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現代史についての雑文その15 ドイツと日本1
さて、このように延々とポツダム会談で話し合われたドイツの戦後処理について見てきましたが、ここで日本人たる私が注目したいことは、この日本降伏直前の時期に戦勝国首脳が集まって協議した、本来はナチスドイツ崩壊後というかなり特殊な条件下でのレアケースであるはずのドイツの戦後処理の手法が、そのまま無条件降伏した敗戦国に対する戦後処理の一般的フォーマットとして戦勝国の上層部の頭に安易に刷りこまれたということです。
ドイツと日本とではそもそもの国柄が違い、戦争に至った状況や敗戦に至った状況も、とにかくあらゆることが違うのですが、戦勝国の偉いさん達はドイツのことは多少知っていても日本のことなどほとんど知りませんから、まぁドイツと同じようにすればいいだろうという程度の軽い気持ちで、あるいは他の思惑も絡めて、この「ドイツ・フォーマット」を日本の戦後処理にも適用しようとすることになるのです。そうした気分はこのポツダム会談の途中で日本に対して発されることになる「(第一の)ポツダム宣言」にも反映されることとなります。この日本の国情と合わないドイツ・フォーマットを戦後日本に乱暴にあてはめようとするところに終戦時から戦後の日本の様々な混乱や歪みの原因の一端があったと思われます。

ドイツ・フォーマットとは、先述の文章で取り扱った降伏後のドイツを取り扱うための諸施策のパターンのことで、列挙すれば、「敗戦国は国外派遣軍を引き揚げる」「敗戦国は不当に併合した領土を返還する」「国外在住の敗戦国人を本国へ送還する」「戦勝国は敗戦国およびその首都を分割して直接統治する」「敗戦国は非武装化される」「民衆と戦勝国を免責し敗戦国の統治階級を断罪するプロパガンダと言論統制を実施する」「戦勝国は敗戦国に対する戦争賠償の請求権を放棄する(在外資産没収は除く)」「戦勝国が敗戦国だけの戦争犯罪を裁く特別軍事裁判を実施する(人類史上稀に見る凶悪な犯罪を犯した敗戦国の人道に対する罪、平和に対する罪、通常戦争犯罪を裁くために特別なルールで運営される法廷)」というあたりでしょう。

まず、「敗戦国は国外派遣軍を引き揚げる」というのは、戦争に負けたのだから当たり前のことではあり、ドイツと同様に日本にもあてはまるのは当然なのですが、ドイツの場合は降伏時には国外派遣軍はほとんど壊滅しており引き揚げはそんな大規模なものにはならなかったのに比較して、日本の場合はシナ大陸と東南アジア地域ではほとんど大規模戦闘が無く、かなりの規模の日本軍がほとんど無傷で残っており、これらの引き揚げは簡単ではなかったという違いがありました。
また、本国政府が消滅してしまったドイツ軍の場合、国外においては敵国軍に降伏して武装解除に応じるしか選択肢は無かったので武装解除はスムーズに終わったのに対し、日本の場合は本国政府が存在しているので、軍隊としては本国政府の管理下で独自に武装解除を行い撤退したいという想いが強く、しかも現地部隊は健在で戦闘にも負けていないわけですから、どうしても敵軍による武装解除への拒否感と不信感が強く、なかなかドイツのように簡単にはいかないという事情がありました。
こうした日本ならではの事情を忖度せずに「ドイツのようにやれ」と言われることによってトラブルが起きることは十分に予想されます。実際、日本は日本なりのやり方でやっても大して問題は無かったはずであり、ドイツ風にこだわることは無意味でした。こうした乱暴な要求の仕方を戦勝国がしたために、終戦直前の交渉が無意味に長引き、余計な犠牲が増えたのだといえます。

