KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


現代史についての雑文その11 トルーマンの憂鬱
1945年4月12日のルーズベルトの急死を受けて副大統領からの自動昇格で新大統領となったトルーマンは、出来るだけルーズベルトの遺した政策を引き継ごうとしました。個人的にトルーマンがルーズベルトの政策を支持していたということもあるが、これはそれ以上に全く当然のことでありました。
アメリカは日本やイギリスのような、立法府が行政府に対して常にチェック機能を果たす議会制民主主義国家ではなく、かなりの部分で行政府に自由裁量を許す大統領制であったので、大統領の政策は立法措置に関わるもの以外は基本的には議会によるチェックを必要としないのです。つまりアメリカ国民は4年間ほとんどノーチェックで行政権を専制的に行使する強大な権限を大統領に授けるのです。そのために大統領選挙は1年間かけてみっちりと行われ、アメリカ国民は日本人にはおよそ想像もつかないような情熱を傾けて選挙戦に参加して、熟慮の末、4年間を任せて本当に間違いないと思われる人物を自分達の大統領に選ぶのです。

もちろんその判断は間違った判断となることもしばしばであるし、実際には利権団体の思惑で選挙結果は決まるようになっているのも事実ですが、とにかくアメリカ国民は大統領選挙で勝利した人物を4年間を一任するべき人物だと納得するのです。それがアメリカの民意というものなのです。これは総理大臣など総選挙で何時でも取り換えることの出来る日本人にはなかなかピンとこないくらい切実かつ絶対的な感覚なのです。
日本では総理大臣が総選挙の時に公約していたことと違うことをやり始めたら、たちまち叩かれて最悪の場合は引き摺り下ろされてしまいますが、アメリカの大統領の政策判断はよほど酷い結果にならない限り、そうそう叩かれることはありません。いくら叩いても引き摺り下ろすことは出来ないのですから、叩くよりも応援しようということになるのです。つまり民意で選ばれた大統領のやる事はいちいち民意のチェックを受けなくても基本的には民意に沿っているものとして扱われるのです。
まぁ4年間の任期も終わりかけの政権末期ともなればそうもいかないのですが、大統領選挙からあまり時間は経っていない時期はアメリカ国民はそうした意識はかなり強いといえます。だから1944年11月の大統領選挙で勝利したルーズベルトが、たとえ国民に内緒でソ連と裏取引をしていたり、予算を不正に流用して内緒で原爆を作っていたとしても、それはやはりアメリカ国民の民意に沿ったものということになるのです。
ところがそのルーズベルトが1945年4月に急死した後に大統領を引き継いだトルーマンは民意によって選ばれたわけではありません。「副大統領」としては、ルーズベルトのオマケとして一応選ばれてはいますが、アメリカの民意はトルーマンに1945年から1948年までの4年間を一任などしていないのです。それはあくまでルーズベルトに一任した4年間なのです。特に、就任後4か月弱で死亡したルーズベルトの残り任期はまだ始まったばかりで、大部分が残っているのです。新大統領トルーマンの使命は当然ながら民意に応えることです。その民意がルーズベルトの政策を支持している以上、トルーマンは次の大統領選挙に自分の実力で勝利するまではルーズベルトの代役を演じるのが筋というものであり、ルーズベルトの遺した政策を出来るだけ忠実に実行していくしかないのです。
とは言っても、ルーズベルトだって、もし生きていれば1年後、2年後には現実の変化に対応してそれなりに政策を変えていくのは当たり前ですから、トルーマンだって1年後や2年後にルーズベルトの路線の上に彼なりの判断で変更を加えていくのは当然のことでした。ただ、なんといってもトルーマンが大統領になった1945年4月というのは、ルーズベルトの4期目が始まったばかりだったので、この時点でいきなりトルーマンがルーズベルトの方針から外れて独自色を出すというのは、さすがにたった5か月前に大統領選挙で示されたばかりの民意に対して失礼なことであり、あまりに困難なことでした。

ルーズベルトが遺した仕事の中で最も差し迫った重要なものは彼が始めた戦争と言っても過言ではない第二次世界大戦を勝利することでした。倒すべき敵はドイツと日本でしたが、トルーマンが大統領職に就いてから1か月もしない5月7日にドイツは無条件降伏しました。これで残るは日本に勝利することですが、単なる勝利ではダメで、ルーズベルトの方針は日本の無条件降伏を達成することで、米国民の大部分がそれを支持していましたから、トルーマンもそれを目指すしかありませんでした。
しかし無条件降伏となると日本本土侵攻作戦が必要になってきます。その準備は進めており、司令官にはマッカーサーを任命していました。そして日本侵攻作戦の第一段階として既に3月下旬から沖縄侵攻作戦は実施されていました。ところがこの沖縄で日本側の軍民挙げての頑強な抵抗に遭い、圧倒的な制海権、制空権の中で優勢に戦いは進めつつも、米軍は予想以上の損害を受けていました。沖縄戦に先立って行われた硫黄島の戦いでも米軍は予想もしていなかった大損害を蒙りながらようやく島を制圧しており、戦場が日本本土に近付くにつれて日本側の抵抗が熾烈になっていく傾向は明らかでした。
もともとマッカーサーはフィリピンを押さえて日本本土と南方資源地帯の間のシーレーンを遮断すれば日本は降伏するだろうと見ていました。経済封鎖を受けていた日本が南方資源地帯に活路を見出して始めたのが大東亜戦争だったわけですから、その南方資源地帯から資源を運べなくなればこの戦争の意義は失われ、日本は経済封鎖でどうしようもない戦争前の状態に逆戻りするわけですから、自動的に戦争も終わるというのがマッカーサーの考え方でした。これは老将軍らしい正統派かつ古典的な戦争観だといえます。
このマッカーサーの構想は、日本軍が大陸打通作戦で陸路で南方資源を運ぶことを可能にしたので少し計算が狂い、シナ大陸の日本軍については海上封鎖が無効になってしまいましたが、フィリピン戦の過程で日本の連合艦隊が壊滅して日本近海の制海権も米軍が押さえたことによって結果的には実現し、日本本土へのシーレーンを遮断することに成功しました。いや、遮断の何も、日本は軍艦だけでなく商船も客船も、船という船を沈められすぎて(断わっておくが、これも悪質な戦時国際法違反)、物資も人間も運ぶ船がほとんど無くなってしまったのですから、お話にもなりませんでした。これであとは空爆で工業施設を破壊していけば日本は音をあげて降伏してくるだろうとマッカーサーは予想していました。だからマッカーサーは本土侵攻など不要だと考えていました。
しかしマッカーサーの想定していた降伏は通常の講和条件のある降伏で、アメリカ本国の政界や国民の唱えているような硬直的な無条件降伏論ではありませんでした。ずっと外地の戦場に身を置いていたマッカーサーは現実主義的な軍人であったので、無条件降伏などという本来はスローガンでしかないようなものにさして興味は無かったのです。ただ大統領のトルーマンが無条件降伏にこだわる以上は現地司令官のマッカーサーも無条件降伏を目指さねばならず、無条件降伏となればマッカーサーの言うような海上封鎖と空爆だけで簡単に日本も応じるわけもなく、やはり本土侵攻作戦も選択肢に入ってきます。

