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現代史についての雑文その20 ポツダム宣言
7月16日夜に原爆実験成功を簡潔に報せる第一報がトルーマンの手元に届き、その後、ポツダム会談の本会議が進行していくのに並行して、アメリカ本国の陸軍当局から次々と原爆実験の状況を報せる報告がポツダムのスチムソンへ、そしてスチムソンからトルーマンへ届けられました。
ただ、ポツダムは言わばソ連のホームグラウンドであり、電信の類は傍受されている可能性が高く、宿舎の会話すら盗聴されている危険があり、それ以前に原爆開発計画は米政府内でも少数の高官しか知らない極秘プロジェクトであったので、通信士にもその存在を知られてはならず、そのため原爆に関する本国との連絡は全て暗号で行われました。それも原文を通信士に渡して暗号化させるようなものではダメなので、最初から隠語で通信文を作成してそれを送るという方式となりました。つまり送り手と受け手にしか文意が分からないようにしたのです。この方法の場合、機密性は高く保持されますが、あまり複雑な内容の遣り取りには不向きでした。

例えば17日にトルーマンに届けられた原爆実験の続報は原爆の威力に関する内容でしたが、この中では原爆は赤ん坊に喩えられ、実験は出産、研究スタッフは医者に喩えられ、「出産に成功した赤ん坊は元気で医師たちは大喜びです」というような感じでした。この暗喩の対照関係はあらかじめスチムソンが本国を発つ前に補佐官のハリソンとの間で決めていたので、この一見したところ赤ん坊の出産報告のように見える電文を見れば「原爆実験は大成功だったんだな」ということが分かるようにはなっていました。
ただ、この方式の場合、例えば19ktや80兆ジュールなどという原爆の威力を表す数値を電文中に入れ込むわけにはいきませんでした。80兆ジュールの熱量を発する赤ん坊などいないからです。いや、そもそもそんな膨大すぎる数値を何らかの方法で報せたところで、送り手のハリソンにも受け手のスチムソンにもトルーマンにも、その意味するところはピンと来なかったことでしょう。実際、ハリソンにそうした数値を報告した研究者たちも、その数値が膨大すぎて、その数値が軍事的にどういう意味を持つのか具体的にイメージすることが出来ない状態であったのです。
そうなると、何か身近な事象に置き換えてその威力を報告するということになり、その17日のハリソンからスチムソン宛の電文では「ここワシントンで生まれた赤ん坊の目の光がスチムソン長官の家からも見える」や「ここワシントンで生まれた赤ん坊の泣き声が私の農園にも聞こえる」などというような表現となりました。スチムソンもハリソンもお互いの家や農園の場所は把握しているので、こういう表現を使えば、原爆の発した光がどのくらいの距離から見ることが出来て、その発した爆発音がどのくらい遠方まで達したのかが具体的に分かり、そこから逆算してだいたいの原爆の威力が想像出来ました。そこから類推された原爆の威力はとにかく途方もないものであることは分かりました。
しかし、スチムソンにしてもトルーマンにしても軍務経験はありましたが、とにかく昔のことでありましたし、爆発物の専門家であったわけでもありません。ポツダムの随員の中には爆弾の専門知識を持った者もいたでしょうが、とにかくこれは原子爆弾という全く未知の超兵器なのです。的確な論評の出来る者などポツダムはもちろんのこと、ワシントンにだって、マンハッタン計画のメンバーにだっていなかったことでしょう。ですから、トルーマンの原爆の威力に関する理解は結局はかなり曖昧なものとなり、「とにかく史上かつてないほどのとてつもない威力」という感じとなったのでした。

