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現代史についての雑文その13 トリニティ実験
トルーマン一行がまだ大西洋上の政府専用船の上にあった1945年7月12日、アメリカのニューメキシコ州の砂漠地帯にあるアラモゴード爆撃試験場の北端部に極秘に資材が運び込まれて「ガジェット」というコードネームを名付けられたプルトニウム型原子爆弾の組み立てが開始されました。「ガジェット」というのは「装置」という意味で、人類史上初の核実験であるトリニティ実験における試験爆発用の実験装置がそのままコードネームになったものだといえます。
ちなみに実験名の「トリニティ」というのはキリスト教における唯一神の顕現した姿である「三位一体」を意味し、ロスアラモス研究所長のオッペンハイマーが名付けた実験名でした。彼にとって原爆の開発は神の降臨とそれに続く至福千年王国の実現に直結するものであったのでしょう。この世の戦争を無くして世界政府による平和、すなわち至福千年王国を実現する究極の神がこの地に降誕する予定であったのありましょう。

このトリニティ実験の目的は、インプロージョン方式という新しい起爆方式が正常に動作して核爆発を起こすことが出来るかどうか見極めることでした。この問題点がクリアされないと量産型のプルトニウム型原爆は実用化出来ず、原子爆弾を実戦投入することは不可能となるからです。起爆方式にはもともとインプロージョン方式とガンバレル方式の2種類がありましたが、原料を多く作ることが可能で1発あたりに必要な原料の量も少なくて済むプルトニウムを使う方式を確立しない限り、原子爆弾の量産は不可能で、そのプルトニウム型原爆はインプロージョン方式でなければ起爆しないので、1944年の段階でガンバレル方式は事実上却下され、それ以降はインプロージョン方式に絞って開発が進められてきたのです。ところがこのインプロージョン方式の起爆装置は複雑なもので、実験でその動作を確認しなければ使うことは出来ませんでした。そういうわけでトリニティ実験が行われることになったのです。

核爆発を起こすにはウランやプルトニウムのような核分裂物質を臨界状態にしなければいけません。ウラン235濃度が90%の高濃縮ウランの場合の臨界状態に達するのに必要な量、すなわち臨界量は60kgほどです。このトリニティ実験はトルーマンの意向でかなり急かされたため、当時のマンハッタン計画の生産体制で7月12日までには高濃縮ウランはこの1回の核爆発を起こすのに必要な60kg、つまり原爆1発分を用意するのが精一杯でした。一方、プルトニウムの臨界量はウランに比べて格段に少なく5kgで済みますから、プルトニウムのほうはこの時点で原爆2発分、そして1か月後には3発目に必要な分も用意出来る予定になっていました。
つまり、この7月12日時点でマンハッタン計画においてはウラン型原爆1発分、プルトニウム型原爆2発分の材料があったことになります。ここでウラン型とプルトニウム型の両方とも核爆発実験をしてしまうと、ウラン型原爆のストックがゼロになってしまいます。一方、もしトリニティ実験に失敗して、インプロージョン方式の起爆装置を作り直すことになれば、プルトニウムのほうは原料はあってもしばらく原爆は作れないことになります。ところが、トルーマンからの意向としては、8月上旬から中旬にかけて原爆を使用出来る態勢は必要であるとのことです。これは予定されているソ連の対日参戦の成り行き次第ではデモンストレーションとして日本の何処かの都市に原爆を投下する必要が生じてくるかもしれないからでしたが、マンハッタン計画の関係者達にはこの日程が意味するところは分かりませんでした。彼らはヤルタ秘密協定のことなど知らなかったからです。
しかし実験の成否にかかわらず、とにかく使える原爆が1発でもいいから切迫して必要であることは分かりました。もちろんなんとしても実験を成功させようと努力はしていましたが、万が一実験に失敗した場合に備えて、ウラン型原爆の起爆実験はあえて行わず、原爆1発分の高濃縮ウランは残しておくことにしました。何故なら、高濃縮ウランであれば、既に却下したガンバレル方式を使っても核爆発を起こすことが可能で、ガンバレル方式ならば単純な構造なので、実験を経なくてもおそらくまず間違いなく核爆発が起きると予想されるからでした。
