかは分かりませんが、とにかく本土決戦というのは玉砕戦ではなく必勝の戦略で臨む戦いでなければいけないのです。沖縄も多数の日本人の民間人の生活する日本本土の一部である以上、本土なのであり、沖縄の戦いは本土決戦の一部なのです。だから勝たなければいけないのです。
小磯内閣の行っている終戦工作にしても、沖縄を含む日本本土を守るためにやっていることなのであって、本土がやられてしまえば終戦工作も無意味だといえます。だから終戦工作が第一目的の小磯内閣においても、それ以前の基本的姿勢として、サイパンが陥落して日本本土に脅威が迫ってきた段階において、本土防衛態勢を強化するのは基本的なことであり当然のことでありました。
強化するといって具体的に何をするのかといえば、海軍に関しては実際はもう戦力は枯渇していたのですが相変わらず虚勢ばかりで自信満々の発言を繰り返していたので、海軍の内情まで知り得ない政府としてはそれを信用するしかない状態でありましたが、陸軍に関しては政府にも実情は分かっていたので打つべき手は打てました。それは満州やシナ方面に置いてある精鋭部隊をどんどん本土防衛に回すことでした。沖縄も本土であり、特に沖縄は真っ先に米軍の来襲の可能性が高いわけですから、沖縄には満州やシナから特に精鋭部隊が集められました。

こうして沖縄には1944年の夏には精鋭部隊12万人が配置されました。陸軍の沖縄守備隊ではサイパン島での米軍の戦法を研究して、この12万人を沖縄本島内の米軍上陸予想地点の各所近辺に配して、洞窟や地下陣地に潜ませて空襲や艦砲射撃をやりすごして、上陸した敵軍を歩兵と砲兵を連携させた特殊な戦術で撃滅する作戦を立て、そのための訓練を実施し始めました。本音ではもっと兵力は欲しかったところだったようですが、本土決戦の準備もある中、これが精一杯、最低限なんとかこれで勝算が立つという戦備となりました。島の防衛戦の場合、硫黄島の例でも分かるように、ちゃんと戦えば防衛側が有利なのであり、多少の兵力差のハンデは埋められるのです。
米軍の沖縄上陸作戦は4月に24万人で上陸を予定していましたが、このうち6万人は2月の硫黄島攻略戦に投入されてから沖縄上陸部隊に合流予定でした。米軍は硫黄島はほぼ無傷で5日で落とせると思っていたのでこういう計画を立てたわけですが、硫黄島の戦いは熾烈を極めて3月下旬まで続き、この6万人の部隊は大きな被害を受けたために沖縄戦に間に合わず参加出来ませんでした。だから沖縄に実際に上陸した米軍は18万人でした。
12万人と18万人なら兵力はそれほどの差はありません。全体に規模は大きいがシチュエーションとしては硫黄島と似ています。日本軍の戦法も硫黄島と似通っていました。硫黄島では2万人と6万人で日本軍は良い勝負をしました。しかも硫黄島の守備隊は素人兵ばかりであったのに比べ、沖縄守備隊は精鋭部隊ばかりで重火器も豊富でありました。それに地形的に相討ち覚悟の超接近戦しか選択肢の無かった硫黄島とは違い、沖縄は地の利は日本軍のほうにあり、戦法も練り上げられた見事なもので、地形を利用して米軍を翻弄して勝てる見込みは十分にありました。これで地上戦を支援する航空戦力や連合艦隊が加われば、硫黄島のような玉砕戦ではなく米軍を撃退することは十分に可能でした。硫黄島はこうした支援が最初から全く見込めなかったのに比べ、沖縄の場合は海軍も全力で支援するという方針であったのです。

このように1944年夏の段階では沖縄では米軍と互角以上の勝負が出来る態勢が整えられていたのですが、それは次第に崩れていったのでした。まず陸海軍首脳部がフィリピン決戦に急速に傾いてフィリピンへ陸軍精鋭部隊を集中させ始めたのですが、本土にも兵力を回しておかねばならず、かといって満州やシナからこれ以上引き抜くわけにもいかず、どうにも融通がきかなくなって、沖縄守備隊の3分の1の兵力を引き抜いてフィリピンへ回してしまったのでした。確かにフィリピンで米軍を叩くことが出来て講和に持ち込めれば沖縄戦は考えなくても済むのですが、フィリピンで敗れれば次は沖縄なのだから危険な賭けでした。そして実際、フィリピンでは拙い用兵で敗れてしまい、沖縄から引き抜いた部隊は無駄に失われてしまったのでした。