続いて「敗戦国は不当に併合した領土を返還する」というのは、ドイツの場合は確かにラインラント、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランドというのはヴェルサイユ条約を一方的に破棄した状態で併合したもので、不当な領土併合といえるのかもしれません。但しポーランド以外はその都度、国際社会の承認を得ていますから厳密には不当とはいえず、かなり白に近い灰色程度でしょう。
しかし日本の場合、当時の日本領で不当に併合した領土などありませんでした。1931年の満州への進出は不当なものだと非難されましたが、日本は満州を併合しておらず、満州国という独立国としていました。そもそも満州の地は歴史的にシナ国家の主権の及ぶ地ではなく、満州人の土地でした。そこに満州人が国家を作ろうとするのを日本軍が支援しただけのことで、日本軍の思惑はまぁいろいろあるのでしょうけれど、少なくとも満州国の建国が不当なものであるとは言えず、その後、事実上の独立国として着実に発展してきているのですから、決して日本軍が見せかけのために偽装した国家などではなく、実質を伴った国家だということは間違いのない事実であり、これを偽装国家だと強弁する言論こそ、ためにする空論というべきでしょう。
ただ、この満州国は日本の傀儡国家なのであくまで承認しないというのが連合国の主張で、その連合国が戦争に勝ったわけですから、これは「不当に併合した領土」に準じた扱いとなり、おそらく日本の敗戦と同時に自動的に解消されてしまい、連合国がこの地の領有権を認めるシナ国民党に返還される運命となるのでしょう。
また、マリアナ、パラオ、ギルバート、マーシャルなどの南洋諸島は第一次大戦後に国際連盟によって日本が信託統治を任されていた地で、日本が1932年に国際連盟を脱退した後はなし崩しに実質的に日本が統治していましたが、これは本来は国際連盟を脱退した時点で不当な領有状態となっていたと解釈可能で、これは返還しなければいけないでしょう。しかし国際連盟が無くなってしまっている以上、誰に返還するのかがよく分かりませんが。
それ以外の領土については、例えば朝鮮や台湾についても返還すべきだと連合国は主張しますが、これらは日本が全く合法的に取得した領土であり、またドイツの併合領土が全て大戦直前の1930年代であるのに対して、朝鮮は日露戦争後の1910年に併合、台湾は日清戦争後の1895年に清国から割譲というように、日本領土となってからかなりの年数が経過しており、ドイツの場合と同じように扱うのは適当ではありませんでした。

朝鮮はもともと清国の冊封下にある朝鮮王朝の支配する地でしたが、地政学的に見て朝鮮半島が清国やロシアなどの大陸国家の支配下に入ると日本の安全保障の脅威となるため、明治維新以来、日本は朝鮮が大陸国家の影響下から脱して日本の友好国となるよう働きかけるようになりました。当初は日本には朝鮮を併合しようなどという考えは全くありませんでした。そもそも明治新政府は内政を安定させるのに精一杯でそんな余裕など無かったのです。
しかし同じ頃、アヘン戦争で敗れた後、西洋的な軍備を導入して帝国主義国化した清国が朝鮮を属国化しようとしたので日本と清国の間で朝鮮の独立問題を巡って紛争が生じ、そうした抗争の末に1894年に日清戦争が起き、日本が勝利して1895年に講和条約が結ばれ、清国は朝鮮から撤退して朝鮮は独立し、また清国は戦争賠償として多額の賠償金と共に日本に台湾を割譲したのでした。台湾が日本領となったのはこうした経緯で、この時代はまだこうした戦争賠償で講和を結ぶのが当たり前の時代であり、台湾は全く合法的な手続きによって日清両国が納得し合って日本が得た領土でした。
台湾は清国も実質的には実効支配していなかったような未開の島で、新たにこの島を領土とした日本はしばらくは原住民の抵抗や南方特有の風土などに悩まされましたが、次第に開発が進み、1930年代以降は日本本土の全体主義化、重工業化の流れの中で台湾も大いに発展し、シナ大陸とは隔絶した豊かな文明社会を築くようになっていきました。
一方、日清戦争後、独立した朝鮮を安定化するために日本は支援をしていきましたが、朝鮮の内政が相変わらず安定しなかったため、今度はロシア帝国が朝鮮の内政に干渉してくるようになり、日本の影響力を低下させて朝鮮を属国化しようとしてきました。特に1900年に勃発した北清事変でロシアが満州を支配下に置いた後は朝鮮半島に対するロシアの南下圧力が圧倒的に強くなり、日本に対して38度線以北の朝鮮の支配権の承認を要求してくるようになり、日本がこれを拒否したため、日露間の緊張が極度に高まり、1904年に日露戦争が起こり、1905年に日本が辛勝してロシアは賠償金は払いませんでしたが戦争賠償として南樺太を日本に譲渡して講和を結びました。よって、この南樺太も全く合法的に日露両国の合意によって日本の領土となった地でした。
この日露戦争の開戦と同時に日本は朝鮮と条約を締結して事実上の保護国としましたが、これは満州を戦場としてロシア軍と戦うに際して、背後にあたる朝鮮の不安定さにつけこんでロシアが撹乱工作を行うのを阻止するためでした。そして日本はこの保護国状態を日露戦争後も継続しました。それは、朝鮮の内政の不安定さが常に極東の波乱要因となり日本の安全保障を脅かすため、いっそこのまま朝鮮を保護国として、思いきった内政改革を促すことにしたからでした。
これが朝鮮王朝の抵抗であまり進まなかったことや、朝鮮内の革新勢力に強い要望があったことや、また日本国内の内政的事情、特に陸軍の利権が絡んで、1910年に日本と朝鮮の間で合意して、日本と朝鮮を合邦国家とし、朝鮮王朝の王族を日本の皇族に準ずる地位として、朝鮮政府を廃して日本政府が直接に朝鮮の内政を担当するという条約が結ばれました。これは経済的には日本にとってあまりメリットの無い合邦化でしたが、日本主導で一気に朝鮮の内政改革を進めることが出来るというメリットがあり、言わば日本は安全保障上の理由を優先して朝鮮を併合したのでした。
これは日本と朝鮮の双方の合意の上、国際社会の承認も得て行われた全く合法的な併合でした。ただ、旧来の朝鮮の特権階級の利権を解消するものであったため、旧来特権層の反発が大きく、彼らによるレジスタンス活動がしばらく続きましたが、これも1920年代に入ると日本による内政改革の進展につれて下火になっていき、1930年代以降は台湾と同様、豊かな文明社会が形成されるようになっていました。

