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現代史についての雑文その8  ドイツ無条件降伏
辞任した小磯に代わって組閣の大命が下ったのは海軍出身の鈴木貫太郎でした。鈴木は77歳という高齢もあり、また自分は政治向きではないと自覚していたので何度も辞退しましたが天皇に「この大事の時に他に頼める人はいない」と頼み込まれて結局引き受け、1945年の4月7日に鈴木内閣が発足しました。天皇に直接頼み込まれて首相になった人物は後にも先にもこの鈴木だけです。
鈴木は海軍出身といってもかなり昔に予備役に入り長年侍従長や枢密顧問官などを務めた人物で、海軍の代弁者というよりは昭和天皇の側近グループに属する人でした。この首相就任の経緯から見ても昭和天皇の信任が非常に厚かったことが分かります。鈴木の妻は昭和天皇の幼少時の養育係であり、昭和天皇にとって鈴木は父親に類した親近感を持った存在であったと思われます。鈴木の首相就任は、憲法の規定によって政治に口出しが出来ない天皇の意思をこの非常時において内閣に色濃く反映させるために苦肉の策であったと思われます。

昭和天皇はもともと開戦にも反対しており、その意を受けた鈴木の使命はとにかく何がなんでも戦争を終わらせることでした。もはや講和という形式にこだわっている場合ではありませんでした。既に本土の一角である沖縄に米軍は上陸してきており、日本国民の民間人が戦場で逃げ惑っているのです。もちろん連合国の求める無条件降伏を受け入れて国家そのものを潰すような真似は出来ませんが、最低限の国家の存立条件だけは確保するならば、もうそれ以上の条件闘争などせずに早急に終戦にこぎつけるべきだというのが天皇や鈴木の考えでした。ただ、その場合、天皇の統治権について連合国によって何らかの制限や介入が条件として出てくる可能性があり、そうしたデリケートな問題を冷静に検討していくためには、内閣の首班には天皇の信任が最も厚い人物を置く必要があったので、そういうわけでも鈴木は首相となったのでしょう。
ただ、そういう意思は意思として、沖縄で戦いは始まっていたのですから、そういうタイミングで降伏に関する話を進めるわけにはいきません。たとえ勝ち目が無かろうとも、戦いが続いている限りは、戦いをいかに負けないようにするか、たとえ負けるにしてもいかに酷い負け方をしないようにするか、次の戦場では負けないようにどのような準備をするかなど、戦いに関して考えることややることは山ほどあるのであり、とにかく沖縄戦が始まっている以上、降伏に関する話はひとまず脇に置いておくことになります。

4月1日に米軍が沖縄に上陸したのは本島中部で、ここは兵力不足のために日本軍守備隊は部隊を配置していなかったので米軍は何の抵抗も無く上陸に成功し、そこから南北に分かれて進撃しました。本島北部には日本軍は部隊を配置しておらず安全地帯としていたので北へ向かった米軍部隊は難なく占領し、ここに避難していた民間人を管理下に置き、本島内の主要な飛行場もすぐに占領してしまいました。
もともとは日本軍は沖縄に精鋭兵力を集中させて、上陸してきた米軍と決戦し勝利するつもりでした。そして政府は秘かにそれを講和の端緒にしようとも思っていました。しかしフィリピン決戦のために沖縄の陸軍兵力を大量に抽出してしまいました。そしてその後も本土に兵力を温存するために沖縄に増援部隊を送りませんでした。いや、そもそもフィリピンの次は沖縄と分かっているのですから、何もわざわざ沖縄から部隊を抽出しなくてもいいわけで、結局は陸軍中央は本土決戦の兵力温存のために沖縄を切り捨てたのです。これで沖縄で勝利する可能性は無くなり、これを講和の端緒にしようとしていた政府の思惑も潰れ、小磯内閣の崩壊にもつながったのでした。
