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現代史についての雑文その19 新世界秩序
1945年7月15日に米英ソ首脳会談に出席するためにドイツ東部、ベルリン郊外の都市ポツダムに到着したアメリカ合衆国大統領トルーマンは、翌16日の夜に、その日の朝にニューメキシコ州の砂漠で米軍が実施した人類史上初の原子爆弾の起爆実験が成功したという第一報を受けました。そしてポツダム会談の本会議は翌17日から始まり、その冒頭の前、17日の早朝にトルーマンはソ連国家主席スターリンと初対面し非公式会談に臨みますが、この時点では原爆実験の詳報はまだ受けておりません。
この米ソ首脳の非公式会談の席でスターリンはトルーマンに対して、8月半ば頃にヤルタでの密約通りソ連が対日参戦すると確約し、トルーマンは大いに喜びました。当時、日本との戦争で米軍の被害を少なくするために出来れば米軍の日本本土侵攻作戦を行わずに早期に日本を無条件降伏させることがトルーマンの求めることであり、ソ連の参戦によってそれが実現する可能性が高くなるからでした。それをこのポツダムでスターリンに改めて要請することがトルーマンにとって今回は大きな懸案であったのですが、それが早々に解決したことになります。それでトルーマンは大いに喜んだのです。

アメリカ政府内では、日本に対しては天皇制度の保証を盛り込んだ対日最後通告を原爆投下の警告と共に米英ソ3カ国で発して即刻の降伏を促すべきであるという陸軍長官スチムソンや国務次官グルーら大東亜戦争を軟着陸で終戦させようというグループと、アメリカ国内の対日強硬世論に配慮してあくまで日本に対する最後通告では完全なる無条件降伏を求め天皇制度の保証には触れるべきではないというバーンズ国務長官らの国内世論重視グループが存在していましたが、トルーマンは国内世論重視グループの意見を採用していました。
日本政府が実は終戦を望んでいることはアメリカ政府も把握していたので、スチムソンら軟着陸派の方法ならば日本が降伏に応じる可能性は高いことは分かっていたのですが、急死したルーズベルトの後を急遽継いだばかりのトルーマンとしては国内世論の動向を重視せざるを得ない立場であり、またルーズベルトの生前の公式対日方針があくまで無条件降伏を要求しることであったので、トルーマンはその方針を踏襲することにこだわったのでした。その対日強硬方針では日本が本土決戦を経ずに降伏に応じる可能性が低くなるので、それを補うために、日本が講和の仲介役として最後の望みを繋いでいるソ連が対日参戦することによって日本に無条件降伏を受け入れるしか選択肢は無いと悟らせるのが有効であるとトルーマンは考えていました。そういう意味でトルーマンはソ連の参戦を強く望んでいたのでした。

トルーマンの戦略としては8月にソ連に対日宣戦させて満州や樺太に侵攻させ、更に北海道、東北地方まで侵攻させればその間に日本は無条件降伏を受け入れて米軍を日本に進駐させることが出来るので、ソ連が北海道と東北を統治、アメリカとイギリスとシナが関東以東を三分割して統治するという日本分割占領統治プランに移行出来るとなっていました。もし日本がそれでも降伏しないようならば、ソ連軍との戦いで弱体化した日本軍の背後を突いて11月に米軍を九州に上陸させ、更に1946年3月には関東に上陸させて日本を屈伏させ、日本分割占領統治プランを実現させるつもりでした。
この場合に懸念されることが先行して日本本土に侵攻するソ連軍が米軍との約束を無視して関東や中部地方にも侵攻してくることでした。先のヨーロッパにおける戦いでは米軍はソ連軍が先にドイツに侵攻しベルリンを蹂躙するという約束をしっかり守りましたから、この日本における戦いでも米軍が東京を押さえるという約束をソ連が守ってくれることを期待していましたが、ヨーロッパの場合は先にドイツ軍と地上戦を戦っていたのはソ連軍であり、しかもソ連軍のほうが米軍よりも圧倒的に数も多かったのですから優先されるのは当然であり、実際に地上戦が始まれば先に地上部隊を派遣した国が主導権を握ることになるものですから、日本においても先に侵攻するソ連軍は米軍より有利な立場にあり、必ずしも米軍との約束を守るとは限りませんでした。