マッカーサーは日本本土侵攻作戦を実施したとして、その場合に予想される米軍の損害をかなり低く見積もっていました。例えば南九州侵攻作戦においては34万人の兵員を上陸させて戦死傷者合わせて6万人程度の損害で済むと見ていました。これはマッカーサーが自分が指揮したニューギニア戦やフィリピン奪還戦における日本軍の抵抗ぶりを基準にして弾き出した数値であり、マッカーサーは硫黄島や沖縄の戦いを直接経験していないからこういう甘い数値になるのです。
また、日本本土侵攻作戦はどう転んでも軍事的には最終的にアメリカが勝利するのは間違いない戦いです。すると最後に敵国の首都を攻略して凱歌を挙げた将軍こそが第二次大戦最大の軍功者であるならば、マッカーサーこそがその栄誉を手にするのは必至な情勢となります。軍人というものはとにかく軍功や栄誉を欲するものですが、特にマッカーサーは勇猛で優秀な将軍である一方、病的なまでにその傾向が強く、常に過剰な演出やパフォーマンスが鼻につく男でした。ある意味、軍人の鑑のような男でありますが、ただでさえ前線司令官というものは軍功を独り占めしたいもので、損害予想を少なめに見積もってでも自軍の優勢を誇示して、前線指揮権を独占したいものなのです。マッカーサーはその傾向が特に強かったのでした。
また、マッカーサーは反共産主義者で、さすがにヤルタ密約の存在までは夢想だにしてはいませんでしたが、政府や軍部の中にソ連の対日参戦を望む声が存在することは知っており、常々それを苦々しく思っていたので、米軍だけで日本など簡単に占領可能であると強弁する必要性を感じていたのでした。それらの事情があっての6万人という損害予想でありましたので、これはかなり上方修正しないと現実的数値とはいえませんでした。
本当にとことんドイツのように日本を制圧するとなると、米軍は300万を超える兵員を上陸させて、100万の戦死傷者も覚悟すべきでありました。これは日本人が強いという意味ではありません。太平洋での米軍の戦い方を見る限り、米軍は日本人の投降を受け入れないことが極めて多く、かなりの数の日本人が死ぬまで抵抗するしかないので、本土決戦をすれば日本人は7000万人が戦い、日本政府が跡形も無くなるまでにだいたい1500万人以上は死ぬという予想が立ちます。1500万人といってもほとんどは火器も持たない農民一揆のようなものなので米軍による一方的な虐殺となりますが、それでも数が数ですから、ハンティングの途中で何がしかの事故でもあって50万ほどの米兵が死に、50万ほどの米兵が怪我をするぐらいのことはあるだろうということです。

こう書いてみると、これだけでこんな戦いは阿呆らしいの一言なのですが、いや、仮に百歩譲ってマッカーサーの言う通り6万人の損害で済むとしても、その6万人の損害という数値にすらアメリカ国民の世論は猛反発するような情勢になってきていました。それ以前に日本本土侵攻作戦において米軍が投入する予定の延べ80万人を超す上陸部隊、そしてそれを上回る艦船などの支援要員を極東の戦場に派遣すること自体が易々と許容されないようなムードになってきていたのでした。
それは、ドイツ降伏以降、急速にアメリカ全土に広がった戦勝祝賀ムードのせいでアメリカ国民が一日も早い戦争の終結を望むようになり、アメリカ政府が開戦以来の戦時プロパガンダでさんざん日本を蔑視する宣伝を繰り返したため、アメリカ国民はすっかり日本人のことを猿同然の未開人だと思い込んでしまっており、強敵ドイツを倒した以上はほぼ戦争は終わりで、猿のような日本などあっという間に降伏してくるだろうと思ってしまっていたのでした。だから、もう平和がすぐそこまで来ているはずなのに、今さら日本ごときを降伏させるために6万人以上ものアメリカの若者が傷つくとか、80万もの兵員を戦場に送り込むなど、アメリカ国民にとっては到底許容できることではなかったのでした。
マッカーサーならば戦争に勝つということはそんなに甘いものではないと怒るでありましょうが、これは理屈でどうのこうの言える問題ではなく、とにかくもうアメリカ国民が戦争に飽いてきてしまっているのだから感情的にどうしようもないのです。フィリピンにいるマッカーサーのようにずっと戦場に居て指揮を振るっていたような人間にはそれが分からないのです。
アメリカ国民はもともと戦争に参加することを嫌っていました。それが日本軍の真珠湾奇襲とその後のアメリカ政府の巧妙な扇動によって頭に血が昇って戦争にのめり込んできたのです。そうしてアメリカ政府の関係者はアメリカ中心の新しい世界秩序を作り上げて、彼らの支援団体である多国籍企業体が活動出来る市場を拡大するという目的を達成する見込みは立ちつつありました。しかしそのための戦いで実際に多くの血を流したのは一般のアメリカ国民であり、彼らは自由だの正義だのというスローガンを実現したかのような錯覚だけを得て、実利は何も得なかったのでした。しいて言えば戦争を始めたお陰で大恐慌以来冷え込んでいた経済が活性化して、職にありつくことが出来るようになったことぐらいです。あとは、彼らが最も切望していた正義や人道などというものは、彼ら自身の行いによって跡形も無く失うことになりましたが、それを得たという錯覚と思い込みだけは長らく保持することになり、アメリカ本国の平和については、彼らが世界中に撒き散らした災厄の引き換えに長期間得ることになりました。
そのような壮大な徒労の末、ようやくドイツも降伏してヨーロッパでの戦争は終わり、ヨーロッパへ戦いに行っていた兵士たちも帰ってきました。後は日本という敵が残っているがもはや勝敗は明らかで、自分が戦わなければ侵略を受けるというような段階ではなくなっていました。ここでアメリカ国民たちも少し頭の血の気が引いて、もう戦場に行きたくなくなったのです。もともとがあまり好戦的な国民ではないので、冷静になると戦いが嫌になってしまったのです。兵士たちはせっかくヨーロッパにおける無意味な戦いから生きて帰って来れたのに、また極東の戦場に送られるのが怖くなったのです。日本との戦いはもはや掃討戦の段階に入っており、掃討戦を戦って得をするのは軍功目当ての職業軍人だけで、一般国民の兵士たちにとっては救国の戦いこそが意義があるのです。もはや日本との戦いは救国の戦いでもなんでもなく、単なるハンティングでした。そんなものは貴族が馬に乗ってやればいいことで、一般国民にとってさほど意義のあることではなくなっていました。

