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現代史についての雑文その12 対ソ終戦工作
1945年7月15日から連合国によって占領中のドイツのベルリン郊外の都市ポツダムで米英ソ3カ国の首脳会談が開催されることが決定し、そこでヨーロッパの戦後処理の問題と共に対日降伏勧告の共同声明についても議題としていく方針が米政府において決定されると、それに合わせて、米政府は自らの対日方針を事前に固めていくことになりました。
この対日声明案の推進者であったグルーやスチムソンらは、沖縄が陥落して本土が丸裸になればさすがに日本も態度を軟化させるだろうと思っていました。ところが5月末に沖縄への航空支援の打ち切りを決定した日本政府は、その後、6月に入ると更に本土決戦のボルテージを高めてますます頑なな態度を示すようになり、これにより米政府内におけるグルーら軟着陸を目指すグループの発言力は弱くなってしまい、これにはさすがにグルーやスチムソンらも呆れ、日本国内にまだまだ頑強な強硬派が健在なのだと解釈し、ちょうどこの頃になると原爆の完成にも目処がつくようになってきたのもあり、天皇制度の保証を明示した対日声明の後でそれでも日本が降伏を拒否するようなら原爆を投下してその威力によって早期降伏に導くしかないと考えるようになっていきました。

そうした日本の強硬姿勢を受けての開催となった6月18日の米政府最高指導部会議もまた硬直した内容のものとなり、沖縄という前進基地の確保を受けて日本本土侵攻作戦の開始を11月1日とすることを正式決定するなど、建前論の応酬ばかりとなり、早期終戦に向けて対日声明や原爆、ソ連参戦などをどのように活用していくかなど建設的提案はほとんど無いまま終わりました。ただ1つ、スチムソンの腹心であるマックロイ陸軍次官から、対日声明において原爆投下の事前警告をしつつ天皇制度を保証するならば日本国内の平和勢力の発言力が増して早期終戦の可能性が高まるのではないかという提案がなされましたが、このおそらく最も有効であったろうと思われる案は却下されてしまいました。

原爆は6月1日時点で事前警告無しに投下されるべきであるという結論が既に出ていました。これは事前警告は投下機に対する日本側の警戒を高めて投下機を危険に晒すという純粋軍事的理由と、原爆の与える損害を正確に計測したいという科学者の要望によるものでしたが、早期終戦を実現するためという大義の前ではこれらは些細な理由に過ぎず、十分に変更は可能でした。
当時の日本においても原子爆弾の研究はなされており、その威力が桁外れに大きいということは想像されていましたので、その投下を警告することは十分に日本国内の和平を求める勢力が継戦を求める勢力を説得するのに有利な材料となるはずであり、同時に天皇制度の保証がなされていれば、継戦勢力は降伏を受け入れる可能性は高かったと思われます。特に6月22日以降は後述するように日本政府も終戦へ向けて大きく傾いていった時期であるので、このような形での声明はかなり有効であったと思われます。
また、もし万が一、日本の継戦勢力が原爆投下予告をブラフだと見なし、それにより日本側が降伏要求を拒否したなら、その後、本当に原爆を投下された後、日本政府内において反米感情よりも国内継戦勢力への非難のほうが強くなり、それによって一気に早期終戦が実現する可能性が高くなります。だからどう転んでもこういう声明を事前に出せば早期終戦は実現する可能性が高く、本土侵攻作戦は実施しなくて済むことになるのです。また、ソ連の参戦も期待しなくて済む可能性も高くなります。
しかし、この提案はトルーマン周辺によって却下されました。まず原爆そのものがまだ完成していなかったので事前警告する段階にもなかったというのもあります。事前警告だけで終わってしまったら大恥をかくことになります。また、原爆が完成した後で事前警告を発するとしても、もし日本が事前警告を受けて降伏してしまったら原爆は投下出来ません。対日戦争を終結させるという目的のためだけならばそれでもいいのでしょうけれど、戦後の国際秩序をアメリカ主導で進めていくためにはソ連に対して原爆の威力を見せつけておいたほうが良いので、完成した原爆を投下出来なくなってしまうと困るのです。
また仮に日本が事前警告を受けて降伏を拒否した場合でも、事前警告があれば日本側も原爆投下を警戒するでしょうから作戦の成功率が下がりますし、投下に成功したとしても住民が避難していたりして原爆の威力が完全に発揮出来なくなる可能性が高くなります。それだとせっかく投下しても原爆の威力が曖昧になってしまい、やはりソ連に対する示威効果が下がってしまいます。いや日本を降伏させる効果自体が下がる恐れもありました。そういうわけでこのマックロイの提案は却下されたのでした。

ちなみに事前警告に関してはそれのもたらすメリットやデメリットという観点のみが重視されたのであって、人道主義的観点から事前警告を発するという発想はこの時のアメリカ政府にはありませんでした。それは日本人が許すことの出来ない敵であり、人道的配慮を払う対象ではなかったという差別的意味合いではありません。まぁ内心そういう気分の人も多かったとは思いますが。
どういうことかというと、相手を気遣っての事前警告というのは最初の1発だけが問題なのであって、1発撃たれたらもう後は相手は撃ってくるものだと分かっているのですから、その後撃たれた分は無警告射撃にはあたらないということです。つまり1発目の原爆が2発目以降の原爆の事前警告になるのであり、1発目の原爆のみが事前警告が必要ということになります。
しかし相手を撃ち殺す銃弾がライフル弾であれダムダム弾であれ大差ないのと同じように、焼夷弾でも原子爆弾でも民間人を無差別に大量殺戮するという点では同じことであり、それならば既に米軍はお釣りがくるほど実行済みであり、それらが事前警告になっているはずだったのです。日本人には既に「米軍は空襲で民間人を無差別に殺戮する」ということは認識しているのであり、つまり、もはや事前警告などする必要は無いのです。そして、その原爆の事前警告たる無差別絨毯爆撃の「最初の1発」であった3月10日の東京大空襲は全く無警告で行われて10万人を焼き殺したのであり、この時点で既に米軍は取り返しのつかない非人道的存在となっているのであり、今さら原爆投下前に事前警告を発したところで手遅れであり、そもそも人道主義など語る資格はとっくに喪失していたのです。
それにしても原爆と焼夷弾を同列に論じるとはなんと軽々しいと思われるかもしれませんが、この時点ではまだ原爆は完成しておらず、その破壊力は未知数であったという点は考慮に入れなくてはいけません。もしかしたら焼夷弾による絨毯爆撃に遥かに及ばないしょぼい破壊力しか発揮しない代物ではないかという予測も信憑性をもって語られていた時期です。焼夷弾と同列に論じても何ら不思議はありません(いや実際、地形の差や投下失敗などの要因はあるが長崎原爆は東京大空襲よりも死者数は少ない)。広島で最初の原爆が炸裂し、その被害状況が明らかになった後とそれ以前とでは、原爆というものについて人々が持つイメージは全く別物であるという事実を忘れてはなりません。
とにかくこういう点だけに限らず、広島ショック以前の原爆論議というのは、あまりに未知の兵器であるがゆえに、現在から見れば呆れてしまうくらい気楽というか、いい加減でふざけたものであったのです。しかしそれを非人道的だなどと責めるのは適切ではありません。彼らは、彼らとはつまりトルーマンやスチムソン、そしてオッペンハイマーに至るまで全員ですが、彼らは原爆の本当の姿など何も知らなかったのであり、そもそも人道主義などというものからとっくの昔に遠く離れていた人達であったからです。