また、10月にはフィリピンで連合艦隊と航空戦力が無謀な作戦で壊滅してしまったため、沖縄守備隊への海上と空からの支援は困難となってしまったのですが、これについては相変わらず海軍が虚偽報告で誤魔化していたので実態は陸軍や政府には伝わらず、作戦に混乱をもたらすことになりました。海軍のほうではそれでも何とか沖縄への支援は行おうとして、フィリピン戦から導入された特攻作戦を大々的に展開する計画にシフトしていったのでした。
兵力の3分の1を引き抜かれてしまった沖縄守備隊は本土から精鋭部隊の補充を求めましたが1945年1月には断られてしまいました。この頃には政府も陸海軍首脳部も急速に本土決戦に傾き始め、本土から兵力を沖縄に回すのが困難になったのでした。いや、陸海軍首脳部ではこの頃には秘かに沖縄や千島などの辺境の島々は本土決戦の準備を整えるまでの時間稼ぎの場という扱いとされており、本土の楯という扱いに格下げされてしまっていたのが事実でした。しかし沖縄もまた本土の一部のはずなのですが、これではやはり沖縄は本土扱いされずに見捨てられたということになります。兵力不足でどうにもならなかったのでしょうが、沖縄にも民間人が多く暮らしている以上、見捨てることが許されるはずはないのです。こういう点は後々まで沖縄県民の心にしこりを残すことになりました。

ただ、沖縄という土地、沖縄守備隊は見捨てられたとしても、民間人に関しては本土へ疎開させるという手もありました。実際、1944年夏に沖縄が戦場になることが想定されるようになると軍は住民の本土への疎開を呼び掛けました。硫黄島であそこまで日本軍が戦えたのも民間人が全くいない島であったからでもあるのです。民間人を守りながらの戦いとなると軍の戦闘力が削がれるのです。だから沖縄守備隊としては民間人はみんな本土へ引き揚げてもらいたかったのですが、民間人の側としては生まれ故郷を離れたくない、身寄りの無い土地へ行きたくない、兵隊を見捨てて自分達だけ逃げるのは忍びない、居残って何か役に立ちたい、自分達の島は自分達で守りたいというような意見の者が多かったようです。あまり熱心にそのように言われては軍としても無碍に断ることも出来ず、役に立ちそうな者は居残って軍に協力してもらうことにしたようです。
ただあまり役に立ちそうもない女子供や老人、病人などは出来るだけ本土へ送ろうとしたのですが、沖縄の場合は船で移送するしかありません。ところがこの頃には沖縄から九州の間の海域には米軍の潜水艦がうようよ廻航して輸送船などを沈めていましたので、本土への移送はかなり危険でした。沖縄守備隊の兵士達は自らの士気を鼓舞するために米軍が来ても楽に勝てると放言するようなことが多く、それを聞いた県民の中には、撃沈される恐れのある輸送船に乗るよりもいっそ沖縄に留まって軍と共にいたほうが安全だと思い込む者も多く、女子供などもかなり居残る者が多かったようです。こういうわけで沖縄戦開始時点で50万人ほどの民間人が居残っていたのでした。
このあたり、情報を隠蔽したことによる方針の中途半端さの結果であるように思います。沖縄は捨て石にすると決まったなら決まったで、そのことは明確に守備隊にも沖縄県民にも伝えて、その上で出処進退を各自で判断させるべきでありましょう。そんなことをしたら士気を保てないという意見もあるでしょうが、結果的に民間人を巻き込んでしまったほうがよほど士気に悪影響が生じるのですから、民間人を巻き込む恐れがある以上、情報は公開すべきであったはずです。それが出来ないというのなら、そもそも本土決戦など戦えるわけがないのです。
結局、沖縄守備隊のほうは兵力の3分の1を引き抜かれてその後補充も期待出来ない状況の中、仕方無く学徒兵や現地召集兵などで間に合わせておよそ12万ほどの兵力としましたが、これは当初の精鋭揃いの12万とは全く違い、しかも50万人も居残っている民間人を守るためにかなりの兵員も割かねばならず、当初予定していた上陸した敵軍を殲滅する作戦は実施不可能となり、守備隊は根本的に作戦を練り直す羽目になりました。そこで上陸した敵軍に対しての持久戦という硫黄島とほとんど同じ作戦となってしまいました。これは持久戦を戦い抜いた後は玉砕することが予定されている玉砕戦であり、この時点で沖縄の戦いは必勝であらねばならない本土決戦ではなく、単なる玉砕戦に変わってしまったのです。