17日の朝にスターリンとの非公式会談でソ連の対日参戦の約束を取り付けて大喜びしたトルーマンは、そのまま本会議に入り、ドイツの戦後処理問題でさっそくソ連の増長ぶりを目の当たりにし、その夜に、既に到着していたこの原爆実験の続報を受け、完成した原爆の威力がとてつもないものだということを知りました。ここからトルーマンの中で、そんなにとてつもない威力の爆弾を使えるのであれば、あるいは事前に日本に降伏勧告を出した上でその脅威的爆弾を投下して甚大な被害を生じさせれば日本は恐怖して降伏するのではないかと考えるようになったのでした。
日本が既に終戦を望んでソ連に講和の仲介を依頼していることはトルーマンも把握していました。アメリカに直接降伏を申し入れずにソ連に仲介を依頼するというのは日本がまだ何らかの条件をつけて講和しようとしているからであり、それではアメリカの求める無条件降伏とはほど遠いので話にはならないとトルーマンは捨てておいたのですが、とにかく日本政府が相当弱気になっており、特に天皇が国民の被害の増えることを恐れているということは把握していました。
天皇が日本国民の壊滅的被害をもたらすものとして恐れていたのが本土決戦で、その本土決戦を実行するためにはアメリカはソ連の加勢が必要な状況で、それゆえアメリカはソ連がどんなに増長しようともソ連を恃みにしなければいけない状況であったのです。しかし、原爆投下によって本土決戦に匹敵する国民の被害がもたらされると天皇や日本政府が判断すれば、本土決戦、すなわちソ連の参戦を必要とせずに日本が無条件降伏を受け入れる可能性は高くなります。
もちろん、トルーマンはともかく原爆開発計画の最高責任者のスチムソンはこの時点でアメリカが保有している原爆がトリニティ実験で消費してしまった「ガジェット」を除けば「リトルボーイ」と「ファットマン」の2発しかないということは把握していました。ポツダムにいるスチムソンから聞いてトルーマンもそのことは把握していたことでしょう。いくら史上最大の威力の新型爆弾であるといっても、たった2発では本土決戦に匹敵する被害を日本に与えられるわけはありませんでした。更に追加の原爆も8月中旬頃に出来てくる予定ではありましたが、大量生産はまだ難しい状況で、そうこうしているうちにすぐに8月中頃にソ連が参戦してきてしまいます。
しかし、原爆は1発分の威力としては途方もないものです。そして既に日本本土に対しては米軍は何万発もの爆弾を投下してきました。その恐怖は日本国民に染み込んでいるはずです。そこにアメリカが更に途方もない威力の新型爆弾を投下してきたという事実が重なれば、その途方もない新型爆弾がこれから何万発も投下されると日本国民は恐怖するのではないでしょうか。日本政府はさすがに原子爆弾がそう安易に作れるものではないと分かっているでしょうから何万発などとは妄想はしないでしょうが、それでもアメリカ保有の原爆がたった2発とは思わないでしょう。国防というものは最悪の事態を想定する傾向が強いからです。もし日本政府がアメリカが原爆を数十発ぐらいは持っているのではないかと想像してくれれば、本土決戦に匹敵する膨大な犠牲を恐怖することになります。このあたりトルーマンは少し原爆の威力を過大評価していますが、これは未知の超兵器で、しかも遠く離れたポツダムの地で暗号文での遣り取りからの判断ということで、いくらかの判断ミスはやむを得ないことでした。

そういうわけでトルーマンは17日夜の原爆実験の続報を受けた時点から、「出来るだけ早急に日本に対して無条件降伏の最後通告を出し、その上で手持ちの原爆2発を日本に投下することが出来れば、8月中頃に予定されているソ連参戦の前に日本に無条件降伏を受け入れさせることが出来るのではないか?」と考えるようになり、翌18日にさっそくスチムソンに命じて本国のハリソンに向けて返事の電文を打たせました。それは「出来るだけ早く原爆を投下したいが、原爆の実戦使用は早くていつぐらいに可能になるのか?」ということを問い合せる内容のものでしたが、もちろんこれもまたこういう場合を想定してあらかじめ決められていた隠語が用いられ、「患者の手術はいつぐらいに可能になるのか?」というような内容でした。
