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現代史についての雑文その9  本土決戦の構想
1945年5月上旬にナチスドイツが崩壊した頃、アメリカでは第二次大戦のクライマックスとなるような重大な国際的イベントが開かれていました。例のダンバートン・オークスで提唱された国際平和維持機構を創設するための会議が4月25日からサンフランシスコで始まったのでした。この会議の成功を最も心待ちにしていたのはルーズベルトでしたが、そのルーズベルトはこの会議の開会の13日前に急死してしまっていました。
そしてこの会議が始まった時、沖縄では相変わらず血みどろの戦いが続き、既にベルリンにはソ連軍が突入して暴虐の限りを尽くしており、この会議が始まって5日目にヒトラーが自殺し、その7日後にドイツが無条件降伏しました。その後もこの会議は延々と続けられ、沖縄戦の終了が発表された翌日、6月26日にサンフランシスコのオペラハウスにおいて、現在「国際連合憲章」と日本でいわれているものが採択されて閉幕しました。

つまり、このサンフランシスコ会議において、先のダンバートン・オークス会議で枠組みが作られた戦後世界をリードする国際平和維持機構の名前が「国際連合」と決定し、その細かい規約が決まり、発足することが正式決定したのです。ただ、この「国際連合」という日本語名称は「United Nations」の意訳であって、直訳すればこれは「連合国」であるので、この「連合国」という呼称のほうが正しいでしょう。実際、連合国と呼んだほうが実態には即しており、妙な誤解や幻想を抱かなくて済むし、正確な世界理解が得られて有意義というものです。
この機構は第二次大戦で連合国として戦った国々51カ国が日本とドイツが二度と戦争を引き起こさないように監視し、もしそのような事態になれば加盟国が軍事力を結集して叩き潰すことを目的として作られた安全保障機構であるのです。この憲章では「恒久平和を実現する」とありますが、この機構の加盟国はみな「平和愛好国」と定義されており、だからこそ機構への参加を許されているのであり、つまり平和を乱す可能性があるのはこの機構に参加していない国であり、それは日本とドイツです。だから「恒久平和を実現する」というのは日本とドイツを監視し抑えつけることによって達成されるのです。そこに抽象的な意味はありません。極めて具体的なのです。だからこの機構は「国際連合」などという日本人が勝手に作った抽象的な名称ではなく、「連合国」という名のほうが相応しいのです。現在、日本やドイツはこの「連合国」の一員となっていますが、これらは「連合国」が敵視する日本やドイツとはまた別の日本やドイツなのです。

しかし、このサンフランシスコの連合国会議に集った「平和愛好国」の国々の代表団たち、特にその中でも常任理事国という特権階級を構成する5カ国の外相たちはエゴを剥き出しにして内輪揉めを始めてしまったのでした。まぁ5カ国といっても主に揉めていたのはソ連とイギリス、そしてアメリカでした。東欧の占領地域でソ連が暴虐の限りを尽くしていたことをイギリスが咎め、ソ連がそれを無視して開き直るのでイギリスが怒り、仕方なくホスト国であるアメリカが調停に入るが、その調停もソ連が無視するので、結局は米英がソ連を非難するような形になるのでした。
と言ってもイギリスもヒューマニズムでソ連を非難しているというわけでもなく、自らの縄張りと見なしているヨーロッパでソ連が好き放題するのが許せなかったに過ぎません。ソ連はソ連で実際に東欧を占領している既得権を行使して何が悪いという意識ぐらいしかないのです。アメリカはイギリスがヨーロッパを自らの縄張り扱いする高慢さに嫌気がさしているので、本音では米ソ協調してイギリスの邪魔をしようと思っているのですが、ソ連の態度はアメリカとの協調も必要としていないかのような傍若無人さでありました。それにイギリスとの友好もアメリカは維持しないといけないのでソ連を上手くコントロールしなければいけません。だいたい、まだサンフランシスコ会議開会時点では戦争は終わっていないのですから、連合国の主要国同士で揉めてばかりいるのは望ましいことではありません。だからなんとか穏便に収めようとアメリカが苦心することになったのです。
サンフランシスコ会議のアメリカ代表はステティニアス国務長官でしたが、この際彼はどうでもよいのです。ソ連のモロトフ外相やイギリスのイーデン外相にしてもそれぞれスターリンやチャーチルの意を受けて動いているに過ぎず、スターリンやチャーチルもステティニアスの背後にいるルーズベルトの意向を忖度していたのでした。ところがそのルーズベルトは会議の13日前に急死し、代わりに生真面目だけが取り柄の田舎政治家のトルーマンがステティニアスの後ろに控えることになったのでした。