こうした歴史的経緯で日本に併合された台湾や朝鮮を、第二次大戦直前の時期にナチスによって半ば強引に併合されたチェコスロバキアやポーランドと同列に「不当に併合した領土」として扱うのは無理のあることです。しかし、連合国の首脳たちは朝鮮や台湾の事情などよく知らなかったか、あるいは知っていても意図的に無視して、日本に対して「ドイツと同じように不当に併合した領土を返還しろ」と、台湾はシナに返還し、朝鮮は日本と合邦する以前は一応独立国であったので、独立国に戻すようにと要求しました。ただ、朝鮮は日本と合邦する前は自立困難な状態であったので、日本から引き離した後は戦勝国による信託統治下に置くという方針でした。
しかし朝鮮については大戦末期には日本は独立を検討していたくらいで、既に独立国としてやっていけるくらいまで成熟していました。だから信託統治などする必要は無かったのですが、これは要するに長年の宿願を果たして朝鮮の38度線以北をソ連が手に入れて、残りの朝鮮南部をアメリカが管理してソ連の南下を牽制しつつ日本の大陸進出を食い止めるという構図でした。
そして日本が長年かけて築いてきた朝鮮の豊かなインフラは彼ら戦勝国にとっての貴重な戦利品でした。同様に台湾のインフラもシナ国民党にとっては貴重な戦利品でした。また、満州にも日本は一大重工業地帯を築いていましたが、これもソ連やシナにとっては戦利品でした。戦勝国の中でも特にソ連とシナは本国の経済は破綻しており、この戦利品のインフラを有効活用するなり略奪して売り飛ばすなり、いくらでも使い道はありました。
当時のアジアにおいて産業的な最高の先進地帯は日本でしたが、その日本の産業施設は米軍の空襲によって徹底的に破壊され壊滅していました。すると当時のアジアにおける最も先進地帯は、日本によって築かれていながら戦災の影響を受けずに残っていた朝鮮、台湾、満州の3地域であったのです。この3地域はシナや東南アジア、極東ロシアなどの周辺地域と比較して隔絶した豊かさを誇っており、ソ連やシナにとっては喉から手が出るほど欲しい戦利品であったのです。
考えてみれば、日本本土はあれほど徹底的な空爆で破壊されたというのに、朝鮮、台湾、満州には空爆はほとんど行われていません。台湾などは沖縄があれほど破壊されたのに米軍は台湾を無視するように通り過ぎています。こうした不自然さは、つまりはこれら3地域は最初から戦勝国が戦利品とする予定であったのだと考えれば合点がいきます。だからこれら3地域はドイツの併合地と同列に「不当に併合した領土」として扱われて返還するように求められたのでしょう。この、実質的に戦利品であったか無かったかが、周辺地域に比べて大して資産価値の高かったわけではない(実は隠された重大な価値はあったのだが)ドイツ併合地と日本の併合地の場合との大きな違いであったのです。

