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現代史についての雑文その14 ホロコースト神話
ポツダム会談の本会議が始まってみると、議題は降伏したドイツの処分をどうするかについての話に終始しました。ドイツについてはまず併合した領土の返還、連合国への賠償、国外居住ドイツ人の本国送還が義務づけられることとなり、戦後ドイツは民主化、非武装化、非ナチス化が図られることとなり、さらにナチスの戦争犯罪の追及が行われることとなりました。
ナチスドイツは全ヨーロッパを征服したという印象を持たれがちですが、大部分はドイツ軍の影響下の傀儡政権とはいえ独自の政府を持った独立国がドイツと同盟していただけで、国家が消滅してドイツに併合されていたわけではありません。ドイツが降伏すればドイツ軍は撤退していきますから、それらドイツの傀儡政権や友好政権も後ろ楯を失い弱体化するのは必然ですが、それぞれの国家内の問題ですからドイツの問題とは別個の問題となり、これはポツダム会談で扱うべき問題ではありませんでした。

実際のところ、東欧国家におけるドイツの傀儡政権は既にソ連軍によって全てが倒されてソ連の傀儡政権に取って変わらされていました。ちなみにユーゴスラビアだけが例外で、これはチトー率いるパルチザン勢力がソ連の支援を受けずに独自にドイツ傀儡政権を倒して独自の社会主義政権を打ちたてていました。一方、西欧や北欧の諸国でドイツの傀儡であった政権や友好政権、無理に従属させられていた政権などはそれぞれの国によって違った結末を辿り、既に崩壊していたイタリアのムッソリーニ政権やフランスのヴィシー政権のような例もあれば、1975年まで独裁を維持したスペインのフランコ政権のような例もあり、既存の政府が単にドイツに力で屈伏させられていただけのオランダやベルギーや北欧諸国などはそのまま政権が維持されました。
これらヨーロッパ諸国は建前上は独立国なのでポツダム会談で処分が議論されるような対象ではありませんでしたが、実際はテヘラン会談やヤルタ会談などを通して、東欧(ユーゴとギリシャは除く)は事実上ソ連の支配下に入ることが既に了承されてしまっていました。こうしたドイツ以外の独立国の問題に関してはチャーチルには悔しいことであったでしょうが、既に結論は出てしまっていました。

このポツダム会談で焦点となっていたのはその次の段階、ドイツ領をどのように処分するかについてであったのです。ナチスドイツが1933年に政権をとってからドイツ領として新たに併合していたのはラインラント、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、ルクセンブルクでありました。
ナチスドイツが強大化したことによって第二次大戦が起きたというのが連合国側の公式見解でしたから、再びドイツが世界大戦を起こさないように、ナチス時代にドイツが獲得した領土を剥奪して、ドイツを弱体化させることは米英ソの3国とも共通の合意事項でありました。「再び世界大戦を起こさないように」などと言うと、何か公平な立場で御立派なことを言っているようにも聞こえますが、要するにドイツが第一次大戦の復讐戦として第二次大戦を仕掛けてきたのと同じように、第二次大戦の復讐戦として第三次大戦を仕掛けてこられたら困るのでドイツを弱体化させておこうというだけのことです。そこには、ドイツという国が復讐をよくする国であるという認識と同時に、自分達もドイツに復讐されるに足る後ろめたい部分もあるという認識もあるのです。別に公平で御立派なんてことはないのです。
しかも同時に、この中央ヨーロッパの大部分を占めるドイツ領をどのように処分するのかによって、ヨーロッパにおけるソ連の勢力拡大を食い止めることが出来るかどうかが決まると言っても過言ではなく、それゆえチャーチルはこの問題でイギリスにとって有利な結論を得るべく、この会談の開催を求めたのであり、まぁこういう感じで、世界平和のためとかそんな御立派なものではなく、単なる領土の分捕り合戦でありました。

そういうわけでまずドイツがナチス政権下で併合した全領土を元の国家に返還するということになりました。ナチスドイツの領土拡大はドイツによるヴェルサイユ条約の一方的破棄の後に行われていますから、当時の国際秩序であったヴェルサイユ体制に対する違反行為であるので無効だという考え方は一応筋は通っています。しかしそのようにドイツを非難する席に1939年にポーランドをヒトラーと分け合うという明白なヴェルサイユ体制違反行為を行ったスターリンが座っているのは酷く滑稽なことでした。
それだけでなく、ラインラントはフランスに返還され、ルクセンブルクはもともとの大公家に返還されることとなり、これらはソ連の影響は受けない地域でしたからそれはまぁいいとして、ポーランドとチェコスロバキアに関しては既にソ連軍によって勝手にドイツから分離させられて親ソ傀儡政権が出来ており、このポツダムにおける領土の返還という決定は、単にソ連の行為を追認するための措置となってしまいました。領土の返還前に既にもう新国家が、しかも親ソ国家が出来ていたわけで、これでは順番がひっくり返っているのであり、チャーチルは不満でしたが、トルーマンはソ連の行為を認める方針でした。何故なら、それは前大統領のルーズベルトも認めていたことだったからです。
特にポーランドは第二次欧州大戦の発火点となった国であり、亡命政府を受け入れていたイギリスは特別にこだわっており、ソ連が勝手に作った傀儡政権を認めていなかったのでした。そこで2月のヤルタ会談でルーズベルトがとりなして亡命政権も含めた自由選挙を実施することで手打ちとなったのですが、ソ連軍は帰国してきた亡命政権の政治家を逮捕してしまい、自由選挙は実施しませんでした。この約束違反の件が特にアメリカでも問題となり、新大統領に就任したばかりのトルーマンを突きあげて、4月にトルーマンはモロトフに猛抗議する羽目となったのでした。しかしこれもルーズベルトがソ連に対して容認していたので、結局トルーマンもこの約束違反を容認することになり、チャーチルも渋々ポーランドの現状を追認せざるを得なくなり、6月末のサンフランシスコ会議の閉会間際に駆け込みでポーランドの連合国への参加を認め、ここにソ連の衛星国家としてのポーランドは公認されてしまっていました。このポツダムでもそれが追認されることとなったのでした。