いや、別にルーズベルトならスターリンやチャーチルを上手くコントロール出来たとは言うつもりはありません。確かにルーズベルトはトルーマンなどよりも老獪でありましたし、ルーズベルト自身はこの2人を御する自信はあったでありましょうが、実際はルーズベルトの生前からチャーチルもスターリンもルーズベルトを尊重などしておりませんでしたし、好き放題はやっていました。
ダンバートン・オークス会議やヤルタ会談あたりの段階でそれが度を越したものにまでなっていなかったのは、単にナチスドイツという共通の敵がまだ健在で、共に闘うことが一応優先されていたからに過ぎません。ベルリンをソ連軍が蹂躙して事実上ドイツ政府が機能停止していたサンフランシスコ会議の段階では、たとえルーズベルトが健在であったとしても、共通の敵を既に失ったイギリスやソ連がエゴを剥き出しにして好き勝手なことを言いだすのを止めることは出来なかったでありましょう。ドイツが無条件降伏して戦争が終わってしまった5月7日以降は、ますますサンフランシスコ会議はどうしようもないものになってしまいました。結局、平和愛好国の連合が協調して恒久平和を築いていくことが出来るなどというのは、大戦中の一時の熱気を永遠のものだと取り違えたルーズベルトの思い込みに基づいた理想論に過ぎなかったといえます。
だから、田舎政治家のトルーマンが偶然大統領になったことがチャーチルやスターリンの我儘放題に拍車をかけたということはあるかもしれませんが、根本的にはそれはトルーマンの責任ではありません。さんざん彼らの我儘を放置してさっさと死んでしまったルーズベルトの責任のほうが重いのです。いや、そもそも無理なことをやろうとしたルーズベルトが死んだ後で後任者にとんだ迷惑をかけただけのことでした。
しかしそれは今だから言えることであって、当時は多くのアメリカ人はそうは思いませんでしたし、まず第一にトルーマン自身がそうは思いませんでした。ルーズベルトはあくまで偉大な大統領であり、彼の描いていた理想は崇高なものと思われていました。「きっとルーズベルトが生きていればもっと上手くやったことだろう。会議が上手く運ばないのは田舎政治家のトルーマンがチャーチルやスターリンに舐められているせいだ」と、多くの人がそう思ったことでしょうし、トルーマン自身がそうしたコンプレックスに苦しめられていたことでしょう。
トルーマン自身、ルーズベルトの理想の信奉者であり、その理想を引き継ぎたいと願っていたのに、思うように事態が運ばないことに苦しんでいました。それは自分の不徳であり、自分が外交経験が無いと舐められているからだ。それが亡きルーズベルトにも申し訳ないし、国民にも申し訳ない。生真面目なトルーマンはそのように考えていました。

しかしトルーマンはルーズベルトに対しては複雑な感情も抱いていました。ヤルタ秘密協定にしても原爆開発計画にしてもルーズベルトは生前、副大統領であるトルーマンに一度たりとも相談も通知もしませんでした。トルーマンはルーズベルトの死後に大統領側近からいきなりこれらを知らされることになり、その内容に驚くと共に、副大統領たる自分がその側近たちよりも格下に扱われていたことに屈辱を受けました。トルーマンに秘密情報を伝えた側近たちもルーズベルトが死ぬまではこの田舎政治家のことを格下扱いして見下していたはずです。その格下の田舎政治家が一夜にして大統領となったのです。仕える立場の側近たちも愉快ではなかったでしょうが、最も不愉快だったのは間違いなくそうした側近達の内心を十分承知のトルーマン本人であったことでしょう。トルーマンがそのような屈辱を受けることになった元凶はルーズベルトでした。また、こうした秘密情報をも共有するほどにルーズベルトが自分を遇してくれていれば、これほどチャーチルやスターリンに舐められることも無かったであろうという口惜しい思いもありました。
ここでトルーマンがルーズベルト級の大政治家であったなら、いっそルーズベルトの政策を真っ向から否定することで意趣返しをしたかもしれません。しかしトルーマンはそこまで大物でもなければ経験豊富でもなく大胆でもなく、むしろ真面目で誠実でありました。そして何より、やはりルーズベルトのことを尊敬しておりましたし、その政策を支持していましたので、死んでしまったかつての上司を必要以上に憎むことは好みませんでした。また、国民の大多数がルーズベルトの政策を支持しているという現実を冷静に見ることも出来ました。こうした凡庸なタイプの政治家は世論を読むのはえてして敏感なものなのです。
だからトルーマンはルーズベルトの政策の忠実な継承者となり、むしろそれらの全て、すなわち、アメリカ主導の戦勝国クラブ協調体制による恒久平和実現構想や、サンフランシスコ会議、ブレトン・ウッズ体制、ヤルタ秘密協定、原爆開発計画、日本に対する完全勝利などなど全てを前任者よりも完璧に成し遂げることによって前任者を見返してやろうと強く思うようになったのでした。
これはいかにも真面目な小人物らしい意地だといえますが、問題はこの前任者の残した諸々の政策はそれぞれが矛盾し合うようなものもあり、これらを全て完璧にやり遂げることは困難であるということと、前任者も完璧な人間ではなく間違った政策も当然あるということでありました。しかし意地になった小人物というのは、しばしばそういうことが見えなくなってしまうことがあるのです。
また、トルーマンは天国に召された前任者を憎むほど狭量ではありませんでしたが、前任者と一緒になって自分を見下していた側近たちが自分に偉そうに説教するのを笑って従うほどには心は広くありませんでした。だからトルーマンは前任者の側近たちとは距離を置くようになり、自分が新たに任命した側近たちに相談して物事を決定していくようになりました。まぁこれは何処の世界でもよくあることです。しかしこのケースは尋常のケースではありません。世界史の大転換期における世界一の強国の指導者のケースでした。ルーズベルトの残した複雑な政策を正確に引き継いでいくためには、その側近たちは必要不可欠な存在でありました。それを微妙に遠ざけつつ、それでいてルーズベルト政策の継承を自らに課したわけであるから、トルーマンはこの後迷走していくことになったのでした。

