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現代史についての雑文その10 マンハッタン計画
一般に化学反応と言われているものというのは、物質を構成する原子と原子を結合させたりその結合を切断したりすることによって生じる変化を言います。原子は原子核とその周りを回る電子とから成っており、原子と原子の結合はそれぞれの電子が結合しているのです。化学反応というのはこの電子が原子核から遊離して遣り取りされることで起きる反応だといえます。原子核と電子の間は一定のエネルギーを使って結合されているので、その結合を切断するとその結合エネルギーが放出されて熱反応を生じます。つまり化学反応はエネルギーの移動による熱放出を伴うのです。
この中で例えば硫黄や木炭、ピクリン酸、ニトログリセリンなどは熱放出の激しい化学反応を起こす物質で、これらの物質を化学反応させるために作られた化合物が火薬や爆薬であります。硫黄や木炭に反応促進剤としての硝酸カリウム(硝石)を混ぜたものはかつては火縄銃の発射装置に使われ現在では花火によく使用されている黒色火薬であり、ピクリン酸はかつて日露戦争で下瀬火薬に使われ、ニトログリセリンはダイナマイトの原料として有名です。これらの火薬や爆薬はちょっとした衝撃で爆発したり毒性や腐食性が強かったりして取扱いが難しいものが多く、現在ではトリニトロトリエン(TNT)が最も扱いやすい爆薬の原料として広く使われており、軍隊で使う通常爆弾は20世紀初頭以降はだいたいTNT爆弾となっています。
一般に複雑で緻密な分子構造を持つ物質はその中の電子の結合に要するエネルギーが膨大で、つまりそれを分解させた時に膨大な熱が生じるのです。火薬や爆薬の原料になる物質はそうした分子構造を持ったもので、これらを燃焼させる、つまり酸化させると分解して熱を放出して燃焼反応を起こすのですが、それだけではゆっくり燃え広がるだけであって、爆発という現象が起きるわけではありません。この火薬や爆薬を高密度で固めて、そこに点火用の燃焼性の高い火薬を詰めた雷管という起爆装置を突っ込んで、全体の燃焼反応を一瞬で起こすようにしなければいけません。この燃焼反応が高速で起きて一瞬で終わるものが爆発という現象で、更にこの燃焼速度が音速を超えると衝撃波が生じます。この衝撃波を利用して周囲の物体を破壊するようにした兵器が爆弾ということになります。
爆弾によって生ずる兵器としての殺傷能力というものの主たるものはこの衝撃波で、これを爆風と言います。爆弾を大型にして多くの爆薬を高密度で詰め込めば詰め込むほど、この爆風は強力になり、その破壊作用の及ぶ範囲も広くなります。また爆薬の周りを硬い金属の殻で覆っているので、爆風によってこの金属の殻が粉々になって破片状に周囲に飛び散って人体などに突き刺さり殺傷効果を高めます。爆弾の種類によっては、爆薬と殻の間に更に釘状の物体を詰めておいて爆風によって飛散して殺傷効果を高めるものもあります。また、この衝撃波を生ずる高速の燃焼反応そのものによる火傷による殺傷効果もあるが、これは爆弾の爆発した爆心地付近にしか及びませんので、やはり爆弾の最大の武器は爆風による破壊力ということになります。

ただ、いかに爆弾を大型化して爆風を強力にしたとしても、爆心から遠くなるほど爆風の威力は減じていきます。つまり敵に近く味方に遠い場所で爆弾を爆発させるようにしなければ兵器としての爆弾は有効活用出来ません。そこで爆弾を投げつけたり砲弾状にして発射したり飛行機から投下したりして敵に命中させ、その命中の瞬間に爆発を起こすようにする装置として雷管を改良して信管という装置が開発されました。これは目標物に爆弾が命中した衝撃を感知して起爆装置が作動するもので、これによって爆弾は戦場で砲弾や魚雷などとして使用出来るようになったのです。また、これの応用型が踏めば爆発する地雷や、触れれば爆発する機雷などです。
ただ、このタイプの信管を使った爆弾の場合は目標物やその近くの地面に命中しなければ爆発しないわけですから、相手が動かない建造物や動きの遅い軍艦などであれば良いのですが、相手が素早く動くものである場合、よけられてしまえば爆発が起きなかったり目標物の遠方で爆発してしまうことになります。特に第二次大戦で航空機が戦場の主役になると、素早く飛び回る航空機に高射砲などの対空砲火でダメージを与えるためには、いちいち命中しなくても起爆するような爆弾が必要になってきました。そこで発射を起点として時限式で信管が作動するタイプの爆弾が開発されるようになり、更にはレーダーと組み合わせて目標物に近付くだけで作動する信管も開発されるようになりました。
しかし、大型爆弾を砲弾として発射して命中させるというのは城壁や軍艦や戦車のような敵軍の堅固な物体をピンポイントで破壊するには有効ですが、広範囲に展開する敵の軍勢に被害を与えるには、むしろ人体を破壊出来る程度の爆風を発生する小型爆弾を広範囲に大量にバラ撒くほうが効果的となります。そこで集束爆弾というものが発想されるようになりました。これは小型爆弾を大量に束ねたもので、束ねたまま発射されて一定の時間が経過した時点で時限式の信管で1つの小型爆弾が爆発して、その爆風で他の小型爆弾を四方に吹き飛ばして拡散させ、それら小型爆弾が広範囲に着弾してそれぞれが人体を殺傷する規模の爆発を無数に引き起こすというものです。これは敵の軍勢に向けて撃ち込んだり投下したりすると効果的で、これを進化させたものが現在のクラスター爆弾です。
そして、この集束爆弾のアイデアを活かしつつ、衝撃波を発生させる爆薬の代わりに燃焼反応を促進する焼夷剤を詰め込んだ小型爆弾を広範囲にバラ撒いて、広い範囲に激しい火災を引き起こす爆弾も作られるようになりました。これは爆風で敵の施設や軍隊を吹き飛ばすのではなく、爆発そのものの殺傷効果は低いが、都市部への空襲で火災を起こす効果は非常に高いものでした。これが焼夷弾ですが、これが最初に使用されたのは1940年から始まったナチスドイツ軍によるロンドン空襲で、その戦法を学んだイギリス軍がアメリカ軍と共に1945年2月からドイツに焼夷弾による絨毯爆撃を行い、3月からはアメリカ軍が日本全土の都市部に焼夷弾の絨毯爆撃を大規模に行ったのでした。
日本本土に主に投下された焼夷弾はE46集束焼夷弾というもので、マグネシウムとアルミニウムの化合物であるエレクトロンやガソリンなどを焼夷剤として詰め込んだM69焼夷弾という長さ50?ほどの細長い小型焼夷弾が38本束ねられており、これらが空中で拡散して広範囲に降り注ぐというものでした。例えば1945年3月10日の東京大空襲ではこのE46集束焼夷弾が一晩で1万発、つまりM69焼夷弾が38万発投下されました。この38万本の細長い50?ほどの焼夷弾が東京の下町の上空に降り注ぎ、垂直に落下して家屋の屋根を貫いて床や人間に突き刺さり、その衝撃で信管が作動して、ガソリンの場合は約1000度、エレクトロンは2000度以上の高熱で爆発的に燃焼しました。これらは燃え尽きるまでは決して消火することは不可能で、エレクトロンは激しい光を出しながら燃えるので夜間空襲の場合、投下目標の目印の役目も果たしたようです。東京大空襲の死者は10万人ですが、その中には焼夷弾に身体を貫かれて即死した人もかなり含まれており、更に加えて火災による死者、特に各所で発生した火災旋風の猛威によって焼死および窒息死した人、また、川に逃げ込んで凍死や溺死をした人が多かったのでした。