このポーランドに関しては更にソ連は、ポーランド東部をソ連領に編入し、その代わりにドイツ東部をポーランド領に編入するという荒っぽい提案をしていました。つまり、ドイツは東部の領土を失い、ポーランドは国家全体が少し西にずれて移動し、ソ連は少し西に領土を拡大するということになります。これは、ポーランド領を通ってドイツ軍がソ連へ攻め込んだことに懲りたスターリンが、二度とこのようなことが起きないようにドイツを出来るだけ遠くへ追いやりたいと思ったからでした。
しかしこれは「戦勝国は領土の拡張をしない」という米英の大戦当初からの基本方針に真っ向から反する提案でした。しかし、既にソ連は大戦中にバルト三国を併合しており、そもそも大戦の最初にソ連はポーランド東部を併合していたのですから、米英のそんな方針に縛られるつもりは全くありませんでした。
といっても、米英もこれを簡単に認めてしまえば戦争の大義名分に傷がついてしまいますから、ヤルタ会談でもイギリスはこれに反対していたのですが、ルーズベルトはこれを認めてしまい、結局ヤルタでこのソ連の提案は通っていたのでした。しかしイギリスにしてみれば、それはあくまでポーランドでの自由選挙に関する約束をソ連が履行することが前提となっていることと解釈していましたから、ヤルタ会談以降にソ連がその約束を反故にした以上、この国境線変更の問題も再び議論し直すべきであるというのがチャーチルの考えでした。しかしトルーマンはこの問題でも最終的にはスターリンを支持するつもりでした。ソ連をパートナーとしてヨーロッパ大陸に関するイギリスの影響力低下を図るというのがルーズベルト政権以来の米政権の一貫したスタンスでした。

そして、これらのナチスドイツが併合した地域が再びドイツと併合することを防ぐために、これらの地域からドイツ人を追放することになりました。何故なら、ナチスドイツがこれらの地域を併合する際に、その口実としたのがこれらの地域に住むドイツ系住民の保護という名目だったからであり、また実際にそれらの地域のドイツ系住民がナチスと結託してドイツへの併合を求める運動を扇動したのでした。つまりこれら地域のドイツ系住民の存在がドイツの強大化の元凶となったのです。
だから、再びドイツが強大化することがないように、これらの地域からドイツ系住民を追い出してしまおうということになりました。そして、単に追放して行くあてが無ければまた舞い戻ってしまうかもしれないので、もういっそのこと国外のドイツ人は全員ドイツ本国へ強制送還するということになってしまいました。つまりドイツ人はドイツに押し込めてしまおうということです。
なんだかナチスドイツがユダヤ人をゲットーや収容所に押し込めて、最終的にはマダガスカルやソ連の占領地などに移してしまおうとしていたことのお返しみたいにも見えますが、実際、そうした意趣返しの意味合いも幾らかはあったのではないかと思います。戦勝国の背後には大戦中にナチスに裏切られたユダヤ財閥集団もおりましたから、ドイツ人に対して歪んだ復讐心を持っていたのでしょう。ナチスはとんでもない民族差別集団でしたから、このような形で報いを受けるのも因果応報ともいえますが、これら地域のドイツ系住民の中にはナチスと無関係の住民もたくさんいたであろうと思われるので、やはりこれはなんとも乱暴な民族差別的な決定であったといえます。
しかし、なにせ無条件降伏ですから戦勝国はやりたい放題出来るわけで、これはすんなり合意が成立し、ラインラントからもチェコスロバキアからもポーランドからもドイツ系住民はドイツへと追放されました。ポーランドに新たに編入されたドイツ東部の住民たちも先祖代々の土地を追われてドイツの残された領土へ移住し、そこには代わってポーランド人が移住させられてきました。またソ連に割譲されたポーランド東部の住民たちも追放されてポーランド国内へ移住することになりました。

ただ、ここで問題はオーストリアでした。オーストリアもナチス政権下でドイツに併合されていましたので、本来のオーストリア政府に返還されて独立国とすることになりましたが、ここは住民のほとんどがドイツ人なので、ドイツ人を追放するわけにはいかなかったのです。追放したら住民がいなくなってしまいます。しかしそのまま放っておいたら、またドイツと併合して強大化する恐れがありました。そこでオーストリアは戦勝国の統治下に置かれて厳しく監視されることになりました。
オーストリアが大戦末期にソ連軍のみに蹂躙されていればソ連軍の監視下に置かれるということになったでありましょうが、幸いオーストリアにはイタリア方面やドイツ西部方面から米英軍も侵入してきていたので、米英仏ソの4カ国の分割統治ということになりました。また、首都ウィーンも4カ国で分割して管理することになりました。そして、この4カ国の統治地域の割り振りがポツダム会談での議題となり、ソ連とイギリスの間で神経戦が繰り広げられることになるのです。
チャーチルにしてみればオーストリアまでソ連の衛星国にされてしまっては堪らないので必死で抵抗したのでした。結局は各国の主張が平行線のままポツダム会談は実り無く終わり、暫定的な境界線がいつの間にか実質的な境界線になるというようなだらしのない結果となりますが、オーストリアはドイツに併合される前の旧政府が復活したという形となったためにドイツのように政府が消滅したという扱いをされなかったことが幸いして、オーストリア政府を通して米英仏ソ4カ国が間接統治を行うという形となり、そのため国家の統一が保たれてドイツのように分断国家とはならずに1955年には独立を回復して永世中立国となりました。
戦後の日本はドイツよりもむしろこのオーストリアの場合に近いように思えます。もし日本がアメリカ一国でなく米英仏ソ4カ国による分割統治となっていたとしても、オーストリアのように国家の統一は保てたかもしれません。しかしヨーロッパと極東の戦後情勢はまた違っていましたし、オーストリアの場合はヨーロッパの伝統国であるという重みもあり、またオーストリア政府も相当上手く立ち回ったということもあり、またかなり幸運もあったので何とかなったのであり、日本も同じように上手くやれたかというと、実際そうは上手くいかず分断国家となった可能性が高いでしょう。また、日本もオーストリアのように永世中立国を目指すべきだったなどという意見もあるでしょうが、オーストリアは東西冷戦の緩衝地帯として永世中立国になっただけのことで、日本とは立場が全く違ったので、これは言っても仕方ないことでしょう。