陸軍中央に切り捨てられた現地の守備隊のほうは当初は怒り狂いましたが、やがて腹を括って、ひたすら持久戦を戦って敵を苦しめ、沖縄を本土侵攻作戦の前進基地として機能させるのを妨害して、最終的には玉砕して果てるとしても、1日でも敵の本土侵攻を遅れさせることによって、陸軍中央の本土決戦構想の手助けをしようという戦略に切り替えていきました。だから沖縄に上陸した米軍については地下陣地や洞窟陣地に大量の日本兵を潜ませた島南部方面へ誘い込んで泥沼の戦いに引きずり込めば良いのでした。島の南部へ進撃していった米軍は見事にその罠に嵌り、大損害を出し続けたのでした。

このように沖縄戦の緒戦は日本軍守備隊の思惑通りに進んでいきました。しかし海軍中央は陸軍中央とは違い、沖縄を見捨てていなかったのです。むしろ沖縄を航空決戦の場と見なしていたのです。これは特に深い考えがあってのことではなく、ソロモン諸島やギルバート諸島、フィリピンなどでもそうであったように、敵艦隊が集結する場所を常に航空決戦場だと大騒ぎして持てる航空兵力を全部投入しようとする日本海軍特有の癖のようなもので、陸軍とは違い本土決戦のことなどの後先は考えずに全航空戦力を沖縄戦に投入しようとしていたということです。いや、海軍は海軍で、出来るだけ早期に敵に打撃を与えて終戦の端緒にしたいと思って一生懸命であったのかもしれません。
とにかく、海軍は持てる航空戦力を沖縄方面に集中して沖縄近海に停泊する敵艦隊を撃滅しようとしていました。といっても、日本の機動部隊は壊滅していたので空母艦載機は飛ばせません。基地航空頼みということになります。しかも航空戦力自体がほとんど壊滅状態でしたので、航空戦力といっても実質はほとんど体当たり攻撃の特攻隊でした。つまり大量の特攻機を敵艦隊に突っ込ませる攻撃を繰り返すのです。悪夢のような作戦ですが、既に3月下旬に米艦隊が沖縄近海に出現して沖縄に向けて空襲や艦砲射撃を繰り返していた頃から日本側も九州南端の基地から特攻機を大量に飛ばせて体当たり攻撃を反復していました。これは敵艦隊にそれなりに被害を与え、また敵兵にかなりの精神的ダメージも与えていたのですが、やはり敵艦隊撃滅にはほど遠い戦果でありました。そしてとうとう敵軍の沖縄上陸まで許してしまったのでした。
こうした状況に対して海軍は焦り怒りました。やはり九州南端から沖縄は遠すぎるのでした。学徒兵や予科練出身のパイロットが多い特攻機は飛行技量が未熟で長距離飛行で消耗して敵艦隊に辿り着くのがまず大変で、辿り着いても疲れ果てており、敵戦闘機や対空砲火の餌食になるものが多かったのです。海軍の本音は沖縄本島の飛行場を使いたかったのです。そうすれば特攻攻撃の成功率ももっと上がるのです。ところが現地守備隊は島南部の地下陣地に籠って飛行場を守ろうとしませんでした。それが海軍には非常に不満であったのです。「陸軍は海軍の航空決戦を支援する気概が無いのではないか」というわけでなのです。しかし現地守備隊も好きで地下に籠っているわけではないのです。陸軍中央が沖縄を見捨てたのでそうした作戦を取るしかなかったのです。だから文句があるなら陸軍中央に言わねばなりません。そのあたり相変わらず陸軍と海軍の作戦の統一が図れていないのです。

とにかく海軍が一番不満だったのは沖縄本島の飛行場をみすみす奪われたことでした。特攻機の一番の天敵は敵戦闘機です。未熟なパイロットが多く重い爆弾を積んでいるから機動性も無い特攻機は敵戦闘機に食いつかれたらすぐ撃墜されてしまうからです。沖縄本島の飛行場を米軍が使えるということは、そこから多くの戦闘機を飛ばせるということである。それは特攻作戦にとって大きな阻害要因でした。海軍としては生命を捨てて敵艦に突っ込む特攻隊員の忠勇に報いるためにも、陸軍には飛行場の奪還を強く求めることになったのです。