以上が化学反応を利用した通常爆弾の様々なバリエーションですが、もちろん化学反応は軍事利用だけではなく、文明の発展のために平和的に利用もされてきました。特に19世紀後半から20世紀前半にかけては科学というものが人類にバラ色の未来をもたらすという幻想が純粋に信じられた時代で、そうした時代においてこうした爆弾類に代表されるおぞましい殺傷兵器が開発されていったのでした。いや、自然科学だけにとどまらず、社会科学というものも同様な幻想を人類にもたらした時代でありました。何せ近代科学こそが神の王国を地上において実現する手段であると無邪気に信じられた時代なのですから、理想社会実現こそが社会科学の使命でありました。それが最初は帝国主義、次いで社会主義や共産主義に対する過度の幻想を生み、恒久平和や世界政府などという非現実的な妄想に動かされた人々がおぞましい圧政や抑圧を生み出し、二度にわたる悲惨な世界大戦を引き起こしたのでした。
そうした科学というカルトを信仰した時代の気分を象徴する人物にハーバート・ジョージ・ウェルズというイギリス人の小説家がいます。1896年に「タイム・マシン」という作品でデビューしたSF小説の父といわれる人物ですが、1946年に亡くなるまでに当時の最新の科学的知見に基づいた数多くの小説、思想書、エッセイを著し、国際ペンクラブ会長も務めたこの男は、現在のSF小説家のような軽い存在ではなく、唯物論や進化論、社会主義、進歩主義、理性万能主義を信奉する、この時代を代表する思想家、著述家でもあり、まさに科学や理性を神とする時代における預言者のような人間でありました。例えばウェルズは第一次大戦後、世界恒久平和のための「新世界秩序」というものを提唱するようになりましたが、これについて、第二次欧州大戦の勃発した1939年にはルーズベルトに書簡を幾らか送り、その後のルーズベルトの政策に大いに影響を与えています。また、日本国憲法、特にその9条の原案作成にも大きな影響を与えたとされています。
これは、ウェルズとルーズベルトの間に何らかの個人的関係があったなどという陰謀論めいた話ではなく、要するにウェルズがこの時代の大衆の空気を代表する存在であり、リードする存在であったということで、特に戦争が長引き悲惨な展開を見せるようになるにつれて、平和や協調、新しい世界秩序を求める声は強くなり、そうした大衆の思想傾向や気分というものは大衆政治家であるアメリカの政治家のルーズベルトやトルーマンなどにも自然に影響を与えることとなり、結果的にウェルズの思想とルーズベルトやトルーマンの行動とは共通の基盤の上に立ったものとなっていったということです。
このウェルズが1914年に書いたSF小説「解放された世界」において、原子核反応を利用した強力な爆弾を使用した戦争の結果、世界政府が誕生して恒久平和が実現するというストーリーが展開されていたのです。

この小説の背景となっている科学的知見は1864年にマクスウェルによって理論的にその存在が予測されていた電磁波が1888年にヘルツによる実験で発見されたことに端を発します。電磁波というのはエネルギーの放射現象の一種で、電波や光のように空間が一定の波長で振動していく波動なのですが、この電磁波の研究の過程で1895年にレントゲンが偶然にX線を発見し、このX線が発する蛍光の研究から偶然に1896年にフランスの物理学者ベクレルがウラン鉱石から謎のビームが照射されているのを発見し、この謎のビームを放射線と名付けました。この放射線の発見を受けて、ウラン鉱石の発する放射線量の測定実験の過程で1898年にキュリー夫妻がポロニウムとラジウムを精製し、それらから極めて大量の放射線が発生し高熱を発していたことから、このような放射線を発生させる能力を持った元素が新たなエネルギー源として注目され、ここから放射線の研究が盛んになっていくことになりました。
同じ1898年にラザフォードがウランから二種類の放射線が出ていることを発見し、これをアルファ線とベータ線と名付け、更にこれらとは別の透過性の高い放射線が1900年にヴィラールによって発見され、これをラザフォードが電磁波であると示してガンマ線と命名しました。その後、ラザフォードは元素が放射線を放出して別の元素に変わることを突きとめ、1908年に実験によってアルファ線がヘリウム原子核であることを発見し、1911年に原子模型を発表し、原子が正電荷を帯びた複数の陽子から成る原子核とその周囲を回る負電荷を帯びた複数の電子によって構成されており、原子核が陽子を放出して放射線を発生させる反応を起こすことによって別の原子に変化する原子核反応という説を唱えたのでした。
この時点でこの原子核反応がどのような原因で起こるのかは明確ではありませんでしたが、とにかく原子核と電子を結合させるのに要するエネルギーに比べて、原子核の中で陽子同士を結合させるエネルギーは比較にならないくらい大きく、それゆえ電子の放出を伴う化学反応の際に解放されるエネルギー量に比べて、陽子と放射線の放出を伴う原子核反応の際に解放されるエネルギーが桁違いに巨大で、それゆえ放射線を発生させる元素から大量の熱が発生するのだと考えられました。
そこで、化学反応による燃焼反応を音速を超えるほどの速度で瞬間的に連鎖して起こすことによって爆発現象を起こしているのと同じように、この原子核反応を何らかの方法で音速を超える高速度で連鎖的に誘発することが出来れば、通常の化学反応による爆発とは比較にならないくらい巨大な爆発を引き起こすことが出来るのではないかという想像が生まれ、そうした想像をもとにして1914年にウェルズによって書かれたSF小説が「解放された世界」であったわけです。