さて、サンフランシスコで戦勝国同士のエゴがぶつかり合い、ベルリンがソ連軍によって地獄と化していた頃、沖縄では大きな戦闘の転機が訪れていました。それまで沖縄本島南部に限定した持久戦法で効果的に米軍に損害を与えていた日本軍守備隊が5月4日になって全部隊が身を隠していた地下壕を出て、本島中部にある飛行場奪還のための反転大攻勢に出て北上したのです。
もともと現地守備隊は持久戦法でいく方針でありましたが、海軍が特攻隊支援のために本島の飛行場確保を求めて攻勢を再三要求してきており、海軍に動かされた陸軍中央も守備隊に対してしつこく総攻撃を求めてきていました。しかし作戦は守備隊に一任されていたので、そのような要求に従う必要は無いのです。ただ守備隊の中にも攻勢に賛成する意見もあり、持久戦か攻勢かで現地守備隊は揺れ続けました。そうした状態が4月1日の米軍上陸以降、1か月ほど続いていたのですが、ここにきて遂に守備隊は攻勢を選択したのでした。
しかし首尾よく進んでいた持久戦を捨てて攻勢に出るのはリスクの高い作戦でありました。だから最後まで攻勢に反対する意見もあったのですが、攻勢賛成の意見が多数派となったので結局は攻勢に出ることが決まったのです。攻勢に賛成した者はどういう理由で賛成したのでしょうか。
それはまず、海軍航空の支援があれば総攻撃が成功するかもしれないと思ったからでした。持久戦が上手くいっているといっても、どっちにしても最終的には玉砕するのです。それに比べ、攻勢に出て敵を撃ち破ることが出来れば敵は撤退していくかもしれません。そうなれば玉砕はせずに生き残ることが出来るかもしれないのです。かなり淡い期待ですが、沖縄の場合、そういう淡い期待にすがりたい空気があったのでした。

例えばこれが硫黄島の場合であれば、このようにまだ持久戦を続ける余力を残した段階で全軍を挙げての総攻撃には出なかったでありましょう。もっとも、硫黄島の場合は航空支援など皆無であったから、そういう発想自体が生まれる余地は無かったのですが、仮に航空支援があったとしても、そのような冒険はおそらくしなかったでしょう。硫黄島の戦いは勝つことも生き残ることも目的ではなく、ただただ敵を出来るだけ長期間ゲリラ戦で苦しめて、本土への爆撃を1日でも遅らせることのみが目的であったからです。
沖縄守備隊も当初の沖縄決戦構想が破綻した後は基本的には硫黄島と同じ作戦目的であるはずでした。すなわち出来るだけ長期間ゲリラ戦を展開して、敵の本土侵攻を1日でも遅らせることが目的であるはずだったのです。しかし沖縄守備隊の場合、硫黄島守備隊ほどには作戦目的達成のみに純粋になることが出来ない事情があったのです。それは硫黄島には民間人が全くいなかったのに対して、沖縄には膨大な数の民間人がいたからです。
軍人が死ぬのは仕方ないが、出来れば民間人まで一緒になって玉砕するのは避けたいと守備隊では思っていました。実際、既に持久戦の成功の裏では多くの民間人の虐殺事件や集団自決事件が発生してしまっていたのです。このまま持久戦を続けて戦闘が長期化し、最終的に守備隊が玉砕するとなれば、そこに至るまでにおそらく膨大な数の民間人が死ぬことになるでしょう。守備隊には現地召集の兵も多く、いわば戦場に残留している民間人は彼らの家族や友人であったわけです。だから守備隊の中ではなんとかして民間人を救いたいという意見が根強かったのでした。
淡い期待なのかもしれませんが、もし反転攻勢で敵を沖縄から追い出すことが出来れば、民間人は死ななくて済むのです。その場合、また敵はやってくるでしょうが、少しの間でも猶予期間を作れれば、その間に民間人を本土へ疎開させることが出来るかもしれないのです。疎開船もまた危険がいっぱいなのかもしれませんが、それでもこの地獄の戦場に居残るよりは間違いなくマシでしょう。沖縄守備隊はこのように考えて、反転大攻勢というギャンブルに出たのでした。
しかし、やはりこの反転大攻勢は無謀でした。飛行場に向って平地を進撃する日本軍守備隊は米軍の空爆や艦砲射撃の格好の的となったのです。敵軍の動きを牽制するはずの日本側の航空支援は期待したほどの効果はありませんでした。ほとんどが特攻機なのですから、突っ込んだらそれでおしまいなのです。仮に特攻が成功して一時的に敵が混乱したとしても、敵もすぐに態勢を立て直して第二派攻撃をかけてくるのですが、その時には突っ込んだ特攻機はもう爆発して存在していないのですから意味が無いのです。つまり膨大な特攻機を波状的に突っ込ませなければ地上軍を支援することは出来ないのですが、九州南部の基地からの長距離飛行でそんな多くの特攻機が沖縄まで編隊を維持したまま到着出来るわけもありません。だからこそ海軍は沖縄本島の飛行場が必要だと主張してきたのであり、その主張を受けて守備隊は本島飛行場奪還のための総攻撃をまさにしているのです。しかしその総攻撃への航空支援が本島飛行場が無いから出来ないというわけです。これでは堂々巡りです。つまり、もともと無理な作戦であったのです。無理を承知で、それでも民間人が死んでいくのを見かねて、淡い期待で立ち上がったのでした。