それは現地守備隊にとっては、島南部に緻密に配置された堅固な地下陣地や洞窟陣地から飛び出して、現在上手く進行している持久作戦を全て捨てて、島中部の飛行場に向けて総攻撃をかけろと言われているのと同じわけで、玉砕せよと言われているのに等しいのです。沖縄現地の守備隊がそんなに早く玉砕してしまっては本土決戦がそれだけ早まってしまいます。それは陸軍中央の本意ではないでしょう。しかし海軍は沖縄こそ決戦場と思っているのですから頑として譲りませんでした。それに比べて陸軍中央のほうはどうも曖昧で、本土決戦にまだ迷いもあり、もし海軍の言うようにやって沖縄で勝てれば勝てたに越したことはないなどと考える者も出てきて、とにかく米軍の沖縄上陸は至って軍や政府の士気を下げてしまっていたので、士気を上げる意味でもこういう場合強硬論のほうが歓迎されやすく、なんとなく海軍の強硬論に押されて、陸軍中央も現地守備隊に飛行場への総攻撃を求めるようになってしまいました。そして現地守備隊の中でも、沖縄の場合は硫黄島の場合とは違って一応航空支援(特攻ばかりだったが)がかなりあったため、あるいは総攻撃が成功するかもしれないという期待もあり、持久戦派と決戦派とで意見の対立が生じていったのです。
そのようにして、4月上旬は沖縄守備隊では何度か総攻撃が決定されては撤回されるという作戦面の混乱状態を生じつつ、基本的には島南部での持久戦が維持され、日本軍も消耗していきましたが同時に米軍も日本軍の巧妙な罠に嵌って大きな損害を出しているという状況が続きました。このあたりは日本軍守備隊の作戦が奏功していたと言ってよいでしょう。

こうした折、4月12日にアメリカ大統領ルーズベルトが脳卒中で急死しました。ルーズベルトはチャーチルには理想主義に過ぎると貶され、ヒトラーには大戦を拡大した張本人と名指しされ、スターリンにはお人よしだと良いカモにされていましたが、確かにどれもそれなりに的は射ています。しかしなんだかんだ言ってもアメリカ政治史における巨人であるのは間違いなく、現代の世界はルーズベルトによって設計図を引かれた世界が基になっています。彼が目指したものとは、アメリカが主導する新しい世界秩序でした。その実現のために彼は理想主義を語り、戦争を拡大させ、ソ連の悪にも目を瞑ったのです。そして、そうして彼が種を蒔いたものは彼の死後に若干彼の思い描いていたものとは違っていったが基本的な部分ではそのまま新しい世界秩序として出来上がり、それが現在まで引き継がれ、今まさに壊れようとしているのです。
アメリカ大統領で四選を果たしたのは彼、ルーズベルトだけです。1944年11月の大統領選挙で四選目の当選を果たし、1945年1月に四期目の執務を始めて3か月弱での突然の死でありました。つまりルーズベルトは12年と3か月の間、アメリカ大統領だったことになります。これほど長い間、大きな権限を握り続けたため、自然とルーズベルトには極端に権限が集中することとなりました。その独裁的な権限を使って彼はブレトン・ウッズ体制やヤルタ・ポツダム体制と言われる戦後世界の新しい秩序を構築していったのですが、同時に政府の閣僚にすら秘密で物事を進めることも多くありました。この彼の死の時点でそうした秘密事項として残されたものの主なものが、例えばヤルタ秘密協定や原爆開発計画の2つでした。

ルーズベルトは非常に老獪な政治家であったので、常にあらゆる事態に対応出来るように手を打っていました。例えば日本に対しては当時のアメリカの政治エリート主流派の論調である無条件降伏論の立場を強調し、つまり日本政府とは交渉する意図は無いというスタンスを示しつつ、それでいて四期目の政権においては国務省の次官には知日派のジョセフ・グルーを起用したりしました。
三期目政権時の国務長官はかの有名なコーデル・ハルで、日本に対しては無知かつ冷淡な人物でありました。アメリカの政治エリートというのはだいたいみんなそういうもので、ルーズベルト自身もそうであったからウマは合ったであろうし、日本との対立をエスカレートさせる方針の三期目政権には適した人事であったと思われます。彼はルーズベルトの意思に沿ってアメリカの大戦への参戦や戦後の新世界秩序の準備などに奔走した後、病気になって1944年11月に辞任しました。