いや、アメリカ国民は日本人のことを猿だの未開人だのと蔑視しつつも、その反面、太平洋の戦場に関する報道に接し、実際に太平洋の戦場から帰還してきた兵士などから聞いた話などからも、日本兵の抵抗がかなり熾烈になってきており、ほとんど正気とは思えないような無茶苦茶な戦い方をするということを知り、内心恐れていたのです。
例えば、神風特攻隊の自爆攻撃のことがアメリカで報道されるようになったのは1945年4月になってからでした。アメリカ国民はそのような攻撃に脅威は感じませんでした。アメリカ本土まで特攻機が飛んでくるわけではないからです。しかし、キリスト教徒である彼らから見れば特攻隊は狂気の行為にしか見えず、日本人は狂っていると判断せざるを得ませんでした。それによってますます日本人への軽蔑と憎悪は深まっていったのですが、同時に、勝敗のついた戦いで気違いの自殺に巻き込まれて死ぬほど無意味なことはないと思い、ますます極東の戦場へ行くことが嫌になったのでした。
実際、硫黄島や沖縄の戦場を経験した米兵や特攻機の攻撃に接した兵士たちの中には、もう日本兵と戦うことに嫌気がさした者も出てくるようになっていました。もはや戦争の勝敗は明らかであるのは戦っている兵士たちが最も実感しており、ほっておけば自滅していく敵に無理に攻めかかってこちらが傷つくのは全く無意味であり、軍功目当ての将軍たちの駒として使われることに疑問を感じる者もおり、士気は上がりませんでした。
しかし、だからといって日本に対して譲歩すべきだと考えているアメリカ国民も兵士もほとんどいませんでした。アメリカこそ正義であり、日本は許されざる悪であるという信念は強固でした。戦時プロパガンダの影響もあったのでしょうが、まぁ戦争を戦う国民というのはこれぐらいの信念は持つのは普通でしょう。日本人だって米英は悪で日本こそ正義だという信念は終戦まで持ち続けました。ただ戦局が不利になれば信念は信念として、やはり何らかの譲歩はしなければいけないと思うようになっていくものですが、この時点での戦局はアメリカが圧倒的に優勢なのですから、アメリカ国民にすればアメリカが譲歩する必要性など全く感じなかったのは当然です。譲歩をしないということは、当初の方針の通り、日本を無条件降伏させるということです。
アメリカ国民は早期終戦を望みながら、日本の無条件降伏という形での終戦しか受け入れない強固な意思を持っていました。その無条件降伏のためには日本本土侵攻作戦が必要になってくるのは当たり前の理屈なのですが、しかしアメリカ国民は内心ではこれに自分や自分の家族が参加するのは嫌なのです。これは全く矛盾した無責任な態度ともいえますが、ほぼ戦争が終わろうとしている段階で厭戦感情というアメリカ国民の本来持っていた心の病が再発してきたものであるので、これはどうにもなりませんでした。
もちろん理屈の上では正義のアメリカ軍が悪の日本帝国に侵攻するという正義の戦いに文句のつけようもないので、このままいけば日本本土侵攻作戦は実施されるでしょう。しかし、アメリカが勝つのは間違いないとしても、おそらくアメリカ軍にもかなりの損害が出るでしょう。その時、アメリカの国民は政府を非難するでしょう。今まで散々日本人のことを「取るに足りない猿」と喧伝してきたのは政府や軍です。その「取るに足りない猿」との戦いで苦戦して、無意味な掃討戦でアメリカの若者を多く殺したとすれば、非難されるのも仕方ないことでしょう。国民にしてみれば、「そんな簡単に勝てる猿のような相手なのであれば、これ以上国民の血を流さない方法で簡単に勝ってみればいいじゃないか」と言いたいところでありましょう。

1945年5月7日のドイツ降伏以降、急速に高まっていった国内のそうした空気を感じ取ると、トルーマンは日本本土侵攻作戦を実行する気が急速に失せていきました。しかしその一方で、日本を無条件降伏させることを諦めるつもりは毛頭ありませんでした。それは何と言っても亡きルーズベルトの意思でもありましたし、実際、国民はそれを強固に望んでいました。ただ、それを日本本土で米軍が地上戦を戦わずに実現させる方法を考えなければいけないということになります。
いっそルメイ将軍の指揮する無差別絨毯爆撃で無条件降伏を実現出来れば良いのですが、やはり空爆だけで無条件降伏は無理がありました。いや、マッカーサーの言うように海上封鎖をしながら空爆をとことん延々と根気よく続けていけば、最終的には日本も音をあげて降伏してくるでしょう。しかしそれでは何時までかかるか分からないし、長い時間をかけているうちに状況が変わって無条件降伏とはいかなくなるかもしれません。とにかくアメリカ国民は早く日本を屈伏させて戦争を終えることを望んでいるのですから、長々と兵糧攻めのようなことをやるのは政権にとって得策ではありませんでした。
ならば米軍以外で極東で日本軍相手に地上戦を戦ってくれる兵力があればよいのです。最初はシナ国民党軍がそれをするべき兵力であったのですが、シナ国民党はもともと極めて腐敗した組織で民意を得ておらず、そういうところに1944年4月に始まった日本軍の大陸打通作戦で大きな打撃を受けたシナ国民党は急速に弱体化しました。その後、1945年1月になって北ビルマの日本軍をイギリス軍が排除した後、アメリカは新たに開いたビルマルートでシナ国民党への大規模支援を再開したのですが、蒋介石はもはや日本の敗北は必至と見て、もともと仇敵であるシナ共産党との戦いに備えてせっかくアメリカが送った軍需物資などを対日戦用に振り向けずに隠匿してしまい、おそらく対共産党戦用に回してしまっているようでした。これがルーズベルトやその後継者トルーマンには不満でした。
蒋介石にしてみれば、自分が統一した安定的なシナを作ってそこでアメリカを好きなように商売させてやるつもりでいましたから、そのためにアメリカと連合して日本という邪魔者を排除するために共に闘ってきたのです。それと全く同様に、蒋介石の構想する安定したシナを作るためにはシナ共産党もまた絶対に排除しなければいけない敵なのです。だからアメリカからの支援物資を共産党掃討のために使うことはアメリカの国益にも叶うことと蒋介石は信じていたので、何故ルーズベルトやトルーマンがそのことを不満に思うのか分かりませんでした。
しかし、ルーズベルトはシナだけを見ていたのではなく、世界規模で考えて、戦後の新世界秩序の最重要のパートナーとしてソ連を選んでいるのです。イデオロギーを超越した米ソ同盟による世界統一政府によって戦後世界は仕切っていく構想ですから、シナもまたその路線に沿って、国民党と共産党の統一政府によって統治していくのが望ましいのです。そうであるからこそ、そもそも1937年の時点でルーズベルトやスターリンは国民党と共産党に国共合作を命じて日本に対抗させたのであり、その路線は戦後構想に直結しているのであるから、決してその路線から外れてはいけないのです。蒋介石はその路線から外れようとしているから、ルーズベルトやトルーマンに疎まれていくことになるのです。