そうしてトルーマンは表向きは日本本土侵攻作戦にゴーサインを出しつつ、この会議の後、スチムソンに対して、ポツダムで三国首脳によって発表する、日本に対して早期降伏を促す対日声明の軍部による文案を作るよう内密に指示しました。スチムソンはこれを受けて、フォレスタル海軍長官と共にグルー国務次官も交えて会合を重ねて文案を作成し、7月2日にトルーマンに対日声明案を提出しました。
これがポツダム宣言の第二の原案となりますが、グルーやスチムソンが中心になって作成されたこの案においては依然として天皇制度の保証は明示されており、また、先だって一旦却下されたマックロイの原爆投下の事前警告案も、原爆実用化の確証が得られた後の適切なタイミングで行うべきであるという提言として復活して添えられていました。やはり早期終戦のためにはこの方式が最も有効であるというのがグルーやスチムソンらの辿り着いた結論であったのです。また、未知の超兵器を無警告で投下して多くの民間人を殺傷したという非難を浴びるようなことになれば将来的にアメリカの国益を害するのではないかという恐れを抱いたともいえます。ちなみにこの頃には当面の原爆投下目標都市は広島、小倉、長崎に絞り込まれていました。
これに先立って6月26日にはサンフランシスコで開かれていた国際平和維持機構の規約を決める会議がとうとう閉幕し、最終日に「連合国憲章(国連憲章)」が採択されました。しかしこの会議はさんざんソ連代表に引っ掻き回され、この新しく発足する国際平和維持機構は常任理事国5カ国に拒否権という絶大な権限を与えてしまったために、その発足後も常任理事国、特にソ連の我儘のために何も決定することが出来ずに機能不全となる気配が濃厚となってしまいました。そうした新世界秩序そのものを台無しにしてしまいかねないソ連の横暴を抑止するためにも、原爆の完成とスムーズな早期終戦は不可欠であるというのがスチムソンやグルーの考えでありました。

しかし一方、サンフランシスコ会議の米国主席代表からそのまま国連大使にスライドしたステティニアス国務長官の後任としてトルーマンによって新たに国務長官に任命されたバーンズは基本的には原爆の完成とスムーズな早期終戦によってソ連の影響力拡大を阻止して新世界秩序をアメリカ主導で安定させるというスチムソンの方向性に賛意を示しつつ、国内世論に配慮して天皇制度の保証について明言することは避ける方針を示し、むしろ原爆に大きな期待をかけるようになっていったのでした。
バーンズの主張するように天皇制度の保証をしないことによって早期終戦を実現出来る可能性は低下するでしょう。そうなれば早期終戦のためにはソ連の参戦は必要ということになります。しかしそうするとソ連の影響力が強くなり新世界秩序は不安定となります。しかしそこでバーンズは原爆に過大な期待をかけて、原爆の威力でソ連を抑止可能だと考えたのでした。だからバーンズは原爆の威力を最大限に発揮するために原爆投下の事前警告にも否定的でした。そもそも先だっての米政府最高指導部会議においてマックロイの出した事前警告案却下の急先鋒が、次期国務長官に内定してトルーマンの信任厚かったバーンズだったのです。
しかし原爆はまだ実用化の目処も立っていないのです。そのような不確かなものにそこまで大きな期待をかけることは出来ないというのがスチムソンらの考え方でした。バーンズも原爆がまだ不確かなものだということは分かっていましたが、要するにこれは優先順位の違いでした。スチムソンは国内世論よりも世界秩序を優先して考えていたので、より確実に世界秩序を安定化させる最善の策として対日声明に天皇制度保証を盛り込み原爆投下の事前警告をすることでソ連参戦前に早期終戦を実現させてしまおうと考えていました。だからポツダム会談の冒頭で対日声明を議題としてまとめてしまい、さっさと声明を出してしまい、原爆はもしソ連がそれに反発して暴走した時に交渉での抑止カードとして使えばよいという考え方でありました。
一方、バーンズは何よりも国内世論を優先して考えていたので、天皇制度の保証だけは絶対に出来ないのでした。そうなると早期終戦は難しくなるのでソ連の参戦は不可避になり、世界秩序はより不安定になってしまいます。原爆だけがそのソ連参戦後の不安定化を抑止する頼みの綱となりますが、まだ実用化に至っていないわけですから確実ではありません。世界秩序優先ならばこんないい加減な構想が通るわけがないのですが、バーンズはとにかく国内世論さえ良ければ世界秩序は二の次というスタンスなので、最悪、世界秩序のほうが不安定になってしまっても、それでいいのです。スチムソンのように世界秩序安定のための最善策をとって国内世論の反発を買うよりは、多少世界秩序のほうを犠牲にしても国内世論の受けの良いほうを選ぶわけです。
しかし、バーンズにとっては二の次とはいえ世界秩序も何とかしたいという想いももちろんあるので、バーンズは原爆だけに無責任に過大な期待をかけるということになるのです。その点、天皇制度保証と原爆の合わせ技で事態の収拾を図ろうというスチムソン案に比べてかなり余裕の無い構想となりますから、そういうわけなので、原爆の効果を最大限に発揮するために必死になることになります。それで原爆は必ず日本に投下されるべきで、しかも無警告で投下されなければいけないという考えに固執することになるのです。また対日声明は原爆実用化の目処がつくまでは出すべきではないという考え方となるのです。
つまり一言で言えば、バーンズは最初に国内世論優先で選択肢を自ら狭めてしまっているために外交的にはかなり無理のある泥縄的対応に陥ってしまっているのだといえます。こういう考え方の人物がよりによって国務長官というのはいかがなものかと思いますが、トルーマンはバーンズを深く信頼していました。国内世論優先というのが新任大統領トルーマンとして最も共感出来る部分であったのでしょう。