そういうわけでマンハッタン計画で生成した高濃縮ウラン60kgはガンバレル方式の起爆装置を組み込んだ1発の原子爆弾の中に詰め込まれることになりましたが、このガンバレル方式が却下されることになったもう1つの原因が、あまりに構造が単純すぎるために、ちょっとした衝撃で間違って核爆発が起きる危険性が高いということでした。普通の爆弾ならまだ笑い話でも済みますが、核爆発ですから、誤爆したらシャレにならないのです。
そういう却下された危険な方式をあえて使うわけですから、とりあえず誤爆しないようにバラバラのパーツの状態にしておいて、後で投下機の発進するテニアン島の基地に運んでから組み立てる手筈としました。このウラン型原子爆弾は組立後は全長3m、直径75?、重量5tの大型の砲弾のような形となるもので、決して小さなものではありませんでしたが、開発時の予定より小さいものとなったので「リトルボーイ」と名付けられたといいます。あるいはもう1つの原爆「ファットマン」との対比でそう呼ばれただけなのかもしれません。とにかく、ガンバレル方式が使われた原子爆弾は後にも先にもこの「リトルボーイ」だけであり、この「リトルボーイ」が後に広島に投下されることになります。

こうしてトリニティ実験ではプルトニウム型原爆のみを使ってインプロージョン方式の起爆装置の動作実験が行われることとなりました。用意されていた原爆2発分のプルトニウムのうち1発分の5kgは実験用のプルトニウム型原爆「ガジェット」に使用され、残り1発分の5kgは実戦用の「ガジェット」と同型のプルトニウム型原爆に詰め込まれることになりました。
プルトニウム型原爆は球形のインプロージョン方式の起爆装置の中心部にプルトニウムを詰め込んだものなので全体に球形で、それを内包した爆弾の形も丸みを帯びたものになり、核分裂物質のプルトニウムは少ないのですが周囲の起爆装置が大型なので結局はウラン型原爆とそんなに変わらない大きさとなりました。全長3m、直径1.5m、重量4.5tのずんぐりむっくりした形から「ファットマン」と名付けられたこの実戦用プルトニウム型原爆が後に長崎に投下され、その後も量産、小型化され、1940年代のアメリカの核戦力を担うことになるのです。
しかし、この「ガジェット」および「ファットマン」もまた「リトルボーイ」と同じく誤爆で核爆発を起こしてしまう危険性があったため、5つのパーツに分解された状態で運搬されました。このタイプのプルトニウム型原爆は組立に48時間かかり、起爆装置を動かす電力が膨大であるため、組立完成後48時間以内に起爆させなければいけないという構造になっていたので、「ガジェット」は7月16日の実験のために7月12日に分解された状態で実験場に運び込まれて、現地で組立を開始するというスケジュールとなったのでした。
そして「ファットマン」のほうは5つに分解したままサンフランシスコの軍港に「リトルボーイ」の分解されたパーツと一緒にスタンバイさせておき、実験の成功後すぐに巡洋艦インデイアナポリスに積載してテニアン島に緊急輸送し、10日間ほどの航海でテニアン島に到着する手筈となっていました。なお、実験失敗の場合は「リトルボーイ」のパーツだけがテニアン島に運ばれることになるのです。

そして7月16日の早朝、人類史上初の核爆発実験は成功しました。「ガジェット」に内蔵されたインプロージョン方式の起爆装置は正常に作動して中心部のプルトニウムを一瞬にして超臨界状態とし、核爆発を引き起こしたのでした。その模様は16?離れたベースキャンプに陣取ったマンハッタン計画に参画した科学者や軍人たちによって観察されましたが、彼らはガジェットの設置してあった辺りから激しい光が発するのを目撃した直後、オーブンと同じような熱を感じ、その40秒後に衝撃波による大音響を聞き、空を見上げると高度12?に達する巨大なキノコ雲を目撃しました。悪夢を見ているような光景に畏れを感じたのか、爆心地に近付こうという者がいなかったのは彼らにとって幸いなことでした。彼らは原子爆弾の本当の恐ろしさをまだ知らなかったので、取り返しのつかない過ちを犯しても不思議ではなかったからです。