このようにアメリカの戦後構想に照らしてあてに出来ないシナ国民党に代わって生前のルーズベルトが極東方面における援軍として期待していたのがやはりソ連軍で、1945年2月のヤルタ会談の時にルーズベルトはスターリンと秘密協定を結び、ドイツ降伏後3か月でソ連軍が極東方面の戦備を整えて対日参戦する見返りに、ソ連に南樺太と千島列島の領有と満州での権益、それに外蒙古への影響力を認め、さらに朝鮮の信託統治(38度線以北)への参加を認めるという約束をしていました。ちなみにこの密約は蒋介石には全く知らされずに結ばれました。1943年12月のカイロ宣言では満州はシナ国民党に与えられると明記されていたはずですが、それは無視され、一応申し訳程度に台湾はシナに返還されるということはヤルタにおいて確認されました。
この密約の履行の日を迎えないままルーズベルトは4月に急死し、後を継いだトルーマンは初めてこの密約の存在を知り驚愕することになりました。まずトルーマンが心配になったのは蒋介石が怒るのではないかということでは全然なく、この密約がルーズベルトの死後も有効なのかどうかでした。トルーマンはソ連軍の参戦によって日本の無条件降伏を実現出来ると期待していたのであり、カイロ宣言との整合性については特に悩んだ様子はありませんでした。
ちなみにこのヤルタ秘密協定は現在では周知の歴史的事実となっていますが、1955年以前は、ソ連の対日参戦を経て終戦となった後もずっと秘匿され続け公開されることはありませんでした。つまり、1955年までは「ソ連の対日参戦は1945年7月のポツダム会談でアメリカがソ連に何ら見返りも与えずに要請したことであった」ということになっていたのです。ですから、この1945年4月から7月までのトルーマンのソ連の対日参戦に関する様々な思惑は彼と一握りの側近たちの間でのみ共有された極秘事項であったという点では、原爆開発計画と同じようなものでした。

トルーマンは4月12日に大統領職に就き、すぐにルーズベルトの側近からヤルタ秘密協定の存在を知らされ、ルーズベルトがそれを極秘扱いにしていた以上、自分もそれに倣い、同様に極秘事項としました。そしてこの密約がルーズベルトの死後も有効なのか不安になり、4月25日からのサンフランシスコ会議(国際平和維持機構の憲章を定めるための会議)に参加するために訪米してきたソ連のモロトフ外相と22日に会談し、ヤルタ秘密協定がトルーマンとスターリンの間でも有効であると確認して安堵したのでした。
ところがこの時、トルーマンはモロトフに激しい口調で詰問しなければいけませんでした。それは東欧でソ連がテヘランやヤルタで結んだ協定に対する露骨な違反行為および非人道的行為を繰り返していたからでした。いや、トルーマンはヤルタ秘密協定の件もあるので、この時点では本音ではソ連とは協調していきたいと思っていたのです。生前のルーズベルトがかなりソ連に入れ込んでおり、それゆえヤルタ秘密協定のような密約まで交わされていたのであり、それを引き継いだトルーマンとしてはそのルーズベルト路線を出来るだけ忠実に引き継ぎたいと思っていたのです。それが民意に沿うことになるはずだからです。
しかしその肝心のルーズベルトがヤルタ秘密協定を一部を除いた閣僚や幕僚にも国民にも隠していたので、彼ら下々の者達の一部にはトルーマンがどうしてソ連に執拗に入れ込むのか理解出来ないのです。もちろん彼らとてソ連が大事な同盟国であることは百も承知で、ソ連が参戦すれば対日戦にとってプラスになることも承知していたのですが、未開人しか住んでいないはずの日本一国ごとき打倒するのに過分ともいえる大きな見返りを与えてまでソ連の力を借りなければいけないくらい自国の亡き前大統領が困っていたとは思いもよらないので、自由と民主の国アメリカがソ連の東欧での約束違反と暴虐行為に目を瞑る必要性が理解できなかったのです。
トルーマンとしてはヤルタ秘密協定の存在を示せばソ連への遠慮がいかに必要であるか説明出来て、それがルーズベルトの意思であったことも示すことが出来たのでしょうけど、ヤルタでの協定を秘密にしておくというのがそもそもルーズベルトの意思であったのですから、その存在を明かすわけにはいきませんでした。第一、その存在を公表するのは秘密協定のもう一方の当事者であるスターリンに失礼でしたし、事前にソ連参戦の方針がバレてしまえば日本に対する奇襲効果も無くなってしまいます。それから、なんといっても、参戦の見返りにソ連に対して与える報酬が大きすぎること、特に満州における権益に関しては当事国であるはずのシナ国民党政権に対して何ら相談せずに勝手に米ソで決めていたという点、また、そもそも「戦勝国は領土の拡大をしない」という1941年8月の大西洋憲章において定めたアメリカの国家方針に矛盾するという点、またアメリカがイギリスなど西欧諸国に対しては「政府形態は人民の意思に任すべき」などという綺麗事でアジア植民地の放棄を迫りつつソ連に対してだけは帝国主義的な領土拡張を秘密に保障していたという点で、絶対にこの協定の存在は公表出来ない事情があったのです。
そういうわけでヤルタ秘密協定の存在を部下たちに示すことが出来ないトルーマンは、部下たちの一部、特に軍部や国務省の良識派の突き上げを受けて、ソ連に対して苦言を呈する羽目に追い込まれたのです。アメリカの大統領というのは本来、部下の正論など抑え込んでしまえるくらいの強大な権限を持っているのですが、何せトルーマンは民意によって選ばれたわけでもなく、この時点ではまだルーズベルトの急死によって偶然大統領になれた田舎政治家に過ぎないわけですから、イマイチ権限が弱いのです。これが半年ぐらい経ってくるとそれなりに尊大な大統領になっていったのですが、この時点では前大統領の下で第一線で実務を執っていた部下たちに気遅れする部分が多かったのでしょう。