また、トルーマンやバーンズ、いやスチムソンやグルーもまた、アメリカ政府全体が完全なる無条件降伏を求めるという呪縛から逃れられなかったというのが、やはりバーンズ案のほうが優勢となった根本的な理由でありました。スチムソン案の天皇制度保証という部分が無条件降伏の完全性を崩すという印象がどうしても政府内の心証を悪くしたのでした。
何故アメリカ政府は無条件降伏論から結局は脱却出来なかったのかというと、それはルーズベルトの遺志であったからとか国内世論が日本の無条件降伏を強く求めていたからというだけで説明のつくものではありません。極論を言えばルーズベルトはもういないのであるし、国内世論などそもそもプロパガンダによって作り上げたものなのですから、またプロパガンダで無条件降伏に否定的な世論を作り上げることも出来ました。それをせず、無条件降伏論をむしろ強化し続けたのは、アメリカ政府自体が日本の無条件降伏を求める強い理由があったからです。
無条件降伏というのは勝者に対して敗者が絶対的に服従することです。つまり敗者は何か言い分があってもそれを主張することも許されないのです。無条件降伏とは互いの条件を納得し合って講和を結ぶのではないので戦争状態の継続にあたり、勝者が敗者を捕虜にしているような状態だからです。勝者と捕虜は対等ではなく、捕虜は勝者に意見するなどの一般的な言論の自由などは認められず、勝者は捕虜を一方的に軍事裁判にかける権限が認められています。この場合、勝者の側の戦争犯罪が裁かれることは認められていません。ニュルンベルク裁判や東京裁判はこうした戦時国際法の規定に基づいて行われたのです。つまり、ドイツや日本が無条件降伏したから、あのような一方的な裁判が成立したのだといえます。無条件降伏でなければあのような勝者が敗者を裁く中立性を欠いた裁判は成立せず、戦争犯罪の被害者が戦勝国民であれ敗戦国民であれ平等に訴え出ることが可能になっていた可能性があります。
つまり、第二次大戦において戦勝国側が執拗に無条件降伏の形にこだわった理由は、当初は戦意高揚のスローガン的意味合いがあったにせよ、最終的には、特に日本に対しては、あまりにも明白な戦争犯罪を連合国側が数多く犯していたため、それを隠蔽するためには無条件降伏という形にして日本人の戦争犯罪被害者を黙らせて、逆に一方的に戦争犯罪を日本側に押し付けてしまう必要性に迫られてのことだったのです。離島での捕虜の虐殺や民間人への無差別絨毯爆撃など、全て明白な戦争犯罪です。更に加えて原子爆弾という未知の超兵器を民間人相手に人体実験のように使用する可能性が濃厚なのでした。これらはバーンズやトルーマンはもちろん、グルーやスチムソンもまた共犯でした。彼らは自分達が被告席に座らされることを恐れて、どうしても無条件降伏という形にこだわらざるを得なかったに過ぎません。
ただグルーやスチムソンは天皇制度の保証を明示したとしても実質的な無条件降伏という形は成立するという意見であったに過ぎず、無条件降伏、すなわち勝者による敗者の完全支配という形そのものを否定しているわけではありません。それに対してバーンズやトルーマンは少しでも無条件降伏という形に異議が唱えられる余地は作るべきではないという意見であり、被告席に座りたくない人達から見ればバーンズ案のほうがより安全策のように見えます。だからどうしても米政府内ではスチムソン案よりもバーンズ案のほうが分が良くなるのです。

このように、スチムソンがトルーマンに提出した対日声明案は、トルーマンにとってはあくまで軍部案でしかなく決定案ではないのでした。このスチムソン案を携えてトルーマンは7月7日に政府専用船に乗って米英ソ首脳会談の場であるポツダムへ向かって出発することになりますが、この旅にはもちろん国務長官のバーンズは同行します。スチムソンは当初は同行メンバーには選ばれませんでしたが、それはバーンズの意向でありました。結局スチムソンはトルーマンに直訴してなんとか同行出来ることにはなりましたが、もはや完全にバーンズに抑え込まれた形になってしまっていました。こうしたバーンズの強い影響下で、ソ連の動向や原爆実験の状況などもふまえて、トルーマンはスチムソンの提出した対日声明案を修正していくことになるのです。
一方、この頃日本はどうなっていたかというと、5月末に沖縄の放棄が事実上決定されて、予想される米軍の本土侵攻に備えて次はいよいよ本土決戦だという気運が6月になると盛り上がっていきました。しかしその決戦構想はほとんど破綻しており、もし本土決戦となれば日本国民が滅んでしまうくらいの膨大な犠牲者が出ることは必至の情勢でした。本土決戦の準備は1945年1月ぐらいから進められてきていましたが、この6月になるとそうした絶望的な見通しが明らかとなってきたのでした。

1945年3月に終わった硫黄島の戦いまでは日本軍は陸海軍ともに民間人にほとんど目撃されない場所で戦ってきていました。だから軍人以外には戦場は縁遠い世界でありました。孤島の悲惨な玉砕戦などもありましたが、玉砕して全滅してしまえば死人に口無しで、最も悲惨な戦場の様子というのは肉声では伝えることが出来ません。それで軍部もオブラートで包んだような、何か勇ましく飾り立てたような報告や発表で誤魔化してしまい(特に海軍は酷かった)、本当の戦況というものがストレートに国内には伝わってこない状態が続いたのでした。
それは庶民に伝わらなかっただけでなく、政府にもちゃんと伝わっておらず、首相や天皇にも本当の意味でのまともな戦況報告はなされていなかったのでした。海軍は平然とウソの報告をしていましたし、陸軍も海軍ほどではないものの美文調の誇大な報告は多々あり、事実関係はちゃんと伝えたとしても、今後の見通しなどについては楽観論を述べるのが通例でした。軍事専門家に専門用語を駆使されて楽観論を述べられれば、当時の首相や天皇は軍務経験が大抵はあり、現代の政治家などよりよほど軍事通ではありましたが、それでも実際の戦場を体感しておらず詳細な情報に接することが出来なければ、ついつい楽観論を信じてしまうものです。
しかし1945年3月から始まった日本本土への無差別絨毯爆撃は、ある意味、日本本土に戦場がやってきたようなもので、民間人にとって戦争が身近なものになりました。東京も焼け野原になりましたので、政府関係者や皇室関係者にも戦争の実情がありありと分かるようになったのでした。また空襲を受けるのは軍人だけではありませんから、民間人相手には軍人ほどには情報管理は徹底出来ませんから、どうしても民間人ルートで政府や天皇の耳にも切実な戦争被害の話が入ってくるようになります。
そうなると今まで軍人から聞いていた話と民間から聞いた話の間でかなりギャップがあるということが分かるようになるのです。そして彼らが自分自身が体感した戦争の実感は、むしろ民間から聞いた話のほうが近いのです。そういうわけで昭和天皇はこの頃から軍への不信感が強くなり、それが軍部中心の内閣であった小磯内閣の崩壊の一因にもなったと思われます。そして昭和天皇の強い意向で側近の鈴木貫太郎を次の首相に任命し、国民の被害が多く出ていることを憂いて早期終戦を期すように内々に言い含めたものと思われます。
しかし、鈴木は確かに天皇の意向を汲み取るには最適の人物ではありましたが、彼自身が自覚していたように、これは謙遜でもなんでもなく政治力には決定的に欠けており、天皇の意思である早期終戦をどのように政府機関をコントロールして実現していくべきなのかという実務的なリーダーシップがありませんでした。だから閣僚にも早期終戦方針を徹底することも出来ず、閣僚や幕僚がめいめいバラバラに動いて自分の職務のみに邁進するという状態が続きました。そのような状態で沖縄戦が始まってしまったので、終戦への努力よりもとりあえず目先の沖縄戦をどのように戦うかということのみに全体が流されてしまったのです。