こういう心配をしなければいけないというのも、アメリカ政府が国民の厭戦気分に気を使って米軍の被害が多く出るのを恐れて日本本土侵攻に消極的であったせいなので、まぁ自業自得なのですが、もしソ連軍が約束を破って米軍上陸前に関東以東へも押し寄せて日本全土を押さえてしまうようなことがあれば大変なので、その場合にトルーマンはソ連軍の侵攻を止めるために日本に原爆を投下してアメリカの実力と覚悟を示すつもりであったと思われます。
原子爆弾はそのため、8月までには使用可能な状態に到達していることが求められ、急いで7月16日に起爆実験が行われたのでした。ただ、この急がせた実験が確実に成功するとは限らず、この実験の成否によって原爆の実戦使用が可能になるかどうかが決まるので、とにかくこの実験の成否次第でアメリカとしても対日戦争のプランがいろいろ変わってくるので、あらゆる可能性を排除しないまま、まずはこの実験の成否を見極めた上で迅速に戦争方針を決定していこうということになり、そういうわけで米英ソ3カ国首脳会談の日程をこの原爆実験の翌日開始というふうに組んだのでした。
そして7月16日に原爆実験は成功し、その報告を受けた状態で余裕をもってトルーマンはスターリンと初会談し、スターリンから対日参戦の申し出を受けて、これで全てが上手く運んだと有頂天になったのでした。これでアメリカは原爆という切り札を隠し持ったままソ連を日本に侵攻させて高見の見物で日本の降伏を待つことが出来るようになったのです。もしソ連がアメリカの思惑を超えた行動をとるようなことがあれば原爆投下というデモンストレーションをした上で威圧すればソ連はコントロール出来ると踏んでいました。
この場合、原爆はソ連に対する切り札ですから事前にその存在は知られないほうが良く、また日本に投下する場合も大きな戦果が上がらなければソ連に対するデモンストレーション効果が低くなるので事前警告など全く無益でした。そういうわけでスチムソンの唱える原爆投下の事前警告を日本に与えるという案は却下され、米英ソ3カ国の連名でポツダムから発する予定の対日最後通告は原爆のことには触れず、天皇制度保証も明言せず、ただ無条件降伏を要求するという原則的なもの、言い換えれば具体的内容に乏しいものとなることが決まりました。
日本政府はソ連を最後の頼みの綱としていましたから、対日最後通告にソ連が名を連ねていることに大きな衝撃は受けるでしょうけれど、それが即座にソ連の参戦を意味するというわけでもない(とにかくこの時点で日ソ中立条約はまだ有効であった)ので、それだけで日本がすぐに降伏するということにはならないでしょう。そうなると、このような具体的内容の無い、相変わらず高圧的に無条件降伏を求める通告に対して日本政府が積極的に応じるとも思えませんでした。昭和天皇や鈴木首相、あるいは東郷外相あたりはあるいは対ソ交渉の失敗を重く受け止めて戦局の将来を悲観して通告の受諾に積極的になったかもしれませんが、やはりそれだけでは軍部を説得しきれなかったと思われ、結局は8月のソ連の参戦から一気に本土決戦に突入していくことになったでしょう。
トルーマンが7月17日のスターリンとの会談の後、すぐにチャーチルとスターリンに対日最後通告を出すことを提案し、その日のうちにでも3カ国首脳連名の対日最後通告が発表されていれば、事態はそういう方向へ進んでいったことでしょう。しかし、トルーマンは原爆実験に関する詳細な報告をまだ受け取っていなかったので、まずは慎重に原爆実験の詳細な報告を待ちながらポツダム会談の本会議をこなしていくことにしたのでした。

日本政府は6月22日に昭和天皇の政府方針に介入しないという原則を破っての異例の終戦の希望を述べられたことを受けて、ソ連を仲介としてアメリカと講和するという終戦工作を始めており、7月12日にはソ連政府に対して正式に近衛元首相を特使としてモスクワに派遣したい旨を打診していましたが、それに対する回答をしないままスターリンはポツダム入りして17日にトルーマンと会談し8月中頃に対日参戦すると自ら進んでアメリカに媚びるような態度をとり、そして翌18日には日本に対して特使受け入れを拒否する旨回答しています。