ルーズベルトならば東欧の惨状や踏みにじられた信義や道義など知ったことではないという冷徹な態度を貫徹させたことでしょう。アメリカ政府にとって大事なのはまず対日戦に完全勝利して、戦後の世界新秩序で主導権を握り、世界中の市場でアメリカの多国籍企業体が大儲けすることです。ソ連はそのための重要なパートナーでした。
アメリカの政府というのは海外市場での取引によって利益をあげている企業連合の利益代表のようなもので、歴代大統領や高官たちは多くがそうした企業を経営する大富豪たちでした。ルーズベルトももちろんその一人でした。トルーマンみたいな庶民出身のほうが珍しかったのです。
そうした多国籍企業にとって最も重視すべき市場はヨーロッパと極東の市場でした。この2つの市場においてアメリカの影響力を排除するような強大な経済競争力を持ったライバル勢力の台頭を阻止することがアメリカ政府の至上課題でした。そうした警戒すべき相手がこの時点ではヨーロッパではドイツとイギリス、極東では日本でありました。ソ連はアメリカにとってそういう意味でライバルではありませんでした。ソ連には経済的な競争力は無かったからです。むしろソ連の暴力的な勢力拡大はドイツの復活やイギリスの影響力拡大を牽制するために有用でした。
ソ連が自国や東欧の衛星国でどんな非人道的な独裁政治を行おうとも、そんなことはアメリカの多国籍企業にしてみればどうでもいいことなのです。むしろソ連の独裁者と協調することで、その支配地における商売にも参画させてもらい、独裁者との間で良い儲け話も発生するかもしれないのですから、安っぽいヒューマニズムでソ連批判などしても一文の得にもならないのでした。だからルーズベルトが大統領をずっと続けていれば、ソ連の暴虐と不義理を非難することもなく米ソがガッチリとスクラムを組んで世界を支配する完璧な暗黒体制が出来上がっていったことでしょう。つまり冷戦などという余計な諍いは生じなかったのです。
トルーマンもアメリカの大統領となった以上はそうした多国籍企業体の意向を無視することは出来ないのですが、彼は庶民出身であったため、ルーズベルトほどには多国籍企業体と一心同体にはなりきれず、ルーズベルトほど威厳が無かったため、良識的な感覚を持った部下の突き上げに左右されることも多く、ルーズベルトほど冷徹でなく、真面目な凡人であったため、ソ連の振る舞いに対して義憤を感じる部分もあったりして、結局、中途半端に揺れ動くことになったのです。トルーマンは決してソ連と全面対決するつもりなどありませんでした。ドイツと日本を抑えつけて、なおかつイギリスを牽制してアメリカ主導の世界秩序を作り上げるためにソ連は最重要のパートナーであるということは重々承知のことでした。しかしそのためにソ連と共にどんな毒でも喰らおうというまでの度胸はトルーマンには無かったのです。
ルーズベルトにはそうした度胸があり、スターリンと手を組んで世界を共に支配しようと誓い合ったのです。もちろん互いに完全に信頼し合っていたわけではありませんが、基本的には同じ目的を共有する同志でありました。少なくとも、庶民的な感覚やヒューマニズムのような、独裁者から見れば下らない理由でこの世界支配体制にケチをつけるようなことはしないものだと互いに信頼し合っておりました。
ところがルーズベルト亡き後にいきなり現れたトルーマンという田舎政治家が、独裁者スターリンから見れば愚にもつかないような下らない理由でゴチャゴチャと文句をつけてくるようになったのです。病的に猜疑心の強いこのソ連の独裁者はこうしたトルーマンの中途半端な態度を次第に米ソ同盟への裏切り行為だと判断するようになり、勝手に危機感を強めて過激な行動に出るようになっていきます。そうして冷戦というものが始まっていくことになるのです。冷戦などというものは所詮は米ソ世界支配体制の中の内輪揉めに過ぎないのです。

ただ、この時点でトルーマンを突きあげていた人達も、別に安っぽいヒューマニズムや庶民感覚のみでソ連の遣り方に異議を唱えていたわけではありませんでした。ちゃんと彼らなりの大義というものがあったのです。
そもそもルーズベルトは第二次大戦に参戦するに際して、これは自由と民主を守るための戦いだと宣言したのであり、アメリカ国民はそれを信じて、世界に自由と民主主義を広めるために戦ってきたのです。しかしその結果、東欧でソ連がやっていることは何なのか。自由と民主主義の対極にあることではないのでしょうか。これに異議を唱えなければ、そもそもアメリカ国民が戦ってきたことは無意味になってしまうのではないでしょうか。ソ連との友好もルーズベルトの意思でありアメリカ国民の民意なのかもしれないが、同時に自由と民主主義のための戦いもルーズベルトの意思だったのであり、これもまた民意なのです。
こうしてトルーマンに対して、2つの相矛盾する民意が突き付けられることになったのです。ルーズベルトの本音はアメリカの企業が世界中で商売しやすくすることが優先で、自由だの民主だのというのは国民を戦争に駆り立てるためのスローガンに過ぎなかったわけですが、ルーズベルト亡き後は後継者トルーマンはこの自由と民主主義のための戦いというスローガンにも縛られていくことになります。
この2つの民意が矛盾を露呈してくるようになった原因は、ソ連がアメリカの思惑を超えた勝手な行動をとるようになってきたからでしたが、そうしたソ連の身勝手な行動は共通の敵ナチスドイツが弱体化していくのに比例して増加していく傾向にありました。となると、5月7日にドイツが無条件降伏した後は、ソ連の身勝手な行動にますます拍車がかかるには必然というもので、東欧での傍若無人な振る舞いはもちろんのこと、サンフランシスコにおける国際平和維持機構の規約を決める会議の場でもアメリカ側から見ればソ連は悪質なトラブルメーカーへと完全に変貌していきました。ソ連は新たに作られる国際平和維持機構における常任理事国という特権をフルに利用して、この国際平和維持機構およびそれによって維持される新世界秩序というものを、自身の恐怖と抑圧の体制を正当化し維持していくために利用しようとしていることは明白でした。
いや、ソ連にそれを許可したのは実はルーズベルトだったのですが、アメリカ国民はそんなことは知りません。彼らの知っているルーズベルトは自由と民主主義のための十字軍を組織した盟主なのであり、そんなルーズベルトが作ろうとした国際平和維持機構は自由と民主主義の守護者であるはずなのでした。その大切な国際平和維持機構を事もあろうに恐怖と抑圧の体制の正当化に利用しようなどという行為はルーズベルトへの裏切り行為であり、許されるはずがないというのがアメリカ国民の感想でありました。ソ連がそんなことをしようというのなら、それは阻止しなければいけないと彼らは思いました。それこそがルーズベルトの遺志に沿うのだと彼らは信じたのです。しかしソ連から言わせれば、ルーズベルトこそが恐怖と抑圧の体制の保証人であったのであり、アメリカ国民の行為こそルーズベルトの真の遺志への裏切り行為であったことでしょう。しかしトルーマンは民意に押されて、ソ連を裏切っていくことになるのです。
と言っても、アメリカ国民もソ連と戦って打倒することを求めたわけではありません。やはり何だかんだ言ってもソ連は今まで4年間共にドイツ相手に戦ってきた同盟国であり、ドイツは倒しましたが、まだアメリカには日本との戦いは残っています。そんな時に連合国の仲間同士で戦っている場合でないことぐらいは彼らも分かっていました。それに、アメリカ国民ももう戦争には飽き飽きしていました。やっと戦争が終わろうとしているのに、何も好き好んでソ連とまた戦う必要などありません。戦後の新世界秩序は米ソが協力して築いていけばいいのです。ただ、ソ連がこれ以上好き勝手なことをやって折角の新秩序を台無しにしてしまわないように、ソ連の勢力がこれ以上大きくならないよう、しっかりアメリカが主導権を握っていけばいいのです。