終戦工作としては小磯内閣ではもともとソ連を仲介としての米英との講和を模索する動きがあり、これをソ連側に打診しているうちにソ連から日ソ中立条約の不延長の通告があり、これが小磯内閣が総辞職する決め手となったぐらいですから、この対ソ工作路線はもう消えたのかと思いきや、これにしつこくこだわる人々もいました。それは陸軍参謀本部の一部勢力でした。陸軍は大部分がもう本土決戦しかないというヤケクソ気味になっていましたが、一部に冷静な人々もいて、そういう人達が対ソ工作にあくまでこだわったのでした。
彼らの主張はだいたいこんなところです。すなわち、このまま本土決戦となれば日本は破滅してしまうので、なんとかしてそれまでに講和しなければいけないのですが、アメリカに和平を持ちかけても硬直した無条件降伏要求をしてくるだけで、これに応じれば日本本土は敵軍によって占領され、日本軍は敵軍によって武装解除されて捕虜となり、戦争犯罪人として裁かれてしまいます。これでは陸軍は納得出来ません。もし陸軍の中央が納得したとしても、全部隊が納得することなどあり得ません。だから反乱やクーデターが起きてしまう可能性が高く、そうなると結局は和平にはなりません。だから和平を望むならアメリカに話を持ちかけても無意味で、やはりここはソ連に仲介してもらう以外に方法は無いのです。まぁこういう感じです。
つまり消去法でソ連という答えが出ているだけで、ソ連に仲介を頼めば上手く講和が成立するという根拠があるわけではないのです。だからここから先は希望的観測を積み上げていくことになります。すなわち、ソ連に大きな実利を与える約束をすればきっとソ連は話に乗ってくるというものでした。それは小磯内閣の時に既に失敗している方法なのですが、彼らに言わせればそれは見返りが少なかったからであり、更にソ連への見返りを大きくすればソ連は乗ってくるということになります。それは日本が満州国も武漢政府も全て捨てて延安のシナ共産党と手を組んでソ連と連携して極東の共産化を支援して米英と対決するというようなほとんど奇想天外な案となっており、その真の狙いが極東で米ソを激突させるという冒険的なものでした。
こんな案を彼らは4月時点で東郷外相のところに持ち込んで、モスクワに東郷自身か近衛元首相あたりに特使として乗り込んで行ってもらいたいと内々に頼んでいたのです。東郷もロシア通の外交官であったので、一応話に乗って水面下で検討と始めることにしました。東郷も「こんな案は成功の可能性は低いであろうが、この調子ではどうせ陸軍はアメリカと交渉しようとしても邪魔をするのだろう」と思い、何もやらないよりはマシということでソ連との交渉に乗ってみることにしたのでした。
また、この時点で日本にとって最も恐ろしいのはソ連が日本に向けて宣戦して満州や北海道へ向けて攻め込んでくることでありました。そうした軍事行動の準備とも見える動きが実際に生じているという報告もあり、このままいけばいずれはソ連が対日参戦してくる流れになるのだろうと外務省でも軍でも予測はしていましたが、少なくとも和平の仲介を頼んでの交渉中は、日ソ中立条約の有効期限も来年4月まで残っていることもあり、まさかソ連も攻め込んでまでは来ないだろうと思い、むしろソ連の参戦阻止のためだけでも交渉はやる価値があると東郷は判断したのでした。

この案は一見ムチャクチャなようですが、実はアメリカの痛いところを突く案となっています。バーンズやトルーマンはソ連の参戦を日本を無条件降伏させる切り札と考えているわけですから、もしソ連が日本の差し出す餌に釣られて日本と手を組んでしまえばアメリカは日本を無条件降伏させることが出来なくなってしまうのです。それどころか、ソ連が後見についた日本に侵攻することも容易に出来なくなってしまい、日本と和睦する羽目になってしまうかもしれないのです。この可能性をスチムソンは恐れていました。
しかし、その代わりに日本はおそらくソ連の衛星国の1つになってしまい、ポーランドや東ドイツのような運命を辿ったことでしょう。つまりこの案はアメリカにとっても恐るべき案であると同時に、日本にとっても恐るべき案で、スターリンがもしこの案に乗っていれば大変なことになっていたことでしょう。
このように日本には大変なリスクのある案であり、また同時にこれはソ連にも大きなリスクがあり、それゆえ結局こんな案にスターリンが乗る可能性はほとんどありませんでした。ヤルタ密約のことは日本には知る由もありませんでしたし、スターリンが約束を平然と破る人間であったので密約自体にそれほど大きな意味は無いのですが、とにかくソ連は今やアメリカを利用することによって世界覇権を牛耳る位置に手が届こうとしているわけですから、ここでわざわざ滅びかけの日本と組んでアメリカに敵対する愚を犯すはずがないのです。ソ連にとって一番おいしいのはアメリカに寄生しつつ自分の意見をゴリ押ししていくことなのです。時にはブラフとして対立のポーズも必要ですが、アメリカと完全に敵対するのは得策ではないのです。
確かにアメリカの無条件降伏要求は理不尽なものであり、それに従いたくないという日本陸軍の心情はよく理解は出来ますが、ここで最も重視すべきなのは「一刻も早い終戦を成し遂げるように」という昭和天皇の意思のはずであり、ならばこんな実現可能性のほとんど無い対ソ工作などやっている場合ではないはずです。これなら、まだアメリカに直接交渉を持ちかけたほうが、グルーやスチムソンならば話には乗ってきたはずであり、まだ交渉の進展は望めました。結局は陸軍の都合と、独自の方針を主張出来ない外務省などが好き勝手に動いているだけであり、これらは天皇の意思を実現すべき鈴木首相に肝心の指導力が無いという証拠でした。まぁ本土決戦の準備で軍部がピリピリしている時に不用意に終戦工作に言及しようものなら、すぐにでも倒閣運動が起きそうな時期でありましたから、やむを得ないといえばやむを得ない状況ではあったのですが。