しかしさすがに玉砕戦に民間人を巻き込むわけにはいかないので、守備隊は戦場を沖縄南部に限定して、守備隊は南部の山岳地に地下陣地を作って籠り、民間人は島の北部に移動させてそこを非武装の安全地帯としました。つまり島の北部は無抵抗で米軍に占領させることにしたのです。実際、本島全域を守るのはもう無理になっていましたので、このような方法をとったわけです。しかし米軍は太平洋戦線では日本人の民間人に対しても酷い虐殺や虐待をしてきていましたので、米軍の占領下に入ることを恐れた住民は、かなりの数が島の南部に居残り日本軍と行動を共にすることになったのでした。

このような状況の中、3月下旬には米軍上陸部隊を乗せた輸送船団と共に米機動部隊が沖縄近海に出現し、沖縄本島に向って猛烈な空襲と艦砲射撃を浴びせました。これを待ち構えていた日本陸海軍の航空隊は南九州の基地から波状的に特攻攻撃を敢行しましたが、体当たり攻撃の効果を最大限に高める特攻専用兵器の実用化が立ち遅れていたため、主にフィリピンの時と同じくゼロ戦などの通常戦闘機に爆弾を装着しての体当たり攻撃となりました。特攻専用兵器は敵艦の装甲を破って艦内部まで突っ込んだ後で爆発して沈没を誘発することを目的とした重い機体を作る予定でしたが、ゼロ戦などを使った特攻はジェラルミン製の軽い機体だったため、空母の飛行甲板を大破させることが目的となっていました。特攻専用兵器としては爆撃機から発射する有人誘導式ミサイルといえる「桜花」や、敵艦の喫水線に大穴を開けて沈没させるための特攻モーターボートといえる「震洋」「マルレ」、そして人間魚雷「回天」などが実戦投入されたが、いかんせん数も少なく運用もお粗末なものだったのでほとんど戦果を挙げられないまま撃破されてしまいました。そのため、この沖縄近海の特攻戦でも敵空母に損害は与えたものの、輸送船を沈めることは出来ず、4月1日には遂に米軍の精鋭18万が沖縄に上陸しました。これは硫黄島守備隊が玉砕した1週間後でありましたが、こうなった以上、沖縄守備隊にも同じ運命が待ち受けているのは必然となったのでした。
しかし硫黄島とは違い、守備隊の玉砕だけでは話は終わりません。この時点で既に日本軍守備隊の沖縄決戦の構想は大きく崩れており、沖縄の失陥と守備隊の玉砕、民間人の大量死がほぼ確定的な状況となっていたのです。奇跡でも起きて米軍がやって来なければ悲劇は回避出来たのですが、そんな奇跡が起きるはずもなく、米軍は沖縄に上陸してしまいました。これによって悲劇は避けられない情勢となったのでした。しかしこの悲劇は沖縄だけの悲劇では済まされないのです。この沖縄決戦構想の破綻はそのまま本土決戦構想の破綻の相似形であり先駆けなのであって、沖縄で起きる悲劇は確実に本土でも起きるものなのです。
だからこの悲劇は絶対に避けねばならなかったのでした。そのためには奇跡でも何でも起こす必要があったのです。いや、実際、小磯内閣はなんとか奇跡を起こそうともがいていました。なんとか沖縄戦が始まる前に電撃的に講和にこぎつけたいと努力していました。フィリピンでは米軍に一撃を与えることが出来なかったため、アメリカを講和交渉の場に引き出すことには失敗しました。そうなるとソ連とシナに対する工作が重要ということになってきます。小磯内閣はここに最後の望みを賭けていたのです。ところがシナとの交渉は秘かに陸軍ルートで進めていたところ、外務省にバレてしまい、仲介人のシナ人の信頼性などについて異論が噴出して話が潰れてしまいました。残るはソ連を通じた終戦工作だけでした。それはヨーロッパ戦線の情勢も深く関係してくる話であったのです。しかしこの沖縄戦が始まる頃にはヨーロッパ戦線は終息を迎えつつあったのです。

1944年7月下旬、日本で小磯内閣が発足した頃、ヨーロッパでは東からソ連軍、西から米英軍がドイツに向けて包囲網を狭め、ドイツの敗北が確定的となる中、ドイツ国内では米英と講和しようとした反乱グループによるヒトラー暗殺計画が失敗し、日本の場合とは逆にドイツにおいてはナチスの支配する政府は講和を望む勢力を粛清し、講和への道を自ら完全に閉ざして徹底抗戦を貫くようになりました。