ただ、この時点では原子核反応がどうして起こるのかもハッキリしていないわけですから、これはあくまで想像上の御伽話でしかなかったのです。しかし、同じ元素でも安定しているものと不安定なものがあり、不安定なものが原子核が自然崩壊して陽子を放出して安定した元素に変化する場合に発生するのがアルファ線で、不安定な元素の原子核が陽子を放出しないで安定した元素に変化する際に発生するのがベータ線であることが次第に分かってきました。そうなると原子核の中に陽子以外の何らかの要素が存在するということが想像されるようになりました。そもそも正電荷を帯びた陽子同士は強烈に反発し合うはずなので、陽子だけで原子核が分裂せずに安定しているのは理論的に不可解なことでしたので、陽子以外の要素が原子核に存在するというのはラザフォードも唱えていました。この要素が1932年にラザフォードの弟子のチャドウィックによって中性子として発見されたのでした。
チャドウィックの発見した中性子は陽子と同じ大きさで電荷を持たない粒子で、陽子と共に原子核を形成しており、陽子と陽子を媒介して繋ぎとめる働きを持っていると考えられ、この中性子の数と陽子の数の特定のバランスによって原子核の安定性が生じるのだとされました。つまり例えば中性子の数が余分に多い原子核は不安定なものとなり、一定時間を経過して中性子が陽子に変化したり、ヘリウム核が弾き出されたり、陽子が弾き出されたりして原子核は自然崩壊して安定状態に変化していき、その際にアルファ線やベータ線を発生させるというわけです。
ならば、もし中性子を外部から不安定な原子核にぶつければ、その自然崩壊を促進させることが出来るのではないかという考え方も成り立ちます。中性子は電荷が無いので透過性が極めて高く、原子核に真っ直ぐぶつけることが可能だからです。もし中性子を連続して原子核にぶつけて原子核の自然崩壊の反応を連鎖的に誘発して、その原子核崩壊に伴って解放される巨大エネルギーによる燃焼反応の連鎖を音速を超える速度で瞬間的に起こすことが出来れば、巨大な衝撃波を発生させて未だかつて存在したことにない規模の爆発を起こすことも理論的には可能となります。まさにこれはウェルズが「解放された世界」で構想した原子核反応を使った爆弾です。この小説に触発されたウェルズの信奉者であるハンガリー出身のユダヤ人物理学者レオ・シラードは中性子発見の翌年1933年に、このようなことを思いついたのです。これがつまり核連鎖反応の発想でした。

シラードは中性子がぶつかることによって原子核崩壊を起こして二次的に中性子を放出するような原子が存在すれば、連鎖的な反応を引き起こすことは可能だという仮説を立てましたが、ナチスに追われて亡命中の身であった彼は研究に没頭出来る環境ではなく、十分な実験を行うことが出来ませんでした。そうこうしているうちに1938年にドイツの物理学者ハーンとマイトナーがウランに中性子を照射した実験で原子核の分裂反応が起きたことを発見したのでした。
原子核が不安定な原子だけが原子核崩壊を起こして放射線を発生させる反応を起こすことが可能なのですが、この原子核崩壊は一定時間をかけて自然に進行していくもので、原子核の構造が複雑なものほどこの自然崩壊の所要時間が長くなります。逆に原子核の構造の簡単なものは早く自然崩壊が完了して安定化してしまいますので、地球上に存在した不安定な原子のうちの大半は既に自然崩壊を完了して安定化してしまっており、原子核反応を起こすことが出来なくなっています。つまり、原子核の構造が特に複雑なごくわずかの種類の不安定原子だけが現代においても原子核反応を起こす余地を残していることになります。そしてこの中でも特に原子核の質量が大きく不安定な原子だけが中性子をぶつけることによって、いやその不安定性のために自然状態でも原子核が大きく2つに分裂して大きなエネルギーを生じ、その際に複数の中性子を放出することがあることが判明したのです。これが核分裂反応の発見でした。
この核分裂反応によって放出される中性子が別の核分裂反応の可能な原子核にぶつかることによって更に連鎖的に核分裂反応を起こすようにすれば、核連鎖反応が実現化するのであり、核分裂可能物質を大量に高密度に詰め込んだ状態で核連鎖反応を起こせばその反応は超高速で起こり、音速を超えて巨大なエネルギーが放出されて巨大な衝撃波を生じる爆発を起こすことも可能であり、そのような世紀の発見が1938年のドイツでなされたことによって、ナチスドイツがこの未知の巨大爆弾、すなわち原子爆弾の開発に成功する可能性が現実味を帯びてきたのでした。シラードにはその危険性が明確に理解出来たのであり、ユダヤ人である彼はユダヤ人迫害政策をとるナチスドイツが究極兵器を手にすることを恐れ、翌1939年にアメリカ大統領ルーズベルトに原子爆弾の開発を進言しました。この頃にはシラードもウランの核分裂実験に成功し、二次的に中性子が放出されることも確認していました。

核分裂可能な物質の量が少なければ連鎖反応は持続しないのであり、一定量を超えないと連鎖反応が持続しません。この状態を臨界といいまして、この状態を持続させると原子力発電が可能になるのですが、この臨界状態を大幅に超えた量の核分裂可能物質が存在すれば核連鎖反応が暴走していきます。この暴走状態を超臨界といいますが、一瞬でこの超臨界状態を引き起こすことによってのみ原子爆弾の爆発は起こすことが出来るのです。
そのためには膨大な核分裂可能な物質が必要となります。しかし、ウランの場合、自然界に存在する天然ウラン鉱石はその大部分が核連鎖反応を起こさないウラン238(原子核を構成する陽子と中性子の数が合わせて238であるウランという意味)で出来ており、核連鎖反応を起こすことが可能なウラン235は僅か0.7%しか含有されていませんでした。しかし核爆発を起こすにはウラン235の濃度を90%以上に高めた高濃縮ウランを大量に作らなければなりませんでした。
そのためには天然ウラン鉱石から高濃縮ウランを分離することが必要だったのですが、当初、この技術が確率しておらず、そのためシラードの原子爆弾のアイデアは実現可能性の低いものとして扱われていました。また、臨界に必要な高濃縮ウランの量がいったいどれほどであるのか不明で、もしそれがとんでもなく膨大な量であるのなら、兵器として実用化することは現実的ではないと考えられていたことも大きな要因でした。
しかし1941年にユダヤ人科学者フリッシュらウラン原爆の臨界量の理論計算とウラン濃縮を含むウラン原爆製作に関する基本原理をまとめた論文をイギリス政府に報告し、これによって、高濃縮ウランの分離が可能となり、また原子爆弾が航空機に積める程度のサイズで作れることが判明し、これを受けてアメリカ政府はシラードの提案をようやく実現可能性のあるものとして検討するようになったのでした。そして北アフリカ戦線でドイツに敗北を重ねて切羽詰まっていたイギリス首相チャーチルの強い働きかけもあり、ルーズベルトは1942年6月、遂に原子爆弾開発計画であるマンハッタン計画を極秘にスタートさせたのでした。ミッドウェー海戦やスターリングラード攻防戦が行われていた頃でした。