さて、ドイツの併合した領土の処分が決まれば、後はドイツ本国をどうするかについての問題が残ります。まずドイツを二度と世界大戦を引き起こさないように非武装化するというのは、ドイツに復讐されるのを恐れる米英ソの3国にとってすぐに合意出来ることでありました。しかし非武装化といっても第一次大戦後もドイツは非武装化されたはずなのにナチス政権下で隠れて再軍備していたのですから油断出来ません。だからオーストリア同様、戦勝国の米英仏ソの4カ国で分割統治して監視するということはヤルタで既に合意されていました。
しかし、ナチスによる隠れてのドイツ再軍備をサポートしていた共犯者こそがスターリンであったのですから、スターリンが監視役に回るというのは泥棒に警備を任せるようなもので、なんとも心許ないといえます。実際、この後ソ連がドイツを東西対立の最前線化してしまったため、ドイツの非武装化など何処かに消し飛んでしまうことになるのです。
とにかくドイツの監視体制などといっても当初からかなりいかがわしいものであったということです。その分割統治の割り振りを具体的に決めていくのがポツダム会談の課題であり、チャーチルは出来るだけソ連の西への進出を押しとどめたかったのですが、ヤルタ会談の時点でドイツ侵攻時の各国の担当区域は決まっており、7月1日にその割り振りの通りに米軍が兵を引いてしまっていた結果、ヤルタ会談時に決めた軍事境界線がそのまま各国の分割統治の担当区域となってしまう成り行きでした。
すなわち、ドイツ北西部をイギリスが、ドイツ南西部の一角をフランスが、ドイツ南部をアメリカが、そしてドイツ東部をソ連が統治するという形になっていき、これはオーストリアの場合とは違い、ドイツ政府は消滅していたので各国がそれぞれ直接統治する形となり、1949年にこの米英仏の統治地域に西ドイツ政府が、ソ連の統治地域に東ドイツ政府がそれぞれ誕生することになるのです。
また、ソ連の統治地域の中に旧ドイツの首都であったベルリンが含まれていたが、このベルリンも米英仏ソの4カ国で分割統治することになり、その担当区域の割り振りもポツダム会談で話し合われましたが、これも各国の主張がぶつかり、なかなかまとまりませんでした。結局、ドイツおよびベルリン、オーストリアおよびウィーンについての分割統治の件は、ヤルタ会談の際に示されていた方向性に収斂されていくことになったのですが、これはヤルタ会談以降のソ連のヨーロッパにおける数々の約束違反行為は全て不問とした上での決定ですから、イギリスやフランスには不満の残るものとなりました。
そしてその後、1949年の東西ドイツの分断後、東西冷戦が表面化していく中、ソ連は秘かに東ドイツの再軍備を行いました。結局、またソ連は約束を破ってドイツの再軍備に手を貸したということになります。それを知った米英仏もそれに対抗して西ドイツの再軍備を検討するようになり、1955年には西ドイツも再軍備することになりました。あれほど戦勝国が重要視していたドイツの非武装化はたった10年で撤回されたのでした。

さて、戦後ドイツについては民主化を図るということもポツダム会談では合意されましたが、そもそも全体主義というものは民主主義の最も発展した形態であり、ヒトラーは当時最も民主的であったワイマール共和国における自由選挙によって総統に選ばれたわけですから、ナチスドイツは十分に民主的であったはずです。少なくとも国民による選挙で選ばれたことのないスターリンがヒトラーを非民主的だと非難する資格は無いはずです。
ただ、実際のナチスの政治が非民主的であったのは確かで、その最悪のものが人種差別政策と言論弾圧でした。人種差別政策は有名なユダヤ人差別以外にもジプシーやスラブ人、ポーランド人、障害者、同性愛者、反ナチス的なドイツ人まで被差別階級とされ、遺伝的に劣等なものを差別するという人種主義を隠れ蓑にして実質的には国内にカースト制度のようなものを作る政策でした。
これは確かに大いに非難されるべき政策で、是正すべきであったでしょう。しかし、これは一般のドイツ人にも大いに支持されていたのであり、ナチスだけに罪があるというわけではありません。例えば、確かにナチスはいかれたカルト集団であり1940年に障害者を安楽死させてドイツ民族の血の純粋性を保つなどというふざけた法律を作りましたが、一般ドイツ人の反対が多く、翌年にはこの法律は廃止されています。つまり、一般ドイツ人の支持があってこそナチスのその他のもう少し穏便な差別政策の数々は維持されていたということなのです。
また、ソ連も同じように国内に思想的な階級を細かに作って差別政策をドイツ以上に強固に推し進めていましたし、アメリカだって黒人差別や日系人差別を政策的に行っていました。だいいち、ナチスの政策で最も批判されたユダヤ人差別ならば、もともとヨーロッパ諸国全般で同様にやっていたことでありました。ポツダム会談の参加国がドイツの差別政策を非難する資格があったとは、到底思えません。

またナチスによる言論弾圧は、確かにこれはかなり悪質なものでした。ナチスドイツの刑法は罪刑法定主義を否定しており、ドイツ民族の秩序に反する意思や人格そのものに対して国家が報復するという異常なもので、どういう基準で民族の秩序に反したということが判断されるのかというと、それは「民族の直感」によって判断されるということで、これでは独裁者の恣意によって誰でも処罰されることになってしまいます。
つまり少しでも反ナチス的な言論をすれば具体的な罪状も無く突然に逮捕されて刑罰を受ける可能性があるわけで、しかもそれが必ず罰されるのか罰されないのか、罰されるとしてどういう罪になるのか、それらの基準が全く無いわけですから、とにかく自衛のためには黙り込むしかないわけで、最悪の言論統制であるといえます。
これは一種の言論タブーで、何処の国、何処の地域にでも慣習的に独特の言論タブーは存在しており、触れたら村八分になったりする話題というものはあります。しかしこれは社会的制裁のようなもので、これはこれで陰湿なものであり、これの最も悪質なものの例が講和成立後の戦後日本の言論タブーであるのですが、これはまだ刑罰まで科せられるわけではないのです。ところがナチスドイツのようにこの言論タブーが刑法のような国家権力による統制と結びついてしまうと言論によって恣意的に刑罰を受けるという最悪の言論統制体制が出来上がってしまうのです。
例えば戦前日本の治安維持法はよく悪く言われますが、これは確かに言論活動の制限を目的とした法律ではありますが、あくまで罪刑法定主義に則っており、条文のいささか無理のある拡大解釈で時に言論弾圧を行ったものであり、むしろ治安維持法の名を借りた慣習的言論タブーが機能して陰湿な言論妨害が広く行われたというのが実情で、治安維持法自体でそれほど言論統制が行われたわけではありませんでした。罪刑法定主義自体を否定してしまっていたナチス刑法とは根本的に発想の違うものでありました。
むしろナチス刑法に酷似していたのは、ソ連の刑法のほうであり、これは反革命的な言論や、単にそうした思想を持っていると独裁者に思い込まれただけで銃殺されたりシベリアへ流刑されたりする恐ろしいものでした。そもそもナチス刑法は同じ全体主義国家であるソ連の刑法を参考として作られたものだと思われます。また、このナチス刑法を非難した米英仏など自由主義諸国にしても、戦後はナチスを擁護する言論全般を処罰する言論統制法を制定したり、日本においても言論統制体制を敷くなど、ナチスと大差ないことをやることになるのです。