実は16日にポツダムへ到着した際にスターリンはアメリカのマンハッタン計画に潜り込ませたスパイから報告を受けており、アメリカの原爆実験成功を知っていました。第二次大戦にアメリカが参戦した頃から米ソ軍事協力にかこつけてソ連は米軍や米政府にスパイを大量に送り込むようになっており、スターリンはマンハッタン計画にもその初期の頃からスパイを潜り込ませており、大統領就任までこの計画の存在すら知らなかったトルーマンなどよりもよほどマンハッタン計画については詳細に知っていました。
スパイから仕入れた情報を基にしてソ連でも極秘に原爆開発計画が既に進行中であったのですが、アメリカとは資金力が違いますからアメリカほどには開発は進んでいませんでした。また、アメリカを真似て原爆を開発しようにもその原料となるウランがソ連ではこの時点では採掘されておらず、ウラン鉱山のあるブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツなどがソ連の支配下に入ったのは1944年以降のことであり、実質的にはソ連の原爆開発計画はそこからスタートしており、まだこの1945年時点ではソ連製原爆は開発の目処は立っていませんでした。
そういうわけで16日にアメリカの原爆開発成功の報せを聞いたスターリンは、これでしばらくはソ連はアメリカと軍事的に対決することは出来ないと観念しました。いや、もともとドイツとの戦争で実際は国力の限界まで経済が悪化していたソ連にはアメリカと互角に渡り合う力など無く、向こう30年ぐらいは対米協調しつつ経済を立て直し、アメリカに呑み込まれて自らの国内の独裁体制が倒れるようなことだけは避けていこうというのがスターリンの本音でした。そうした防衛的(といっても凶悪な独裁専制体制の防衛だからロクなものじゃないが)な意味合いで独自の核開発をしたり、アメリカにスパイを送り込んだりしていたのでした。
こういう本音を持っていたスターリンはこの際、アメリカに積極的に協力して、しっかり取り分は取っていこうという方針で、17日のトルーマンとの会談では自ら進んで対日参戦を申し出て、ヤルタ秘密協定で約束していた南樺太と千島列島の領有、満州における権益、モンゴルへの影響力、北朝鮮の信託統治などはしっかり確保していこうとしたのでした。そしてそうと決まればアメリカに疑惑を持たれるような日本との交渉など無益であったので、18日には日本に対して近衛特使の受け入れ拒否の通告をしたのでした。
日本政府もスターリンがポツダムでトルーマンと会っていることは知っていますから、このソ連側の特使受け入れ拒否が日本にとって厳しいニュアンスのものであるということは分かりました。それで愕然とした日本政府でしたが、拒否されたのは特使受け入れだけで、完全に講和交渉そのものを否定したわけではなく、ましてやソ連が中立条約を破って日本へ侵攻するような素振りには見えなかったので、この18日の特使受け入れ拒否だけで対ソ終戦工作を諦めず、この後も引き続きソ連に向けて講和への仲介を打診し続けることになったのでした。
このソ連側の中途半端な態度は優柔不断というわけではなく、ソ連が実際に対日参戦する8月中頃までに日本が降伏してしまわないように、日本政府にそれまでの間、希望を持たせ続けるために作為的になされたものでした。もしソ連が軍事行動を起こす前に日本が八方塞がりになって降伏を表明してしまえばアメリカもそれを無視するわけにもいかないだろうから、ソ連が対日参戦出来なくなってしまうかもしれず、そうなればヤルタ秘密協定は無効ということになってしまい、ソ連は手に入るはずだった多大な領地や権益をみすみす失うことになってしまいます。だからスターリンとしてはソ連参戦までは絶対に日本を追い詰め過ぎないことが大事で、だからスターリンから見れば、トルーマンがポツダムで発表しようとしている対日最後通告すら実を言うと余計なのであり、そこにソ連が名を連ねることで日本が絶望してしまうことは決してソ連の国益にはならないのでありました。