そう考えると東欧の状況は由々しき状況であったといえますが、それ以上にアメリカ政府と軍の良識派にとって気がかりであったのがソ連軍がドイツ降伏後、続々と極東方面へ移動を開始していることでした。これはヨーロッパ方面での戦闘が終わったので、極東における日本の劣勢に付け込んでソ連が極東における勢力圏の拡大をも狙っていると見てとれました。東欧での勢力拡大だけでもここまで傍若無人に振る舞っているソ連が、これに加えて極東方面でも勢力を拡大すれば、どこまで増長して秩序を乱すようになるか分かったものではありません。この事態を憂慮した国務省や軍の良識派はトルーマンにソ連軍が極東戦線に参戦してくるまでに日本を降伏させるよう勧告するようになったのです。しかし、このソ連軍の極東への移動こそ、スターリンが亡きルーズベルトと結んだ秘密協定の履行なのであり、トルーマンもつい先日、モロトフに対して熱望したことであったのです。
実際、この時点ではスターリンは極東方面ではヤルタ協定で取り決められた範囲以上に性急に侵攻しようというほどの意思は持っていませんでした。もちろん、この強欲な独裁者はスキがあればいくらでも権益を拡大していこうという意思は常に持っていましたが、さすがにソ連もこの時は長らく続いた戦争に疲れていました。
それに、東欧方面と極東方面ではソ連指導部も熱意の入れ方が違ってくるのです。ソ連の心臓部はやはりモスクワなどのあるヨーロッパ寄りで、今回の大戦ではドイツによってその方面を攻め込まれて、あわや国家崩壊寸前までいったのでした。これは帝政ロシア時代も含めて最大の外患であり、二度とこのような事態が起きないようにソ連指導部はヨーロッパ方面の実質的な国境線を出来るだけ西へ西へと移動させたいという強い欲求を持つようになったのです。だから東欧を自らの勢力圏とするということは米英などにどう非難されようとも絶対に譲れない死活的問題であったのでした。それに比べ、極東方面にはもともとシベリアという巨大な緩衝地帯があり、ソ連としても東欧方面ほどには絶対に領土を拡大しなければいけないというほどの熱意は持っていませんでした。せいぜい、もともと固有領土だという意識の強い南樺太や千島列島を獲得し、もともと持っていた満州の権益を取り返せば、とりあえずはそれでいいという程度の意識でおりました。
ヤルタ秘密協定という裏事情を説明することの出来ないトルーマンはソ連との密約と民意との間に板挟みになって苦慮することになり、また、ソ連の真意についても測りかねて疑心暗鬼にもなっていき、結局、ソ連が対日参戦すると約束しているドイツ降伏の3か月後、すなわち5月7日の3か月後である8月7日までに日本が無条件降伏してしまえば、ソ連が対日参戦する大義名分は失われ、ヤルタ秘密協定は自動的に無効となり、この協定の存在も国民に知られることもなく、ソ連の極東での勢力拡大も無く、アメリカ国民も満足するだろうと考えるようになったのでした。
しかし、これはソ連に対しての裏切りとも受け取られることでした。ソ連が怒って、約束していた領土や利権を求めて無理な侵攻をしてくる可能性もありました。そうなるとまた米ソ関係がギクシャクしてしまいます。それを避けるためには、何かソ連の行動を抑止出来る切り札を確保しておく必要がありました。そして、更に大きな問題は、ソ連軍の参戦無しで8月7日までに日本を無条件降伏させるなどということが可能なのかどうかという問題でした。トルーマンは日本本土侵攻作戦を実行する気はもうほとんど無くしていましたが、もし仮にそれを実行するとしても、それは11月以降の予定ですから、もうその頃にはソ連軍が極東を蹂躙してしまっています。だから、地上戦を経ずに8月7日までに日本を無条件降伏させるという魔法のようなアイデアが必要になってくるわけです。
もしそうした魔法のようなアイデアが出てこないとなれば、米軍の九州上陸作戦開始よりもソ連の対日参戦のほうが自動的に早く開始される以上、結局はソ連の対日参戦が日本を無条件降伏させる切り札の案ということになり、その案を採用する限り極東におけるソ連の勢力は拡張し、ますます勢いを得たソ連は傍若無人になり、新世界秩序は混迷していくでしょう。しかし、まずは対日戦争を早期に完全勝利して戦争を終えることこそがアメリカ国民の第一の願いである以上、新任の大統領トルーマンとしては、そうなってもそれはそれで仕方ないというのが正直な感慨でありました。

そうした中、ドイツ降伏以後のソ連軍の極東への移動に警戒感を強めた国務次官のグルーや陸軍長官のスチムソンらは協議して、グルーの提案による「天皇制度への保証を与えることによって日本に降伏を受け入れさせる」というアイデアに傾いていきます。スチムソンは政界の重鎮で、したたかな国際政治の駆け引き、特に極東の国際情勢を心得ている人物であったので、ソ連の暴走を押さえてアメリカが世界秩序を維持していくためには極東においては日本を属国として手なずけておくのが良いという考えを持っていました。逆に日本を追い詰め過ぎたりして日本が反米感情のあまりソ連になびくようなことがれば、ますます国際政治は混迷していくと考え、アメリカ世論が許容する範囲内でなんとか日本が受け入れやすいような形で早期終戦の道を探るべきだと考えていました。
原爆投下計画の最高責任者であったスチムソンが京都を原爆投下都市の候補から外すように強く主張したのも、日本の文化についてある程度の知識を持ったスチムソンが戦後の日本人の反米感情の高まりを懸念してのことでした。ただ、京都はダメで代わりに新潟なら良いというのもおかしな話で、しかも無警告でいきなり民間人の多くいる場所に人体実験のように投下するわけですから、日本人が反米感情を持つのは当たり前のことでした。日本人に反米感情を持ってほしくないのなら原爆投下計画自体を中止すべきなのですが、スチムソンにそこまでの権限はありませんでした。せいぜい投下都市を変更する程度の権限しか無かったのでしょう。原爆投下そのものを決定する権限はトルーマンが握っていたのでした。
そもそもスチムソンは原爆の開発の成功自体を懐疑しており、そんな何時実用化されるか分からない、海のものとも山のものとも知れないような新兵器という曖昧な要素を、このシビアな国際政治の判断における材料として使うことは現実的ではないと考えていました。実際、この時点ではまだプルトニウム型原爆のインプロージョン方式の起爆装置はまだ完成しておらず、これが出来ないことには原爆など現実的な兵器として使える代物ではありませんでしたし、また、実際に爆発させてみないことにはいったいどれほどの威力を発揮するのか全く未知数なのでした。「原爆投下などという余計なことはしなくても、もはや日本の敗北は必至であり、いかに軟着陸させてソ連が出張ってくる前に終戦を実現するかに心を砕くべきである」というのがスチムソンの意見でした。だから原爆投下都市の選定会議などというのはスチムソンのような現実主義者にとっては「夢想家の科学者や軍人に勝手に喋られせておけば良い」という程度の、かなりどうでもいいものであり、とにかく京都はダメだという主張はしておいて、それ以上深く突っ込むようなこともなかったのだと思われます。