このように無為の日々を過ごしている間に4月、5月が過ぎていき、5月末にはとうとう沖縄の実質的な放棄が決定され、6月に入ると本土決戦の準備が急ピッチで進められていくことになりました。しかし、この頃には昭和天皇の耳には沖縄戦で民間人に降りかかった悲惨な出来事の数々が入ってきており、また、沖縄戦で数多くの若者が特攻機で敵艦に突っ込んで死んでいったことにも心を痛めるようになっていました。
特攻隊についてはフィリピン戦の時にも天皇は報告を受けていましたが、その頃は天皇も戦況がそこまで絶望的であるとは気づいていなかった時期なので、そこまで深刻に受け止めていなかったのですが、沖縄戦の頃は戦況が絶望的であると気付いていたので、彼ら特攻隊の若者たちが国体、すなわち天皇を守るために死地に赴いているということを意識し、大変苦慮するようになっていました。
さらに6月に入ると無差別絨毯爆撃が地方都市にまで拡大するようになり、このままでは日本全土が焼き尽くされてしまう情勢となり、全国の罹災者は溢れかえるようになり、数多くの国民が家や家族を失い途方に暮れるようになり、そうした国民の窮状も天皇に報告されるようになりました。そして、6月に入って急ピッチで進められている本土決戦の構想は、軍部に聞いても威勢の良い返事は返ってくるものの、天皇の耳に別ルートで入ってくる実態は惨憺たるもので、沖縄戦の悲劇が途方もない規模で拡大されて日本の全国民に降りかかるのは必定という情勢であることが分かってきました。しかも、軍部は平然と本土決戦において膨大な数の特攻機や特攻兵器で敵を攻撃することを宣言していましたが、それは天皇の心を大変苦しめていました。
もちろん、敵が侵攻してくるのが明らかな以上、それに備えて戦備を整えるのは当然のことなのですが、本国に敵を引き入れて戦うのは愚策中の愚策(だから現在の専守防衛態勢など狂気の沙汰以外の何物でもないのですが)であり、戦えば戦うほど国民を、特に女性や子供、老人などの弱い立場の国民を苦しめるだけとなります。だから本土で戦う羽目になる前に、いや、厳密には沖縄という本土の一部が既に戦場になってしまっているのですが、とにかくこれ以上被害が拡大しないうちに、なんとしても戦争を止める手立てを講じなければいけないと天皇は強く思うようになりました。

明治憲法は立憲君主制を採用していましたから、明治憲法体制における天皇というのは、閣僚や幕僚を任命したら、あとは彼らの行う政治や軍事に口出しすることは無い存在でした。いや、閣僚や幕僚の任命さえ、全く形式的なもので、天皇の意思が反映されることは稀でした。
しかし全く政府の決定に口を挟むことが無いかというと、そうでもなく、よほど重大な時にはごく稀に口出しをすることもありました。昭和天皇も満州軍閥の張作霖爆死事件の際に当時の田中首相の説明が曖昧だったのを叱責した時、2・26事件の際に反乱軍の鎮圧に及び腰の政府や軍を叱責した時、そして大東亜戦争直前の日米交渉が行き詰った際に再び和平へ向けて交渉するように指示して戦争開始予定を繰り下げさせた時の計3回、政府の行う決定に自らの意思を反映させるという行動に出たことがありました。それらの際に昭和天皇は出来るだけ憲法の規定からの逸脱を少なくするために極力控え目に簡潔に意見や要望を述べるにとどめるように努めました。
そうした昭和天皇がこの1945年6月になり、国民の艱難辛苦を見かねて、これ以上国民を苦しめてはならないと思い、とうとう我慢の限界を超えて、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の6名を宮内庁庁舎(皇居は既に空襲で焼失していた)に呼び出し、「本土決戦の準備と並行して、戦争が出来るだけ早く終わるように工夫してほしい」と終戦工作の指示を明言したのが6月22日のことでした。
本土決戦準備も並行というのは、終戦工作が不調に終われば本土決戦なのですからその準備は進めなければいけないわけです。ともあれ、これが昭和天皇としては政府の決定に自分の意思を反映させようとした4回目の出来事だったのですが、この際も命令としてではなく、あくまで希望として述べるにとどめたのでした。ただ憲法の規定上は全く異例の天皇からの要望を受けて政府首脳としてもこれに従うしかなく、終戦工作はこの日を境に本格的に動き出すことになったのでした。