いや戦利品として欲しいのならそんな無理な主張をせずとも普通に戦争賠償で分捕ればよかったとも思われますが、それをやってしまうと「賠償請求権を放棄する」という他のドイツ・フォーマットに反してしまいます。もちろん賠償請求権を放棄するといっても戦勝国には在外日本資産の没収(略奪)は認められているわけですから、これらの領土自体を資産とみなして没収することも出来ましたが、その場合、没収額は巨額となってしまい、結局は日本から莫大な賠償を取ったという形が残り、戦勝国はこの3地域で領土以外にも実際はインフラなどもかなり略奪はするのであり、それらも合計した略奪資産があまりにも多くなると戦勝国の道義的な優越性が低下してしまい、それが日本人の復讐感情を刺激してしまう危険があります。
ならば「不当に併合した領土」としてこの3地域の領土については全くタダで取り上げることが出来れば、それは略奪分には加算されず、むしろ道義的に日本を貶めて戦勝国側の道義的優越性を保つことが出来ますから、こっちのほうが新世界秩序の統治階級たるべき戦勝国のとるべき措置としては、より相応しいということになるのです。
しかし敗戦国たる日本にとっては、遥か昔に正当な手段で取得した領土を強引にドイツ同様に「不当に併合した領土」呼ばわりされて返還を命令されるのは理不尽なことであり、納得出来ないと感じる者が多くなるのは必至でありました。それは戦勝国に対する日本人の不満に繋がり、それが復讐感情に発展し、論争が起きることによって戦勝国の欺瞞が暴かれる可能性もあり、戦後国際秩序の撹乱要因となる恐れがありました。
そこで戦勝国側では満州や朝鮮や台湾が日本によって不当に併合された領土であるという根拠を主張する必要が生じ、1937年から1945年にかけての大東亜戦争に加えて、日本が満州を獲得した満州事変、朝鮮と南樺太を獲得した日露戦争、台湾を獲得した日清戦争、更には千島列島を獲得した1875年の千島樺太交換条約までひっくるめて、近代日本の歴史全般を一連の不正な侵略の歴史であると定義し直した歴史観を新たに提示する必要に迫られたのでした。
このそれぞれ別個の意味合いを持った戦争を強引に一連の意図をもった侵略戦争としてしまう歴史観は全くムチャクチャで真実性に乏しいのですが、これこそが日本の正当な領土および勢力圏である満州と朝鮮と台湾および北方領土をひっくるめて不正な領土であると強弁して戦勝国によるこれらの地域の強奪を正当化する必要性から無理矢理に発明された新しい歴史観であったのです。
ドイツの場合は戦勝国によって強奪された領土が1933年以降のナチス政権下において獲得されていた領土ばかりであったために、戦勝国によるそれらの強奪を正当化するためにはナチス政権のみを侵略者という名の悪玉とする歴史観を提示すれば事足りました(ただ例外としてポーランドに割譲されてしまったドイツ東部の領土は中世からドイツ人の土地であり起源が古すぎたので戦勝国側もその強奪を正当化するのは諦めてしまいましたが)。
しかし日本の場合は無理にドイツ・フォーマットをあてはめて「日本が不当に併合した領土」として戦勝国が強奪した領土の日本による取得年次が近代日本の歴史の中に広く散らばってしまっていたため、戦勝国によるそれらの強奪を正当化するためには近代日本の歴史全体を暗黒の侵略の歴史であるとする歴史観を提示しなければならなくなったのでした。こうして結果的に近代日本は全体的にドイツ以上に悪質な侵略国家であるというレッテルを貼られることになってしまったのでした。