結局、戦勝国の側も民主主義のいかがわしさという点ではナチスとそう大差は無いレベルであったのであり、彼らの唱える「民主化」などというものは自らの戦いを「民主主義を守るための戦い」と定義していた戦時プロパガンダの延長の御題目に過ぎないものでした。更に彼らが「民主化」というスローガンにこだわった最大の理由は、戦後のドイツ統治を円滑化し、彼らの支配する戦後体制を安定化させるためにドイツの人民を刺激したくないという思惑があったからでした。
大戦末期、ナチスは独裁権力維持のためにドイツ国民までも敵に回すような弾圧を行い、すっかりドイツ国民の支持を失っていました。そういうわけで終戦後のドイツでは侵略者である連合国軍(特にソ連軍)も恨まれていましたが、それと同じくらいナチスも恨まれていました。そこでドイツ人からの復讐を恐れた連合国は、とことんナチスを悪者として扱い、一般ドイツ人はナチスの犯罪の被害者であるという宣伝に努めました。そうやってナチスへの憎悪を増幅して、連合国への怒りを解消させてしまおうとしたのです。そのためには実際は連合国の犯した戦争犯罪でも全部ナチスの仕業であることにしてしまったり、実際はナチスがやってもいない悪事をでっちあげて言いふらしたりしました。逆にナチスを擁護するような言論は禁止して封じてしまいました。こういうことをドイツだけでなく、連合国はヨーロッパ各地で行ったのです。
しかし、ドイツに侵略された国の場合はともかく、ドイツにおいてはナチスに政権を委ねたのはドイツ国民の意思であったことは明白な事実でした。ナチスが悪ならばドイツ国民の悪も問わねばなりません。しかし、それを真正面から論じてしまえば、連合国とドイツ人の間にシビアな対立構図が生じてしまい、戦後のドイツ統治が困難になってしまい、ドイツ人が再び復讐のために立ち上がって戦後の平和を破壊する危険もありました。いや、それ以上に、連合国とドイツ人の間にシビアな論争が生じるようなことになれば、その過程において連合国側の悪事や不正があぶり出されて、戦後世界秩序の欺瞞が白日の元に晒されるという最悪の事態も想定されました。
だから、ドイツ人がナチスの協力者であったという歴史的事実は隠蔽されて忘却されなければいけなかったのであり、ドイツ人はナチス犯罪の被害者という立場で免責されなければならなかったのです。すなわち、ドイツ人がナチスに政権を委任したというような民主的な手続きは実は存在しなかったのであり、全てはナチスが巧妙に仕組んだ姦計によってドイツ人は騙されていたに過ぎず、ドイツの民主主義はナチスが政権を握る前からナチスの陰謀によって既に破壊されており、実際はナチスは非民主的な遣り口で政権を簒奪したに過ぎないし、その後も国民の意見など無視して国民を徹底的に弾圧したのだということにされなければならなかったのです。
つまり、「戦前戦中のドイツに民主主義など存在しなかったのであり、悪いのは全部ナチスであり、一般ドイツ人は悪くない」ということになったのです。ナチスは既に消滅していたので、死人に口無しというわけで、都合の悪いことは全部ナチスのせいにしても誰も反論してこないのだから便利でした。たまに異議を唱える者がいても戦勝国の強権で黙らせるのは簡単でした。
このように「ナチス時代のドイツには民主主義が無かった」ということに事実であるかのように偽装されたので、ポツダム会談では「ドイツの民主化」が戦後ドイツ統治の大目的としてでっち上げられたのであり、「悪いのは全てナチスであった」ということに事実として偽装されていたので「ドイツの非ナチス化」(単なるナチスの消滅だけでなく親ナチス的言論の徹底除去も含む)も大きな目標として掲げられることになったのでした。つまり「民主化」も「非ナチス化」も戦勝国のドイツ統治、ひいては世界統治を円滑化するためのプロパガンダの産物のスローガンに過ぎなかったのです。実際は、戦勝国の統治下のドイツにおいても民主主義の要である言論の自由などこのように全く存在していなかったのであり、「ドイツの民主化」など全くの欺瞞でした。

この占領統治円滑化のため、ひいては再び復讐戦としての大戦をドイツが起こさないため、戦勝国の支配体制への疑惑を生じさせないための「一般ドイツ人の免責」と、その裏返しとしての「ナチスへの責任集中」を非常に分かりやすい形で象徴し、推し進めたのが戦争賠償の問題と戦争犯罪裁判の問題であり、これらについてもポツダム会談で明確な方向性が示されました。
戦争賠償というのは敗戦国が戦勝国に対して戦争で生じた損害を弁償するという意味合いでお金や資産(領土なども含む)を支払うというもので、これは戦時国際法に定められた戦争犯罪の被害者に対する補償とはまた別個の概念です。戦争犯罪の補償は戦争犯罪の加害者であると認定されれば戦勝国側にも支払義務が生じますが、この戦争賠償は敗戦国にしか支払義務は生じません。そもそも戦争犯罪への補償はあくまで個人が救済対象ですが、この戦争賠償は個人の犯罪行為を問うたりするものではなく、あくまで国家から国家へ支払われるものです。
言わば戦勝国の当然の権利として、かかった戦費を敗戦国に払わせた上で、更に戦勝国の役得として追徴金をとるという、やや懲罰的な意味合いのあるものですが、もともとは古代から戦争に際して戦った側は負けた側から金品を略奪して、そうやって得た財貨で戦費を穴埋めしたり家来に褒美を与えたり戦死した者の遺族を養ったりしていた習慣が洗練されて、いちいち略奪をしなくても敗戦国から戦勝国へ平和裏に財貨が移動するようになった制度なのでしょう。
しかし近代に入って兵器の進歩によって戦争が大規模化するようになり、それにつれて戦争によって生じる損害は巨大なものになり、戦争賠償の額も膨れ上がるようになりました。特に第一次大戦は一般人にも被害が出た史上最大規模の戦争となり、戦争被害も史上最大規模となり、敗戦国ドイツに請求される戦争賠償の額も史上最大規模となりました。しかも戦争被害の大規模化は終戦時点における敗戦国の経済に大きな被害を与えるようになっていたので、そこに天文学的な賠償金を請求されても、国家の支払い能力を超えてしまい、ドイツ経済は破綻してしまったのでした。
結局、ドイツ経済の破綻はドイツの庶民を苦しめることとなり、過酷な懲罰を科した戦勝国を恨んだドイツ国民はヴェルサイユ体制打倒を唱えるナチスを支持し、ナチスが政権をとったことによって賠償金も踏み倒されてしまったのでした。つまり、戦争の大規模化によって古き良き戦争賠償の制度は時代遅れとなって機能しなくなったのだといえます。