この5月4日の反転大攻勢の失敗で沖縄守備隊は兵力と武器弾薬の大半を失い、継戦能力を一気に喪失してしまいました。この後、守備隊は本島南部に撤退して再び持久戦の構えに入りましたが、もはや米軍に大きな損害を与える余力は失われており、戦線はじわじわと後退していきました。米軍にとって守備隊の戦いが脅威にならなくなるということは、米軍は平気で沖縄基地を使って本土侵攻の準備に取り掛かれるということであり、敵の本土侵攻を1日でも遅らせるという本来の作戦目的は達成出来ないということです。そして結局、その過程でより多くの民間人が死んでいくことにもなったのでした。
5月24日に守備隊は司令部を本島の南端部へ後退させ、さらにその後、ズルズルと司令部を南へ南へと後退させていき、いよいよ追い詰められていくことになりました。そして5月26日、遂に陸軍中央も沖縄戦の継戦を断念し、航空支援をとりやめて本土決戦に戦力を温存することとしたのでした。ここをもって沖縄は完全に見捨てられ、日本軍は本土決戦モードに切り替わったということになります。
その後も現地守備隊は各地で部隊の全滅が相次ぎ組織的抵抗が不能になりつつも戦い続け、6月23日に司令部が全滅し、25日に大本営は沖縄戦の終結を宣言しましたが、その後も散発的戦闘は各地で8月の終戦まで続きました。
この沖縄戦の結果、日本軍守備隊12万のうち10万人が戦死しました。全員玉砕とまでいかなかったのは、守備隊司令部が最後まで持久戦の方針を貫いたのでバンザイ突撃のような自殺行為がほとんど行われなかったからです。しかしそれでいて8割を超える死亡率というのは、よほど熾烈な戦いであったということでありましょう。米軍の戦死者もおよそ1万2千人で、硫黄島の倍の戦死者を出し、戦死傷者となると8万5千人にもなり、米軍上陸部隊の半数近くが損害を受けたことになります。
こうした激しい戦闘に巻き込まれて沖縄の民間人は10万人の死者を出しました。米軍上陸時点で島に残留していた民間人が約50万人ですから、5人に1人は死んだことになります。よく集団自決がクローズアップされますが、激戦地においては軍人でも余裕の無さのために自決に失敗して捕虜になることも多いようです。ましてや民間人が尋常な方法で自決しようとしても多くが失敗したであろうと推測されます。そこで手っ取り早い自決道具として手榴弾が重宝され、自決志願者がとにかく手榴弾を入手しようと躍起になったわけですが、10万人に行き渡るほどの手榴弾があったとは到底思えません。戦闘に巻き込まれた死や病死や餓死も相当あったとは思いますが、それにしても10万人は尋常な数ではありません。米軍による民間人虐殺があったと考えるほうが自然でしょう。だからこそ民間人の集団自決などが起きたのだと考えたほうが辻褄が合うのです。
常々、不可解に思っていることですが、米軍はよく硫黄島の戦いを「太平洋戦争最大の激戦」として、持ち上げます。確かに硫黄島の戦いは激戦でありましたし、名勝負であったと思います。戦争後半において米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場でしたから、米軍にとって特別の意味があるのも分かります。しかし「最大の激戦」は間違いなく沖縄戦のはずです。米軍も日本軍も硫黄島を遥かに超える損害を出していますし、日本軍は途中までは硫黄島よりも良い勝負をしています。日本軍の空からの特攻攻撃も熾烈を極めましたが、これは硫黄島戦には無かった要素でした。この激戦を勝ち抜いたことを米軍はもっと誇っていいはずです。しかし米軍は沖縄戦については何故か硫黄島戦ほどには語りたがりません。現在も米軍が沖縄に駐留していることから島民感情に配慮があるのかもしれませんが、何かそこに振り返りたくないタブーがあるようにも思えるのです。硫黄島には存在せず沖縄には存在したものといえば、やはり民間人であり、民間人との間に何かがあったのではないかと邪推をしてしまいたくなるのです。
とにかく、米軍は沖縄県民にとっては解放軍でもなんでもなく、明らかな侵略者でした。沖縄県民も米軍相手に戦ったのですから当然といえば当然ですが、民間人も捕虜扱いで強制収容所に収容されてしまい、占領後の沖縄には米軍による軍政が敷かれました。本土決戦が行われていたら、同じ運命が日本のその他の国民の身の上にも降りかかったことでしょう。その後、沖縄において次第に統制は緩くなっていきましたが、米軍による軍政はその後27年間も続くことになるのです。

さて、そのように沖縄の日本軍の抵抗は終戦まで続きましたが、5月26日に航空支援が打ち切られた時点で中央の戦争指導部にとっては実質的な沖縄戦は終わったと言っていいでしょう。ここから日本軍も米軍も、次はいよいよ日本本土での決戦だというモードに切り替わったといえます。その本土決戦ですが、日本軍はどんな構想を持っていたのでしょうか。
1944年7月のサイパン島陥落時点の日本陸軍の総兵力は400万人ほどでしたが、本土の兵力は100万にも達していませんでした。大部分は満州やシナのような大規模陸上戦の想定される前線地域に張り付けになっていたのです。日本本土は海に囲まれており海岸線が非常に長いので海岸線防備には厖大な兵力が必要となり、幕末に海からの外敵の侵攻を想定した際に、そうした膨大な兵力を海岸線に配置するよりも海軍を充実させて敵を海上で撃滅する戦法を選択し、それ以降、日本軍は日本本土での地上戦というのは想定せずに海軍がしっかり守るという軍事思想でやってきました。それで日本本土にはあまり陸軍兵力を多く置いていなかったのです。
しかしその海軍が大東亜戦争が進むにつれて、どうも口先は威勢が良いのですが実際は頼りなく、サイパンが陥落したあたりから、本土での地上戦という想定外の事態を想定しなければいけなくなってきたのです。そこで本土の陸軍兵力を増員しようということになり、満州やシナから陸軍の精鋭部隊を回してこようとしたのですが、シナ方面ではちょうど大陸打通作戦の終わろうとしている頃で、一気に拡大した占領地を押さえる兵力が必要で、またインパール作戦に回した兵力を無駄に消耗したところで、あまり本土に回す兵力の余裕がありませんでした。満州のほうは既にだいぶ南方戦線に兵力を抽出されてしまっており、更にフィリピン決戦に兵力を割く予定も入っており、これ以上兵力を抜き取られてしまうといくら何でも兵力が足りなくなってしまう状況でした。そうこうしているうちに秋にはレイテ沖で連合艦隊が壊滅して日本列島近海の制海権も怪しくなり、満州シナ方面から本土への兵力の輸送も難しくなってきました。それでも満州からは本土へ幾らか部隊を回したので、満州は明らかに兵力不足になり、またそれでも本土は全然兵力は足りていませんでした。