このポツダムからの電文を受けた陸軍長官補佐官のハリソンはテニアン島の原爆投下実行部隊に連絡し、出来るだけ早く日本へ原爆を投下出来るように準備態勢を整えさせました。原爆の本体は16日のトリニティ実験の成功後、すぐにサンフランシスコからテニアン島へ向けて巡洋艦インディアナポリスに乗せて出港しており、10日ほどでテニアン島へ到着することになっていました。そして原爆の組み立てやその他様々な準備なども含めて判断した結果、8月初旬には原爆投下が可能になるという結論を得て、その旨をハリソンが再びポツダムのスチムソンに向けて打電したのが7月21日のことでした。
この報せを受けたトルーマンは、8月初旬に原爆を日本に投下出来れば、8月中頃のソ連参戦までに日本との戦争を終わらせてソ連参戦の口実を無くすことは十分に可能と判断し、原爆早期投下計画に大きく傾くようになり、その計画をチャーチルに伝え、米英協調でこの計画を進めることにしました。もともと原爆開発計画自体が米英協力体制で進められており、チャーチルには17日の朝の時点で既に原爆実験成功の事実は通達してありました。チャーチルとしてはソ連のこれ以上の増長は望んでいませんでしたから、それを阻止するためのトルーマンのこの計画には大いに喜び協力を誓ったのでした。

このあたり、トルーマンにしてもチャーチルにしても、やや慎重さを欠いているように見えますが、トルーマンには「原爆の使用によってアメリカ主導の新世界秩序を構築することこそルーズベルトの遺志に沿うことである」という大義名分がありました。一方、チャーチルは内心ではそんな新世界秩序などという絵空事は信じておらず、原爆などというものはたかが火薬に過ぎないと、かなりシニカルな見方をしていましたが、ソ連への対抗意識でトルーマンの案に気軽に乗ったのでしょう。
しかしトルーマンなどはもともとそれほど大して期待していなかった原爆実験が予想以上の大成功を収め、原爆の威力も想像以上、しかもすぐにでも実戦投入が可能という、あまりにも上手くいきすぎた結果につい有頂天になってしまったからなのかもしれません。そうした有頂天ぶりはアメリカ本国におけるマンハッタン計画の関係者にしても同じことで、巨額の資金を消費してきた巨大プロジェクトが無駄に終わらなくて済んだという安堵感から気がかなり緩んでおり、実験結果にしても、とにかく未知の爆弾を砂漠で1度爆発させただけですから、実際にこれを市街地で使った時にどのようなことになるのかはまだよく分からないのが実情であったにもかかわらず、かなり誇大に期待感を表明してしまっており、それが暗号文で曖昧な形でポツダムのトルーマンに伝わり、これが更に有頂天のトルーマンの頭の中で増幅されて誇大かつ楽観的な想像となってしまったのかもしれません。
また、それほどトルーマンの中で本人の想像以上にソ連への不満が燻っていたともいえます。チャーチルの場合はソ連への反感はあからさまなもので、ソ連への反感だけが原爆投下への賛成の動機の全てであったといってもいいでしょう。しかしトルーマンの場合はチャーチルとは違い、表向きはソ連との協調を重視していただけに、余計にソ連、いやスターリンの傲慢な態度に対する不満が心の奥底に鬱積しており、本人も意識しない内心ではソ連に極東での利権など与えたくない、ソ連抜きで日本に打ち勝ちたいという想いが燻っており、本当は原爆実験が大成功してソ連の参戦を期待しなくてよいという未来を望んでいたので、それが原爆実験の結果に対する過大評価を招き、自らを有頂天な気分とすることによって一気に突っ走ったというの部分もありましょう。
加えて、トルーマンの信任厚い懐刀であったバーンズ国務長官が国内世論を最優先に考える政治家で、日本に確実にアメリカの力だけで勝てるというのであれば、ソ連に極東で利権など与えるべきでないと、かなりドライに考えており、ヤルタ密約なども将来的に国民や世界にバレたら厄介なものでしかないので反故にしてしまいたいと考えており、これが同じく国内世論優先派のトルーマンに大きく影響を与えたようです。