ただ彼らは自らの身をもって二次被爆という原子爆弾の兵器としての未知なる素晴らしい性能を体験しようというほどの知的好奇心はこの時点では持っていませんでした。彼らの興味には原子爆弾の主要な性能の3つのうちの2つである熱線も放射線すらもそれほど多くは含まれておらず、とにかく爆弾といえば爆風(衝撃波)の大きさが全てであるという固定観念を持った彼らは、この原子爆弾が通常爆弾に比べてどれほど大きな衝撃波を発する性能を有しているのかに興味が集中しており、そのための計測器は実験場に綿密に配置してありましたので、かなり詳細なデータはほどなくまとまることになりました。
それによると、ガジェットはTNT換算すると19kt(19000t)相当のエネルギーを放出したということが分かりました。TNT爆薬1gの爆発で放出されるエネルギーが約1000calなのでTNT爆薬1tの爆発の場合は10億calのエネルギーが放出されます。1calは4.184ジュールに相当しますから、1tのTNT爆薬はおよそ41億8400万ジュールのエネルギーを放出すると言い換えることも出来ます。ガジェットはその19000倍のエネルギーを放出したわけですから、80兆ジュール近いエネルギーが放出されたことになります。この莫大なエネルギーの50%が爆風、35%が熱線、15%が放射線となって放出されたのでした。

しかしこれでは数値が莫大すぎて全然実感というものが無いので、やや具体的にすれば、B-29の1機の通常爆弾最大積載量は5tなので、ガジェットはB-29の3800機分に相当することになります。これも膨大すぎてどうもピンとこないので例を挙げれば、3月10日の東京大空襲に参加したB-29は344機で、投下された爆弾の総量は1720tであったので、まぁおよそ、一晩で東京下町一帯を焼け野原にして10万人を焼死させた東京大空襲の11倍の破壊力をたった1発のガジェットは持っているということになります。いや、B-29の1機の最大積載量の5tや3月10日の投下爆弾総量の1720tにしても、これは爆弾の総重量であって爆薬の量となるともっと少ないので、ガジェットの破壊力はB-29の4000機分は軽く超えるでありましょう。更に東京大空襲の際に使われたのは爆発力を抑え目にした焼夷弾であったことも考慮に入れると、ガジェット1発で東京大空襲の13倍以上の被害を与えるだけの破壊力を備えていたと推測出来ます。
しかし、東京大空襲を例に挙げるのは現在の視点としては分かりやすいですが、当時は東京大空襲の被害の実態は日本人でなければ正確には把握しておらず、アメリカの地にいる科学者や軍人たちには数値的なもの以外はよく分からなかったでしょう。彼らは東京に何tの爆弾を投下したかなどという数値は把握してはいても、実際に焼夷弾が38万発降り注いだ現場に立っていたわけではないのですから、その被害というものがどのようなものであるのか把握出来ていたわけではないのです。その13倍などといっても、全く実感は持てなかったことでしょう。
また、東京大空襲で下町一帯が焼け野原になって10万人が死んだといっても、この被害の大部分は二次火災によるもので爆発そのものによる被害ではなく、火災による被害は建物や人口の構造や密集度など様々な要素の影響を受けます。また、実験の行われた何も無い砂漠地帯と建物の密集する都市とでは爆風の伝わり方も違ってきます。つまり、単純比較など出来ないのです。結論として、ものすごい破壊力であることは確かだが、細かいことはよく分からないというのが実情でした。
実験に参加した原爆の開発当事者ですらそんな有様ですから、ましてや遠くポツダムの地にいるトルーマンやバーンズ、スチムソンら政治家連中の原爆理解はもっと曖昧なものになるのは仕方ないことでありました。いや実際、この時点では原子爆弾が多くの人間の暮らす都市で炸裂した場合にどのような威力を発揮するのか分かっていた人間など、一人たりとも存在していませんでした。それを初めて知ることになる栄誉は広島市民が、第二の栄誉は長崎市民が得ることになります。そして、その後、現在に至るまで誰も原子爆弾の威力を真の意味で知った者などいないのです。