そうした状況の中、1945年1月には米軍がルソン島に上陸してフィリピンの失陥は確実な情勢となり、いよいよ本土決戦が現実味を帯びてきたので政府と軍部の中枢は本土決戦に関する作戦計画を立案しました。そこで採用された作戦の大略は、千島列島、小笠原諸島、沖縄諸島、台湾で米軍を食い止めつつ時間を稼ぎ、その間に本土の軍備を整えて本土で決戦を行うというものでした。この段階では沖縄戦はおろか硫黄島の戦いも始まってはいなかったのですが、なるほどこの段階で既に軍中央では硫黄島や沖縄は半ば切り捨てられていたというわけです。
それでこの作戦計画ではどのように本土で決戦を行うという計画になっていたのかというと、海軍が主役で、駆逐艦や潜水艦や航空攻撃で敵艦隊を消耗させつつ日本近海に引き付けて艦隊決戦で撃滅するというものでした。しかしこれは全く絵に描いた餅で、とりあえず威勢の良いことを言ってみたという程度のものでしかありませんでした。駆逐艦も潜水艦も航空機も消耗が激しくまともな攻撃は見込めないので、これらはほとんどが特攻作戦主体でした。それでもフィリピンや沖縄でやってきたようなゼロ戦を使った間に合わせの特攻だけでなく、桜花や回天などのような特攻専用兵器を今度こそ大量投入するという方針でしたから、まぁ海軍の「方針」というやつはアテにはならないのですが、もしそれが実現すれば確かにやらないよりはマシで(いや本来はそんな暴挙はもうやめるべきだったのだが)、それなりに敵に被害は与えるでしょう。しかしその後の仕上げの艦隊決戦となると、機動部隊を失い連合艦隊もほぼ壊滅していた日本には少数の戦艦や巡洋艦が残っているだけでした。時代遅れの大艦巨砲主義では米機動部隊に太刀打ち出来るはずもなく、そもそもこの頃の日本は米軍の海上封鎖の影響で石油不足が深刻化しつつあり、重巡洋艦以上の大きさの船舶を動かすことが困難になりつつありました。敵艦隊撃滅など夢のまた夢でした。ならば、その前段階の特攻作戦はただの犬死ではないでしょうか。
海軍のこうした戯言を真に受けてサイパンやフィリピンで大失敗してきた陸軍も、さすがにこの頃は海軍の言うことは信用ならないと気付いていたので、米軍が本土に上陸してくることを前提とした兵備を整えることになりました。それは本土の軍制を臨戦態勢のものに切り替えていきつつ、本土の兵力を300万人ほどに増員することでした。しかしこの時点で満州などから掻き集めるだけ掻き集めて150万ほどで、目標の半分ほどしか集まっていませんでしたので、こうなると新たに徴兵して動員するしかありません。
そこで軍部では米軍の本土侵攻を1945年秋以降、上陸地点は九州あるいは関東と予測し、それまでに師団を大幅に増強した上で、特に九州と関東に重点的に配備する計画を立てました。そのための追加徴兵が2月、4月、5月の3回に分けて実施され、一応目標の300万人体制は達成しました。この300万人は北海道、本州、四国、九州と朝鮮半島を全部で7つのエリアに分けて配備されたので、平均すると各エリアに40万強ということになりますが、実際は敵の上陸の予想される九州と関東には特に多く配備され、おそらく秋には九州に70万、関東に100万ほどは配置されることになっていたでしょう。なお、満州は本土に兵力を回した結果、手薄になったので本土増員分とは別途に7月に40万の兵員が現地居留民からの新たな徴兵で増員されました。

米軍側では日本本土上陸作戦は1945年1月ぐらいに立案しましたが、それはダウンフォール作戦と名付けられ、1945年11月の南九州上陸作戦と1946年3月の関東上陸作戦の2段構えとなっていました。まず1945年4月に沖縄を奪取して、その沖縄を前進基地にして南九州に34万の兵員を上陸させて占領し、占領した南九州一帯を航空基地化して関東上陸作戦の支援基地とし、南九州から関東を徹底的に空爆した後、関東に50万の大軍を上陸させて首都である東京を陥落させて一気に日本政府を潰して降伏させるというシナリオで、これはあくまで日本を降伏させる最短シナリオに基づいた計画で、日本全土の征服は予定には含まれておらず、もし日本政府が首都機能を内陸部に移転させて抵抗を継続した場合はまた別途作戦で対応するというものでした。
日本軍は米軍の日本本土上陸時期も上陸地域もほぼ正確に予測出来ていたことになります。更に米軍の上陸予定兵員数は日本軍守備隊の増員前の兵数の3倍になるように計画されたものでしたから、日本軍の増員完了後の九州や関東では日本軍のほうが米軍の倍ほどの兵力となりますから、兵員数では米軍側は読み違いをしていたことになります。
ただ米軍日本侵攻軍の総司令官マッカーサーは日本本土における守備隊の増強状況は正確に把握出来ておらず、1945年7月末時点ではまだ日本軍の戦力を過小評価して、南九州上陸作戦の米軍の損害を6万程度と予想して、比較的早期に南九州を制圧出来ると予想していたようです。沖縄では12万の日本軍と18万の米軍が戦って米軍に8万以上の損害が出たわけですから、南九州で70万の日本軍と34万の米軍が戦えば米軍が6万の損害で済むわけもなく、7月末に日本軍の増強状況を掴んだ米軍が慌てて上陸軍の増強を決定し、その上で試算し直した結果、南九州で米軍が受ける損害予想は25万人と修正されました。更に同様に関東上陸作戦のほうも日本軍の増強状況に合わせて作戦規模が上方修正されて、もちろん米軍損害予想も上方修正され、このあたりから「もし日本本土決戦が行われていれば米軍の損害は100万人に達しただろう」という一種の仮想的言説が生まれてきたのだと思われます。
この100万人の損害という予想は妥当な数値だとは思いますし、また、日本政府は首都機能を長野県の松代に移転してゲリラ戦を指揮して徹底抗戦する計画も立てていましたから、米軍もそうなると日本全土のゲリラ戦と戦う追加作戦もする羽目になり、更に米軍の損害は膨れ上がったことでしょう。しかし、ここで覚えておくべきなのはこのような米軍の悲観的認識は1945年7月末から8月頭にかけての終戦直前時期になって急に米軍内部で主流派言説となったものであって、それ以前は米軍内には割と日本上陸作戦を楽観視する意見が強かったということです。また、米軍のこの終戦直前の日本上陸作戦の兵員数などの大幅な増員プランも、あくまで机上のプランであって、そのような大幅増員や大きな損害予想が米国民に受け入れられるかどうかについてはひとまず度外視したものであるということも覚えておくべきことでしょう。