次に、「国外在住の敗戦国人を本国へ送還する」というドイツ・フォーマットを無理に日本に適用したことによる影響ですが、これについては直接的には別にどうという影響はありませんでした。
戦勝国の首脳たちは日本のことなどほとんど知りませんでしたから、自分達のよく知っている敗戦国ナチスドイツのイメージを日本に投影して、ナチスドイツが中欧や東欧に古来から散らばる在外ドイツ系住民を扇動してドイツへの併合を求める過激な活動を大規模に展開させて現地当局がそれを取り締まったところでドイツ系住民保護を名目に侵攻したというような手口と同じような手口を使って、「アジア各地に古来から散らばる日本系住民」の保護を名目に台湾や朝鮮を併合したり満州やシナに出兵していったのだと思い込んでいたのです。だから二度と日本がそのようなことが出来ないように、ドイツ・フォーマットの「国外在住の敗戦国人を本国へ送還する」の原則に則って、「アジア各地に古来から散らばる日本系住民」をみんな日本に強制移送しなければいけないと思ったのでした。
しかし実際は「アジア各地に古来から散らばる日本系住民」などというものは存在していませんでした。日本人は昔から基本的に日本列島にしか住んでいなかったのです。確かに近代になってから近隣諸国に駐在したり出稼ぎに出たりする日本人はありましたが、彼らの存在が戦争のきっかけになるということはありませんでした。むしろ近代日本政府は在外邦人の絡んだトラブルの際には近隣諸国に配慮することが多く、在外邦人に対しては冷淡ともいえました。
在外邦人のほうも外国に根を下ろすというよりは一時的な出稼ぎ感覚の者が多く、根っ子は日本に置いているような者が多かったので、終戦時にはむしろほとんどの者が日本への帰還を望んでおり、日本への強制移送措置はむしろ彼らには幸いでありました。その点、生まれ育った故郷を追われるという悲哀を味わった東欧や中欧のドイツ系住民とは異質でした。ただ、移送の過程において財産をほとんど略奪されて失ってしまったという点では共通していましたが。まぁこれは敗戦国民ということで、生命があるだけマシというもので、仕方ないといえるでしょう。
ただ、このような在外邦人の日本への送還措置というのは、日本列島に日本人を閉じこめておくことが本質的な目的なのであり、これは手本となったドイツのケースにしても同じことであったのです。しかしドイツはそうはいってもヨーロッパ大陸のど真ん中に位置していて他の国々と地続きで繋がっており、しかも東西冷戦の最前線となったので自然と外との人やモノ、情報の出入りが激しくなり、単にドイツ人を閉じこめておく牢獄としておくわけにはいかなくなっていったのでした。それでドイツ人は比較的早く健全な感覚を取り戻していったのでした。
ところが一方、日本の場合はもともとが島国で閉鎖性が高く、そこにこの戦勝国による日本人を列島に閉じこめて外部の情報から遮断する措置が何年間か続いてしまったものですから、すっかり日本人は外部の情報に疎くなってしまい、その後はそうした疑似鎖国状態は解消されたものの、東西冷戦の最前線から一歩引いた位置にあったことと、戦後日本特有の政治の不作為状態、言ってみれば主権の無い属国状態、平和ボケ状態も相まって、すっかり国際情報の世界から取り残された戦後日本人が出来上がってしまったのでした。これは戦後日本の在り方に起因するものが大きいのですが、占領期の日本人を日本列島に閉じこめておく措置もそのきっかけは作ったといえるでしょう。