日本でも政府は表面上は徹底抗戦を叫んでいたが、実際は講和に向けて裏では工作を行っており、むしろ国民のほうがアメリカを恐れて徹底抗戦するしかないという考え方に凝り固まっていました。これは日本政府が戦意高揚のために反米宣伝をしていたというのもあるが、実際アメリカ軍は日本軍に対して戦争犯罪としか言いようのない虐殺を繰り返しており、しかも1945年3月以降の都市への無差別爆撃によって日本国民はアメリカへの恐怖と憎悪は最高潮に達していたので、国民が徹底抗戦を叫ぶのは当たり前でありました。
これに対してドイツのほうでは国民はソ連に対しては恐怖を抱いていましたが、米英とは手を組めると思っており、大戦末期は米英と組んでナチス政府を倒して講和に持ち込もうという意識が強くありました。こういう勢力を裏切り者と見なして弾圧して徹底抗戦を叫んでいたのがナチス政府であったのです。だからナチス政府の言う徹底抗戦は本当に一切の妥協の無い徹底抗戦でありました。その分、敵軍に対しては強く当たっていたが、内と外に同時に敵を迎えているような戦い方であり、国民のバックアップを得られていない分、脆弱なものでもありました。
それでも西部戦線では8月に米英軍にフランスを奪還された後、9月からはベルギーの森とライン河防衛線でドイツ軍は踏ん張っていましたが、これは米英軍が積極的にドイツ領内へ侵攻しようとしなかったからでもありました。何故、米英軍がドイツへの侵攻を遅らせたのかというと、もともとソ連との取り決めでベルリンを蹂躙する特典をソ連軍に与えることが決まっていたからです。米英軍を先にドイツ国内に入れたら、例えば民衆蜂起などが起きて一気にナチス政権が倒れてベルリンが解放されてしまって自動的に米英軍の管理下になってしまう恐れがあるのです。それではソ連との約束を破ってしまいベルリンを舞台に米英軍とソ連軍が激突する恐れもあります。やはりドイツとの最も困難な地上戦を引き受けて戦ってきていたのはソ連軍であるのですから、ベルリンで虐殺や略奪や暴行を欲しいままにする特典は与えなければならないというわけでした。

アメリカやイギリスの軍は日本との戦いにおいては虐殺をよく行ったが、これは戦時プロパガンダに染まって憎悪にかられた結果であり、そして根本には人種差別思想があったからでした。本来は、特に同じ白人に対しては米英軍は虐殺まではしないし、ましてや略奪や暴行のために戦ったりするという発想はありません。だからヨーロッパ戦線の米英軍の現地指揮官たちはソ連軍の無法行為を黙認することには心の底から納得していたわけではありませんでした。しかしロシア人というのは伝統的に戦争の時は虐殺や略奪や暴行をするというのは当然と考えており、そういう特典が無いと兵士達は働きません。そういう戦争文化を持った国なのです。だから、それを改めたり我慢しろとは言えません。そしてこのソ連への優遇は米英首脳が決めたことなのですから現地指揮官がそれに逆らえるわけもないのです。
チャーチルは高慢な人間であり、言い換えれば上品な人間であったから、ロシア人のこうした野蛮な振る舞いは嫌悪しており、ソ連軍にベルリンを蹂躙させる決定には内心では賛成ではなかったでありましょう。そうした個人的嗜好はともかくとしても、ソ連の勢力がベルリンにまで及ぶのは戦後のヨーロッパに暗い影を落とすと危惧していました。戦後ヨーロッパをイギリス主導で再建してヴェルサイユ体制を復活させたいというのがチャーチルの望みであったから、ソ連勢力の突出は望むところではありませんでした。
しかし一方、ルーズベルトは戦後ヨーロッパにおいてイギリスが強い影響力を持つことを嫌い、むしろソ連と組んでイギリスを締めだして、ソ連とアメリカとでヨーロッパを分割支配したほうが、ナチスドイツのような強大な統一ヨーロッパが現れる危険性も無くなり、イギリスもヨーロッパから締め出せば弱体化していき、ソ連は上手くコントロール出来ると踏んでいたので、アメリカの覇権のものと平和は安泰になると考えていました。だからルーズベルトはチャーチルの意見よりもスターリンの意見を容れて、ベルリンをソ連軍に蹂躙させることにしたのでした。
つまりソ連軍がさっさとベルリンを蹂躙してくれれば米英軍も一気にドイツを占領して戦争は終わるのです。しかしソ連軍は既に7月に東部戦線のドイツ軍主力を壊滅させていたにもかかわらず、なかなかドイツに突入しようとはしませんでした。まずはバルカン半島とバルト三国に侵入して親ナチス政権を倒し、略奪と暴行の限りを尽くし、親米英系の民主化勢力を弾圧して壊滅させて、その後に親ソ連系の共産主義傀儡政権を立てるということまで丹念にやっていかねばならなかったからです。ドイツに突入して戦争を早々と終わらせてしまうと、そういうことをするヒマが無くなってしまうので、ソ連としては困るのでした。