このようにソ連、いやスターリンはアメリカに対しては一応その主導権は認めつつ協調し、自らの悪辣な独裁や奴隷制国家を維持するという自主性だけは守ろうという姿勢でありました。こうしたスターリンの姿勢はアメリカ主導の世界新秩序を建設しようとしたルーズベルトによって許容されていました。

アメリカ政府というのは第一次大戦後に急速に成長したアメリカ資本主義の代理人であり、海外市場を求める企業体の代表者によって構成される利権集団が実体です。特にルーズベルトはその中心に位置するエリート中のエリートで、彼の目指す世界新秩序というのは世界政府のような理想主義的側面を建前とし(いや案外これも本心であったのかもしれないが)、実質的にはアメリカ資本主義による世界市場の制覇でありました。世界市場とはこの時代においては実質的にはアメリカ市場、ヨーロッパ市場、そして極東市場でした。まぁ現在でも同じようなものですが。
アメリカは18世紀末にイギリスから独立し、その後19世紀中頃までに北米大陸の大部分を領有してアメリカ市場は押さえました。いや、正確にはアメリカの国土の発展に伴って徐々にアメリカ市場というものが形成されていったのであって、この時点ではアメリカ市場など大したものではありませんでした。やはり当時、世界市場とは、先進国の集まるヨーロッパ市場と、人口膨大な極東市場でした。第一次大戦前まではこの2つの世界市場であるヨーロッパ市場と極東市場は当時の世界覇権国家である大英帝国、つまりイギリスが押さえていました。この2つの世界市場を押さえていたからこそイギリスが世界覇権国家であったと言い換えることも出来ます。
そこに第一次大戦が起き、アメリカは戦場となったヨーロッパへの軍需物資の輸出で急速に経済発展し、第一次大戦後に疲弊したヨーロッパ各国への復興支援特需でヨーロッパ市場へ進出し、イギリスに代わって世界最大の経済大国となりました。この時、アメリカ市場というものも世界市場の一角を形成するようになったといえます。この第一次大戦後にアメリカが世界を主導する立場になったのに伴って、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で国際連盟が出来ました。これは世界政府を志向したもので、理想主義的な世界政府構想と現実的な世界市場制覇構想とが一体となったアメリカ流の世界戦略の雛型がここに見られます。
しかし、これはこの時点では極めて不完全なもので、まずアメリカ国内でこのアメリカ政府の世界覇権戦略に異議を唱える国内重視派の勢力が根強く、結局アメリカ自身がこの国際連盟に加入することも出来ませんでした。また極東市場はアメリカと同様に第一次大戦によってヨーロッパが疲弊した隙に経済発展した日本が影響力を増し、アメリカはほとんど参入出来ませんでした。またヨーロッパ各国の戦災の復興が終わるとヨーロッパ市場では再びイギリスの影響力が強くなり、また極東市場でもイギリスは勢力を盛り返しました。
しかし第一次大戦後のバブルで膨れ上がったアメリカ経済はあくまで海外市場を求め、海外市場でイギリスや日本とトラブルを起こすようになり、結果的にはアメリカはヨーロッパ市場でも極東市場でも一時期ほど勢力を伸ばすことが出来なくなりました。そこでアメリカの余剰資本は国内の投機に向うようになり、アメリカ市場は一見、空前の発展を遂げましたがこれは完全なるバブル経済で、実体経済と投機経済の落差が許容量を超えた瞬間、株式は大暴落し、1929年、世界大恐慌を招いたのでした。
この世界大恐慌が世界各地での共産主義型の全体主義の台頭を招き、それに対抗するために国家主義型の全体主義の台頭も招き、この全体主義体制によって新たに経済発展した国々がその集権的な急発展ゆえに海外市場を求め、世界経済の再編を賭けて争い合うようになり、もともとアメリカの参加していない弱体であった国際連盟にはそれらの争いを抑える力は無く、その結果、第二次大戦が起きたのでした。