そして次に「戦勝国は敗戦国およびその首都を分割して直接統治する」というドイツ・フォーマットですが、これはドイツ本土においては米英仏ソ4カ国による分割しての直接統治という形で現実化しましたが、日本においてはこうした分割統治は実現せず、日本本土はアメリカ1国が占領し、日本政府を介して間接統治することになりました。この点についてはドイツと日本は全く違った形になったのであり、あえてドイツ・フォーマットを日本に適用することは最初から放棄されています。あまりにも状況が違い過ぎていたからでした。
まず、分割統治か否かという点ですが、これはもちろん日本は分割統治はされていないと言われています。しかし、これについては別の捉え方もあり、当時の日本本土というのはあくまで朝鮮や台湾、南樺太や千島列島も合わせたものであったので、日本本土はアメリカが日本列島および南朝鮮を、ソ連が北朝鮮および南樺太と千島列島を、シナが台湾を、というように分割統治されたという風に解釈する考え方です。
しかし少なくとも朝鮮と台湾についてはカイロ宣言の時点で既に日本から分離させる旨のことを連合国は主張していますし、北方領土もヤルタ秘密協定で日本から切り離して考えられていますから、これらは例えばドイツのケースにあてはめればオーストリアやラインラントなどに相当するのであり、連合国にとっては本土とは別扱いであると考えたほうが適当でしょう。そういう解釈をすれば「日本本土」はあくまでアメリカ1国によって占領統治されたのです。もちろん首都である東京も同様です。
どうしてドイツと日本の間でこのような違いが生じたのでしょうか。そもそもドイツを戦勝国を占領して統治しなければいけなかった理由は、まずドイツ政府が消滅していたのでとりあえず統治を代行しなければいけなかったからであり、そしてその統治を継続しなければいけなかった理由は、ドイツがまた隠れて再軍備などしないように監視するためでした。その目的が達成出来ればよいのであり、よく考えたら別に4カ国で分割統治する必要があったわけではありません。分割統治は、必要があって行われたわけではなく、やむをえずそのようになっただけのことでした。
分割統治になるか否かの分水嶺とは、単に本土にソ連軍が侵攻してきたか侵攻してこなかったかの差でしょう。ソ連軍が侵攻した地においては必ずソ連はその地の統治への参画を要求し、統治に参画した後は必ずその主導権を握ろうとするのです。そうなるとアメリカやイギリスは分割統治という形でソ連と棲み分けてソ連による撹乱をシャットアウトしようとするのです。ソ連と米英などの統治スタイルがあまりに違うので、共同統治形式にすると行き詰るのは必至だったからです。いや、ソ連にしてもそのほうがやり易かったことでしょう。ドイツの場合は降伏時には既にソ連軍が本土に侵攻してきていましたので、そういう分割統治という形にせざるを得なかったのでした。

日本の場合もポツダム会談の開会時点ではドイツと同様に分割統治となることが想定されていたはずです。何故なら、トルーマンはこの時点でソ連の参戦を積極的に望んでおり、7月17日にスターリンがトルーマンに口頭で伝えたところによれば8月半ばにソ連は対日参戦することになっていたからです。
そうなるとソ連軍は満州に一気に雪崩れ込みますが、同時に南樺太と千島列島にも侵攻します。そうして、どんなに日本軍が頑強に抵抗したとしても、9月中にはソ連軍は北海道に上陸するでしょう。一方、アメリカ軍が南九州に上陸するのは11月初旬です。その頃にはソ連軍は北海道の大半は制圧していることでしょう。
どうやら、ソ連参戦を前提としたアメリカ上層部の日本本土攻略のシナリオは、南方の米軍ばかり警戒して北方の防備は手薄になった日本軍の不意をついてソ連軍を北から侵攻させて、混乱してソ連軍を迎撃しようとする日本軍を米軍の空爆で叩いてソ連軍の進撃を援護し、ソ連軍の進撃によって日本軍が恐慌状態となったのを見計らって日本軍の背後をついて今度は米軍が南九州に上陸するというようなものであったようです。
この戦略ならば、ソ連軍が北海道や東北地方ぐらいまで進撃した時点で米軍が関東に上陸して日本に止めを刺すという感じになります。これならば米軍は日本軍がだいぶ弱った時点で地上戦に参戦しますので、犠牲者も少なくて済むでしょう。その分、ソ連軍のほうはそれなりに多くの犠牲を払うことになりますから、日本占領後の統治には当然参画を求めてくるでしょう。そうなるとアメリカは分割統治でいこうと言い、ソ連には北海道と東北を割り振り、残りをアメリカが独占するとソ連が文句を言うので、アメリカの言いなりになるイギリスとシナを引きこんで見かけ上は均等に分配したようにしたことでしょう。計画では関東と中部をアメリカが管理し、近畿をアメリカとシナの共同管理とし、四国はシナが管理し、中国と九州はイギリスが管理するという感じだったようです。また、東京23区はベルリンやウィーンと同じように米英支ソの4カ国で分割管理する計画でした。
もしソ連がこの構想を超えて、米軍が関東に上陸していない時点で東北以南へ侵攻しようとしたならば、おそらくそうした緊急時にはトルーマンは関東平野あるいは新潟平野に原爆を投下してソ連軍を強く牽制するつもりだったのではないかと思います。当初のソ連参戦を中心に据えたトルーマンの戦略の中での原爆の最も有効な使い方といえば、このあたりではないかと思うのです。もちろんその前にデモンストレーションと実験を兼ねた広島、小倉、長崎のいずれかへの投下があってのことではありますが、それがあってもなおソ連軍が東北以南への進撃に踏み切った場合は、次の原爆はソ連軍の鼻先に投下するつもりだったのではないでしょうか。
このドイツ・フォーマットの構想通りに日本本土の戦いが進めば、日本はドイツ同様に分割統治されていたことでしょう。しかし、そうはならなかったのはトルーマンがソ連が参戦して日本本土に侵攻してくる前に日本を降伏させて米軍を進駐させてしまう方針に切り替えたからでした。いや、トルーマンはソ連の参戦自体を最終的には妨害しようとまでしたのでした。その理由はソ連の勢力が極東で拡大することを嫌ったからでした。
何故トルーマンが短期間でそこまで極端に変節したのかについては後で触れますが、とにかく現実の歴史はそのようになり、さすがにソ連の参戦阻止までは出来ず満州や北朝鮮や北方領土はソ連のものになってしまいましたが、日本本土はアメリカ1国によって占領統治されることになったのでした。これがドイツと日本の戦後処理の最大の違いとなります。