このマンハッタン計画に関わった人達はいったいどういう意識で原爆というものを見ていたのでしょうか。まず提案者のシラードですが、アメリカ政府に対して開発を急ぐように進言した動機はナチスドイツに原子爆弾を悪用されることを阻止しようという意識からでしたが、原子爆弾そのものについては本来はウェルズの描いていたような世界政府設立に繋がるような存在というイメージを持っていたようです。また、マンハッタン計画に参加する科学者達のリーダーに任命されたオッペンハイマーは原子爆弾があまりに破壊力が凄まじいので戦争を無意味にして世界は平和になると考えていたようで、これもまたウェルズ的なユートピア幻想の一種だといえます。
また、このマンハッタン計画にゴーサインを出した大統領ルーズベルトは、そもそもウェルズの思想と同質の「新世界秩序」の提唱者であり、戦勝国クラブによる世界政府の軍事力で恒久平和を実現する構想の推進者でした。それがダンバートン・オークス会議で国際平和維持機構という形で骨子が出来上がり、彼の死後、サンフランシスコで連合国機構として実現したのでした。ならば、彼の構想する連合国という世界政府はドイツや日本のような無法者国家の策動を完全に抑え込むほどの超越的な軍事力を持っているべきなのであり、ルーズベルトは世界政府の持つべき軍事力として、この原子爆弾を位置づけていたのではないでしょうか。まさにウェルズの唱えたように、原子爆弾が世界政府を作り恒久平和を実現するのです。
これらは現在の視点で見ると驚くほどナイーブで笑ってしまいますが、当時は原子爆弾などまさにSF小説の中にしか存在しなかった時代であり、また科学の発展が人類の未来をバラ色にすると無邪気に信じられた時代なのですから、こういう考え方が世の中の主流であったとしても仕方の無いことでしょう。また、原子爆弾といっても単に爆風が物凄く大きい爆弾だという程度の認識が主流で、その禍々しい正体についてまで一般には認識されていませんでした。それに、あまりに未知の技術であったので、本当に開発に成功して実用化出来るのか半信半疑な部分があり、とことんまで深く突きつめて考えるという感じではなかったようです。
そういうわけで原爆開発計画はある意味では子供じみた夢想を伴って進められていったのですが、政治家や科学者のような気楽な稼業はそんな感じでもいいのでしょうが、実際にこの計画を運営していく立場の軍の官僚たちはもう少し現実主義的で、ちゃんと兵器として使えるものとしたいと真面目に考え、世界政府などという非現実的なものでなく、あくまでアメリカのため、アメリカ軍のために有益な兵器として考えていました。そのため、当然のことですが、原子爆弾の情報はアメリカ軍が独占するものとしようとしたのですが、ルーズベルトの世界政府の夢想に単純に共感して参加しているような子供じみた一部の科学者たちにはそうした軍の姿勢が不満で、ソ連に原爆の情報を早いうちから流していたようです。
彼らはほとんどヨーロッパからの亡命者でもともとアメリカ国民ではありませんから、軍人のようにアメリカ国家への忠誠心などありません。そんな彼らにとってはソ連は世界政府の仲間なのですから、アメリカだけで原子爆弾を独占しようという考え方のほうが世界政府に対する反逆的な考え方のように思えたのでしょう。もともとルーズベルト政権自体があくまでドイツと日本を敵として、ソ連は世界政府構想のパートナーとして扱っていましたので、ソ連に対する警戒心が希薄で、政権中枢にもソ連のスパイが入り込んでいましたから、原爆情報はかなりソ連に漏洩していました。
結局、科学者や一部の理想主義的政治家は原爆を何か特殊な、神あるいは悪魔の業のような超兵器として見ていたのに対して、軍人はあくまで原爆を普通の兵器の延長線上のものとして見ていたのだといえます。

さて実際の原爆の開発のほうですが、まずは天然ウランから高濃縮ウランを分離するウラン濃縮の工程を確立することから始まり、これはフリッシュの論文をもとに作業が進められ、さっそくマンハッタン計画開始と同時に1942年6月にテネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場の建設が開始され、1943年4月にはニューメキシコ州にロスアラモス研究所が設置されて原爆開発計画の総合管理を担うこととなりました。そして膨大な資金と人員を注ぎ込んだ結果、1944年6月には遂に高濃縮ウランの製造にこぎつけたのでした。
この翌月の7月にサイパン島が陥落し、日本本土への長距離戦略爆撃が可能となり、9月にはルーズベルトとチャーチルがニューヨークで会談して核兵器に関する秘密協定を結んでいます。ここでは核開発に関する両国の協力や将来的な核管理体制の話と並んで、日本への原爆投下方針が合意されていました。つまり高濃縮ウランの製造、サイパン陥落を受けて、1944年9月時点で日本への原爆投下という方針が決まっていたということです。そして同じ9月に原爆投下実行部隊の編成が開始され、12月には14機のB-29を擁する編成が完了し、ユタ州で極秘訓練に入っています。
もちろん、これはあくまで方針が決まっただけで最終決定ではありません。状況次第で変更や中止はあることは前提となっています。しかし、とにかく1944年9月時点、ヨーロッパ戦線ではフランスも解放されてドイツは本国を守るのに汲々としてはいましたが、まだまだ抵抗は続けており、ドイツ本国に対する戦略爆撃も十分に可能な状態であったにもかかわらず、原爆投下目標はドイツではなく日本と極秘に決定されたのは事実です。そもそもシラードが原爆開発を進言したのはドイツの原爆開発を警戒したからであったのですが、そんなことはもうこの際どうでもいいことだったようです。
軍人は軍人で原爆を通常兵器と同じように軍事的合理性で冷徹に捉え、ドイツはどうせ近いうちに地上戦で倒すことが出来るが、一方、日本については地上戦の目処も立たず戦略爆撃頼みの状況であったので原爆を投下することで大きく戦局を動かすことが出来ると判断したのでしょう。また政府高官や科学者は、とにかくこの史上最大の新型爆弾を何処でもいいから投下して、その威力を世界中に知らしめて戦後の世界政府樹立や恒久平和実現の弾みにしたいと思っていたのでしょうが、当時の戦況から考えて原爆投下部隊が訓練を終えて投下準備が完了する頃にはドイツは降伏しているかもしれないという危惧もありました。そもそもドイツ降伏の時期を決める大きな要素はソ連軍の動向だったのですが、ソ連には原爆のことは教えていませんから(本当はスパイ活動でソ連は知っていたのだが)、原爆投下の都合に合わせてドイツ降伏時期を遅らせるなどということも出来なかったのです。そこで、まだしばらくは降伏しそうにない日本を投下目標にしたのでしょう。日本ならば戦局の主導権は米英が握っていましたから、原爆投下スケジュールに合わせて日本の降伏時期を操作することも出来るというのも好都合でした。