本格的に動き出したといっても、全く公然と動き出せたわけではなく、軍部の大部分はアメリカの要求している無条件降伏など呑むつもりは無く、またソ連についても、先述の参謀本部のほんの一部を例外として、全く信用などしておらず、つまり終戦工作など全く無意味で本土決戦を戦いぬくしかないという考えで凝り固まっていましたから、そんな時に終戦工作をしているなどとバレたら、首相であろうが外相であろうが暗殺されてもおかしくないムードでした。陸相や海相なら軍部を押さえられるかというとそんなことはなく、陸相や海相までも終戦工作をしているなどとバレれば暗殺どころか反乱まで起きかねない状況であったので、阿南や米内などは天皇の希望には従いながらもおおっぴらに終戦工作に動ける立場ではありませんでした。むしろ阿南などは陸軍が最も強硬姿勢であったため、徹底抗戦を主張し続けて部下の暴走を防ぐしかありませんでした。
いっそ天皇が終戦を希望していると公表してしまえば良かったのではないかという意見もあるでしょうが、天皇が希望を述べるなどということ自体が異例のことであるので、そんなことを言えばたちまち天皇の政治利用だの虚言だのと非難されて、暗殺やクーデターの良い口実にされるだけのことでした。
だから終戦工作は秘密裏に行われることになったのですが、それでも天皇の希望に沿って行われるとなれば、以前に比べれば格段にスムーズに話は進むようになったのでした。しかしここで終戦工作を担当することになった東郷外相は以前からの話の流れのままソ連への和平仲介を依頼する交渉を本格化させたのでした。東郷としては陸軍がアメリカとの交渉で出てくるに決まっている無条件降伏要求を呑むはずがないのだから、ソ連に仲介を頼む形しか選択肢は無いという意見であったのでしょうけど、これが実現可能性が低い交渉であることは東郷にも分かっていたはずでありましょうから、これでは「終戦実現のために工夫してほしい」と天皇が要望した「工夫」にはほど遠いといえます。しかし、そのあたりの大きな方針については、天皇か首相あたりが提示すべきであり、天皇は極力指示をしないのであるから、ここは鈴木首相が指導力を発揮して、より実現可能性の高いアメリカとの直接交渉を外相に指示すべきであったのではないかと思われます。
そうすれば、この時期はアメリカではスチムソンとフォレスタルとグルーが天皇制度保証の文言の入っていた対日声明案を作成している最中であったので、ここに日本からの要求をぶつけていけば、その多くは受け入れられないであろうが、中には受け入れられるものもあったかもしれず、そうなれば日本としてもより受け入れられやすい声明案が出来上がり、よしんばスチムソンの原案に何ら変更が加えられずそのままトルーマンに提出されたとしても、日本からも同時期に国対護持の要求が公式にアメリカに届いていれば、スチムソン案がもっとアメリカ政府内で支持されてバーンズ案にひっくり返されることがなかったかもしれないのです。そうなればポツダム宣言は日本にとって受け入れられやすいものになった可能性もあります。
しかし鈴木首相は適切な指示を外相に対してすることはありませんでした。と言うより、適切な判断をするだけの政治的な勘というものがどうも鈴木首相には欠けていたのではないかと思われます。ソ連との交渉の危うさや、対米交渉における様々な可能性など、鋭い洞察が出来るだけの政治的力量に欠けていたのでしょう。本人も政治向きではないと言っていたのは謙遜ではなく本当のことで、天皇との信頼関係と、天皇の意を汲み取る能力にのみ長じていた人だったのでありましょう。
つまり天皇の終戦を望む意思は尊重しているが、そのためにどのような方法でも選択可能な状態で、鈴木はおそらく特に対米交渉をタブー視しているわけでもなかったでしょうけれど、ソ連との交渉に否定的というわけでもなかった。要するに何でもありだったのであり、ソ連との交渉が有望だと東郷が言えばそれでいいんじゃないかと簡単に応じてしまうような、特に定見の無いスタンスが鈴木の姿勢だったのではないでしょうか。天皇は天皇で、首相や外相がそれで大丈夫だと請け負っている以上、任せたという感じで、対ソ工作に希望を持っていました。

首相がこんな様子では、せっかくの6月22日の天皇の終戦意思表明の後に事態が革命的に改善されるということもなく、日本のほうではソ連に派遣する特使を近衛元首相と決めて、その特使派遣を目指しての事前交渉をソ連に持ちかけましたが、ソ連側に良いようにあしらわれて無駄に日数が過ぎていくことになったのでした。
日本側はまずは仲介の労をとってもらうことの見返りとしてソ連に対して満州の利権や北方海域の漁業権をちらつかせた上で、さらに相談に応じるという旨を伝え、要するに際限なく見返りを与えてもよいという姿勢を示しました。日本側の希望する内容を伝えるのはソ連が仲介を引き受けるという返事をしてくれてからになります。
ソ連としては、いくら仲介してもアメリカが無条件降伏以外は受け入れないだろうと思っているので、日本が無条件降伏を申し出てくるのでなければ仲介を引き受けるつもりはありませんでした。ソ連は当面はアメリカと協調しながら得るべきものを得ていこうという戦略でしたので、アメリカの了承を得ないで日本から勝手に見返りを得てアメリカを揺さぶるなどという賭けに出るつもりはなかったのです。いくら日本から大きな見返りを提示されたとしても、既に日米戦の勝敗は見えているわけですから、落ち目の日本と組んでもソ連はその見返りを得ることは難しく、その上アメリカと敵対するというリスクをしょい込むことになるのです。それはスターリンの望むことではありませんでした。
ソ連はロシア革命で建国して以来、内乱や飢饉や戦争で恐ろしく疲弊しており、対独戦に勝利して意気軒昂に見えて、実際はもう国力の限界が近づいており経済は破綻していました。普通なら戦争など出来る状態でもなかったのですが、スターリンの恐怖政治による国民の強制労働とアメリカからの支援でなんとか戦争を戦い抜いてこられたのでした。ですから、ここでアメリカと敵対して、その支援を得られなくなっては、ソ連に勝ち目はありませんでした。逆にアメリカと協調していれば連合国機構の常任理事国という特権的地位も得ることが出来るのです。
スターリンの構想は、少なくとも向こう30年くらいはアメリカと協調しながら経済復興を優先させるというもので、その間、外国から侵攻されないように地政学的に重要な拠点だけは押さえておきたいという意味合いで、東欧にせっせと衛星国家を作ってモスクワを守る楯を分厚くし、またヤルタの密約では樺太と千島列島を確保して旅順の不凍港を回復させて極東で海上封鎖を受けないようにしたのでした。ソ連はこの疲弊した状態で対日参戦するのですから戦後の極東で一定の発言権や利権を得るのは当然の権利と思っていました。