そこでルーズベルトは四期目政権の国務長官には友人で実業家のステティニアスを起用しましたが、外交の専門家でもないステティニアスを起用したのは、実際の外交の決定はルーズベルト自身が行うので国務長官は誰でも良かったからであり、ステティニアスは調整能力に優れていたので、例の新設の国際平和維持機構の立ち上げ準備のほうの専属係としてルーズベルトは信頼出来る友人を起用したに過ぎません。もともと国務長官のハルがこの国際平和維持機構の面倒を見ていたので、その後釜というわけです。
そうなると実質的な外交を行うのはルーズベルトであり、その補佐を行う外交専門官が外務次官ということになりました。しかしルーズベルトも常に外交ばかりするわけでもないので、大事な決定はルーズベルトが行ったり、独自にルーズベルトが秘密外交をするというのはあるとしても、アメリカ政府内での外交政策の実質的トップは外務次官となりました。その外務次官にルーズベルトはジョセフ・グルーを指名したのです。グルーは長年駐日大使を務めた知日派外交官で、アメリカ随一の日本専門家で、日本の政界官界に数多くのパイプを持っていました。
思うに、老獪なルーズベルトにとって無条件降伏論というのは味方の戦意鼓舞や敵からの最大限の譲歩を引き出すための一種のスローガンやレトリックに過ぎず、いざとなれば日本と外交交渉で終戦にこぎつけるための布石は打っていくつもりだったのではないでしょうか。これは別にルーズベルトが親日的だというわけではありません。この当時のアメリカの政治エリートが親日的というのはあり得ない話です。グルーのような単なる官僚で特殊な経歴の人物が特異なのです。ルーズベルトにとっての対日政策の懐の深さというのは、全てはアメリカの国益にとってベストな選択をするために、あらゆる選択肢を用意しておこうということであり、グルーも自分の国務次官指名の意味をそのように理解していたと思われます。

しかしグルーが国務次官に就任した1945年1月の段階では日本は小磯内閣で、これはグルーにはよく分からない軍部中心の内閣で、しかもアメリカ相手にあまり交渉しようとはせずに、まずはアメリカに一撃を与えてから交渉の機会を探ろうというスタンスであったので、そうなるとグルーとしてもあまり手の出しようが無かったようです。
しかし4月5日に小磯内閣が総辞職した後、昭和天皇は鈴木貫太郎を日本の首相に指名しました。グルーは駐日大使時代に侍従長や枢密顧問官であった鈴木とは公私ともに親交が深く、信頼出来る人物であることや親米的であること、天皇の信任が非常に厚いことは十分に知っていました。だからグルーは鈴木が首相になったということは日本が謙虚な姿勢でアメリカと終戦交渉を行うというサインなのではないかと感じました。
いや、そもそもグルーは駐日大使であった頃、当然ながら昭和天皇とも何度も面識があり、昭和天皇もグルーが親日家であることは知っていました。そのグルーが国務次官になったことを昭和天皇も当然知っていて、それをルーズベルトの何らかのサインと見て、それでグルーと親交の深い鈴木を首相に指名して対米交渉に望みを繋げようとしたのではないでしょうか。いや、ルーズベルトも昭和天皇がそこまで読むことを見越して誘い水としてグルーを国務次官に任命したのではないでしょうか。
その鈴木内閣発足の5日後、4月12日にルーズベルトが急死しました。この際、鈴木首相はすぐさま海外向けにルーズベルトを哀悼する声明を発表したのです。交戦国の指導者の死に対してです。当たり前だと見る向きもあるかもしれませんが、例えばヒトラーはルーズベルトの死を受けて悪しざまに罵る声明を発表しているのですから、とにかく鈴木の態度は武士道精神の発露だと称賛されました。