しかしこうした傾向はルーズベルトの遺した良くも悪くも壮大な米ソ協調による新世界秩序の構想とはかなり異質な考え方で、世界戦略不在の近視眼的な世論迎合政治といえました。だいたいこんな不義理なことをしてソ連が怒ったら、それこそ新世界秩序は不安定なものになってしまいます。それはルーズベルトの遺志に反してしまうのではないでしょうか。そして実際の歴史はそのようになりました。
もし最初からトルーマンやバーンズが米ソ全面対決を覚悟してこのような不義理をしてわざとソ連を怒らせたというのなら先見の明があったというべきですが、実際にはソ連がこの件をきっかけにあからさまに反米的態度を示すようになった後でもトルーマンやバーンズは米ソ協調の新世界秩序の夢をまだ捨てきっていないかのような態度をしばらく続けます。つまり、このポツダム会談の時点ではそこまで世界戦略の変更まで見据えた覚悟が実際にあったわけではなく、トルーマンやバーンズは表向きは世界戦略家ルーズベルトの後継者をもって任じ、「原爆を用いて新世界秩序をアメリカ主導で安定化させることこそルーズベルトの遺志である」としつつも、その実際の姿は国内政治優先の卑小な政治家に過ぎず、この時はソ連への不満と原爆実験成功の有頂天に流されて、その卑小な真の姿が思わず表面化して、このようなやや軽はずみな決定をしたのでしょう。
そして、老獪な帝国主義者チャーチルの場合はこの軽率な決定が必ずしもアメリカの国益には寄与しないであろうことは理解しつつ、ソ連の不利益にもなるものであり、そもそも米ソ対立はイギリスにとっては利益となるであろうと計算し、有頂天のフリをして賛成したのでしょう。

このように7月21日に原爆投下作戦の実施に大きく踏み出した米英両国は、更にアメリカ本国に原爆投下実行部隊の状況を問い合わせつつ、ポツダムでは原爆投下に先立って発表する対日最後通告の文面の最終仕上げ作業が行われることとなりました。これはグルーの原案を基にグルーとスチムソンとフォレスタルが仕上げた軍部案にバーンズが修正を加えたものが既にほぼ出来上がっており、それに最終的に文面を詰めるだけであったので、さほど大変な作業ではありませんでした。
内容的には軍部案に盛り込んであった天皇制度保証の文言は既にバーンズによる修正で省かれることは決まっており、原爆投下の事前警告もしないことも既定事項であったので、この段階での修正というと、それはつまりバーンズによる修正後もまだ選択肢として残っていた、ソ連の名をこの宣言に盛り込むかどうかという部分に尽きました。その部分について、原爆投下によってソ連の対日参戦前に戦争を終わらせてしまおうという目的を確認したトルーマンとチャーチルは、この対日最後通告からソ連を排除する方針に傾き、その文面からも「ソ連」の字句を全て削ってしまい、対日戦争にはソ連は全く無関係のものとして扱おうとしたのでした。つまりソ連には極東で何もご褒美は与えないということですが、明白にヤルタ秘密協定を無視した措置でした。
これは表向きは、ソ連は日本と中立条約を結んでいる手前、それまでも例えば対日政策について協議するカイロ会談には遠慮して参加しなかったりしたので、明確に日本に限定した声明であるこの対日最後通告にソ連が参加しないのも不自然ではないのであり、決してヤルタ密約を無視したものではないと言い訳することは出来ましたが、それにしてもこの最後通告は実質的に対日降伏要求なので、これで戦争が終わってしまうかもしれないわけで、もしこれでソ連が参戦しないまま戦争が終われば実質的にはやはりヤルタ秘密協定は反故にされてしまうわけですから、ソ連から見ればこれは立派な裏切り行為でした。
このようなことをすればソ連が反発することは火を見るより明らかなのですが、そういう非礼な声明をこともあろうにソ連の独裁者スターリンも参加した首脳会談の開催中に発表しようというのですから、かなり大胆な決定といえます。この大胆さの背景には、トルーマンには原爆という超兵器への過信があり、原爆という切り札を切ればソ連は驚きのあまり何も出来やしないだろうという計算があったと思われます。