1944年7月にドイツと日本の敗北が確定的となって以降、戦勝国の間での戦後世界を見据えての駆け引きは既に活発化していました。7月にはアメリカのブレトン・ウッズで戦後の世界経済体制について話し合う会合が開かれ、第二次大戦の原因となった世界大恐慌が金本位制によって各国が通貨を大量に発行することが出来なかったために深刻化したことを受けて金本位制からの脱却が図られました。
ここでイギリスは国際共通通貨を新たに作る案を提唱したが、当時、最も多くの金を保有していたアメリカは金1オンスを35USドルと定めて各国通貨とドルとの交換比率を固定化するという金ドル本位制と連動した固定相場制を主張し、アメリカの発言権が強かったのでこの案が通り、ドルが世界の基軸通貨となることが決定しました。
その上で戦勝国側の諸国の復興案についてはイギリスは大戦の影響で自らも大幅な負債を抱えていたので赤字国も黒字国も同じように出資して赤字国の負債を清算する清算同盟を作ろうという案を提唱しましたが、黒字国であるアメリカはこの案に反対し、国際通貨基金と国際復興開発銀行を設立して赤字国へ融資を行うという案を主張し、この案が通りました。これによってイギリスは大幅な負債をそのまま抱えることとなり、海外植民地を維持していくことが困難になり、大英帝国は終焉を迎えることになるのです。このブレトン・ウッズで結ばれた協定をもとにした世界経済体制が戦後すぐに動き出し、実質的なアメリカによる世界経済支配体制であるブレトン・ウッズ体制となるのです。
このブレトン・ウッズ体制は自由貿易主義を基調としていました。これは1929年の世界大恐慌を深刻化させた元凶が米英の採用した保護主義的政策であったとする反省に基づいたものでありました。これはルーズベルトの信念ともいえるものであったので、ルーズベルト主導で作られたこの戦後の世界経済体制にはその信念が大きく影響を与えているというわけです。しかし大恐慌を引き起こしたのは投機経済の暴走でした。保護主義的政策はその有効な処方箋になり得なかっただけのことです。ならば自由貿易主義やケインズ経済学も有効な処方箋になり得なかったという点では同じことなのです。有効な処方箋になったのは世界大戦であり戦時経済体制でした。これがルーズベルトには分かっていたのか分かっていなかったのか、よく分かりません。ルーズベルトはこの体制が発足する前に死んでしまったからです。
ただ、おそらくルーズベルトの極端な自由貿易主義の主張の裏には、ある程度、多くの植民地を囲い込んで保護主義的政策をとって大英帝国の危機を乗り切ろうとしていたイギリスの目論見を邪魔しようという意図も働いていたと思われます。そうしたパワーゲームの影響で絶対的価値観にまで高められることとなった自由貿易主義は後に投機経済の暴走に歯止めをかけることを困難にしていくことになるのです。また、このように大恐慌克服後の経済体制は常に恐慌の再来の可能性を孕んだものとなり、結局は戦時経済依存体質となっていき、常に戦争を必要とするようになるのです。

一方、8月から9月にかけてアメリカのダンバートン・オークスで米英ソにシナの代表も加えて戦後の世界政治体制の枠組みについての話し合いも持たれました。ここで合意されたことは、ドイツや日本が再び世界大戦を引き起こさないようにするために新しい国際平和維持機構を設立することでした。これは日本とドイツに対して宣戦布告していた諸国を加盟国とし、加盟国の軍隊を集めて平和維持軍として武力行使を行うことが出来るものでした。つまり第二次大戦において連合国側が自然発生的に行っていた各国間の政策調整や軍事協議や共同軍事行動をそのまま機構化して、戦後もドイツと日本を監視し抑止を加え続けていこうという趣旨です。