しかし単なる武士道精神の発露ではないでしょうし、日本人はそういう武士道精神を持っているものだなどと言って終わる話ではありません。当時の日本国民はそれほど立派ではなく、国内の報道などではルーズベルトの死については神罰が当たったのだという程度の論評ばかりで、そこに武士道精神といえるようなものはあまり見受けられません。だから鈴木の声明は日本人の声を代表代弁したものというわけではありません。また鈴木自身の武士道精神の発露であるなら国内向けにも同じ声明を出せば良さそうなものですが、海外向けにしかこういう声明は出していません。これは明らかにアメリカ政府に向けてのアピールなのです。この鈴木の声明を受けてグルーは、鈴木が明らかに早期終戦を望んでいることを確信したのです。ここからグルーは対日講和実現に向けて動き始めたのでした。

ただ、とりあえずアメリカは対日講和どころではありませんでした。まず大統領が急死したのですから大騒ぎでした。それに沖縄では米軍が思わぬ苦戦を強いられており、米国民の世論は相変わらず日本に対する憎悪や敵意が強かったのです。またヨーロッパ方面では対独戦が大詰めで、ドイツ降伏後は政府もやるべきことが山積みでありました。そして第二次大戦開始以降、積み上げてきたアメリカ外交のクライマックスともいえる大イベントが間近に控えていたのでした。これらの動きが落ち着いてから日本をどうするのか考えるということになります。
まず大統領の後任ですが、これは規定によって副大統領のトルーマンがすぐさま自動的に昇格して就任することになりました。トルーマンは上院議員でありましたが、ルーズベルトのように政治エリートの家系に生まれた大富豪ではなく、貧しい家に生まれ苦学して高校を出た後、地味に働きながら田舎で政治に関わるようになり、叩きあげてきた苦労人で、閣僚の経験なども全く無かったのですが、1941年に軍の不正を追及したことで有名になり、単に生真面目でクリーンなイメージの強い政治家でありました。
ルーズベルトは4回目の大統領選挙戦を戦うにあたって副大統領候補にクリーンなイメージのトルーマンを指名することでマンネリ感を打破しようとしたに過ぎず、トルーマンの政治手腕など全く期待していませんでした。そもそもアメリカの副大統領というのは大してやることの無い役職なので、そんな人物でも務まるのです。
いや、別にトルーマンが特別に無能だったというわけではなく、ルーズベルトのようなエリート中のエリートはトルーマンなど全く相手にしていなかったということです。だからルーズベルトはトルーマンに対して機密事項など全く教えていませんでした。もちろんヤルタ秘密協定のことや原爆開発計画のこともトルーマンはルーズベルトから聞いていませんでした。ルーズベルトもまさか自分がこのタイミングで急死するとは思っていなかったのでしょう。いや、まさにタイミングは、ルーズベルトがそれまでにあちこちに打ってきた布石が実を結び、その成果を一気に回収する直前のタイミングだったのでした。一部には不自然に歪んだ布石もありましたが、それらを総合的には辻褄を合わせて、まとめて正常化する構想がルーズベルトの中では立っていたのでしょう。そのようなややこしい事態の最中でなく平時であれば、トルーマンでも全く無難に大統領職をこなしたでありましょう。しかしトルーマンは様々な面で異常な時期にいきなり大統領になってしまい、否応なく嵐に巻き込まれていったのです。

まずトルーマンが大統領に就任して4日後の4月16日、ソ連軍が遂にベルリン攻略作戦を発動したのでした。ソ連軍は50万の大軍でベルリンに向って進撃しつつドイツ軍の抵抗を排除し、21日頃からベルリンを包囲し市街中心部へ砲撃や突入を開始しました。ナチス幹部らは既に多くがベルリンから脱出しており、ドイツ政府は事実上消滅していました。ベルリンから逃げだしたナチス幹部らは相次いでアメリカ軍に降伏したのでした。ソ連軍に降伏しても即座に殺されることは分かっていたからです。なおイタリア北部に追い込まれていたムッソリーニはナチスドイツ敗亡を受けてスイスへの逃亡を図りましたが途中でパルチザンに捕えられて28日に処刑されました。そしてベルリンの総統官邸の地下壕に籠っていたヒトラーは30日に拳銃自殺し、5月7日にドイツ国内に残存していたドイツ軍がアメリカ軍に対して無条件降伏文書に調印し、第二次欧州大戦は終了したのでした。