しかし、理由はそれだけではないでしょう。やはり、戦後の新たな世界秩序が世界中から、特にその中心を担うであろう西洋白人種国家から歓迎されるためには、それに先立つ原爆投下は白人種の国家であるドイツに対してなされるよりは、黄色人種の国家である日本に対してなされるほうが無難であるという計算もあったはずです。要するに人種差別が根底にあるのですが、人種差別主義者であったルーズベルトやチャーチルであれば、こんな持って回った理屈でなくても、単なる黄色人種への蔑視や憎悪によって日本への原爆投下を決定したとしてもそんな不自然なことではありません。当時はそんな程度のことは許容された時代であったのです。
政府高官や科学者も日本のことなど何も知らない人が多く、戦時プロパガンダの影響も受けていましたから、「ドイツ人は悪い奴だがそれでも文明人であり、狂っているのはナチスの連中だけだが、日本人など猿同然の土人で救いようがない」などと本気で考えている人が多かったのです。ですから、史上初の原爆投下のデモンストレーションおよび生体実験は日本の猿の頭上で行われるべきだという認識が主流であり、またそういう認識はアメリカ国民やその他西洋文明国の国民の支持も得ることが出来るという自信も持っていました。そして軍人もまた、特に太平洋で実際に日本兵と戦っているわけでもなくアメリカ本土で閉じこもって原爆製造計画に従事しているような高級軍事官僚たちは元来、日本に関して無知であり、人種差別論者が多い上に戦時プロパガンダの影響も強く受けており、基本的に日本人を蔑視していました。その上に軍事的には復讐感情が非常に強かったのでした。
アメリカは第二次大戦においてドイツによって自国領土を攻められたりしていませんが、日本には真珠湾を攻撃され、フィリピンを奪われ、南太平洋の島々を占領されたりして、結構酷い目にあっています。それはイギリスも同様、いやそれ以上で、ドイツによる本土侵攻は退けましたが、日本には香港やマレーやビルマを奪われ、インドにも攻め込まれました。領土を奪われたり侵攻されたりするというのは、国外で軍艦を沈められたり会戦でたくさん戦死者を出したりするよりも遥かに大きな屈辱を与えるものなのです。特に軍人は大きな恥辱を覚えます。そこに人種差別感情が加われば、ますます屈辱感は大きなものになり、「黄色い猿のくせに生意気な」と激しい怒りを搔き立てられます。それゆえ、それに対する報復感情は凄まじく執拗なものになり、「真珠湾で騙し撃ちをした猿どもが原爆で吹き飛ばされてもまったく当然の報いだ」という考えにもなるのです。
私達は原爆投下後の禍々しい惨状を知っているから、こうしたアメリカ政府や軍の人間たちの判断がいかにも軽々しく愚かしいものだと思ってしまいがちですが、当時はまだ原爆がこの世に誕生していない時期で、実際投下してみるまでは、どれほどの被害をもたらすものなのか誰にも正確に理解出来ていない時代であったのです。政府や軍の人間の認識は「巨大な爆発力を持った爆弾」という程度のもので、当時の常識として爆弾の威力とは衝撃波の威力のことでしたから、大きな衝撃波で都市がまるごと吹き飛ぶなだろうというイメージぐらいまでしか連想出来ていませんでした。原爆のもたらす熱線や放射線が人体や建造物、環境にどのような影響を与えるかについては、科学者すらも正確にはイメージ出来ておらず、ましてや政治家や軍人にはそんなことは考慮外のことでした。いや、そもそも原爆が爆発しないのではないかと半信半疑であった人が多かったのです。だから半分冗談めかして原爆投下計画は論じられていたので、軽々しい判断で原爆投下が決められたのも無理の無い状況でありました。
こういうわけで1944年6月には高濃縮ウランが製造されるようになり、それを原料とした原子爆弾を日本に投下する方針が9月には決定され、12月には原爆投下の実行部隊の編成も完了し投下訓練も開始され、原爆投下は秒読み段階に入っていきました。しかし、これはマンハッタン計画の表面的な部分に過ぎませんでした。マンハッタン計画には更にもう一段、隠された計画があったのです。

ウランの中では核連鎖反応可能なウラン235を90%以上含む高濃縮ウランのみが原子爆弾の原料として使用可能であったので、天然ウランからこれを分離しなければいけないのですが、これは比較的簡単な設備で作業が出来る反面、膨大な電力を消費するのでランニングコストが極めてかかるのが難点でした。また、ウラン235自体が自然界に非常に少なく、高濃縮ウランを作るためには膨大な天然ウランが必要で、そのくせ臨界に達するのに必要とされるウラン235の量は航空機搭載可能とはいえかなり多く、つまり高濃縮ウランを用いた原子爆弾は大量生産には適していないのです。
アメリカ軍としては量産出来ないような兵器は兵器として失格ですから、なんとか量産出来る方法を模索しました。そこで、アメリカに亡命してきていたイタリア人物理学者フェルミの提唱した理論に基づいて1942年秋から世界初の原子炉が作られることになりました。このシカゴ・パイル1号という原子炉も含めて初期の原子炉は全部いわゆる黒鉛炉というやつで、天然ウランを燃料として使うことが出来るのですが、この原子炉に天然ウランを燃料として入れて中性子をぶつけて臨界状態にすると、天然ウランに含まれるウラン235は核分裂反応を起こしエネルギーを発し、その一方で天然ウランの大部分を占めるウラン238は中性子を吸収してプルトニウム239という元素に変換されます。このプルトニウム239も核連鎖反応を起こすことが可能な物質で、原子爆弾の原料として使用可能なのです。
このプルトニウムという元素は当時はまだ未知の元素でした。いや、正確に言えば1941年にアメリカにおいて発見されていたのですが、戦時下ということでその発見は秘匿されていたのでした。既にシラードによって原子爆弾製造を進言されていたルーズベルトはこの未知の核分裂性物質の存在を秘匿してその情報を独占し、ウランに代わる原子爆弾の原料として検討することにしたのです。つまり、このプルトニウムという元素はマンハッタン計画の関係者しか知らない未知の核分裂性物質で、マンハッタン計画における切り札といえる存在でした。ウランを原料とした原子爆弾のアイデアは既に理論的には有名で、ドイツでも日本でも研究は行われていました。しかし、このプルトニウムを原料とした原子爆弾はアメリカにしか作れない全く独特のものでした。マンハッタン計画の本命はウラン型原爆ではなく、このプルトニウム型原爆のほうであったのです。
アメリカがプルトニウム発見を秘匿することが出来たのは、そもそもこのプルトニウムという元素が自然界においてごく微量しか存在しないからでした。いや、当時は自然界におけるプルトニウムが発見されていなかったので、完全に人工元素という認識でした。だから発見したアメリカが秘匿することによってその存在を知られることが無かったのでした。但し、科学者やスパイの手によってソ連の指導部には知られるようにはなっていったのですが。