この国際平和維持機構においては加盟国全ての代表者による総会において様々な事案について協議するとされましたが、総会の上に最高意思決定機関として安全保障理事会を設置し、この常任理事国をアメリカ、イギリス、ソ連、シナ、フランスの五カ国として、この五カ国には拒否権という特権を与えることになりました。つまりこの五カ国のうちの一国でも反対する決定は無効となるということです。言い換えれば、この世界各国の国家主権の上に君臨する国際平和維持機構の下す決定によって国家主権の侵害を受けないという特権を享受出来る国はこの五カ国だけということになります。つまり、この五カ国は他の国々からは隔絶した世界支配層という特権層を形成することになるのです。
この五カ国のうち実質的メンバーは米英ソの三カ国でした。この三国は連合国の主戦力であったから戦勝国の特権を享受するのは当然でした。シナはアメリカが自分の言いなりになる子分を連れてきただけであり、フランスはそれに対抗したイギリスが強く推して加入しました。またシナはアジア地域におけるアメリカの代理人であり、フランスはイギリスがヨーロッパの意見を主張していく際に必要な仲間として引きいれたとも言えます。
このような国際平和維持機構の設立や、常任理事国という特権国家を作ろうという提案はアメリカから出されましたが、これはイギリスとソ連に対して与えた一種のアメのようなもので、世界支配国の一員という特権を与える代わりに、これからアメリカ主導で打ち出していく戦後世界の分割案、つまりは戦勝国間の論功行賞には大人しく従えよ、というアメリカの意思の表れでありました。そして世界覇権国家を目指すアメリカにとって目の上のタンコブは新興国であるソ連ではなく、むしろ既得権国家であるイギリスのほうであったので、この論功行賞はソ連に甘くイギリスには厳しいものとなりました。

そういうわけだから、ソ連にとってこのアメリカの提案はメリットだらけで非常に心地良いものでした。そういう状況のところに日本が和平の仲介など頼んでも相手にするわけがないのです。逆にアメリカの求める極東で日本に止めを刺すための新たな地上兵力として極東ソ連軍を参戦させるという話に傾いていったのでした。このアメリカの提案に乗って極東で軍を南下させれば、極東においてもまた新たに権益が得られるのは明白だからです。
更にスターリンは極東で地上兵力をソ連をあてにして自らはなかなか出せないアメリカを根本的には舐めていて、既にアメリカ軍が地上戦に参加しているヨーロッパとは違い、一旦軍を南下させれば、いくらでも権益は拡大出来ると踏んでいました。その際、アメリカの提案する常任理事国というものに入って拒否権という特権を得ていることは大きな武器となるとも読んでいました。そういうわけでスターリンは日本からの講和仲介依頼は無視して、ルーズベルトにヨーロッパ戦線集結後3か月で極東への軍の移動を終えて対日参戦すると秘かに約束したのでした。
そうした米ソ蜜月状態の中でソ連がバルカン半島などで行っている暴虐も、もちろんルーズベルトの暗黙の了解のもとで行われているものであったので、ソ連のあまりの無法を見かねてチャーチルが10月にモスクワへ飛んで直談判しても、逆にルーマニアやブルガリアにおけるソ連の支配をほとんど認めさせられてしまう始末でした。ギリシャについては米英の勢力圏であることが確認されましたが、ハンガリーやユーゴスラビアの帰属は不明確なままとなりました。

この後1945年の1月になるとソ連軍はとうとうベルリンへ向けて進撃を開始し、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、そしてドイツ国内へ侵入し、それぞれの占領地で徹底的な暴虐行為に及びました。ポーランドはもともと第二次大戦の発火点となった地であり、1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻の際に国外に逃れたポーランド政府はロンドンに亡命政権を作っていましたが、ソ連軍はこれを無視して共産党による傀儡政権を立て、亡命政権側のレジスタンスを弾圧しました。これに怒ったイギリスとソ連の間に対立が生じ、2月にクリミア半島のヤルタで行われた米英ソ首脳会談でも大半はこのポーランド問題が話し合われることとなったのでした。