また、降伏後の統治形態の違いについては、ドイツが4カ国による分割統治、日本がアメリカによる単独統治という違い以外に重要な相違点として、ドイツの場合が戦勝国の直接統治であったのに対して、日本の場合はアメリカが日本政府を通じて間接統治を行ったという点があります。
これもドイツと日本とであまりに敗戦時の状況が違っていたのでこの点において日本にドイツ・フォーマットの適用が出来なかったからでした。すなわち、ドイツは政府が完全に消滅していたのでドイツ人も戦勝国による統治以外に選択肢が無く受け入れるしかなかったのに対して、日本の場合は政府が無傷で残っていたため、敗戦は受け入れたとしても日本人が日本政府の統治以外をすんなり受け入れる状況ではなく、アメリカとしても間接統治しか選択肢が無かったのでした。
言い換えれば、日本に乗り込んできたアメリカ占領軍は、ドイツの場合においては対峙することのなかった巨大な潜在的脅威と対峙することになったのです。一応降伏して従ってはいますが、つい先日まで頑強な抵抗を続けていた日本政府がそっくりそのまま生き残って目の前に存在しているわけですから、米軍から見れば潜在的な脅威として重苦しく感じていたことでしょう。
統治スタイルとしての分割統治だとか直接統治だとかいうのは所詮は形式的な問題に過ぎず、ドイツ・フォーマットにおいて本質的にドイツ統治の最重要目的とされたのは「ドイツの非武装化」であり、そのための手法として状況に合わせて分割統治や直接統治がチョイスされていたに過ぎません。ならば、日本における単独統治や間接統治というスタイルも、「日本の非武装化」という目的を達成するための手法に過ぎなかったのですから、統治スタイルの違いよりも、次のドイツ・フォーマットである「敗戦国は非武装化される」という項目を重視すべきでしょう。