そうした失敗の結果、より大規模化して起こった第二次大戦の戦後処理において、第一次大戦後と同じ失敗を繰り返すほど愚かなことはないわけで、戦勝国は莫大な賠償金を請求してドイツ人の恨みを買うようなことは出来ませんでした。そうした賠償請求権の放棄の方針はヤルタ会談で提起され、そうした流れの上で米英ソ首脳はポツダム会談において、一旦ドイツへの戦争賠償の請求額を2000億ドルという巨額を提示しておいて、その請求権を放棄してみせて一般ドイツ人への懲罰の免除という形を巧妙に演出したのでした。これによって一般ドイツ人の戦勝国への反感はいくらか薄らぐことになったのでした。
但し、ここでも足を引っ張ったのはソ連で、戦勝国は2000億ドルの請求権を全部放棄することは出来ず、200億ドル分だけはドイツに支払を要求するという中途半端な発表をせざるを得なかったのですが、これはソ連軍が既にドイツ国内で略奪してしまっていた資産相当分の追認としての金額でした。
実際に戦争による被害はヨーロッパ全域で深刻な状態となっており、ドイツにもその責任の一端があったのは確かなのですから、必要以上にドイツ人を刺激するほど懲罰的な賠償の範疇外であるならば、一定の賠償を行うのは当然であったのであり、それぞれの被害国における在外ドイツ資産の没収という形での賠償は普通に各地で行われました。これはいわゆるオブラートに包んだ物言いというやつで、元来はこういう行為を「接収」、あるいはもっと直截に「略奪」と言ったものです。
しかし、そうした普通の「略奪」とは別枠として扱わなければならなかったほど、ドイツ国内におけるソ連軍の略奪行為は(実際、ソ連軍が進撃してきた地域でドイツ以外に目ぼしい略奪対象も無かったという事情もあるが)凄まじかったというわけです。それにこれは在外ドイツ資産ではなく、ドイツ国内における略奪行為ですから、同列に扱うわけにはいかなかったのです。これもまたポツダム会談における汚点の1つでありました。

ともあれ、このように賠償請求権の放棄という演出によって一般ドイツ人を免責した場合、ドイツによって被害を受けた諸国の怨嗟の声に応えるためにも、またこの戦争の大義名分を強調して戦勝国の正義を確認するためにも、その裏返しとして、バランスをとるためにも、ナチスを全面的に悪者にする演出もまた必要となってくるのです。そのための政治ショーとして、ナチスによる戦争犯罪の徹底的な追及が行われるべきであるということもヤルタ会談で初めて提起され、そしてポツダム会談で合意されたのでした。
言わば、賠償という民事罰でナチスを裁くのではなく、刑事罰でナチスを裁くという方針への転換でした。こうした合意事項を盛り込んだ「(第二の)ポツダム宣言」が発表されたのが1945年8月2日で、それを受けて8月8日に米英仏ソ4カ国はロンドン協定を定めて、ナチスの戦争犯罪を裁く国際軍事法廷の枠組みを提示しました。このロンドン協定に基づいて準備が進められて、11月20日からニュルンベルク裁判が開始されたのでした。
そういうわけでニュルンベルク裁判ではナチスだけが悪かったという結論が得られることが必須だったのですが、互いにこれだけの規模の戦争を戦っておいて、そんな極端に都合の良い結果になるはずもなく、もちろん連合国側にも罪に問われるべき点はありました。
第二次大戦時点で戦争犯罪として扱われていたのは戦時国際法にある交戦法規に対する違反行為と、戦場における非交戦者による利敵行為でありましたから、これらに関してはもちろんドイツ側にも罪を犯した者は多くいましたが、それはナチスの一員だけに限らず一般ドイツ人にも多くいました。そしてもちろんドイツ側だけでなく連合国側にもそのような罪を犯した者は多くおりました。
ソ連軍は東欧の各地やドイツのソ連占領地域で民間人に対する虐殺、暴行、強姦、略奪の限りを尽くしておりましたし、壊滅したドイツ中央軍の25万人ほどの捕虜はソ連に連行されて何処かに消えてしまっていました。いや、その他にも東欧各地から数多くの人々がソ連領内に連行されて消えてしまっていました。またソ連は戦時国際法に違反するパルチザンを盛んに支援していましたが、これも明白な戦争犯罪でした。パルチザンへの支援なら米英軍も行っていましたし、米英軍はドイツの国土に対して繰り返し無差別爆撃を行って民間人30万人を殺戮していました。またアメリカ軍は終戦直前にドイツ軍人の捕虜100万人を虐待の挙句殺害するという不祥事も起こしていました。

こんな有様でしたので、普通に戦争犯罪だけを裁いていたのではナチスだけを悪者にするのは難しい状況でした。そこで戦勝国側は新たに侵略戦争の計画や実行をも戦争犯罪の一種だと定義し、その罪状でナチスの高官たちを裁こうとしました。更に、その罪状だけでは軍人以外を裁くのが難しいことから、ナチス高官も有罪とするために、侵略戦争に関する共謀への参加も戦争犯罪であるという拡大解釈を行って、これらをひっくるめて「平和に対する罪」とし、ニュルンベルク裁判を通常の戦争犯罪よりもむしろこの「平和に対する罪」を裁く法廷としてクローズアップして、ナチス組織全体に全ての罪を押し付けようとしました。
しかし、侵略戦争といえば、1939年9月にポーランドを侵略したのはドイツとソ連でありましたし、ソ連はその後バルト三国とフィンランドも侵略しており、フィンランド侵略の罪状で国際連盟を除名されていますが、その際にソ連を除名した国際連盟の理事国には今やソ連と歩調を合わせてドイツの侵略戦争を非難しているイギリスがいたはずですが、イギリスは6年前のことは忘れてしまったのでしょうか。
またソ連によるポーランド侵攻は明らかな侵略ですが、ドイツ軍によるポーランド侵攻のほうはダンチヒを巡る紛争によって引き起こされたものであり、一概にドイツによる侵略と言い切ることも出来ません。私はやはりドイツによる侵略であったとは思いますが、この微妙なドイツの侵略のほうは当然のことのように認めつつ、それよりも遥かに明白な侵略であるソ連のほうの罪状は認めないというのはどう考えてもアンフェアというものでしょう。
また、ドイツによるポーランド侵攻が侵略だったとしても、その後、ドイツに対して一方的に宣戦布告したのはイギリスとフランスであり、そのイギリスとフランスを攻撃したドイツの行為は侵略とはいえないでしょう。むしろドイツから見ればイギリスとフランスこそ一方的に戦争をふっかけてきた侵略国家なのではないでしょうか。
また、そもそも、ナチスが政権を取って侵略戦争を始めたのだとして、ヒトラーのような人物がドイツの最高権力者の座に短期間で昇りつめるに至った根本的原因として、第一次大戦後にドイツに課された巨額の賠償金による経済破綻と失業の増大があるのであり、そのような無茶な賠償金をかけたイギリスやフランスの責任は問われなくてよいのでしょうか。その際、ドイツ経済を破綻させた直接の引き金を引いたのは賠償金の支払いを督促するためにフランスが強行したルール工業地帯の占領であり、それは当時非武装であったドイツから見て侵略行為ではなかったのでしょうか。