そもそもこの対日参戦はヨーロッパにおける第二戦線構築問題とリンクしていました。1941年の終わり頃からソ連が自国奥深くまで侵入してきたナチスドイツ軍の背後を突くヨーロッパにおける第二戦線構築をイギリスやアメリカに要請し、これにイギリスのチャーチル首相は軍事的困難から難色を示し、アメリカのルーズベルト大統領は異常に積極的に取り組みました。ナチスドイツを打倒するためには第二戦線構築は必要であったのでルーズベルトの意見にも一理あったのでしょうが、1942年から1943年にかけては英米軍ともに訓練不足で北アフリカで寡兵のロンメル軍にも押されたりもしていた状況であり、またソ連が特に望んだ北フランスへの上陸作戦はその付近のドイツ軍の防備が強固であったので、まずはチャーチルの判断のほうが現実的であったでしょう。
そもそも根本的にチャーチルはソ連に警戒的であり、対してルーズベルトはイギリスのヨーロッパ覇権を好ましく思っていなかったのでソ連に肩入れしがちであり、この頃は連合国の足並みが最も揃っていない時期でした。差し当たりは英米軍は北アフリカを押さえて地中海の制海権を握るというのが目標となりました。そうした状態が長く続き、結局ソ連が望むような形で米英軍が本格的に第二戦線を構築してナチスドイツの背後を突いてソ連軍を支援してくれるようになったのは1944年6月のノルマンディー上陸作戦以降であり、第二戦線を構築するように依頼してから2年半も経ってからでした。その後、ドイツを制圧するまでの間、米英軍はヨーロッパにおいてはソ連の望ましい形では1年間ほどしか地上戦を戦っていません。
このようにナチスドイツを打倒した主役はソ連で、米英は最後のほうでちょっと手助けをしただけなのだとスターリンは認識していました。しかし、それでも戦後のヨーロッパにおいて米英には多くの取り分が与えられ、ドイツも英米も加えて分割統治することになりました。スターリンとしては十分譲歩しているつもりなのです。一方、ソ連の対日参戦は、米英がいつまでも第二戦線構築を渋っているのに業を煮やして、その交換条件としてスターリンが持ち出したのが最初でしたが、それにルーズベルトが大いに乗り気になり、1943年末のテヘラン会談で最初に議題に上り、その後ヤルタ会談ではルーズベルトから強く懇願される形で密約が結ばれました。最初に対日参戦をルーズベルトが求めてから2年弱で疲弊しきったソ連はその約束を果たそうとしているのです。米英が第二戦線構築を2年半も渋ったのに比べてよほど良心的だとスターリンは思っていました。
そしてドイツの場合のように日本を完全に制圧するまではまだ1年ぐらいはかかると思われていましたので、米英軍がノルマンディー戦以降戦った期間とそう変わらない期間、ソ連軍は極東で戦うつもりでいました。ならば、戦後ヨーロッパで米英が得た利権や発言権と同じくらいの一定の発言権や利権を戦後の極東でソ連が得るのは当然のことであり、決して特別に強欲であるとか侵略的であると非難されるようなものではないとスターリンは思っていました。だから南樺太や千島列島、満州の利権、外蒙古への影響力ぐらい得るのは当然の権利で、当面の日本の分割統治にも参加するつもりでいました。

後に冷戦時代にアメリカは自己正当化のためにソ連が世界制覇を狙っているなどと非難しましたが、実際は、第二次大戦末期から冷戦初期の頃のソ連には(いや冷戦期全般においても)そんな実力は全く無く、自らの独裁権力を守るために必死に防衛ラインを築いていたというのが実情で、むしろ連合国機構などを駆使してソ連を格下のパートナーとして世界を牛耳ろうとしていたのはアメリカのほうでした。
ソ連はアメリカの主導権を認めつつも、自国だけはアメリカに圧倒されないだけの力を蓄えようとして、様々な権謀術数を駆使してあがいていたに過ぎません。それがイギリスなどから見れば侵略的にも見えたのであるし、実際、東欧の民衆から見れば侵略以外の何者でもなかったでしょう。実際、ソ連がその支配地で行っていた統治は全く非人間的で弁護の余地などありませんが、要するにここで言いたいのは、それらのソ連の非道や膨張は、アメリカの承認および黙認のもとで行われていた防衛的なものであったということです。いや、正確に言えば、防衛的な範囲にとどまるもの(アメリカの世界戦略の範疇にとどまるもの、アメリカの国益を害しない程度のもの)であると認められたからこそ、それらのソ連の非道はアメリカ政府によって黙認されたのだといえます。
そもそもソ連がこの1945年6月時点で東欧を支配下に置くことが出来ているのも、1943年12月のテヘラン会談において、当時英米軍がほぼ支配下に置きつつあったイタリアからバルカン半島方面へ侵攻することを主張したチャーチルの案をルーズベルトが退けて、米軍の兵力をナチスドイツ打倒には直接あまり役に立ちそうにないフランスへの上陸作戦にほとんど回して、イタリアのイギリス軍がムッソリーニとドイツの軍に阻まれて進撃出来ない状況を作り、東欧をソ連軍に献上してしまったからでした。
1944年6月のバグラチオン作戦のための陽動作戦ならば別に危険の多いノルマンディー上陸作戦でなくてもイタリア北部からのオーストリアとバルカン半島への大攻勢でも良かったし、むしろそのほうがドイツ軍の防備が弱く効果的だったでしょう。それに、バルカン半島への進撃を主張するチャーチルがソ連より先にバルカン半島を英米軍が押さえて戦後その地域を英米側の影響下に置こうという思惑を持っていることは明白で、それはルーズベルトにも分かっていたはずです。つまり、ソ連の東欧への膨張はイギリスのヨーロッパ覇権を邪魔したいルーズベルトの承認のもとに行われていたのです。そして同じようにルーズベルトによってソ連は極東において南樺太や千島列島の領有、満州の利権などを秘かに承認されていたのです。日本は知る由もありませんでしたが。

そんなソ連が日本からの見返りに釣られてアメリカを出し抜こうなどとするはずがないのです。もし和平の仲介役を買って出るとしたなら、それはアメリカが受け入れ可能な無条件降伏を日本が申し出てきた場合のみでした。しかし日本側が無条件降伏を申し出るわけでもなく、ハッキリと自らの希望するところを言ってこないで、ひたすら仲介の見返りで釣ろうとばかりしてくるものですから、ソ連側としても持て余してしまって、別にソ連として積極的に進めなければいけない話でもないので、無視することにしたのでした。
日本側は参謀本部内の一部分子の思い込みである「ソ連は見返りに釣られるはず」という意見を東郷外相も信じているので、ソ連側に無視されればされるほど見返りを巡っての駆け引きに終始するようになってしまい、一向に話が前進しないというわけです。それに外交駆け引きの常道として、まず仲介を引き受けるというソ連の返事があってからこちらの手の内を晒すべきという考えもありました。早々に手の内を見せる必要は無いというわけです。しかしこれは通常の場合のことで、ここまで追い詰められた日本の立場ではいきなり手の内を見せてダメならダメで次の手を考えるくらいでいいのではないかという気もします。
実際、政府や軍部の中には「とりあえず本土決戦の準備は整いつつある」という意識があり、昭和天皇が感じていたほどの切実な危機感は無かったのではないかと思います。この交渉にしても天皇に命じられてやらされているという意識もあり、ズルズル引き伸ばされていく間に外務省などでは諦めムードが漂い、そうした中で昭和天皇だけが駆け引きに終始する外務省の方針とは離れて、とにかくソ連側にまず日本の和平意志を伝えることを急ぐべきだとの方針で近衛に特使を要請したりしているというような感じになってきたのでした。
まぁ仮に日本側が早々に手の内を晒したとしても、ソ連側が望むような無条件降伏の申し出にはならなかったので、どちらにしても交渉は頓挫したと思いますが、頓挫したなら頓挫したで、早いうちに対ソ工作の失敗という結論が出ていれば、もしかしたら、もう万策尽きて外務省が対米直接交渉に切り替えるという展開もあったかもしれず、そうなればスチムソンやグルーの動きにも影響を与えて何か新しい展開があったかもしれません。しかし、そうこうしているうちにアメリカではスチムソンが7月2日に対日声明案をトルーマンに提出し、7月7日にはそれを携えてトルーマンはバーンズらと共にポツダム行きの政府専用船に乗りこむことになり、対米直接交渉の機会は失われてしまいました。
このようにアメリカのほうでは着々と状況が進んでいく間、日本のほうはグズグズとソ連との間に非建設的な遣り取りを続けた後、7月12日になってようやく天皇が近衛を特使に正式に任命し、東郷はこの日にソ連宛に緊急電報を打ち、天皇の意思によって日本が和平の仲介をソ連に求めたいので近衛特使を送りたい旨を伝えました。しかしそれに返答をしないままスターリンは外相のモロトフも連れて7月14日にモスクワを発ってポツダムへ向かってしまい、近衛特使の派遣は事実上不可能となってしまったのでした。