その自らの過信が確信であることを確認するためにトルーマンは23日の夕方、本会議の終了後、スターリンに雑談の中で「我々は今まで存在したどんな爆弾より強力な新型爆弾を開発しました。日本が降伏しなければ日本に対してこれを使用するつもりです」と告げ、一種の脅しをかけ、同時にスターリンの反応を確かめようとしました。ここではあえて「原子爆弾」という言葉は口にはしていませんが、ここまで言えば当時の一定の機密情報に通じた各国政府上層部の軍事常識ではこれは原子爆弾のことを指すと考えるのが普通で、事実上、トルーマンはスターリンに対してアメリカの原爆保有を宣言したことになります。
これに対してスターリンはほとんど無反応であったので、慌てふためくスターリンを見て面白がることを期待していたトルーマンは少しガッカリしましたが、これは新型爆弾の意味すら理解していない、つまり通常爆弾の少し大型のもの程度としか理解していない鈍い反応であると解釈したトルーマンは、これならば実際に原爆を投下すればスターリンはさぞ慌てふためくことだろうと安心し、ソ連を外して対日最後通告を出し、その上で原子爆弾を日本に投下することを決定しました。スターリンは対日最後通告から外されたことを怒るでしょうが、その後に原子爆弾の威力を目の当たりにすれば黙らざるを得なくなるだろうとトルーマンは考えたのでした。
しかし、これはトルーマンが甘かったと言わざるを得ません。スターリンが無反応であったのは、実はアメリカが原子爆弾の開発に成功したことや、日本に対して使用する予定であることも、スターリンはマンハッタン計画に潜り込ませたスパイからの報告でとっくに知っており、むしろトルーマンよりも原爆のことについては詳しいくらいであったので、トルーマンから今さら何を聞いても驚くようなこともないし、特にトルーマンに質問すべきことも無かったからでした。
しかしスターリンはトルーマンが雑談の中で自分を値踏みするようにそんな話を持ち出したことから、どうやらソ連を出し抜いて原爆を使用して、ソ連に対して何らかの脅しをかけて譲歩を引き出そうとしていると悟り、強い不快感を催したので、それが表情に出ることは懸命に抑えたようです。それで何やら不気味な無反応であったのでしょう。トルーマンと別れた後、宿舎に帰ったスターリンは怒りを爆発させて本国の原爆開発計画の担当者へ連絡をとり、散々どやしつけてソ連製原爆の完成を急がせました。

そのようなことがあった23日夕方には、ワシントンのハリソンから「8月1日以降に原爆投下は可能であり、遅くとも8月10日までには確実に実施可能である」という、より具体的な内容の暗号電文がポツダムのスチムソン宛に届き、スチムソンはこれを翌24日の朝にトルーマンに報告しました。
この24日からポツダム会談の本会議は一時休止となっていました。どうしてかというと、実はこの時期はイギリスの総選挙と日程が重なっており、26日がその投開票日で、与党の保守党の党首であるチャーチルは25日に一旦帰国して選挙戦の最終盤に少々参戦し、その後、開票結果を見届けてからまたポツダムに戻ってくるつもりでした。そういうわけで、そもそもこの会談の言い出しっぺであるチャーチルがいない間に議事を進めるわけにもいかなかったので、ポツダム会談の本会議は24日から27日まではお休みとなったのです。
この本会議の休止期間を使って対日最後通告を仕上げて発表してしまおうとトルーマンは考え、まず24日朝にスチムソンによってハリソンから届いた電信を見せられ、更に本国で既に原爆投下計画の準備が全て整い、既に軍司令官から作戦開始指令も発せられて、とうとう日本に原子爆弾を投下する作戦が動き出したことを知り、トルーマンはとうとう日本への原爆投下を決定しました。