このように、「平和に対する罪」でもどうも雲行きが怪しくなってきたため、戦勝国側では、とにかくナチスはもう理屈抜きで信じられないくらい悪い奴らで、多少異常な手続きを使ってでも断罪しなければいけないという空気を作って、その上で裁判のシステムそのものを前例の無いほど戦勝国側に都合の良いものにして、戦勝国の罪を全部不問にしてしまおうと画策するようになりました。そのために利用されたのが、ナチスがユダヤ人を計画的に100万人単位で大量虐殺してユダヤ民族の絶滅を図っていたというおどろおどろしい疑惑でした。そうした真偽の定かでない怪しげな噂は大戦中から戦時プロパガンダの一種として連合国側の国々で流布されていました。それを事実であるかのように偽装することにしたのです。
実際はナチスは1942年以降はユダヤ人を強制的に主に東欧の各地に設置した強制労働収容所に集めて、そこで対ソ戦用の軍需物資を作らせていたのでした。それは強制労働の場であると同時に、対ソ戦争の勝利の後はユダヤ人をロシアの地に追放するための一時的収容施設でもあったのであり、後年言われているような絶滅収容所ではありませんでした。ただナチスが過酷な環境で収容ユダヤ人をひどく非人道的な取り扱いをしたために、伝染病の流行などもあって50万人以上のユダヤ人が病死や過労死、虐待による暴行死などしてしまったのは事実で、これはこれで極めて非道で許されざる人権抑圧事件なのですが、戦後言われたようなガス室や焼却施設などで計画的に処刑をしていったようなものではありませんでした。
ナチスがユダヤ人を迫害しており、収容所に叩きこんだりしていることは連合国側でも知られており、そうした噂に尾ひれがついたような大袈裟な話が大戦中から流布されており、それは毎日大量にユダヤ人が銃殺されているとか、毒殺用の部屋があるなどという恐ろしげな話でした。これらのユダヤ人収容所は大戦末期に連合国軍によって解放され、収容されていたユダヤ人たちは救いだされておりましたが、これらの収容所はソ連軍占領地域に多く、ソ連軍はこの収容所の実態を隠した上で、反ナチス宣伝のために、これらの収容所でユダヤ人が大量処刑されていたという誇大な嘘を言い立てていました。
そこで戦勝国側はこうした噂話を極大化して、ナチスがユダヤ民族の絶滅を図って強制収容所で膨大な数のユダヤ人を処刑し続けていたという物語を作り、これを「人道に対する重大な挑戦」と位置づけ、人間の尊厳を守るために断固としてこのおぞましい犯罪と戦わなければならないと大いに人々を扇動し、ニュルンベルク裁判をこうした「人道に対する罪」という今までに存在しなかった特別の罪状を裁く「人類の法廷」であると定義して神聖化し、このような人類史上稀に見る極悪犯罪を裁く法廷はかつて存在しなかった特別なルールに則ったものでなければいけないと強弁したのでした。

こうして作られたニュルンベルク裁判のルールにおいては、ナチスによるこうした極悪の犯罪行為を裁くことが決して疎かになってはいけないという理由から、ナチスの犯罪のみを裁く場とされ、ナチスの犯罪を相対化したり相殺してしまうような戦勝国側の犯罪は免責されるものとされました。
その法的根拠として、ドイツは無条件降伏したのであるから、未だ講和が結ばれていないドイツと戦勝国の間は未だ戦争状態が継続しているのであり、それゆえニュルンベルク裁判は戦争行為の最後の段階である国際軍事裁判であり、例外的な裁判なので従来の裁判のルールに縛られないとしました。
戦勝国による軍事裁判であるのだから、ドイツは戦勝国の捕虜の立場にあり、戦勝国が自らの管理下の捕虜であるドイツを裁くことは合法であると解釈されました。そのため裁判官は戦勝国の人間のみによって構成されており、戦勝国が敗戦国を裁くという、著しく公平性を欠いたものとなりました。これは厳密には正式な裁判ではなく、戦勝国による政治ショーでした。
また、検事や尋問官や裁判スタッフなどにはヨーロッパにおいてナチスに迫害されてアメリカに亡命し、アメリカ国籍を取得したユダヤ人が大量に紛れ込んでおり、この裁判は極めて陰湿で不健全な復讐裁判の様相を呈しました。被告の自白はほとんどが逮捕や尋問の際の拷問によって得られたもので、自白を得るためでなくても拷問は日常的に行われていました。また、被告の家族を人質にとって、家族に危害を加えるという脅迫によって自白を引き出すこともしばしばでした。もちろんこうした拷問や脅迫によって得られた自白に真実性は乏しく、最初から外国語でタイプ打ちされた供述書の署名欄に無理矢理サインさせられるようなものがほとんどでした。
そもそも新たに罪状に含められることになった「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、この裁判において新たに発明された罪であり、刑罰というものは犯罪行為が行われた時点で存在した罪に対してのみ科せられるという「法の不遡及の原則」が近代法においては大原則として存在するのですから、ニュルンベルク裁判はこの大原則に完全に反しています。この一点だけでももうこの裁判は近代的な裁判の体をなしていないといえます。

さらに言えば、この裁判には被告となったナチス高官に一応は弁護士もつけられましたが、弁護活動は起訴事実に関することだけに限定されており、それ以外のこと、例えば戦勝国側が犯した戦争犯罪や侵略行為など、要するに連合国に不利になるような内容について言及することは禁止されました。また、検察側スタッフは裁判資料を自由に閲覧出来たのに対して、弁護側は裁判資料を閲覧することは許されず、検察側の証人への反対尋問の機会もほとんど与えられませんでした。一方、弁護側の証人はいきなり不当な理由で退廷させられたり出廷を禁じられたり、脅迫を受けて出廷出来なくなったり文書を押収されたり検閲されたりすることが多々ありました。このように裁判所スタッフもグルになって淫靡な形で集団リンチのようなものが行われていたのが実態でした。
また、証拠の採用基準というものが存在せず、法廷に提出された証拠は戦勝国によって構成される裁判官の恣意によって取捨選択され、大抵は被告側の提出した証拠は却下された一方、連合国の当局やソ連の人民委員会などによって提出された証拠は捏造された紙切れでもなんでも、全く何の証明も必要なく、フリーパスで採用されていきました。
例えば1939年にソ連軍がポーランドを侵略した際にポーランド軍将校捕虜4000人余りをカチンの森に連行して虐殺し埋めた犯罪を、1941年にドイツ軍によって行われた犯罪だとする捏造報告書がソ連によってニュルンベルク裁判に提出されましたが、これもフリーパスで採用されました。
これが実はソ連軍による犯罪だということはアメリカ軍は知っていましたが、ルーズベルトはその事実を隠蔽するよう指示し、真実を告発しようとした米軍将校がサモア島に左遷されるという事件もありました。さすがにアメリカやイギリスはこの明らかな捏造を支持せず、この事件はニュルンベルク裁判ではまともに審理はされませんでしたが、ソ連の捏造を非難することはなく、こんな明らかな捏造文書ですら証拠としては採用されてしまっているのであり、まぁその程度の法廷であったということです。