つまり要約すれば、世界大恐慌が第二次大戦の原因となったということです。そして世界大恐慌の原因はアメリカが世界市場制覇に失敗したことであり、ならばアメリカが世界市場を制覇していれば世界大恐慌は起きず、第二次大戦も起きなかったということになります。では第二次大戦のような世界大戦を再び起こさないようにするにはどうすればいいのかというと、アメリカが世界市場を安定支配する体制を維持すればいいということになります。
また、第二次大戦を防止出来なかった大きな原因にアメリカの不参加による国際連盟の弱体があったのも事実で、ならば世界大戦を再び起こさないようにするためにはアメリカ主導のより強力な世界政府的な機能を果たす機関の設立が必要ということになります。
これらは極めてアメリカ中心の、アメリカの身勝手な論理であるのは確かです、別に世界覇権国がアメリカである必要は無く、他の国でもいいわけですから。しかし、何処か一国が世界覇権国にならねばならないとするならば、それは相応の実力を備えた国でなければならないのですから、当時において最もその資格を有する国はアメリカであったのも確かでしょう。
ちなみに、そうしてヨーロッパと極東の市場で経済覇権を確立しようとし続けたのがアメリカの戦後史であり、それがほぼ完全に実現したのが90年代ポスト冷戦の時代でした。この時期、世界の経済覇権を完全に握ったアメリカ経済は最大規模に膨れ上がり、それがその後、21世紀に入ってEUの台頭、ロシアの復活によってヨーロッパ市場におけるアメリカ優位が揺らぎ、膨れ上がったアメリカ資本は極東市場、特に改革開放政策の共産シナの市場に流れるようになり、それによってシナ経済のバブルを引き起こし、そして近年になってシナのバブルが弾けて経済が失速したことによって極東市場がアメリカ経済の投資を受け止めきれなくなり、それらによって生じた余剰資本が最終的にはアメリカ国内の投機に流れ、空前の株価の高騰を招き、そのバブルが2008年、サブプライム問題で弾けて再び世界大恐慌を招いたのです。こうして見ると、結局アメリカは1929年の世界大恐慌の時と同じ構図を繰り返しているのです。

「経済面におけるアメリカによる世界経済覇権の確立と、政治面におけるアメリカ主導の世界政府の実現、この2つが相互補完し合って車の両輪のように機能することで世界の恒久平和が実現する」、ルーズベルトは第二次大戦に至る世界の混乱の中でそのように考え、それゆえアメリカとその協力国である戦勝国クラブに大きな権限を持たせた国際平和維持機構を作ることを構想し、その戦勝国クラブの中でもアメリカが特に覇権を維持するためにヨーロッパ市場と極東市場を押さえることを目指し、第二次大戦に参戦して勝利することを通じてそれらの構想を実現することにしたのでした。
極東市場は日本とイギリスの角逐の場となっていましたが大東亜戦争の勃発によって日本が制覇していました。だからアメリカは極東市場に関してはシナ国民党と組んで敵国である日本を叩き潰せば手に入ると考えていました。一方、ヨーロッパ市場の方は大戦前はイギリスが強かったのでアメリカとしてはイギリスを潰せばいいのですが、大恐慌の影響でナチスドイツが台頭し、イギリスをヨーロッパ市場から駆逐してしまいました。当初はルーズベルトはナチスと協調することも考えましたが、ナチスがアメリカの産業界のビジネスパートナーであるユダヤ財界と険悪な関係となったため、まずはナチスドイツを倒すためにイギリスと手を組むことにしました。そのため、ナチスドイツを倒したとしてもイギリスの影響力がヨーロッパ市場に残ってしまいます。
そこでルーズベルトはナチスドイツと戦う連合国のもう一角であるソ連に肩入れするようになり、ヨーロッパにおけるソ連の力を強くすることによってイギリスの影響力を削ぎ、ヨーロッパでは米ソ協調体制のもと、イギリスを牽制していくようになりました。それゆえ、ヨーロッパ戦線ではルーズベルトはナチスドイツ軍と戦うにあたってソ連が勢力を広げるのに有利な戦略ばかり選択し、逆にイギリスの権益を保持しようとする戦略の邪魔ばかりしてチャーチルをイラつかせました。これはチャーチルから見ればルーズベルトが無能であるように見えたでしょうが、ルーズベルトは意識的にイギリスの足を引っ張っていたのだと思われます。