ともかく、日本軍は米軍の日本本土上陸作戦をほぼ正確に予測し、ほぼ倍の兵力で迎え撃てる態勢を整えていたことになります。しかし仮に米軍がそれに気付かずに日本軍のほぼ半分の兵力で上陸してきたとしても、日本軍が米軍を撃退出来たかというと、それはおそらく無理だったでしょう。例えばノルマンディー上陸作戦でも15万の連合国軍の上陸部隊に対して迎撃側のドイツ軍はその倍以上の40万弱の兵力を揃えながら、連合国軍の上陸を阻止出来ず、その後も善戦はしたものの結局は敗れています。これはドイツ軍が制空権も制海権も失っていたこと、増強した兵員の質が低く、武器もまともに行き渡っていなかったこと、陣地の構築が十分でなかった(これはロンメルの進言をヒトラーが無視したから)ことが原因でした。日本軍が米軍を撃退出来ないだろうという予想は、これらドイツ軍と同じ状況が日本軍の本土守備隊にも見られたからでした。
日本軍の場合も本土の制空権も制海権も既に失っていました。そして150万しかいなかった守備隊を急激に増員して300万にしたものの、戦争もこの段階までくると目ぼしい人材はほとんど徴兵され尽くしている状況でしたから、この段階で増員された兵は体力面や技能面で劣った者が多く、しかも空襲や海上封鎖で物資不足のために武器も満足に支給されず訓練も満足に出来ず、内実はスカスカでした。また防御戦の場合はただ漫然と兵隊がいればいいわけではなく、陣地構築が最重要なのですが、物資不足のため、この300万人が全員収容出来るだけの数の、空襲や艦砲射撃に耐え得る堅固な陣地を作ることがまず困難でした。
ならば全員山岳地に籠ればいいのではないかという意見もあるでしょう。確かにサイパンの戦訓を活かすならばそのほうが良いのかもしれませんが、しかしフィリピンのような外国や硫黄島のような無人島ならばそれも良い作戦かもしれませんが、日本本土で戦う場合、そもそも軍隊は何のために戦うのかというと、国民の暮らす国土を守るために戦うのです。その点、沖縄と状況は似ています。だから沖縄も当初は水際に堅固な陣地を完備して敵軍の上陸を許さない戦いをする予定だったのですが、中央が沖縄を本土決戦のための時間稼ぎとして見捨てたので兵力不足から結果的に山岳地での持久戦となり、県民は本土へ疎開するか島北部の安全地帯に逃げ込むかする羽目になったのです。しかし結局は多くの沖縄県民が戦闘に巻き込まれることになりました。それに本土決戦の場合、沖縄とは違ってもう何処にも国民は疎開出来ません。個々の戦闘地域からは避難は出来るかもしれませんが、本質的には日本列島から先にはもう逃げ場は無いのです。ならば日本軍は逃げ場の無い国民を守るために、あえて危険を顧みずに水際で米軍と戦う必要がどうしてもあるのです。それをやらないのならば、そもそも何のための本土決戦なのか分からなくなってしまいます。
しかし水際に堅固な陣地を大量に作る資材は足りません。だいたい、重火器が行き渡らないのに陣地だけがあっても意味はありません。そこで、もともと存在していた150万の兵力のほうはそれなりに精強であったので、こちらは海岸線からやや離れた山岳地や堅固な陣地の配備しておいて、新設の質の低く装備も足りない部隊は海岸線に張り付けておいて敵上陸部隊に奇襲をかけて乱戦に持ち込み時間を稼ぎ、乱戦とすることによって同士討ちを避けて敵の空襲と艦砲射撃が出来なくなったところに、海岸線に精鋭部隊が駆け付けて敵軍を海に追い落すという作戦となりました。