そうしたスチムソンはグルーの提案した「天皇制度を保証することで日本に降伏を受け入れさせる」というアイデアこそが彼の目指す軟着陸路線の現実的な解答になり得るものだと判断しました。グルーの主張によれば、「今となっては日本人は天皇制度の保証さえ得られれば、他はどんな譲歩でもするだろう」とのことでした。そして「天皇制度を保証することによって日本国内の好戦的勢力の発言力は弱くなり、日本国民の戦意も低下して、終戦を受け入れることになる」というのもグルーの持論でした。また「日本人にとって天皇の命令は絶対であるので、天皇の命令で武装解除を行えばスムーズに終戦に至ることになる」というグルーの意見は、軟着陸を目指すスチムソンにとって魅力的なものでした。
もし日本の状況がグルーの予想通りなのだとしたら、天皇制度を保証することによって実質的な無条件降伏を実現することが出来るでしょう。スチムソンの考える実質的な無条件降伏とは日本政府をアメリカの従属下に置いて、アメリカが日本の政体を自由に改変することが出来るという状態であれば良いというものでしたから、天皇の地位の保証と引き換えに天皇をアメリカの従属下に置いて、天皇の威光を利用してアメリカが日本を間接統治し、最初に軍隊の武装解除をさせてしまえば日本の中の軍部強硬派も反抗する力を失い、後は自由にアメリカの思い通りに日本の国家改造を行って、アメリカに従順で無力な日本を作り上げることが出来るという構想をグルーやスチムソンは持ちました。無条件降伏の形式的な問題など実質的にはどうでもよく、とにかく武装解除さえさせてしまえば結果的には無条件降伏と同じ結果は得られるという考え方でした。ちなみに、ソ連のヨーロッパでの拡張主義的傾向により切実な危機感を抱いていたイギリス首相チャーチルも同様の構想を持つようになっていました。
そうした構想を持つグルーやスチムソンにとっては、1945年3月から5月にかけて進行中であった日本の主要都市への無差別絨毯爆撃や、投下対象都市の選定も具体的になってきた原子爆弾投下計画の実施などは、もはや勝敗のハッキリした現段階では無意味であり、逆に日本人の反米感情を不必要に高めて戦後の日本統治を困難にする要因でしかありませんでした。これらの愚行がこれ以上エスカレートする前に早期に終戦にこぎつけたいとグルーらは焦り、5月28日にグルーはトルーマンに対して、即刻、日本に対して天皇制度の保証を盛り込んだ降伏勧告の声明を出すべきだと進言し、その対日声明案の草案を提出しました。これが後にポツダム宣言と呼ばれることになる声明文の原案となるのです。

しかし、トルーマンはグルーの構想に賛意は示しつつ、即刻そのような声明を発することは拒絶したのでした。理由は、どうせ近いうちにヨーロッパの戦後処理を話し合う連合国首脳会議を開催することになっているので、その場で米英ソ三国の共同声明という形で出したほうが良いというものでした。一見もっともらしい理由ですが、別に三国共同声明にそこまでこだわる必要は無いのであり、結局トルーマンはグルーの構想に不安を覚えて、この時点で決断をすることが出来なかったのだといえます。
トルーマンが抱いた不安は、まず天皇制度の保証だけの条件で日本における軍部強硬派の勢力が降伏に納得するであろうかという懐疑でした。下手にそんな声明を出したら強硬派がクーデターを起こして実権を握り、ますます強硬に本土決戦を主張して抵抗を続ける羽目になるのではないかという危惧もありました。
ならば日本の軍部強硬派も納得出来るような条件も付けて声明を出してやればいいという考え方もありますが、あまりに日本の軍部に対して甘い内容になれば、そもそもグルーの構想する間接統治を阻害することになってしまいます。だいいち、日本に対して甘い条件での声明を出すことなど、無条件降伏論で凝り固まっているアメリカの世論が納得するはずがありません。いや、このグルーの原案にある天皇制度の保証という条件だけでもアメリカの世論は激しい拒絶反応を起こすでしょう。
アメリカ国民は戦時プロパガンダによって、「日本は天皇教ともいえる部族的カルト宗教によって洗脳された狂った猿同然の未開人の群れであり、天皇を除去しない限り日本人の好戦的性格は矯正不可能である」と思い込んでいました。実際は狂った妄説に洗脳されていたのはアメリカ国民のほうであり、この日本理解は全く間違っていました。グルーやスチムソンはインテリでしたから天皇と日本国内の強硬派との分離は可能であるということが分かっていました。おそらくトルーマンも彼らほどではありませんが理解はしていたでしょう。グルーやスチムソンは、大統領たるものは間違った世論に左右されずに冷静に国益に最も資する判断をするべきであると考えていましたが、しかし新米大統領のトルーマンにはそんな余裕はありませんでした。何かあれば世論に叩かれるのはグルーやスチムソンではなくトルーマンなのです。偉大なるルーズベルトであればここまで世論に対してナイーブになることはなかったでしょうが、トルーマンはどうしても世論の顔色を窺いつつの政権運営ということになっていました。

それに、実はトルーマンはその来るべき米英ソ首脳会談にスターリンを招くため(とにかくこのソ連の独裁者は滅多に国外に出ようとしない人物だったので)、そして冷え込みかけていた米ソ関係の改善を図るために、その2日前からソ連に特使を派遣しており、やはり日本の無条件降伏のためにはソ連の参戦が必要であると再び申し出て、このグルーの献策のあった前日の5月27日にスターリンからヤルタ秘密協定で約束された対日参戦の確約を取り付け、その日付も8月8日であることを明言されていたのです。前日にそこまで固い約束を交わしておいて、いきなりスターリンを裏切るような対日声明を単独で出すわけにもいかなかったのでした。いずれにしてもソ連との間にヤルタ秘密協定が有効である以上、その約束をアメリカ側から破った場合にソ連が怒って暴走する危険はあり、これを抑え込む切り札は必要でした。そういった事情もあって、なかなかトルーマンとしてもグルーの提案に即座に乗れなかったのでした。
トルーマンはこの時点ではやはり天皇制度の保証だけでは確実に日本の無条件降伏を引き出すことは出来ないと判断しており、やはり日本を無条件降伏させるためにはソ連の参戦が必要であるという考えであったのです。ただソ連の参戦後に長々と戦いが続くようではそもそも何のためのソ連参戦か分かりませんし、ヨーロッパのように極東でもソ連のなし崩し的な勢力拡大を招く恐れはありますから、ソ連参戦後に速やかに日本が降伏してくるように、あらかじめ対日降伏勧告声明を出しておくのは得策と判断しました。また、日本陸軍が最も参戦を恐れるソ連がその声明に名を連ねれば、日本国内の強硬派に打撃を与える可能性は高いと思われました。
但し、その対日声明に天皇制度の保証まで明記するかどうかは判断の難しいところでした。確かにそこまでやればグルーの言うように日本政府内の和平勢力は降伏に応じやすくなる可能性は高いでしょうが、逆に強硬派のクーデターを誘発する危険もありました。また逆にそれを明記することによってグルーの言うように簡単に日本が降伏してきてしまってソ連参戦の前に戦争が終わってしまっても困るのです。そうなるとソ連との約束違反ということになってしまいますから、また米ソ関係がギクシャクしてしまいます。だいいち、それを見越してスターリンがその共同声明の発表に反対することは確実です。いや、そもそも君主制を敵視する共産主義国家ソ連が天皇制度保証を明示した声明に簡単に賛成するとも思えませんでした。こうしたソ連の横暴を抑え込んで効果的な対日声明を発することは骨の折れることでした。そして何と言っても一番悩ましい要素は、天皇制度への保証を明言することに対するアメリカの世論の反発が必至であることでした。