この「敗戦国は非武装化される」というフォーマットを日本においてドイツ同様に適用して、日本を非武装化するにあたって、ドイツの場合と違って最大の脅威となったのは、日本政府の存在でした。ドイツの場合はナチス政権が無くなっていたので非武装化は簡単でしたが、日本の場合はそもそも日本を軍事大国化していた当事者である日本政府が健在なのですから、いつまた再軍備するものか分かったものではありませんでした。すると必然的にドイツの場合よりも強い再軍備に対する歯止めが必要となります。
そういうわけで、日本においては、ドイツの場合と違って敗戦国である日本側が比較的強い立場であったがゆえにこそ、ドイツと同じ「非武装化」という目的達成のためには、ドイツの場合以上に厳しい再軍備禁止のための法規制でがんじがらめにされることになってしまったのです。これが憲法9条問題や憲法96条問題の出発点となっているのです。つまり間接統治であったことがアメリカの警戒心を高めて、より厳格な非武装方針を貫徹した日本国憲法をもたらしてしまったのでした。
一方、ドイツのほうも当初は非武装化されていましたが、分割統治で直接統治であったため、とうとう1949年には東西ドイツに分断されてしまいました。これは確かに不幸なことではありましたが、東西ドイツともに冷戦の最前線に放り込まれてしまい、東西ドイツのそれぞれを支援するソ連と米英仏があまりに互いに激しく対立してしまったため、当初の目的であったはずのドイツの非武装化という方針が完全に忘れ去られてしまい、まずソ連が隠れて東ドイツの再軍備を行い、それに対抗するために1955年には西ドイツにおいて日本国憲法に相当するボン基本法が改正されて、自立した軍事力を持つ普通の国家へと脱皮することに成功したのでした。
ドイツでは冷戦の最前線となったことで国家が分断されてしまったことは確かに不幸なことですが、同時にドイツを抑え込んでいた戦勝国の結束も分断されて、冷戦の最前線の荒波で翻弄されて弱体化したため、当初の戦勝国の「ドイツを非武装化しよう」という意思をドイツにおいて貫徹することが不可能になり、少なくとも西ドイツは「普通の国家」へと戻ることが出来たのですから、これは怪我の功名というものでした。
それに比べて日本の場合は、アメリカ単独統治で、しかも日本政府を通しての間接統治でありましたから国家の統一性がしっかり維持されて、ドイツのように国家分断の悲劇にあうこともなく、また東西冷戦の最前線は朝鮮半島の38度線や台湾海峡となったので、日本は最前線の後方という位置を占めて安定した平和を享受して発展していくことが出来ました。これは確かに幸運なことでしたが、それは同時に日本を統治しているアメリカの支配力もぬくぬくと温存されたということで、当初のアメリカの「日本を非武装化しよう」という意思を貫徹することを容易にしてしまったのです。
そうは言っても冷戦によって完全に非武装状態を続けることは不可能になり、1950年には警察予備隊が出来て、それが保安隊を経て、1954年には自衛隊が発足することになりましたが、アメリカ単独統治であったことが、アメリカの占領方針を相殺するような対抗勢力が日本においては不在な状態を作り、そのためにアメリカが作った厳格な非武装方針が完全には消えずに貫徹されてしまい、ドイツの場合のように憲法改正にまで至ることが出来ず、一応は再軍備はしたものの、中途半端に「普通の国家」へと戻ることに失敗してしまい、自立した軍事力を持った国家へと脱皮することはなく、その悪い流れのままズルズルと現在にまで至っているのです。
つまり、日本はドイツと同じように非武装化されながら、占領時にアメリカが日本政府を通した間接統治であったゆえにより厳格な非武装方針を植え付けられ、アメリカ単独統治であったゆえにその非武装方針からの脱却に失敗したのだといえます。これは「敗戦国は非武装化される」というドイツ・フォーマットを適用されながら、「戦勝国は敗戦国およびその首都を分割して直接統治する」というドイツ・フォーマットは適用されなかったことによる良くない結果だといえます。しかし、だからといって分断国家になればよかったというわけではないのですが。
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この記事に対するコメント

千島にソ連が侵攻出来たのは、我が国政府の対応が間違っていたからで、それさえなければ、千島は我が国の縄張りである。
 もう一つ、最初のポツダム宣言にはソ連は参加していない。
 そのとき、受諾を表明すれば、それでお仕舞いであった。
 それだけである。
要するに、我が国指導者がまったく、だめで在ったことを、示しているだけで、そのほかには何もない。

吉田茂は原爆のような高価なものはそうあるものではない。これで終わりだろうとして、動じなかったという。
 このようなセンスが必要である。
歴史の展開に対する判断は難しい。後知恵にならない判断はむずかしい。
 上記の意見も後知恵かもしれないが

【2009/03/10 13:33】 URL | kenji #YxYWc9S2 [ 編集]



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