しかし、カチンの森事件がニュルンベルク裁判で審理されなかったのは、それが単にソ連の犯罪を隠蔽するための捏造であって、ナチスの犯罪性の証明において主要な要素ではなかったからです。この異常なる「人類の法廷」の数々の逸脱行為を正当化する根拠となっている、「ナチスによる人道に対する重大な挑戦」の基幹部分を立証するための捏造に関しては、連合国はちゃんと一致団結して莫大な情熱を傾けたのでした。
それがユダヤ人大量虐殺事件、いわゆるホロコーストで、実際は強制労働収容所で過酷な労働を強いられたためにナチスによって殺されたユダヤ人の人数は50万人以上、多くても100万人には達さない程度なのですが、それがニュルンベルク裁判に持ち込まれた段階では、「ユダヤ民族の絶滅を企図したヒトラーの指令によって600万人のユダヤ人が絶滅収容所で青酸ガスなどを使って計画的に虐殺されていった」という壮大かつ残酷極まりない物語に発展していました。このような史上例のない凶悪犯罪を裁く法廷であるからこそ、史上例のない(少なくとも近代文明の法体系下においてだが)ほどの残酷な集団リンチのようなこのニュルンベルク裁判という代物もやむをえないものとして許容されていたのです。
しかし、まずユダヤ人を計画的に大量殺害して民族絶滅に至らしめるというヒトラーやナチス上層部からの、いやそれ以外からのものも含めてその類の指令書、その他関連文書などは現在に至るまで一切発見されておりません。また連合国の主張する絶滅収容所なるもののリストのうち、幾つかは稼働していた時期が被告や証人の自白によって得られた証言にあるものと違っていたり、そもそもそんな収容所は存在していなかったり、大量虐殺用のガス室などの施設が存在していなかったりしており、最も主要な施設とされたアウシュヴィッツの収容所はソ連軍が管理して一切部外者を入れなかったためにソ連から提出された報告書の内容のみが事実と認定されました。しかし後年の調査でやはりガス室のようなものは無かったし、遺体を焼く焼却炉も大量虐殺のペースに追いつくようなものではなかったということが判明しています。
関係者の証言も拷問によって得られたものや、明らかなスパイによる証言など、およそ信憑性のあるものではなく、そもそもその殺害の手口とされた青酸ガスによる殺害方法はおよそ現実的なものではなく、もはやニュルンベルクで言われていたような意味でのホロコーストというものは捏造であると断定していいでしょう。戦後から現在に至るまでヨーロッパではこのホロコーストを検証する議論自体が法律で禁止されていますが、だいたいは議論自体を禁止する場合は、禁止する側の言い分のほうに信憑性が無いというのが通例です。

このホロコーストの神話は、カチンの森事件をドイツ軍の仕業とする証拠が正当であると認められた程度のいい加減な法廷において、同じようないい加減な手続きで正当だと見なされた程度の証拠から生まれた神話であり、それ以外にホロコーストを真実だと立証する証拠はそれ以降1つたりとも見つかってはいません。
ナチスドイツの作った強制労働収容所に連行されたユダヤ人たちが過酷な環境で重労働を強いられて、不衛生な環境下での伝染病の蔓延などもあって50万人以上が殺されたのはナチスドイツによる極めて悪質な犯罪行為であり、これだけでも現代を生きる私などには十分に「人道に対する重大な挑戦」だと思われますが、当時の戦勝国の指導者たちはそれだけでは十分ではないと思ったのか、非現実的な御伽話のような嘘を真実の上に塗りたくって、逆にその真実性に傷をつけてしまったのでした。おかげでナチスの犯罪を免罪しようという言論に妙な正当性を与えてしまっているのが現状なのです。
何故、彼ら戦勝国の首脳たちはそんな余計なことをしてしまったのかというと、単に敵対する集団を収容所に入れて重労働させて大量に殺したりする程度の事は彼ら自身もいくらでも身に覚えはあり、むしろ彼らのしでかしてきた数々の「戦争犯罪」「平和に対する罪」「人道に対する罪」の中では他愛ない部類に属する程度のものであり、そんな程度の罪をもってナチスの犯罪のみを人類史上最悪のものとして持ち上げて、自分達の犯罪を隠蔽するには不足していると判断したからでした。
これは全く正しい判断であったと思います。何せ彼らは、第二次大戦の期間中だけでもナチスドイツの何十倍もの強制収容所を国内に作り国内外から強制連行してきた数千万人の人間に奴隷労働を強いて数百万人を殺したり、無差別絨毯爆撃によってドイツと日本で80万人も民間人を殺したり、原子爆弾を投下して2日で30万人の民間人をむごたらしく殺したりして、れっきとした「人道に対する罪」を犯していたわけですから、こんな程度のナチスの犯罪行為ではそれらの印象を薄くして隠蔽することは難しかったでしょう。
当時、最も残酷な兵器だとされていたのは毒ガスでした(原子爆弾は一般にはまだそれほどメジャーな存在ではなかったのです)。だから、ナチスによるユダヤ人強制収容所における大量虐待死事件という事実に、毒ガスという要素を加えてより残酷な装いを施し、更に犠牲者の数を600万人という天文学的数字(当時ナチス支配下の地に住んでいたユダヤ人は約300万人なので600万人を殺すのは物理的に不可能)に膨れ上がらせて、人類史上最悪の犯罪という神話を作り上げたのです。この神話を戦勝国の強権で大々的にプロパガンダして、自らの「人道に対する罪」に関しては徹底的に情報操作で隠蔽し、そうした情熱的な努力があってこそ、この常軌を逸した無茶苦茶な裁判という名の茶番、いや政治ショーが成立し得たのでした。