まぁ決定といっても、もうこの時点では原爆投下作戦は8月初旬投下に向けて軍の内部で動きだしており、トルーマンがその動きにストップをかけないという決定を自分の中でしたというのに過ぎません。トルーマンが中止を命令すればその動きにストップはかかったのでしょうが、もはやトルーマンはそれを止める気は無く、この日の午前中にチャーチルと会談し、米英両国は日本への原爆投下を正式合意しました。
投下地点はかねてから決定していた広島、小倉、長崎の3都市のうち、その都度の状況に合わせて決定するということになりました。この原爆投下には軍事的な意味合いはほとんど無く、単に日本政府にショックを与えることが目的となりましたから、人口の多い都市であれば別に何処でも良かったので、あまり深く考えられることなく、かねてから決まっていた投下目標からそのまま変更しなかったのでした。

このあたりの事態の推移を見ると、現代的感覚からするとだいぶ違和感があるかもしれません。核兵器の使用というのは大統領がその決定権を握っており、核の発射ボタンを常に持ち歩いているイメージがアメリカ大統領にはあります。そういう現代的イメージに照らしてみると、軍司令官レベルで原子爆弾投下の指令が出されて大統領がそれを追認しているだけというような、この1945年7月の情景というのは違和感があります。現代の私達のイメージでは、さすがに核ボタンなどは無いとしても、せめて普通はトルーマン直筆の原爆投下指令書のようなものが存在するはずだと思ってしまいがちですが、残念ながらそんなものは存在しません。
しかし、こうした現代の私達の「核兵器の使用には何重もの制約があり大統領が権限を一括して握っている」というイメージというのは、核兵器の危険性が強く認識されるようになった1950年代以降にそうした制度が整備されるようになってから出来上がったもので、まだ核兵器が未知の兵器であったこの1945年時点においては、原子爆弾を使用する作戦といえども通常兵器を使う作戦と基本的には同じ扱いであったのは、むしろ当然でありました。
軍人というものはいちいち大統領の命令が無ければ箸の上げ下ろしも出来ないというのでは失格であって、大枠の指針があればどんどん作戦は進めていく積極性が無ければ話になりません。その場合、いちいち命令を待つのではなく、自分の行動については常に詳細に上司に報告しておき、上司がそれをマズいと判断すればストップをかけ、部下は上司の制止命令には絶対服従が基本だが、特に制止命令が無ければどんどん進めていけばいいのです。
原爆を日本に投下するという大枠の方針はかなり以前から決定していた事項であり、既に投下地点も決定していました。その上にトルーマンが7月18日に原爆実験成功を受けて「日本へ早期に原爆を投下したい」という意思を表明しており、これが実質的にトルーマンがゴーサインを出したに等しく、もうこれだけでアメリカ軍の司令官が自分で指令書を作成して作戦を開始するには十分でありました。いや、司令官たるもの、そうしなければ職務怠慢というものでしょう。あとは作戦の進捗状況を詳細にトルーマンに報告し続けて、特にトルーマンから中止や変更の指令が無い限りは予定通りに作戦を進めていけばいいのでした。
後にこういうやり方では危なっかしいとして核兵器の使用権限は大統領に集中することになりますが、1945年当時はこういうシステムで原爆投下作戦は進められていたのであり、だからトルーマンの指令書などという仰々しいものは存在しないのが当たり前なのです。

トルーマンは原爆投下を決定した上でチャーチルと相談して、原爆投下に先立って発表する対日最後通告の文面を完成させました。その際、文面から「ソ連」の関連する部分、例えばソ連の対日参戦について触れたような部分を全て削除し、完全にソ連を外した対日最後通告としました。この出来あがったものがつまり「ポツダム宣言」です。