このプルトニウムにはプルトニウム239とその他いくつかの同位体が存在しますが、原子爆弾の原料として適しているのは原子炉においてウラン238が中性子を取り込んで変換した姿であるプルトニウム239のみです。しかしこれはその原料であるウラン238が大量に存在するので大量に製造することが出来て、しかもウランのように濃縮過程を必要としないので、膨大な電力を消費しなくて済むのです。いや、原子炉を稼働させる過程で副産物として出来るわけですから、逆に電力も同時に生むわけで、かなり安上がりな方法といえます。
ただ、マンハッタン計画においては原子炉はプルトニウム製造のための作られたのであり炉内の核分裂のほうがむしろ副産物であったので、そもそも原子力発電は計画対象でなかったのでしたが、それにしてもウラン型原爆に比べてかなり安上がりだったといえます。さらに、プルトニウム239の場合、臨界に達するのに必要な量がウラン235に比べてかなり少なく4分の1以下なので、安上がりに大量の原料を確保出来て、一発あたりの必要量が少ないわけですから、原子爆弾の大量生産に適した原料であったといえます。
ただ欠点としては、まず最初に原子炉を作らなければいけない点があります。これはウラン濃縮工場などよりも遥かに大掛かりで、初期の設備投資額が膨大になるだけでなく、秘密保持という点でも問題がありました。世界初の原子炉シカゴ・パイル1号は小型の研究炉でしたが、フットボール競技場の観客席の下に極秘に作られました。そのシカゴ・パイル1号機で最初の臨界実験が成功したのは1942年12月のことで、その後、1943年9月、ヨーロッパ戦線ではイタリアが降伏し、太平洋では日本軍がマリアナやフィリピンのラインまで後退した頃ですが、その頃からワシントン州の片田舎の化学工場に偽装して本格的なプルトニウム製造用の原子炉が作られるようになり、1944年9月にその原子炉が運転を開始し、同年12月に遂に臨界に達したのでした。つまり、この時点でプルトニウム239が原子炉内で生産される態勢となったということです。
更に、この原子炉には再処理工場が付属していました。原子炉でプルトニウム239を製造する過程においては、天然ウランを燃料として、ウラン235が核分裂し、ウラン238がプルトニウム239に変換するのですが、原子炉から炉の中の物質を取り出した場合、目当てのプルトニウム239以外に燃え残りのウラン235とウラン238などが含まれています。このように幾らかの不純物も含まれており、ここからプルトニウム239を取り出す工程が再処理なのです。現在において再処理工場というのは燃え残りのウランを取り出して原子炉の燃料として再利用するための施設を意味し、副産物のプルトニウムのほうはむしろ捨て場所に困ってしまうくらいなのですが、それはあくまで原子力発電ベースで考える現代の話で、この時点では原爆の原料としてのプルトニウムを取り出すことが目的ですから、再処理工場というよりはプルトニウム抽出施設と呼ぶほうが適切かもしれません。
この再処理工場を作るにはかなりのコストがかかり、再処理の作業にもコストが多くかかります。ただ、この再処理を経ないことにはプルトニウム型原爆は作れませんから、このコストはどうしてもかかります。また再処理工場のリスクとしては、ここで抽出されるプルトニウムというものがウランなどに比べ特に多量の放射性物質を放出し、それが原子炉のように厳重に密閉された場所でなく、比較的露出する作業となるために放射能汚染のリスクが高くなるというのもありますが、こういう点に関してはマンハッタン計画時点ではあまり関心は払われなかったようです。まだ放射能障害などについての認識の乏しい時代であったからです。
だから、こういう点に関してのコストはこの時はかかりませんでした。かかったコストは原子炉と再処理工場の建設費とランニングコストでした。これらのコスト分を考慮したとしても、それでもプルトニウム型原爆はウラン型原爆よりも原子爆弾の量産には適していたといえます。ただ、プルトニウム型原爆の場合、どうしても越えなければならない大きな壁がもう1つありました。それはどのようにして爆発させるかという問題でした。

理論的には原子爆弾は臨界量を大きく超える量の高濃縮ウランあるいはプルトニウムの塊の核連鎖反応の暴走によって一瞬で超臨界状態を作り出すことで核爆発を起こすものです。ただウランやプルトニウムのような質量数の大きな放射性元素の場合、原子核が不安定なので自然に核分裂を起こすことがあり、これを自発核分裂といい、通常はこれが爆発に繋がるようなことはないのですが、この元素が臨界量を超えて存在している場合は、核連鎖反応を起こして臨界状態となり、エネルギーと放射線を撒き散らしながらバラバラに核分裂現象が起きて小さな爆発を起こしてしまい、これは緩慢な連鎖反応なので核爆発にまで至らないで原子爆弾が四散してしまうのです。この緩慢な連鎖反応というのは原子力発電を行う原子炉内の状態に似ていますが、原子爆弾はこの連鎖反応が一瞬で超臨界にまで達さないと効率の良い核爆発を起こすことが出来ないのです。だからこの緩慢な連鎖反応が起きることを未然に防いでおいて、原子爆弾を投下した時に一瞬にして効率の良い核爆発を起こすような仕掛けを作る必要がありました。
そこで、核爆発を起こすのに十分な量の核分裂を起こす物質(高濃縮ウランやプルトニウム)を最初から1つの塊にせずに、臨界量に達しない分量の2つの塊に分けて原子爆弾の内部に設置しておき、時限式信管の繋がった起爆装置が作動するとこの2つの塊が合体し、それによって核連鎖反応の暴走が起きて一瞬で超臨界に達して核爆発が起きるという仕掛けが考案されました。これがガンバレル方式といわれる方式で、仕掛けとしては比較的単純なこの方式の場合、核分裂物質の合体から超臨界に達するまでに100分の1秒ほどのタイムラグがあり、このタイムラグの間にも自発核分裂の連鎖反応によってかなりの核分裂物質が四散してしまうのですが、それでも核爆発を起こすには十分な量の核分裂物質が残り、超臨界にまで達するという見込みが立ちました。但し、これは高濃縮ウランの場合に限ってのことです。プルトニウムの場合はこのガンバレル方式では核爆発は起きないのです。