しかしこの海岸線での張り付け部隊というのは堅固な陣地も無いわけですから、間違いなく敵の上陸前の空襲や艦砲射撃の格好の的となります。これはサイパンの戦訓から明らかで、サイパンの戦訓が全く活かされていないのではないかとも思われるかもしれませんが、サイパンと違い日本本土は危険と知りつつ海岸線で戦わざるを得ないわけですし、サイパンの場合のように全部隊が海岸線に張り付くのではなく、精鋭部隊は温存しており、応援に駆け付けるのですから、これはサイパンの作戦とは根本的に異質なものだといえます。ただ装備や陣地の不足という状況の中で全体として最も無駄の無い戦い方を選んだ結果がこういう作戦となったというわけです。
そういうわけでこの張り付け部隊は敵の空襲や艦砲射撃を少しでも被害を少なく凌ぐために、敵の上陸前から海岸線に自分で穴を掘ってそこに潜むことになります。とにかく何も遮蔽物が無い場合は地面に穴を掘って潜るのが一番マシです。硫黄島のような地下要塞とまではいかなくても、少しの穴でも、直撃弾さえ食わなければ横からの爆風にやられる危険性は相当低くなります。ただ、そうやって空襲や艦砲射撃を生き残っても、そこからがまた大変です。火器も行き渡っていない状態で敵上陸部隊に立ち向かって、応援の精鋭部隊が駆け付けるまで乱戦に持ち込んで敵を足止めして時間稼ぎをしないといけないのです。敵軍は水陸両用車や戦車などで進撃しようとしますので、そうなると抜刀して斬り込み程度では足止めも出来ませんから、足止めのためには爆薬を抱いて敵の車輛に突っ込んで自爆するしかありません。
これでは地上戦における特攻隊のようなものですが、2月の増員の段階でこうした作戦を実施することはもう決定してしまいました。そして、応援に駆け付ける精鋭部隊の数が足りないということで4月には応援部隊の増強のための増員が行われ、更に5月には張り付け部隊も応援部隊も増強され、全部で300万の地上部隊という編制になったのです。しかし実際のところ4月と5月の増員の分は武器なども行き渡らず、人数も規定数に達していないものも多く、300万という兵員数もあくまで表向きのもので、内実はかなり酷いもので、あまりまともに機能するような状況ではありませんでした。結局は張り付け部隊であろうが応援部隊であろうが、一緒くたになって敵車輛に爆薬を抱いて特攻するようなことになったと予想されます。

こうした状況では、米軍が上陸してきたら日本軍の守備隊の半分は自爆攻撃で散ってしまい、米軍にそれ相応の損害は与えるでしょうけれど、結局は残り半分の応援部隊だけでは米軍の上陸は阻止することは出来ず、150万の日本軍が沖縄のように山岳地の陣地に籠って持久ゲリラ戦をすることになるでしょう。それはそれで米軍にかなり損害を与えることも予想出来ますが、そうなると一般国民は確実に戦闘に巻き込まれることになります。そこで米軍上陸後に一般国民がパニックに陥らないように組織化を図っておこうということになり、3月には国民を統制する総動員組織として国民義勇隊というものが地域や職場単位で編成されることとなりました。これは男性は12歳から65歳まで、女性は12歳から45歳までで編成されており、ほとんどの国民が動員されて消火作業や陣地構築、輸送業務、食糧増産など、要するに補助的な軍事活動に従事する組織で、よく戦争時の想い出としてバケツリレーやひたすら穴掘りをしていたというのはこの終戦直前の時期の国民義勇隊の活動のことなのです。この国民義勇隊はあくまで戦闘をすることは想定されていませんでしたが、陣地構築や海岸線の張り付け部隊用の穴掘りなどは軍の部隊と一緒になってやっており、混乱した時期でしたから、一部ではもうほとんど戦闘部隊と一緒くたになっているような場合もあったようです。
そうこうしているうちに5月末には沖縄戦の勝敗もつき、日本軍は沖縄の放棄を決定しました。沖縄戦を通して軍部として痛感したのは、民間人が戦闘に巻き込まれることの悲惨さでした。特に米軍が戦闘員や非戦闘員の区別なく攻撃してくる以上、一般国民も自分の身は自分で守る準備はしておかなければいけないということになり、6月には国民義勇隊を基礎にして国民義勇戦闘隊という民兵組織を全国的に作ることとなったのでした。これは男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳の全員が動員され、戦闘予想地域からはこれ以外の子供や老人は強制疎開されるという予定になっていました。
国民義勇戦闘隊は全部で2800万人が動員されることになりましたが、正規軍の武器すらまともに支給出来ていなかった当時のことですから、この国民義勇戦闘隊に武器など支給出来るはずもなく、武器は自弁、つまり各自が自分で用意するということになっていました。それで竹槍などを各自が自作するようになり、各地で竹槍の訓練や、しまいにはB-29を竹槍で落とすなどというワケの分からない訓練までする始末となっていくのです。こんな程度ですから軍部でもこの国民義勇戦闘隊を戦力として期待していたなどということはなく、あくまで戦闘部隊の足手まといにならないように自衛だけはしてほしいというような意味合いのものであったと思われます。
また結局、あまりに混乱状態であったので実際に終戦までに国民義勇戦闘隊が正式に編成されることはほとんど無かったのですが、あまりに混乱状態であったため、国民義勇隊がほとんどなし崩し的に義勇戦闘隊化して民兵組織のようになってしまっていたケースも多かったようです。そして正規軍の中でも張り付け部隊などは実質的に民兵組織とほとんど大差ない程度の装備であったので、陣地構築など一緒にやるうちにほとんど一体化し、いつの間にやら一緒に玉砕するようなムードになってしまい、6月ぐらいにはもうすっかり一億玉砕の空気が支配的となっていったのでした。