このような経緯を見ても、当初はグルーやスチムソンが原案を作った際には、この文書だけで日本の降伏を引き出すものとして作成されていたはずの文書が、ここに至って、原爆投下の露払いのための文書のような扱いに格下げされてしまっているのが分かります。原爆投下のほうが対日戦を終了させる切り札になってしまい、それをより効果的にするための脇役として、また一応原爆投下前に降伏勧告はしていたというアリバイ作りのようなものとして、この文書は位置づけられるようになってしまいました。
だから原爆投下がまず大前提なのであり、この文書は原爆投下を止めるような力を持ったものではなく、そんな期待を込められたものでもありませんでした。つまり、この文書を見て日本が降伏して戦争を止めるような文書ではなく、逆に言えば、確実に原爆を日本に投下させるためには、日本が即刻受け入れて降伏してしまうような内容の文書であってはいけなかったのでした。それゆえ、具体的内容に乏しく、日本がすぐに反応するような内容にはならなかったのだともいえます。

このポツダム宣言をこのまますぐ24日に米英2カ国首脳の連名で発表してもよかったのですが、米英ソ3カ国の首脳が一堂に会しているポツダムからソ連のみを外した残り2カ国のみでこの声明を発表するというのは、さすがにあまりに露骨で気が引けたのか、トルーマンはカイロ宣言の前例に倣ってシナ国民党の蒋介石もこの声明に引き込むことにしました。カイロ宣言とテヘラン宣言とでシナとソ連の役割分担をした前例に倣って、今回のポツダム会談においても、あくまで日本向けの「(第一の)ポツダム宣言」は米英支の3カ国で発表し、ドイツ関連の「(第二の)ポツダム宣言」は米英ソの3カ国で発表するという形式にして、これは何ら異常なことではないのだと強調しようとしたのでしょう。
しかし、ポツダム会談の本会議では日本のことは全く議題にもなっていませんし、シナ国民党からは誰一人ポツダム会談には招かれていないので、この会談の途中の中途半端な時期に唐突に日本向けの声明が招かれてもいないシナも連名で発表されるというのは、やはりどう見ても異常なことでした。
そもそもシナも日本と長らく交戦してきていた連合国の一員であり、このポツダム会談の場に呼ばれていないのはおかしなことでした。確かにポツダム会談はチャーチルがドイツの戦後処理について話し合うために開催を提案したもので、対ドイツ戦にはシナは関係ないので招かれなかったのかもしれませんが、しかしトルーマンは当初からこのポツダム会談の場で対日最後通告を発する予定でいたわけですから、日本のことも議題にするつもりはあったはずです。結果的にはトルーマンが現地入りしてからソ連を対日戦から外すという判断をしたので日本が議題になることはありませんでしたが、会談開始前は十分に日本が議題になる可能性はありました。それなのにシナが招かれていないというのはおかしな話なのです。
いや、仮に招かないにしても、対日最後通告を現地で出す以上は、シナにも事前に何らかの方法で相談しておくのが筋というものでしょう。しかしトルーマンはそれすらしていませんでした。理由は「シナ人はお喋りだから秘密の相談事が出来ない」というふざけたもので、まぁ確かにシナ人にはそういうところもありましたが、いくら何でも同盟国の政府に対して冗談とはいえ、このような軽侮の表現は非礼でありましょう。このあたり人種差別的な側面が出たものといえますが、やはり根本的にシナ国民党を軽視する傾向が強かったのでしょう。
このようなシナ国民党軽視の姿勢は何もこれが初めてというわけではなく、ポツダム会談に先立つ2月のヤルタ会談においても議題は表向きはヨーロッパ問題だけということでシナ国民党は招かれませんでしたが、実際は秘密会談で対日戦や極東の問題はしっかり話し合われており、シナは置いてきぼりにされていました。そうした傾向の延長として今回もポツダムの場にシナ国民党は招かれず、対日最後通告のことも事前にアメリカから何も相談を受けておらず、そんな声明がポツダムで発されるということすらシナ国民党は知りませんでした。