そして、この少し前あたりから、ソ連との関係を調整することに疲れたトルーマンは原子爆弾に期待を寄せるようになっていたのでした。原子爆弾こそルーズベルトが戦後の新世界秩序において決定的にアメリカ優位の状況を作るための切り札として開発にゴーサインを出した新兵器であったからです。これもルーズベルトの遺志の1つでした。
このグルーから対日降伏勧告声明を出すよう献策を受けたのと同じ5月28日、原爆投下候補都市としてこの時点でリストアップされていた京都、横浜、新潟、広島、小倉の5都市に対する空爆禁止命令をトルーマンは発しています。これは原爆投下計画を具体的に一歩前進させたと見ていいでしょう。それまで密室での議論に終始していた原爆投下計画が初めて現場レベルの軍事行動に影響を与えるようになったのです。
また、それに先立つ5月18日にはユタ州で訓練を続けていた極秘の原爆投下実行部隊を原爆投下機の発進基地のあるテニアン島に移動させていました。ここまで来れば、あとは原爆をテニアン島に送って投下指令を出すのみということになります。まだ原爆の起爆実験も実施していない段階でのこうした動きは、かなり原爆投下についてトルーマンが前のめりになっていた証拠でしょう。この5月18日の少し前あたりからトルーマンは原爆に大きな期待を寄せるようになっていたのだと思われます。5月7日のドイツ降伏後のソ連の横暴にトルーマンなりに危機感を感じてのことなのでしょう。
おそらく当初トルーマンはソ連の対日参戦後の事態をコントロールするために原爆が有効に機能することを期待していたのでしょう。原爆を日本の都市に投下してその威力を示すことでソ連に対する抑止力とし、ソ連の行動をコントロール出来ることを期待していたというところでしょうか。しかし、そのためにはまず原爆が実戦で使用可能なものでなければいけないのでした。この時点ではまだ起爆実験も実施出来ていない状況で、実験は失敗するかもしれません。失敗すればまた実戦配備は遠のくのであり、あまりにも原爆に関する見通しは不明確なものでした。また、その威力も実際どれほどのものか不明な部分もあまりに多かったのでした。そうなると、やはり現実的にはソ連の参戦によって日本の早期降伏を目指すという方針を基本としつつ、その一方で、原爆の実用化の状況次第でソ連への対応を臨機応変に変えていく余地を残していくということになります。
しかし、ソ連の参戦にしても原爆投下にしても、これらは極秘事項ですから表向きはこれらが出てくることはなく、日本に対してはあくまで秋に開始が予定されている日本本土侵攻作戦によって屈伏させて戦争を終結させるという方針が決定事項として進められていくことになります。それに対する対案の形として、日本本土侵攻に先立って日本に対して降伏を勧告する声明を出して、それを日本が受け入れれば本土侵攻計画は中止するというグルー案が出てくることになったのです。
実際はグルーやスチムソンらはソ連の動きや原爆の動向なども勘案した上でこの対日声明案を出しているのですが、これらが秘密事項であるため、表向きは本土侵攻作戦の対案という形で政府部内などでは語られることになるのです。しかし実際にはこの対日声明は秋の本土侵攻作戦実施までというよりは、8月上旬に予定されているソ連の対日参戦までにその使い方を決定していかねばいけないものであったのです。

そうした様々な米政府内の思惑をまとめて、その上でトルーマンは米英ソ3カ国首脳会談に臨まねばならなかったわけですが、その首脳会談の場所や日程をまず決めねばなりませんでした。
そもそもこの会談をやろうと言い出したのはチャーチルでした。ソ連のなし崩し的なヨーロッパでの勢力圏の拡大に懸念を深めたチャーチルは米英首脳がスターリンに迫って無法な行動と明らかな約束違反行為を止めさせるための会談を開こうと画策したのでした。だから、この会談の主要な議題はヨーロッパの戦後処理問題でした。そうしたチャーチルの思惑は承知しているスターリンは会談場所はベルリンの郊外にあるポツダムを指定しました。ここはソ連軍の占領地で、いわばソ連のホームにあたる場所でした。ナチスドイツの打倒はソ連の力によるものだと誇示するのに最適の地で、そうした会談場所の演出効果で、自らが会談のホスト役を務めることで会談をソ連有利な方向へ誘導しようという、権威主義者のスターリンらしい思惑でした。
そして会談の開催時期ですが、スターリンは7月1日開催を提案し、これに対してチャーチルは6月15日開催を提案したのでした。チャーチルとしては出来るだけ早く会談を開きたい事情がありました。それは、その時点ではドイツ降伏後も米英軍がヤルタ会談で合意したソ連占領地域の内部にまでまだ部隊を侵攻させた状態であったからです。これは東欧やバルカン半島におけるソ連の約束違反への対抗措置のようなもので、言わばドイツ領内においてソ連軍に対して米英軍が軍事的に圧迫を加えた状態にあったわけで、そうした軍事的圧力を背景にして首脳会談を開いたほうが米英に有利な会談になるという思惑があったのでした。
しかしトルーマンはこのチャーチル案の日程を拒否しました。そしてその後、ドイツ国内の米軍をヤルタ会談で決めた境界線よりも西へ撤退する方針を示し、7月1日には撤退を実施してしまいました。ソ連が東欧やバルカン半島で約束を破ったままなのにアメリカはドイツで一方的に約束を履行してしまったのです。米軍がそのように撤退するのならイギリス軍だけ頑張っていても仕方ないのでチャーチルもしぶしぶ自軍を撤退させました。
ここにおいてヨーロッパの東西分断が実質的に確定してしまうのですが、トルーマンは最初からイギリスがヨーロッパで影響力を維持することを好んでおらず、それに米軍が手を貸す必要は無いと判断して米軍を撤退させたのでした。それに、ヤルタで決めた境界線はこれもまたルーズベルトの遺志でありましたから、トルーマンにとっては墨守すべき事柄でした。同時に、ルーズベルトのソ連優遇という方針も墨守すべきであったのでしょう。おそらくスターリンはトルーマンが7月1日までにこの撤兵を行うということをもともと知らされており、それゆえ首脳会談を7月1日から開催しようと提案していたのでしょう。

ならばトルーマンもこの7月1日開催案に同調すれば良いのですが、トルーマンはそうはせずに7月15日に会談を開始するよう提案し、強引にチャーチルとスターリンにそれを承知させました。これは、当初6月に予定されていて延び延びになっていた原爆実験が7月16日に極秘に実施されることが決まっていたからでした。つまり、原爆実験の結果を受けてソ連への対応を決めたいというトルーマンの強い意向の表れであったのです。
いや、原爆実験の結果を確実に会談に反映させたいのなら、更に会談を後にずらすべきなのでしょうけど、あまり後にずらすと8月上旬予定のソ連の対日参戦予定日を迎えてしまいます。トルーマンにとってはこの首脳会談はヨーロッパの戦後処理問題を話し合うためだけではなく、対日方針を決定するための重要な場になるはずのものであったので、原爆実験も首脳会談もソ連の対日参戦予定日以前にやらないと意味が無いのです。
それを考えると、この7月15日開会というのがギリギリ延ばしに延ばしたデッドラインなのであって、むしろ原爆実験のほうがその日程に合わせて実施するようにゴリ押しされたというのが実際のところでしょう。だから原爆実験は満を持して行われたというよりは、少し無理なスケジュールで強行されたのであり、確実に成功するとは言いきれない状況であったといえます。このようにギリギリの賭けのように、7月15日のポツダム会談の開始、そして7月16日の人類史上初の原爆実験の日程が6月初めの時点で決定されたのでした。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。