ウラン238が原子炉内で中性子を1つ取り込んでプルトニウム239に変換する際に、余計にもう1個の中性子を取り込む傾向があり、それによって中性子が1個多いプルトニウム240も同時に一定の割合で生じることになります。つまり原子爆弾の原料となるプルトニウム239は常に一定の割合でプルトニウム240も含んだ状態なのです。このプルトニウム240が物凄く自発核分裂を起こしやすい性質を持っており、ウラン235やプルトニウム239などの十万倍近くも高い確率で自発核分裂を起こします。プルトニウム塊は必ずこのプルトニウム240という厄介な物質を含んでいるので、それで常に多量の放射線を撒き散らす危険な物質なのです。また、プルトニウム240を多く含んだプルトニウム塊が臨界量以上の塊となった場合、あっという間に自発核分裂の連鎖反応がバラバラに勝手に起きてエネルギーと放射線を撒き散らして四散してしまいますが、この反応があまりに激しいため制御不可能であり、それゆえプルトニウムは原子力発電の燃料にはなれないのです。
そして、このプルトニウム240を含んだプルトニウム239の塊をガンバレル方式の原子爆弾の原料とした場合も、2つに分けたプルトニウム塊が合体して臨界量に達するとたちまち自発核分裂の連鎖反応がバラバラに激しく起きて、効率の悪い小爆発があちこちで起きるために、2つのプルトニウム塊が合体してから超臨界に達するまでの100分の1秒の間にプルトニウム塊が全て四散してしまい、そのため超臨界には達さず、核爆発は起きません。高濃縮ウランの場合のように核爆発に十分な量の核分裂物質が残って超臨界に達することがないのです。
この自発核分裂によって超臨界前に原子爆弾が四散してしまう現象を過早爆発といいますが、この過早爆発が起きるのを防いでプルトニウム型原爆をちゃんと核爆発に導くためには、分離していたプルトニウム塊を臨界量以上に合体させると同時に、自発核爆発によって四散しないように一瞬にして圧縮しつつ超臨界を達成するしかありません。そのために球面状に配置したプルトニウムの更に外側を覆うように火薬を配置してその火薬を全て同時に爆発させて、球面上に散らばっていたプルトニウムを爆発の衝撃波で球体の中心部へ向けて吹き飛ばし、中心部で周囲からの均等な圧力で圧縮された臨界量を超えたプルトニウム塊が一瞬にして超臨界に達し核爆発を起こすという仕掛けが考案されました。これをインプロージョン方式といいます。
なお、このインプロージョン方式でもプルトニウム塊中のプルトニウム240の含まれる割合が高くなると、自発核爆発による四散を抑え込むことは不可能で、核爆発は起きません。例えば現在日本の原子力発電所の主流である軽水炉の場合は生成するプルトニウムの中のプルトニウム240の量が多いので核兵器の原料には適していません。しかし、このマンハッタン計画で作られたプルトニウム製造用の原子炉は黒鉛炉で、生成するプルトニウム内のプルトニウム240の量が少なめだったので原子爆弾の原料として使うことが出来たのでした。

ただ、このインプロージョン方式は、実際に中心部に向って均等に衝撃波を与えるのは非常に困難で、緻密な設計が必要でした。そのためには極めて複雑な衝撃計算を行わねばならず、この計算に10か月も要してしまいました。1945年の1月になると原子爆弾の原料である高濃縮ウランもプルトニウムも製造可能な態勢が整い、原子爆弾投下の実行部隊も用意出来ていたのですが、この衝撃計算がまだ完成しておらず、肝心の起爆装置が出来上がっていなかったのです。
また、やがて衝撃計算が完成してそれに基づいてインプロージョン方式の起爆装置を用いたプルトニウム型原爆が作られても、これはあまりにも未知の技術であり、あまりにも精緻な造りであるため、理論通りに実際に核爆発が起きるか実験してみないことには、とても自信をもって実用に供することが出来るような代物ではありませんでした。また仮に核爆発が起きるとしても、それがどのぐらいの規模の爆発になるのか全く未知数でありました。その実験結果によっては核物質の量を変えたり、最悪の場合は一から計算をやり直す必要もありました。だからとにかく核爆発実験が必要となってきたのです。
そういう事情があってインプロージョン方式の原爆は投下がまだ出来ない状態でありました。但し、インプロージョン方式がどうしても必要であったのはプルトニウム型原爆の場合だけであり、高濃縮ウラン型原爆ならばインプロージョン方式でもガンバレル方式でもどちらでも核爆発を起こすことが可能でありましたので、急いで原爆投下をする必要があるのならガンバレル方式でウラン型原爆を投下することは出来ました。しかし、マンハッタン計画はあくまで量産型の核兵器の極秘開発プロジェクトでしたから、どうしてもプルトニウム型原爆の開発および実用化が最重要目標であり、それに成功する以前にウラン型原爆投下によって原爆開発計画そのものの存在を外部に知られるわけにはいかなかったのでした。だからプルトニウム型原爆の核爆発実験が終わるまではウラン型原爆を投下することも出来なかったのです。

しかし、やがて衝撃計算が終わりインプロージョン方式の原爆の試作品が出来上がり、その爆発実験を6月ぐらいに行えるという目処が1945年1月ぐらいには立つようになりました。ちょうどその頃、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦が立案され、4月に前哨戦である沖縄上陸作戦を経て、11月に南九州上陸作戦、翌年3月に関東上陸作戦を行うという予定となりました。同時に、秋の本土侵攻に先立って日本本土への絨毯爆撃や毒ガス散布などで戦略拠点となる都市を機能不全にするという計画となりました。6月に核爆発実験に成功すれば、この秋に行われる日本本土への空からの攻撃作戦の中で、原爆を幾つかの都市に投下することも可能となります。それで軍の上層部ではこのダウンフォール作戦の中に幾つかの都市への原爆投下計画も含めていました。
ただ、これはこの時点ではまだ原爆の実験も終えていないので、いつ何処に投下するなどという具体的計画ではなく、まだ漠然としたものでした。実際、軍の上層部は「本当に爆発するのか?」と疑心暗鬼であったようなので、ダウンフォール作戦全体の中ではオマケ程度の扱いであったようです。そもそも原爆開発は極秘プロジェクトでしたから、上陸作戦を立案したり実行したりするセクションに原爆のことを明かせるわけでもなく、日本侵攻作戦の指揮官マッカーサーすら原爆のことは知らなかったくらいですから、原爆とは無関係にダウンフォール作戦は立案されていったというのが実情です。軍上層部の考えとしては、6月に予定されている原爆実験成功以降、ダウンフォール作戦に新たに原爆投下作戦も組み合わせていく展開も生じていくという見込みがあったという程度のことでしょう。
1945年2月には原爆投下用のB-29の基地がマリアナ諸島のテニアン島と決定され、3月になるとドイツが原爆開発に成功していなかったことが判明しましたが、既に日本への投下で計画は動きだしており、ドイツの動向はもう計画に何の影響も与えませんでした。この3月に硫黄島が陥落し、それ以降、日本本土への絨毯爆撃が開始され、日本の都市は焼夷弾で焼き払われていくことになり、4月初めには米軍が沖縄に上陸し、いよいよ日本本土侵攻作戦の第一段階も開始されたのでした。
そうした中、4月12日に原爆開発計画の指令者であったルーズベルトが急死し、代わって副大統領のトルーマンが大統領に昇格し、翌日、原爆開発計画の存在を初めて知らされて驚愕することになります。軍首脳から原爆開発計画および投下計画の詳細と現状についてトルーマンがレクチャーを受けたのは4月24日になってからのことで、その翌日からサンフランシスコで連合国機構の憲章を採択するための会議が開催され、ソ連やイギリスなど戦勝国の諸国のエゴが剥き出しとなり、故ルーズベルトの構想していた戦後の世界政府や恒久平和の理想の前途に暗雲が立ち込めていくことになります。そうしたプレッシャーの中、戦後の新世界秩序の確立の切り札としての原子爆弾への期待感は新大統領トルーマンの中で次第に大きくなっていったのでした。