日本側がソ連が望むような無条件降伏の申し出を出来なかったのは当たり前で、そもそも無条件降伏を回避するためにソ連にアメリカへの取り成しを依頼しようというのが対ソ和平工作の目的なのですから、日本側の希望するのが無条件降伏であるはずがないのです。
結局、ソ連側が仲介を引き受けると言ってくれなかったため、日本からソ連に対して日本の希望する講和条件については正式に伝えられなかったのですが、日本側としては、まず国体護持、つまり天皇制度の保証は絶対に譲れない条件でした。それに加えて、日本は国外の全ての占領地を放棄して、国外の日本軍は全て撤兵するが、日本軍の武装解除は行わずに、撤兵も日本軍が自主的に行うこと、そして講和後に連合国による日本本土の占領を行わないこと、そして、戦争犯罪に関する処罰は日本側で独自に行うことなどでした。さすがにこれらが全部受け入れられるとまでは楽観視はされていませんでしたが、こうした条件を示した上で、後は交渉の中で妥協出来る範囲は妥協していこうというスタンスでした。
これは軍部の意向が強く反映されたスタンスで、軍部にしてみれば、特に陸軍には負けているという意識は希薄だったのでしょう。実際、陸軍の主戦場であったシナ大陸では勝っていたのですから、屈伏的な講和条件など発想するのが難しかったのでしょう。また、とにかく本土決戦の準備はしているのだから「まだ完全に負けたわけではない」という意識も強かったのだと思われます。
冷静に考えれば勝ち目は無いのですが、とにかく本土決戦というのは尋常な作戦ではないので、そんなものに大真面目に取り組んでいると、自然に冷静に思考するというスタンスから遠ざかっていってしまうものです。冷静に考えていてはあんな作戦は立案実行出来るものではありません。
それに軍人というものは、どんな専門職の人にも見られる傾向ではありますが、純粋に軍事的に物事を考える癖というものがあり、確かに純軍事的に見れば日本本土決戦は持久ゲリラ戦に持ち込めば、勝負としてはかなりいい勝負に持ち込める公算はありました。ベトナム戦争のようなものです。しかしそれは国民に今以上の塗炭の苦しみを強いるということです。しかもベトナム戦争の時のように国際世論がアメリカを追い詰めるというような成り行きもまず期待出来ず、アメリカは徹底的な国土の破壊を行うでしょう。アメリカだけではなく、戦いが長引けばソ連もイギリスも、世界中の軍隊がやって来て日本国民を殺戮し続けるでしょう。
そもそもそういう事態を憂えて昭和天皇は終戦工作を行うように強く要望したのです。軍部の希望する条件は全く正当なものではありましたが、厳しい現状や、その現状をふまえての天皇の心情というものが分かっていない案であったのです。
こうした日本本国の軍部や外務省本庁の意向はモスクワの佐藤大使には電信で伝えられており、これに対して、実際に現地でソ連側と接触して交渉にあたっている佐藤大使は情勢を厳しくとらえており、こんな虫の良い条件ではソ連が仲介の労をとるとも思えないので、このままでは本土決戦に突入することになり、その結果国民が死に絶えてしまい、それでは元も子も無くなってしまうのであるから、国体護持の1点だけを主張し、後は全て譲って、とにかく一刻も早く戦争を終わらせるべきだと主張し、何度も東京へ向けて意見具申の電信を打っていました。ここまで厳しい現状認識をしている佐藤大使ですら、やはりそれでも「国体護持」の1点だけは譲らないというのは注目に値します。

こうした電信の遣り取りはもちろん暗号で行われていましたが、アメリカ軍は日本政府の暗号は解読していましたので、これらを秘かに傍受していたアメリカ軍はその内容に全て把握しており、それはポツダムに向って大西洋を航行中の政府専用船に乗るトルーマンやバーンズ、スチムソンらにも逐一伝えられていたのでした。
この後、7月18日になってソ連は近衛特使の受け入れを正式に拒否する旨の回答をしてきて、日本の外務省などは非常に落胆することになるのですが、そうした中で天皇だけは「ともかく先方にこちらの意思が伝わったのだからそれでよい」と淡々としていたといいます。実際、駆け引きの勝敗にこだわって自らの意思を示すことが無ければ何も相手に肝心なことは伝わらないのですから、これは正しいといえます。現在の日本政府などにも聞かせてあげたいセリフであります。昭和天皇はソ連を念頭に置いてまだ交渉を諦めないという意味でこういう発言をしたのでしょうけれど、残念ながら実際はソ連はもう望み無しでした。しかし、この遣り取りを傍受していたアメリカ政府首脳に、天皇が後の原爆投下やソ連参戦の以前からハッキリと終戦を望む意思を強く持っていたということが認識されていたということは、後に終戦交渉の最後のほうで効果を発揮してくることになるのです。
ともかく、この時点では日本政府は、このソ連側の近衛特使受け入れ拒否回答は、それでもこれはあくまで特使受け入れの拒否であって、和平の仲介自体を拒否してきたわけではないと希望的観測を抱き、引き続きソ連への仲介要請を仕切り直して続行することにしたのですが、これはもう他に打つ手が無いので仕方がないというのと、失敗を認めたくないという意地のようなものであったのでしょう。しかし、このように日本が相変わらずほとんど希望の持てないソ連との交渉に未練を残してしがみついている間に、この頃にはもうポツダム会談は既に始まっており、アメリカのニューメキシコ州において行われた原爆実験の結果も絡んで、日本を巡る事態は激しく動いていたのでした。
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