この間、ベルリンやその他、ソ連軍に占領されたドイツ国内の地域では地獄のような状態となり、略奪や暴行、虐殺行為が横行しました。ベルリンの民間人の死者は、殺された者や自殺した者を合わせて約15万人に上り、ベルリン在住ドイツ人女性10万人が何度もソ連兵に強姦されました。ドイツ国内では至るところが同様の有り様だったので、犠牲者の数はもっと多いと思われます。またソ連軍はドイツ国内の産業設備や文化遺産など根こそぎ奪って戦利品として持ち帰ってしまいました。これが無条件降伏した国の辿る運命なのです。
ドイツの場合、政府の構成員がみんな自殺するか投降してしまい、政府そのものが無くなってしまっていたので自動的に連合国軍の軍政に移行することになり、その新しい連合国軍政府にドイツ軍の残存部隊が武装解除して帰順して捕虜になるという形になったので、全く条件闘争する余地も無く、まさに完璧な無条件降伏となりました。
普通は政府が無くなったら統制不能になった軍が暴走したり新たな政府を作ったりするものですが、この時のドイツの場合、あまりに激しく大規模な地上戦を1939年以来6年間も繰り返し、特に最終盤に大敗北を繰り返したために地上兵力の残存部隊が少なく、連合国軍に抵抗する余力が残っていなかったので、すんなりと無条件降伏となったのだと思われます。

ドイツの降伏の報せは全世界を駆け巡り、連合国側の国々では歓呼をもって迎えられました。アメリカの場合、太平洋方面で戦っていたのは海軍と海兵隊と陸軍のマッカーサー軍団だけで、陸軍の大兵力はヨーロッパに送って激しい戦闘を繰り広げていました。一般的なアメリカ国民にとっては、やはりアジアよりはヨーロッパのほうが世界の中心であり、ヨーロッパ戦線のほうが主戦場で、ドイツが最大の難敵という認識でありました。そういうわけでドイツ降伏によってアメリカ国民の間では一気に戦勝ムードが広がり、「もう戦争は終わった。平和になった」という歓喜と安堵に包まれました。しかし、まだ戦争は終わっていませんでした。太平洋では未だ血みどろの戦いが続いていたのです。
ところがアメリカ国民はすっかり戦勝ムードで気楽になってしまい、たった1国で世界を相手に戦う羽目になった日本など早くひねり潰して戦争を完全に終わらせてほしいと言い出したのです。アメリカの一般国民は外国のことはよく分かってない人が多く、しかも戦時プロパガンダの日本蔑視の描写があまりに極端だったので、もともと人種差別主義者が多かったこともあって、日本人など首狩り族に毛の生えた程度の未開人だと思っていました。だからひとひねりで潰せるという程度に考えていたのですが、実際はそんな簡単なわけはなかったのです。
日本軍は硫黄島や沖縄では熾烈な抵抗を示し、戦場が日本本土に近付くほどに米軍の損害は増える一方でありました。絨毯爆撃で大都市は焼き払ったはずなのに未だ戦意は衰えていないように見受けられ、戦闘機に爆弾を積んで体当たり攻撃までしてくる恐るべき連中なのでした。制海権は奪い、産業施設は破壊したので、もう勝敗は見えています。よもやアメリカが負けるということはありません。しかしアメリカ国民が言うようにひねり潰したり、ドイツで行われたような無条件降伏までこぎつけるとなると、そう話は簡単ではありません。