結局、トリニティ実験の結果、分かったことは、インプロージョン方式の起爆装置は正常に作動するのでプルトニウム型原爆はすぐにでも使用可能になったということと、その破壊力はとにかく凄まじいものであるという程度のことでした。ただ、破壊力については、事前予想では悲観的な意見が多かったので、予想以上の出来ということになりました。そういうわけでマンハッタン計画の関係者たちは大喜びして、爆発成功を確認した後、実験結果の分析の完了しないうちにとりあえず実験成功の速報をポツダムのスチムソン宛てに電信で送り、サンフランシスコの軍港に待機させていた巡洋艦インディアナポリスにリトルボーイとファットマンの部品を積みこんでテニアン島へ向けて出航させたのでした。

さて、少し時間を遡りまして、ポツダムにトルーマン一行が到着したのは7月15日のことでした。このポツダムへの船旅の途中で日本による対ソ終戦工作の動きを逐一掴んでいたトルーマン大統領とバーンズ国務長官は、日本がソ連に提示して仲介してもらおうとしている講和条件の内容がアメリカの望む無条件降伏案と未だ距離のあるものであるということを確認し、これではスチムソン陸軍長官やグルー国務次官の主張するような天皇制度を保証する声明を出したところでそれだけで日本が降伏に応じる可能性は低いだろうと見て、スチムソンの起草した対日声明案、すなわちポツダム宣言の原案から天皇制度の保証に関する部分を削ってしまいました。
確かにこの時点で、つまり原爆投下やソ連参戦の無い状態で天皇制度の保証だけで日本が降伏していたかというと、実際微妙でした。おそらく昭和天皇や鈴木首相はすぐに乗ったでしょうが、軍部は納得しなかったでしょうし、それに押されて東郷外相も対ソ交渉のほうを選んだ可能性が高いでしょう。昭和天皇は口出しを基本的にしませんし鈴木首相は指導力不足であったので結局は東郷や軍部の意向が通ったと思われます。しかしその声明にソ連が名を連ねていれば東郷は対ソ交渉を諦めざるを得ませんから軍部の説得に回り、結局は日本はこの声明を受け入れて降伏した可能性が高いでしょう。
ポツダムにはソ連のスターリンも来るのですから、ヤルタ密約の際にソ連に与えると約束した領土や権益を保障するという条件(日本は国体護持以外は譲歩せざるを得ないので千島と樺太の領土割譲ぐらいは呑まざるを得ない)でスターリンを口説けば、ソ連もこの声明案に乗った可能性も十分あり、この声明案の原案のままでも日本が降伏する可能性は十分にあったといえます。だから天皇制度保証の文言が無意味などということはなく、むしろ日本を降伏させる決め手になった可能性が高いといえます。もし本気で早期の戦争終結を目指すのならば、天皇制度保証の上に更に他の要素も加えていって、より日本降伏の可能性を高めていけばいいことであり、何もわざわざ天皇制度保証の文言を削る必要性はありません。要するに、トルーマンやバーンズは国内世論の反発を恐れて、もともと天皇制度保証の文言を削るつもりであったのであり、日本による対ソ終戦工作はその口実となったに過ぎないのでした。
一方、スチムソン陸軍長官は根本的にソ連を信じていませんでしたので、日本が終戦工作を通してソ連に急速に接近していっているということに警戒感を募らせていました。日ソが連携してアメリカに対抗するようなことがあれば面倒なことになると思ったのです。もし天皇制度保証の文言を削除した厳しい無条件降伏要求の声明を出して日本を更に追い詰めれば、日本はますますソ連に傾斜してソ連に莫大な見返りを与えようとし、そうなるとスターリンも誘惑に負けて日本と組もうとするかもしれないとスチムソンは心配しました。だから、スチムソンはスターリンが日本を持て余している今の間に、天皇制度保証の文言を入れた日本が受け入れやすい降伏勧告声明にソ連も引きこんでしまい、八方塞がりになった日本が天皇制度保証だけに縋って早期に降伏するように誘導するのが得策であると主張し続けました。実際、日本政府からソ連宛に送られた電信によれば、天皇が和平を望んでいるとも書かれており、天皇の意向や立場が今や和平に向けて大きな影響力を持ちつつあるのは明らかでした。また、モスクワの佐藤大使のように国体護持の1点のみに絞った交渉をすべきだという意見も日本国内で存在していることも確認できました。だから今こそ天皇制度保証を前面に出すのが得策であるというのがスチムソンの判断でした。