また極東市場においても日本を倒した後に再びイギリスの支配力が復活しないように、アメリカは連合国に海外植民地の放棄を呼びかけました。これは表向きは民族自決の原則を強調した理想主義的なものでしたが、その真の狙いはイギリスにインドやマレーなどのアジア植民地を放棄させることによってシナ市場へアクセスする力を削ぐことが目的でした。ちなみにこのように扇動して無責任に独立させた東南アジア諸国が国家破綻しかけた時、アメリカが日本に賠償名目で支援を肩代わりさせて尻ぬぐいさせることになるのです。東南アジア諸国は大戦中に日本によって国家の基礎が作られ、戦後には日本の支援があったから何とか立ち行くようになりましたが、同様にその流れで60年代に無責任に独立させられることとなったアフリカ諸国などは破綻国家ばかりになってしまい、多くの人々が難民になって苦しむ羽目になっています。

このようにアメリカは第二次大戦を戦いつつ、同時にヨーロッパ市場と極東市場でイギリスや日本という経済覇権確立の上でのライバルの影響力を排除していく戦略を実行していったのでした。そうすることによってアメリカ産業界の要望に応えつつ、それがアメリカ主導の世界平和、すなわち「パクス・アメリカーナ」の実現に繋がるという信念がルーズベルトにはあったのでした。
その戦略遂行にあたってのパートナーが極東ではシナで、ヨーロッパではソ連でした。シナは適度に弱体であったのでアメリカにとっては言いなりになる子分のようなもので、極東市場の中核をなす存在でした。シナは極東においては市場そのものであり、アメリカと競合する存在とは見なされていませんでした。
一方、ソ連はアメリカにとっては御し難い存在ではありましたが、ソ連の元来の支配地は市場として大して価値のあるものではなく、ロシアとその周辺の僻地の住民がスターリンの圧政下でどんな酷い目に遭おうとも、そんなことはルーズベルトにはどうでもいいことでした。ソ連の力を利用してイギリスのヨーロッパ覇権を突き崩すことこそが重要なのであり、そのためにスターリンの多少の我儘と自分の縄張り内での非人道的行為には目を瞑るというのがルーズベルトの方針でした。
そうしてアメリカが頂点に立ち、ソ連を一段下のパートナーとし、弱体化させたイギリスもソ連と同格の立場でアメリカの下に置き、その下にアメリカの子分的存在としてのシナがくるという4カ国の戦勝国クラブを支配層とした世界政府で戦後世界を仕切っていくというのがルーズベルトの構想でした。そしてそのアメリカの絶対的優位を担保して世界政府を実現するための切り札としてルーズベルトは原子爆弾をアメリカが保有することを目指し秘かに開発に着手したのでした。そうして原爆開発を秘かに進めつつ、ルーズベルトは大戦の勝利が揺るぎないものとなるにつれて、世界政府構想を具体的に進めていくようになり、1944年9月のダンバートン・オークス会議ではその新しい国際平和維持機構の枠組みが出来上がりました。
しかし、ここにおいてルーズベルトの構想には幾らか狂いが生じていました。まず日本軍のシナ大陸での大攻勢である大陸打通作戦によってシナ国民党が極めて弱体化し、極東におけるアメリカの戦略パートナーとして、また戦勝国クラブのメンバーとしても存在感をほとんど喪失してしまったことです。これによってアメリカは極東市場における日本の排除のためのパートナーとしてもソ連に依存せざるを得なくなり、その分、戦勝国クラブの中でのソ連の発言力が増しました。また、それに対抗する意味もあり、イギリスがシナの存在感の無さに付け込んでフランスを戦勝国クラブに引き込むことに成功し、英仏連合としてソ連やアメリカに対しても発言力を相対的にやや向上させました。
こうして戦勝国クラブの中でのアメリカの絶対的優位は崩れつつあり、世界最大の経済大国アメリカが戦勝国クラブにおける筆頭的存在であることには変わりないものの、ソ連やイギリスが戦勝国クラブの保有することになる拒否権という特権を使ってアメリカに対して政治的に揺さぶりをかけられる態勢は準備されていたのでした。