日本の陸軍戦力はほとんど無傷で残っているのです。もちろん質は低下しており装備も劣悪、物資も欠乏しており、戦闘力は大幅に低下しているでしょうが、地上兵力というのはサバイバル能力が高いものであり、かなり劣悪な状態でも士気さえ維持されていれば抵抗だけならばかなり長い間継続可能です。日本軍の場合、その士気が異常に高いのです。それは硫黄島や特攻隊、そして沖縄で実証済みです。アメリカ人から見れば狂気としか見えなかったのですが、そういったクレイジーな連中の地上兵力がまだ大量に残っているのですから、これを壊滅させなければドイツ式の無条件降伏など無理というものでしょう。しかし、それを壊滅させるためにはかなり多数のアメリカ兵が犠牲になることでしょう。

いや、ドイツと同じようなケースを目指すならば、まず日本政府を消滅させなければならないのです。しかしナチスドイツの場合は政府の消滅は連合国の攻撃によってなされたものではなく、本来はベルリンを脱出して亡命政府を作る予定であったにもかかわらず、幹部達がヒトラーを見限ってバラバラになってしまって消滅したのだった。何故彼らがヒトラーを見限ったかというと、もはやナチス党がドイツ国民の支持を失っており政府の継続は無理と判断したからです。
しかし日本の場合、国民が政府を見限るという状況にはまだまだ至っていないように見受けられました。だから政府の消滅は現時点では期待は出来ないということになります。ドイツの場合は地上戦を経て国民の心がナチスから離れていったので、あるいは日本も地上戦が始まれば国民心理に変化も現れるのではないかとも思われますが、そのためにアメリカ兵の犠牲をかなり払わなければならないのです。いや、むしろ日本国民は地上戦が始まっても政府や軍と共に頑強に抵抗するだろうと思われました。何故なら沖縄でそれは実証されていたことだからです。
とにかくかなり多くのアメリカ兵の犠牲を払わなければ日本をドイツ式の無条件降伏まで追い込むことは難しいのです。むろんアメリカ軍幹部とて自分達の生命が惜しいわけではないし、兵の生命を危険に晒すことを躊躇するほど弱気でもありません。ただ、戦争のプロであり日本軍の実態を知っている彼らは、既に戦争の勝敗は決していることや、それでも個々の日本軍部隊の戦闘力が決して低くないということも把握していたので、勝ち戦で無意味に兵達を危険に晒すことに乗り気にはなれなくなっていました。そういった現場レベルでの声はアメリカ政府にも届いており、アメリカ政府も把握はしていたのですが、今更それを正直にアメリカ国民に伝えることも出来ませんでした。
戦時プロパガンダでさんざん日本人のことを猿だの未開人だのとこき下ろしていたので、猿や未開人に手こずったり恐れたりしているとは口が裂けても言えなかったのです。これで少しはアメリカ一般国民の間で日本人に対して同情的な論調でもあれば交渉の糸口にも出来たのですが、戦時プロパガンダの効果は凄まじく、見事なまでにそういった論調は皆無でした。国民は猿や未開人などすぐにひねり潰してくれるものと政府や軍に期待しているのであり、猿や未開人と交渉などする必要性は認めていなかったので、政府としても猿や未開人をひねり潰す姿勢を示すしかなかったのです。
しかし、もし日本本土に侵攻して大規模な地上戦が始まれば、その猿や未開人によって多くのアメリカ兵が犠牲になることでしょう。その時、アメリカ国民は猿や未開人に苦戦する政府を非難するようになるでしょう。あるいは日本人が猿や未開人ではないことに気付いてしまうかもしれません。そうなれば今度は政府が国民を騙していたと言って非難することでしょう。どちらにしてもこのまま日本本土へ攻め込めばアメリカ政府は国民の非難を一身に受けることになるのです。このようにアメリカ政府は現実とプロパガンダの間で板挟みになって進退極まっていたのでした。

そうした中で、国務次官のグルーだけは解決策に辿り着いていました。彼は日本という国を熟知していたので、日本人が猿でも未開人でもなく、長い伝統に裏付けられた高度な文明性を持っていることを把握していました。そして、その伝統こそがアメリカ人には最も理解困難な部分であり、それが理解出来ていないからアメリカ政府や軍の人々が日本人の行動を正確に理解出来ていないのだと喝破していました。