このような論争が継続した状態で、トルーマン一行がポツダムに到着したのと同じ7月15日にイギリスからチャーチルも到着してトルーマンを表敬訪問し、新しいアメリカ大統領はこの時初めてイギリスの老宰相と顔を合わせたのでした。
このポツダム会談を最も切望していたのはチャーチルでした。7月1日に米軍がドイツ東部から撤収してしまったためにヨーロッパにおけるソ連の浸食を食い止めるのはもはや絶望的な状況になりつつありましたが、チャ?チルはこの会談でなんとかソ連の浸食に歯止めをかけようと最後の望みをつないでおり、初対面のトルーマンのご機嫌をとってなんとか米英共同戦線を張ろうと思っていました。しかしトルーマンは原則として戦後ヨーロッパ、いや戦後世界はソ連と協調して管理していく方針でありましたし、それにソ連に対日参戦を重ねてお願いするためにポツダムに来ていましたから、チャーチルの誘いに簡単には乗りませんでした。
その翌日7月16日はスターリンが到着してトルーマンやチャーチルと顔合わせする予定であったのですが、スターリンはホスト役のくせに遅刻しており、この日は米英首脳はそれぞれ瓦礫と化したベルリン見物に出かけ、夜になってトルーマンは本国からの電報でトリニティ実験の成功を知ることとなり、トルーマンもバーンズもスチムソンもこれには大喜びしました。これで原子爆弾は実用化されることとなり、アメリカはソ連に対して優位に立つ切り札を手にすることが出来たのです。これで、もしソ連が対日参戦したとしても、その後の事態をコントロールするのはソ連ではなくアメリカになりますから、トルーマンは何の心配もなくソ連に対日参戦を要請することが出来ます。
スターリンとの顔合わせ前にこのような成果を手にすることが出来たのはトルーマンにとって幸いでした。とりあえず、この16日の夜の時点ではトルーマンらの感慨はこんなところでありました。まだ実験結果の詳細は届いておらず、ただ単に実験は成功したというだけの報告でしたので、あまり実感も無く、ただただ船旅の間ずっとハラハラと心配していた実験が無事に成功したということ自体に胸を撫で下ろしていたという状態でありました。
ただ原爆製造計画の責任者であるスチムソン陸軍長官はさすがに最も冷静で、この実用化の目処がついた原子爆弾という要素も日本を降伏させるための切り札として有効活用しようとしました。彼の持論である天皇制度保証という文言の入った対日降伏勧告声明をソ連も加えた連合国首脳の連名で発するのに際して、更に原子爆弾の投下を警告することによって日本を降伏するしかない状況へ追い詰めるという案でした。
彼はどうしてもソ連を信用しきれていなかったので、ソ連が土壇場で裏切る前に日本を降伏させてしまいたかったのです。もしソ連が対日参戦を渋っている間に原爆を日本に無警告で投下してしまうようなことがあれば、日本の対ソ傾斜がますます強まるのではないかとスチムソンは危惧しており、もしそんなことがれば、終戦までこぎつけたとしても、戦後の日本がソ連寄りになるのではないかという心配もありました。それでスチムソンは持論を強くトルーマンに訴え続けました。

しかし次の日、7月17日の朝にトルーマンがようやくポツダムに到着したスターリンと非公式に初めて会談した際、スターリンが自ら進んでこの日本からの終戦工作の働きかけに関する情報を開示し、ソ連としてこれに応じる考えは無いと明確に示し、更に8月の中頃に対日参戦すると明言したことによって、トルーマンはソ連はコントロール可能な存在となったと感じました。原爆の完成によって生じていた優越感がそのように感じさせたのかもしれません。そういうわけでスチムソンの危惧は杞憂であるということになり、スチムソン案は退けられました。
スターリンはもともと日本の誘いに乗るつもりはありませんでしたが、この交渉上手の独裁者にしては異例なことに、このようにポツダム入りするなりすぐにトルーマンに対して駆け引き無しに歩み寄りの姿勢を見せたのには理由がありました。