ヤルタ会談はソ連軍のドイツ国内侵入を受けて、最終盤を迎えたヨーロッパ戦線の終結後の戦後処理問題について協定を結ぶために行われました。ここで東欧諸国はほとんどソ連の支配下に入ることとなり、ドイツは降伏後は米ソ英仏の4カ国によって分割統治されることが決定されました。そして懸案のポーランド問題は英ソ間の対立をアメリカがとりなして、自由選挙を行ってポーランド国民が自身で政権を選択するということで決着しました。しかしその後、選挙のためにポーランドに帰国してきた亡命政権の要人をソ連軍は逮捕してしまい、結局ポーランドはソ連の傀儡政権によって独裁的に支配されることとなるのです。
また、このヤルタ会談では極東に関する秘密協定も結ばれることとなりました。これによってドイツ降伏の3か月後にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦することと、その見返りにソ連には南樺太と千島列島を与え、満州の鉄道や港湾の権益も引き渡されることが秘かに決まりました。また、台湾はシナに引き渡されることとなり、朝鮮は連合国による信託統治とすることが決まりました。この極東密約は米ソ首脳、ルーズベルトとスターリンの2人およびその少数の側近だけの知る秘密合意事項であり、よって、こうして国土を分割される当事国である日本の政府や国民が知る由も無かったのでした。日本本土についてどのように占領統治していくのかについてはドイツほど明確ではないですが、この1945年2月の時点では対日戦争はまだしばらく続くという認識であったので、降伏寸前のドイツの場合ほど細部はまだ決まっていない状況であったといえます。おそらくスターリンとしては対日参戦後にまだまだ取り分は増やせるはずだと踏んでいたことでしょう。

このヤルタでの合意の後、3月に入ると西部戦線ではとうとう米英軍もライン河を渡ってドイツ国内に侵入し、既にドイツ国内に入っていたソ連軍と東西からドイツ国土を制圧していきました。こうした中、ヒトラーはブダペスト奪還のためにハンガリー方面にベルリン防衛軍の主力を出撃させましたがソ連軍に敗れてこれが壊滅し、ベルリンはほぼ丸裸となりました。ヒトラーは敗北を悟り、連合国にドイツの生産設備などを渡すのを阻止しようと全土の生産設備を破壊する焦土作戦を指令しましたが、これは実施されることもなく、ヒトラーは総統官邸の地下壕に籠って姿を消すようになってしまいました。
ソ連軍がベルリンに迫る中、ナチス党員は助かる見込みは無いと自暴自棄になり、ソ連兵と戦って死ぬ覚悟を決め、一般市民は降伏しようとするとナチス親衛隊に狙撃され、じっとしていればソ連兵に殺されるのは目に見えていたので、とにかく逃げて米軍に降伏しようとしたが、逃げ道は塞がれており、恐怖と絶望に包まれていました。
ヨーロッパ戦線がこのような最終段階を迎えて、同盟国ドイツが遂に国土を蹂躙され敗亡寸前となり、ヒトラー総統の生死すら定かでないという情報が刻一刻と入ってきて、明日は我が身という心細い思いと共に、これで世界中を敵に回してたった一国で戦う羽目になってしまったという暗澹たる思いとなっていた日本政府に追い打ちをかけるように、4月1日に沖縄に米軍が遂に上陸したのでした。
それは沖縄決戦構想が完全に破綻したということであり、それは同時に本土決戦構想も破綻したということでした。沖縄戦の準備段階で起きたような戦略構想の破綻は本土でも同様に起きるのであり、もはや本土決戦でも敵上陸部隊を撃退することは敵わないということがハッキリしたのです。そこにとうとう敵上陸部隊がやって来たのです。今は沖縄だが、次は本土にやって来るでしょう。いや、沖縄も本土なのです。既に本土が米軍に蹂躙され始めたのだといえます。このような事態になる前に講和にこぎつけるというのが小磯内閣の使命であったはずです。その構想もここに全て徒労と終わり、破綻したのでした。
そうした中、唯一望みを繋げていた相手であるソ連が4月5日、日ソ中立条約の不延長を通告してきました。日ソ中立条約の有効期限は1946年4月までであり、その後再延長をしないということを今通告してくるということは、もはやソ連は日本を中立国として接するつもりはないという意思表示でありました。つまりもはやソ連を仲介としての講和交渉にも希望は見出せないということでした。これで小磯内閣は万策尽き、その日に総辞職することとなったのでした。
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