日本人は自らの生活の安穏と伝統的な国家の形とを一体化して考えるのでした。これを日本人は「国体」と呼びましたが、端的に言えば天皇を中心とした統治の形です。これが家族共同体と相似形をなすものとして日本人の心にはイメージされており、天皇による統治の形を壊されることは自らの家族共同体を壊されることと同一のものとして把握されるので、それに強く抵抗感を覚えるのです。日本人はアメリカが天皇による統治の制度を壊そうとしていると思いこんでいるのです。それは日本政府や日本軍部による戦意高揚のためのプロパガンダの結果でもありますが、実際にアメリカ国内に天皇制度の解体を求める声も多かったのですから、あながち嘘というわけでもありません。アメリカ政府が求めていた無条件降伏は天皇制度の否定と受け取られても仕方ないものだったといえるでしょう。
だから日本人の不安は当然なのです。「変化を恐れる考え方のほうが間違っている」などとアメリカ流の理屈を言ってみても仕方がありません。日本人というものはそういう考え方をするものなのであり、その現実を認めた上で対処法を考えなければならない時期であったのです。
日本人のそうした考え方を矯正したければそれは後でじっくりやればいいのです。とにかくその時点では日本人は国体の護持に大きな不安を覚えて激しく抵抗していたのです。それゆえ戦意はどこまでも旺盛であり、狂気としか思えない体当たり攻撃なども行うのです。ならば、天皇制度に保証を与えてしまえば日本人の不安は解消され、不安の裏返しである戦意は挫かれて消えていくのではないでしょうか。戦意さえ無くなれば、あとは荒廃した国土と、どう見ても勝ち目の無い戦況が日本人にも冷静に見えてきます。日本人は国体さえ護持されれば安穏を覚えて、戦争を続けることが億劫になって容易く降伏するだろう。あるいは天皇制度の保証だけでは日本軍は降伏せず、アメリカを与しやすしと見て更なる譲歩を引き出そうとするかもしれないが、その場合はアメリカは容赦なく戦争を続けて本土に攻め込めばいいのです。一度、天皇制度保証の意思をアメリカが示してしまえば、それだけで日本人の心の張りつめた緊張感は無くなってしまっており、もはやそれ以前のような強固な戦意は無くなっているので、容易く打ち破れるでしょう。逆にアメリカ軍は寛大な心を示した正義の軍となります。天皇の統治権が保証されているのに無意味な抵抗を日本軍が続けて徒に本土で戦火を拡大すれば一般日本国民の中にはむしろアメリカ軍のほうに心を寄せる者も出てくるかもしれません。こうして日本人の間に分裂が生じていけば、まさにナチスドイツの最期のような形に容易く持って行くことも可能となるでしょう。つまり天皇制度保証を言明することは即時終戦の近道であると同時に、仮に戦争が続いた場合にも日本政府や日本軍を早期に崩壊に追い込む布石となるのです。グルーはそのように考えたのでした。
いや、実際、日本はこの後グルーの読みの通りに終戦を受け入れ、そして、終戦後にも天皇制度保証という大義名分を楯としたアメリカに本土において「武器を使わない戦争」を継続されて、日本人の心は分裂させられて、あえなく国家を解体されていってしまったのですから、まさに知日派グルー恐るべしです。
ここで誤解してはいけないのはグルーは日本のために天皇制度保証を主張したのではなく、アメリカの国益のためにそれが最も良いと判断したに過ぎないことということです。そのアイデアが他の日本を知らないアメリカ政府高官などよりも秀逸であったのは彼が日本専門家だったからです。占領期、そしてその後の戦後日本をアメリカが巧妙にコントロール出来たのは、最終的にグルー路線を採用したからでした。逆に言えば戦後日本はグルーによって呪縛されているのであり、未だその呪縛は解けてはいないということになります。しかしそろそろグルーの呪縛を解くべき時期でしょう。
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