第二次大戦終了時点で連合国は「ホロコースト」という言葉は使っていませんでした。当時は「ジェノサイド」という用語が使われており、この用語は現在でも大量虐殺を意味する一般名詞として広く使われていますが、実はこの単語はルーズベルトの政治顧問の1人であったポーランド生まれのシオニストのユダヤ人、つまり大戦当初まではヒトラーに協力し、後にヒトラーに裏切られてからルーズベルトの元へ走った連中の1人であるラファエル・レムキンが1944年にナチスによるユダヤ人大量虐殺説を意味する用語としてラテン語の「ジーヌス(種)」と「サイド(殺人)」を組み合せて造語した言葉で、「個々の殺人を通じて民族を絶滅する」というような意味です。このレムキンはニュルンベルク裁判の立案者の1人でした。つまりニュルンベルク裁判用に新たに作られた単語であったと言っても差し支えないでしょう。
しかしナチスはユダヤ人を迫害し奴隷労働力として使役しましたが、一人一人を工学的に殺害していって民族の絶滅を図るなどという無意味なことはしていません。このような「ジェノサイド」が実際に行われたのは例えばタスマニア島の原住民に対する白人植民者(第二次大戦の戦勝国の1つであるオーストラリア人の先祖)による人間狩りゲームなどの事例があり、歴史的事実であるかどうかは不明ですが旧約聖書によればレムキンの祖先にあたるユダヤ人の指導者ヨシュアによるカナン人皆殺し事件が「ジェノサイド」的な事件の最初の事例だといえます。
ナチスのユダヤ人に対する行為は迫害と奴隷的使役の極端に酷いもので、「ジェノサイド」とは字義的には異質のものです。ナチスのこうした行為に類似したものとしては、欧米植民地主義者たちがアジアやアフリカの植民地に住む原住民に対して行ってきた仕打ちがあり、また、「ジェノサイド」と言うには計画性というものが欠如はしているが明らかにナチスの行為よりも悪質な事例としては、アメリカ人の先祖たちが新大陸の原住民であるアメリカ・インディアンの土地を奪うために彼らの9割ほどを殺してしまった事例や、イギリス人の先祖たちがアフリカ大陸の黒人を奴隷貿易のための戦闘行為で1億人以上殺してしまった事例などがあります。また、ナチスと同じ20世紀の、ナチスより遥かに悪質な事例としては、共産主義者たちは世界中で1億人以上もの人間を政治的なテロで虐殺しましたが、これはかなり計画的で、「ジェノサイド」のイメージには近いが、具体的に特定の民族の絶滅を企画したものではなかったので、やはり「ジェノサイド」というわけではないでしょう。
もし20世紀において「ジェノサイド」というものが正確な意味で現実化していたとしたなら、それは第二次大戦後にドイツ人全員の不能化手術を実施してドイツ人の子供を産まれなくしてドイツ人を60年かけて絶滅させようというアメリカ在住ユダヤ人であるテオドール・カウフマンの提案が大真面目に採用されていた場合に限ってのことでしょう。幸い、この狂った提案は却下されたので、第二次大戦終了から64年経った現在においてドイツ人という生き物を博物館以外でも見ることが出来るのです。

「ホロコースト」という言葉は第二次大戦終了時点ではほとんど知られていない言葉で、1978年にアメリカで放映されたナチスによるユダヤ人大量虐殺を扱ったテレビドラマのタイトルとして使われてから有名になった言葉です。
この言葉はもともとはユダヤ教の祭事で獣を丸焼にして神に捧げる儀式の用語で、かなり宗教的意味合いの強い言葉です。「丸焼きの供物」という意味で、つまりナチスによってガス室で殺されて焼却炉で焼かれたユダヤ人たちは唯一神ヤハウェに捧げられた尊い供物であるというわけです。そして、そのような犠牲があったからこそ神はユダヤ人に施しをされたのだということになります。その施しとは、神が約束したユダヤ人国家イスラエルの建国であり、「ホロコースト」の犠牲があったからこそイスラエル建国は正当化されるというのがこの言葉に込められた主張なのです。
実際そのような主張をふりかざしてイスラエルはシオニストのテロ行為によって1948年に強引に建国され、パレスチナ人達を迫害し追放し、まさにナチスと同じ所業によってイスラエルは維持発展していったわけです。つまりニュルンベルクで捏造された「ジェノサイドの神話」は戦後イスラエルのシオニスト達によって「ホロコーストの神話」として二次利用され、ユダヤ人によるパレスチナ人への人種差別、迫害、追放、財産の強奪、奴隷的扱い、虐殺などのナチス的行為を正当化するために使われることになったのです。
そして、このアメリカのテレビドラマが放映された1978年というのは中東においてイスラエルがアラブ諸国に囲まれて窮地に立って何とか事態の打開を図っていた時期で、アメリカはイスラエルを使って石油地帯である中東をコントロールする戦略をとっていましたので、このテレビドラマでイスラエル擁護キャンペーンを行ったというわけでした。つまり「ホロコースト」という言葉は、戦後体制構築のためにニュルンベルク裁判で捏造されたナチスによるユダヤ人大量虐殺(ジェノサイド)という神話を、イスラエルのシオニスト達がイスラエル建国とパレスチナ人迫害のために二次利用し、そして1970年代以降にはアメリカの中東戦略のために選ばれ広められた用語であったのであり、それがその後、「ジェノサイド」よりも有名になってしまい、現在では第二次大戦当時から「ホロコースト」という言葉が使われていたかのような思い込みがなされるようになっています。
しかし、実際はナチスの強制収容所がガス管の無いガス室と呼ばれている単なる死体置場と貧弱な焼却炉しか設置していなかったためユダヤ人は貪欲な肉食神ヤハウェが喜ぶほどには大量に丸焼きにはなっておらず、「ホロコースト」は現代の神話、御伽話に過ぎません。ヤハウェが涎を垂らして大喜びしたに違いない「丸焼きの供物」は、現実にはむしろ広島や長崎でアメリカの手によって大量に捧げられたのだといえます。

ともかく、このようにしてニュルンベルクでは人類の壮大な茶番たる法廷は維持され、戦勝国のあらゆる戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪は不問に付され、ナチスの犯罪だけが裁かれ、ナチスの高官たちが新世界秩序誕生の祝祭の生贄として処刑され、ナチスだけが悪かったという歴史が創造されたのでした。これによって戦勝国側の復讐感情は満足される一方で、一般ドイツ人は免責され、連合国への復讐感情の牙を抜かれて米英仏ソの4カ国に分割して従順に統治されていくことになったのでした。
これらも全て、戦勝国クラブによる新たな世界秩序の創造と恒久平和の維持のために必要なことであったのです。馬鹿みたいな話ですけど笑ってはいけません。当時はそんな夢物語が本気で信じられていた時代だったのです。いや、その夢物語は連合国首脳たちにとっては戦後一貫して、ある意味現実的な制度として現在まで維持されてきたのです。そして、それが今、完全に崩れ去ろうとしているわけです。
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