米軍などはこの国民義勇戦闘隊の設置を聞いて、これで日本には非戦闘員はいなくなったので絨毯爆撃は正当化されるなどと主張したのですが、こんなのは詭弁もいいところで、そもそも米軍が戦闘員と非戦闘員の区別なく日本人を殺戮するから日本側もこのような自衛策を取らざるを得なくなったのです。しかし弱者がそんな文句を言っても通るような状況ではなく、とにかくこのように米軍は日本国民を殺戮しまくる気満々であったので、一億玉砕の空気があろうがなかろうが、米軍が上陸してくれば相当酷い状態になることは火を見るよりも明らかでした。
そうなると沖縄と同じ状態になるわけで、山岳地に籠って持久戦を続ける精鋭守備隊の行動にも沖縄の場合と同じように影響を与えることは必至となるでしょう。沖縄の場合も持久戦を続けたほうが米軍により大きな被害を与えて戦闘を長期化することが出来たにもかかわらず、民間人の犠牲に耐えかねて結局は総攻撃に打って出てしまったのですが、その過ちが本土でも繰り返される可能性が高くなります。いや、沖縄の場合は「敵軍の本土侵攻を遅らせるため」という持久戦の大義名分があった分、まだ葛藤というものがありましたが、本土決戦において民間人を見捨ててまで持久戦を継続する大義などほとんど無く、しいて言えば「天皇陛下を守るため」ということになるのでしょうけれど、やはり沖縄の場合に比べれば大義としては弱く、沖縄守備隊の場合よりもいっそう容易く本土守備隊はイチかバチかの総攻撃に打って出る可能性が高いと思われます。そうなれば比較的早く正規軍が壊滅していく可能性も高いでしょう。
しかしそうなると今度は残された民兵組織がゲリラ化、テロリスト化していつまでも抵抗を続ける可能性もありました。装備は貧弱でもとにかく人数はやたら多いわけです。しかも装備が貧弱な分、大した物資の補給が無くても山岳地で食糧の自活さえ出来ればいつまでも抵抗可能となり、経済封鎖もあまり効果なく、米軍の上陸軍だけで対処するのは困難になってくる可能性もあります。もし2800万人のゲリラが米軍に抵抗するなどということになれば、絨毯爆撃でも掃討するのは困難でしょう。そこで、そうした事態にも対応出来るように米軍は上陸作戦と同時に上空から農業地に向けて薬剤や毒ガスを大量散布して食糧生産を不可能にする作戦も実施予定でありました。

薬剤というのは後にベトナムで撒いた枯葉剤の原型のようなものでしょう。また毒ガスというのはマスタードガスが主体であったようで、マスタードガスというのはサリンなどの即効性の毒ガスとは違い遅効性で、サリンなどよりも殺傷能力は劣るが効果持続性が高く、生物の遺伝子を変形する作用があるので、人間の皮膚や粘膜をただれさせたり癌を引き起こしたりすると同時に環境破壊作用、汚染作用が大きく、戦場で敵兵を殺すためというよりは後方の補給地や生産地などを無力化するために使用される毒ガスであります。マスタードガスやその他の毒ガスに関しては農業地だけでなく、戦略拠点となる都市部への散布も予定されておりました。
毒ガスは第一次大戦で大量使用され、あまりに非人道的だと非難されて使用はタブー視されるようになっていましたが、基本的には刀でも鉄砲でも人間を殺傷するための武器は全て非人道的なのであり、毒ガスだけが異質なわけではありません。毒ガスが非難されたのは、あまりに殺傷力が高いので報復の連鎖で被害が拡大して大量の人間、特に非戦闘員にまで被害が及ぶからでした。戦場での毒ガス散布と非戦闘員に対する絨毯爆撃のどちらが非人道的かというと、ヒューマニズムの観点では判断は難しいですが、軍事的な意味でのタブーというのは、報復の連鎖が生じるかどうかがポイントになります。相手が報復してこないくらい弱小な存在であれば、どんな残虐な兵器でもその使用はタブーにはなりません。実際、第一次大戦後も毒ガスはそうしたケースでは使用されています。つまり、毒ガスというものはえてして弱者に対してこそ使われるものであって、敗戦直前の国の非戦闘員に対して毒ガスを大量散布するというのは、毒ガスという兵器の性格上、軍事的には極めて正しい使い方であるともいえます。
しかし軍事的には合理性はあるかもしれませんが、普通に考えてこういうものはリンチに等しく、まともな感覚があれば非難の対象となるものなのですが、人種差別色剥き出しの戦時プロパガンダでアメリカ人は日本人のことを狂った猿の群れ程度にしか思っていなかったので、猿の駆除に毒ガスを使う程度のことに心理的抵抗は無く、毒ガス散布によってアメリカの若者が猿害で傷つく数が減るのならそれは良いことだという程度の認識でありましたから、日本人には救いようのない状況でありました。しかもその毒ガスとして、あえて殺傷力は低くその代わりに遺伝子破壊や環境破壊の能力が高いマスタードガスを使うあたり、これはもう明確な断種政策、すなわち民族絶滅政策であり、日本人を滅ぼしてしまおうという意図が明らかに込められているといえます。ナチスのユダヤ人に対する迫害よりも格段に悪質であったといえます。
まぁ日本側もアメリカ軍が毒ガスを散布しようとしているまでは予測していなかったでしょうけれど、通常の戦闘だけでも十分に日本人が絶滅しかねないほどの戦いになることは6月ぐらいには予測がつくようになってきました。戦えば滅びるのです。かといって戦いを避けて無条件降伏すれば、それまでの米軍の戦い方を見る限り、占領後には平気で日本人絶滅政策を実行する可能性は高いと判断されました。私達は結果的にそうはならなかったという歴史を知っているからそんな判断はナンセンスだと思いがちですが、冷戦の開始という偶然が無ければ、おそらくアメリカは日本人絶滅政策を実際に実施したと思われ、それが簡単に成功したかどうかはまた別問題ですが、とにかくアメリカはこの時点では十分にやる気だったのであり、日本政府の危惧はそんなに非現実的なものではありませんでした。
このように、沖縄が陥落して本土決戦を控えた日本は1945年6月ぐらいには、戦っても滅亡、戦わず降伏しても滅亡というような過酷な状況に追い込まれていったのでした。そこに更に追い撃ちをかけるようにアメリカ軍が進めていた計画がマンハッタン計画、すなわち原爆開発計画でした。この米軍の日本本土侵攻作戦というのは、南九州と関東への地上軍の上陸制圧作戦、日本全土への絨毯爆撃と毒ガスや薬剤の散布作戦、そして本土戦略拠点各所への原子爆弾投下作戦が一体となった作戦であったのです。まさに「ダウンフォール作戦」という暗号名そのものの作戦であったといえます。「ダウンフォール」とは和訳すれば「滅亡」という意味であり、まさに「日本民族滅亡作戦」と言うにふさわしい作戦内容でありました。
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