トルーマンが原子爆弾開発計画の詳細を知った3日後、4月27日には米軍の目標検討委員会の第一回会合が開かれて原爆投下場所の選定が開始され、そこで原爆を投下する都市の選定基準が示されました。それは直径4.8?以上の市街地を持ち、その周辺に更に居住地が広がっており、なおかつ高度な戦略的価値を持つ都市というものでした。この時点で東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、下関、山口、八幡、小倉、熊本、福岡、長崎、佐世保の17都市が候補として挙げられました。
ここで西日本の都市が多いのは、「予定されている南九州侵攻作戦に際して日本軍の兵站基地も兼ねるであろう西日本の主要都市を叩いておきたい」という軍の意向が反映されてのことでしょう。「高度な戦略的価値」とはそういう意味です。ただ、市街地や居住地についての特定の条件付けに関しては、政治家の「大都市を吹き飛ばすほどの新型爆弾の威力を見せつけたい」という世界へ向けてのデモンストレーション効果の狙いと、科学者の「原子爆弾が実戦でどれほどの威力を発揮するのか実験してみたい」という願望とが合わさったことによって加えられたものでしょう。
なお日本国民の戦意を挫くという意味での効果は当初はさほど期待されていなかったと思われます。何故なら、既に多くの日本の都市は焼き払われていて、それでも戦意があまり衰えていない日本国民が今更、原子爆弾で都市がいくらか吹き飛ばされたからといって戦意が挫けるとも思えなかったからです。この時点ではまだ原子爆弾は完成しておらず、その桁違いの破壊力はまだ誰にも実感されておらず、単に「今までに無い大きな爆風を発する爆弾」という程度の認識であったのですから、そのようにアメリカの軍人や政治家が考えたとしても無理の無いことだったでしょう。
この後、この17都市から、既に空襲で破壊されている都市が省かれ、特に爆風の効果が分かりやすい地勢の土地、つまり山などで遮られずに平地が広がっている土地という条件も加えられ、その結果、5月11日の第二回会議では京都、広島、横浜、小倉の4都市に絞り込まれたのでした。この時点で17都市から一気に4都市に絞り込んでいるというのは原爆の原料となる高濃縮ウランやプルトニウムがさしあたり原爆数個分しか確保出来そうにない状況だったからというのもあるでしょう。どうやら、原爆の量産態勢が整った後は日本本土侵攻作戦と連動した原爆投下作戦の展開も視野には入れつつ、とりあえず当面の数個だけ用意出来そうな原爆の使用目的は、実験あるいはデモンストレーションという意味合いのほうが強くなっていったようです。

その後、5月18日に原爆投下実行部隊がテニアン島に極秘配備される一方、ベテラン政治家で日本に関する知識のあるスチムソン陸軍長官が京都にある文化財の破壊が世界の文化人や戦後の日本国民の反米感情を激化させる恐れがあるとして京都への原爆投下に反対し、京都の代替案として新潟が加えられ、結局、5月28日に京都、新潟、広島、横浜、小倉の5都市への空爆を禁止する命令がサイパン基地の戦略爆撃部隊に下されました。とりあえずこれら候補となっている5都市の建造物や住民などを無傷に近い状態にしておいて、原爆がどれほどの被害を与え得るものか正確に測定するためでした。要するに生体実験のようなものです。原爆開発計画は政府や軍の上層部しか知らない極秘計画で、戦略爆撃部隊を指揮するルメイ少将あたりにはもちろん知らされていませんでしたから、そのまま放っておくと6月から開始する予定の地方都市への絨毯爆撃でこれらの都市も焼き払ってしまい、折角の実験を台無しにしてしまう危険があったので、こうして前もって5都市を絨毯爆撃の対象から除外するよう伝えたのでした。
そして、6月1日に原爆投下都市のイメージとして「周囲に労働者の家屋が広がる軍需工場地帯」というのが決定されました。軍需工場云々というのは単なる無差別絨毯爆撃を正当化するためのエクスキューズであって、米軍に言わせれば東京の下町も軍需工場地帯なので、大して意味のある言葉ではありません。重要なのは労働者の家屋という部分で、しかもこの時、事前警告は行わないということも決定しているので、出来るだけ多くの人的被害が出るようにして、原爆の人体への影響に関するデータを取ることが目的だということが露骨に表出されているのでありました。これで後は6月に行われる予定のプルトニウム型原爆の起爆実験の結果待ちということになりました。
しかし、5都市への爆撃禁止命令の出た翌日5月29日には既に横浜への大規模空襲が予定されており、この禁止命令は間に合わず、予定通りに横浜大空襲が行われて、横浜は焼け野原になってしまいました。そこで6月14日の会議で横浜が候補から外れ、同時に反対意見の根強かった京都も正式に候補から外れ、その代替案であったはずの新潟もテニアンから距離が遠いという理由でしばらくしてから外され、代わりに山合いの地形での実験という意味もあって、一度候補から消えていた長崎が再浮上して加わりました。そうこうしている間にインプロージョン方式の起爆装置の最終調整の遅れで実験の日程が7月半ばにズレ込みましたが、1945年6月時点でさしあたりの原爆投下目標都市の候補は広島、小倉、長崎の3都市と決定されたのでした。
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この記事に対するコメント

是非とも日本のため
政治家になって下さい!!

【2009/02/26 20:35】 URL | たろう #- [ 編集]


このコメントは管理者の承認待ちです

【2012/07/06 21:15】 | # [ 編集]



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