それはスターリンもまたトルーマンと同じ頃にトリニティ実験の成功を知っていたからです。何故なら、ガジェットの爆発地点から16?離れたベースキャンプの中にも複数のソ連のスパイは堂々と存在して歓声を挙げていたのであり、その後何食わぬ顔をしてクレムリンに向けてアメリカが人類史上初の原子爆弾を持つことになったことを知らせてきていたからです。そこでスターリンはもはやこれで現時点においてソ連と日本が組んでも絶対にアメリカには勝てないということを完全に確信し、アメリカがソ連に利用価値があると思っている今のうちに積極的にアメリカに協力して、得るべきものはしっかり得ておこうと迅速に判断したというわけなのです。

この時点でアメリカの対日方針は、ソ連の参戦によって日本を降伏に追い詰めるということに決しました。そして、ソ連参戦前に日本に降伏を勧告する声明を発するという方針もほぼ本決まりになっていたのですが、天皇制度の保証については明言しない方向となっていました。ソ連はもう裏切るようには見えませんでしたし、アメリカ国内世論の反発も必至であったからです。
ただ、そうなるとこの声明は単に今までと同じトーンで無条件降伏を求めるものと大差なくなり、事前に声明を出す意味があまり無いということになりますが、とにかく対日戦の最終段階の前に米英ソ三国が共同で日本に対して降伏を促すということに象徴的な意味があるという程度のものとなりました。ソ連が加わっているというのが今までにない新しい要素であり、これはそれなりに日本にショックを与えて終戦を早める効果はあるでしょうし、ソ連の対日参戦の大義名分も立つという意味合いもありました。天皇制度保証を削除することで日本が降伏することに抵抗を感じるというのなら、ソ連参戦に加えて原爆を投下してしまえば日本も参るであろうし、ソ連への牽制にもなるという計算も立ちました。そうなるとソ連への牽制効果を最大限に発揮するためにも原爆を投下する際には無警告で大きな被害の出るような形で投下するということになります。
ならば、トルーマンはさっさと原爆の存在をスターリンに明かして、対日声明のプランを打ち明ければよかったようにも思いますが、トルーマンはこの初対面の際にはそれをやりませんでした。まず原爆は国家機密で、そもそもソ連への牽制用のものですから、そんな軽々しくスターリンに打ち明けるような話ではなかったからです。打ち明けるよりも黙っておいていきなり使ったほうが効果的でした。
ちなみにイギリスとは1944年9月に既に核兵器に関する秘密協定を結んでおり、そもそもアメリカの核開発自体がチャーチルの働きかけもあって始められたものであるという経緯もあり、チャーチルには原爆実験成功の件はスチムソンからすぐに知らされました。しかしスターリンに簡単に教える必要は無かったのです。まぁ実はスターリンはそんなことはとっくに知っていたので、わざわざ教える必要は本当に無かったのですが。
また、対日声明のプランについては、初対面のスターリンにいきなり非公式会談でそこまで打ち解けて突っ込んだ話をする必要もなく、ポツダム会談の本会議もまだ始まっていないわけですから、ゆっくりやればいいのでした。会談の内容次第ではまた状況も変わってくる可能性もありましたから性急に事を進める必要は無いのです。ソ連の対日参戦までまだ1か月ほど猶予があり、それまでに対日声明は出せばいいのですから、ポツダム会談終了時点で声明を出しても十分に間に合います。そもそもトルーマンとバーンズは声明は状況を見極めてゆっくりと出せばいいという考え方でしたから、性急にスターリンに相談することはなかったのです。
見極めるべき状況の中で最重要なものは原爆実験の続報でした。このスターリンとの初会談時点ではトルーマンのもとへは原爆実験についてはまだ実験成功を知らせる第一報だけしか届いていませんでした。それだけではまだスターリンと突っ込んだ話を進めるには情報不足であったのです。実際あとでよくよく調べてみたら全然大したことのない爆発だったなどということになってしまっては困るからです。
そこでスターリンとの初会談ではソ連の対日参戦というソ連側からの申し出を受けるのみにしておいて、とりあえずはそれ以上は対日戦関係の話は進めずに非公式会談が終えて、ポツダム会談の本会議に入って本来の議題であるヨーロッパの戦後処理問題を話し合いつつ、アメリカ本国からの原爆実験結果の続報を待つことにしたのでした。
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