それでも、まだナチスドイツや日本という共通の敵と戦っているうちは戦勝国クラブ内の不協和音も目立っていなかったのですが、ナチスドイツが壊滅し、日本も本土決戦寸前にまで追い詰められるようになると、共通の敵をほぼ失った戦勝国同士の不協和音が一気に深刻度を増し、1945年4月に始まった新国際平和維持機構である連合国機構の憲章を制定するための大事なサンフランシスコ会議は大荒れとなってしまい、戦後世界はルーズベルトが思い描いていたものとはどうもズレ始め、波乱含みのものとなってしまいました。しかしこの会議の直前にルーズベルトは急死してしまっており、計算の狂い始めた戦後の新世界秩序の舵取りは副大統領から昇格したトルーマンに託されたのでした。

そのトルーマンは4月に大統領職を継いでからこの7月のポツダム会談にこぎつけるまで、とにかくルーズベルトの敷いたレールに沿ってやってきました。ソ連が支配下に置いた東欧で米英と結んだ約束を次々と反故にし、連合国機構の憲章作りの過程でも国益エゴを剥き出しにして正常な議論を妨害し続け、それらのソ連の無法に対してイギリスやフランス、そしてアメリカ政府内からも激しい怒りの声が上がる状況の中でも、なんとか米ソ協調路線を維持し続けました。
外務次官のグルーや陸軍長官のスチムソンが日本に対して天皇制度の保証を与えることで早期終戦を図ろうと進言したのも、これ以上ソ連に借りを作ることでソ連の我儘を助長したくなかったからでした。トルーマンだってソ連の横暴には頭を悩ませていましたが、それでも国内世論の猛反発が必至な対日譲歩だけはどうしても出来ないので、やはり日本を降伏させるのにソ連の参戦をアテにするしかない状況であったのです。
ところがポツダム会談の本会議が始まり、ドイツの戦後処理問題が話し合われるようになると、トルーマンはソ連があまりに東欧やドイツで無法なことをやっており、それでいてスターリンがとんでもないタフ・ネゴシエイターで、決して交渉では譲歩しないので、ソ連の絡む交渉では議論は全て平行線となり膠着状態に陥るということを身を持って知ることとなりました。
ポーランドの国土移動問題でも、オーストリアの分割統治問題でも、ドイツの分割統治問題でも、賠償問題でも、ソ連の要求はどれもこれも厚かましいものでチャーチルなどは猛反発しましたが、スターリンは頑として譲らず、話は進みませんでした。トルーマンとしてはヨーロッパについてはイギリスの勢力を削ぐことが目的でしたから、一応はスターリンと協調してチャーチルを抑え込むような立場に立ちましたが、それにしてもスターリンの傲慢さと頑固さには舌を巻き、このようなソ連の増長が続くようでは新世界秩序の先行きは不安になってくると強く思うようになりました。
それでもまだヨーロッパ市場はイギリスの庭だからソ連を使って荒らすということには意味はありました。しかし極東市場は既にアメリカとその子分のシナ国民党の縄張りなのです。ここにわざわざソ連というトラブルメーカーを引きこむのは無意味なことであるとトルーマンには思えてくるようになりました。ソ連は対日参戦の見返りに満州に足掛かりを築けば、ヨーロッパで横柄に振る舞っているのと同じように極東市場においても横柄に振る舞い多くのものを求めてシナ人とトラブルを起こすであろうと予想出来ました。そしてそれを収拾しようという交渉の席でスターリンは決して譲歩しようとはしないでしょう。スターリンがポツダムでこんなに強気でいるのは既に東欧において勢力圏を拡大していたからであり、それに加えて極東でも勢力圏を拡大すれば、ますますスターリンは強気になってますます強情になるでしょう。そうなればチャーチルやド・ゴールなどその他の国々もますます反発し、アメリカ国内でも反ソ感情が高くなり、新世界秩序は空中分解してしまうかもしれませんでした。
スターリンとしては本音ではアメリカの覇権は認めており、ソ連の自主性さえ保証されるならアメリカの目指す新世界秩序を潰そうなどという気は特に無かったのですが、あまりにスターリンがポツダムで強気の交渉をしたために、本会議が進むにつれてトルーマンはすっかり警戒的になり、せっかく亡きルーズベルトが基礎を築いた新世界秩序を台無しにしないためにもソ連の極東での勢力拡大をあまり歓迎しないスタンスへと徐々にシフトしていったのでした。

ソ連の対日参戦もまたルーズベルトの遺志でありましたが、もともとのルーズベルトの構想では極東市場から日本を排除をするのはアメリカとシナであるはずで、シナが弱体化したのでやむなくソ連の助力を必要としただけのことで、本来は極東ではソ連の出る幕は無かったはずなのです。それが本来のルーズベルトの構想で、それが狂ったあたりからルーズベルトの戦後構想も狂いが生じてきていたのでした。
ならば、ここはいっそソ連の対日参戦が無く日本を降伏させるほうが、むしろルーズベルトの本意に沿うことになるのではないでしょうか。なんといってもルーズベルトの真に目指していたものはアメリカ主導体制の確立でしたから、ソ連の増長がそれを不安定化させるというのであれば、ソ連の増長を阻むことが今こそ求められるべきではないかとトルーマンは考えるようになりました。
トルーマンはルーズベルトの信奉者であると同時に、偉大すぎる大統領であったルーズベルトの後を偶然的に引き継いで、常にルーズベルトと比較され続けるという立場ゆえに、また生前のルーズベルトから侮辱同然の軽々しい扱いを受けていたという事実ゆえに、ルーズベルトに対して屈折した感情も抱き続けており、その尊敬と反発の入り混じった結果、「ルーズベルトのやろうとした事をルーズベルト以上に上手にこなしてみせる」という意地のようなものに心を支配されていました。
そのトルーマンの目から見て、このポツダム会談における状況は偉大なるルーズベルトにとっても予想出来なかった計算外の事態で、この逸脱を収拾して本来のルーズベルト路線に戻すことこそがルーズベルトの忠実な後継者たる自分に課せられた責務であり、それを成し遂げることによって自分はルーズベルトの後継者として相応しい存在になれるのだという想いがトルーマンにはありました。いや本心を言えば、そうすることによって自分はルーズベルトを乗り越えることが出来ると思い、それを強く望んでいたのでした。しかしそこでトルーマンが言う「本来のルーズベルト路線」というのも、結局はルーズベルトの遺した数々の施策の中からトルーマンの主観でその都度の現実状況に合わせて取捨選択し優先順位をつけて解釈して作り出すものであったのでした。
トルーマンはルーズベルトが何よりも新世界秩序をアメリカ主導のもとに安定させることを目指していたと解釈し、ルーズベルトの死後、ソ連の増長が新世界秩序を不安定化させている現状においては、極東においてはソ連の参戦なく日本を屈伏させるほうが新世界秩序のこれ以上の不安定化に歯止めをかけることになり、本来のルーズベルトの目指していた方向性に近くなると解釈したのでした。
しかし、これに近いようなことはトルーマンも4月の大統領就任以降も何度も考えたし、米政府高官や側近の中にはもっと明確にソ連の脅威を説く者もしました。それらがその都度退けられてきたのは、やはりそうはいってもソ連参戦が米軍の被害を最小限にしつつ日本を早期に無条件降伏させる最も現実的なプランで、これ以外に現実的なプランは見当たらなかったからでした。(唯一、グルーとスチムソンの提案した天皇制度を保証するプランが日本に降伏を受け入れさせるもう1つの現実的な対案でしたが、これは見た目がアメリカ国民の納得する「無条件降伏」ではないため、却下されていました)
では何故トルーマンはこの唯一の現実的プランであったはずの「ソ連の対日参戦」プランへの執着を急速に薄めて心変わりしていったのかというと、それはこのプランに対抗し得る現実的プランが急速に彼の中で浮上してきていたからでした。それがつまり原子爆弾を使って日本を降伏させるというプランでした。
もともと原子爆弾こそルーズベルトが新世界秩序においてアメリカが主導権を握る切り札として開発に着手したものなのですから、それが完成した今こそ、この原子爆弾を有効に使って新世界秩序の不安定要因となりつつあるソ連の影響力を削ぐプランを立てることこそが、ルーズベルトの遺志に最も忠実なのではないかとトルーマンは考えたのでした。
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