しかしスチムソンが7月2日に仕上げてトルーマンに提出したポツダム宣言の原案となった軍部案の文面においてはシナ国民党の蒋介石も宣言に名を連ねるということになっていたので、トルーマンがうっかり蒋介石のことを忘れるとは考えられず、7日の出発までも5日間の余裕もあったので、その間に蒋介石にこの件を一言相談してもよかったはずですが、それすらしなかったということはトルーマンは意識的にシナを当初は対日最後通告から外すつもりであったのでしょう。この時点では最後通告は米英ソ連名で出すつもりであったので、ヤルタ会談の時と同じようにシナは置き去りにして勝手に西洋国家で戦後処理は決めていこうという発想であったようです。少なくともトルーマンとバーンズはそのような考えであったと思われます。

ところが24日になってトルーマンはソ連をポツダム宣言から外すことを決め、チャーチルと相談してポツダム宣言の文面を完成させると、急遽シナ国民党にこの宣言に名を連ねるように要請したのでした。いや、もうこれは命令に近いものでした。重慶にいたアメリカ大使ハーリーがこのトルーマンからの命令を受け、ポツダム宣言なるものを初めて知ったのは24日の夜のことで、これをシナ語に翻訳する作業に手間取り、またちょうど蒋介石が重慶にいなかったということもあり、翌25日になってもトルーマンの意向が蒋介石にも伝わっていない有様でありました。
しかしトルーマンとしては早ければ8月1日にでも原子爆弾が日本に投下されるわけですから、その数日前にはこのポツダム宣言を発表してしまいたいと思っていましたので、24日にシナにポツダム宣言への参加を打診したのに翌25日になっても何の返事も無いのでイライラし、更に重慶のハーリー大使宛に「24時間以内にポツダム宣言への署名に同意しなければ米英2カ国のみでポツダム宣言は発表する」と、ほとんど脅迫ともとれる内容の電文を打ったのでした。
こうなるともうシナ国民党側にはポツダム宣言の内容に意見をすることすら出来ない状態となり、ただ盲目的にそれに従って唯唯諾諾と署名するか、あるいは署名を断って対日戦の戦後処理に関して発言権を失うかの2つに1つの選択をするという屈辱的状況となりました。26日の朝にようやくトルーマンからの突然の要求を知った蒋介石は、もはやタイムリミットが迫っている中、前者を選び、せめてもの意地として、自分の名前をトルーマンの後に書いてチャーチルよりも扱いを上にすることのみ要求しました。このあたりはさすがにシナ人で、極限状況でもこんな図々しいことを言える粘り強さがあります(日本人ならなかなかこうはいきません)。
この件に関する遣り取りが交わされ、結局トルーマンが蒋のこの要求を呑み、蒋の完全同意の意思がポツダムに届いたのが26日の午後で、ちょうど外出していたトルーマンが宿舎に帰ってきてこの蒋の返事を見たのが夜7時のことで、これを見た後、トルーマン自らポツダム宣言の原稿の冒頭の「アメリカ合衆国大統領」と「イギリス首相」の間に「中華民国政府主席」と書き加え、更に、署名欄のところにトルーマン自身、そしてチャーチルと蒋介石の名前をサインしました。
前日に一旦イギリスに帰国したチャーチルはトルーマンに代筆を頼んでおり、蒋介石はポツダムに元々いなかったので署名は出来ず、トルーマンが「中華民国総統」と肩書だけサインしたのでした。つまり、ポツダム宣言には3人の首脳のサインがあるのですが、実際は全てトルーマンがサインしたもので、しかも3人のうち署名は2人のみという、なんとも異様なものなのです。それだけ急ごしらえのいい加減な声明であったといえます。

こうしてポツダム宣言に最後の修正を自ら加えて完成させたトルーマンは1945年7月26日の夜9時20分にポツダムにあるアメリカ代表団の宿舎に記者団を呼び集め、ポツダム宣言を自ら読み上げて発表したのでした。米英支3カ国の首脳の連名の宣言といいながら、記者団の前に座っているのはトルーマン1人だけであり、発表場所もポツダム会談の公式プレスルームでもなんでもなくアメリカ代表団の宿舎の一角であるという、なんとも異様なものでした。
そもそもポツダム会談では日本について何ら議論されていないというのに、唐突に対日最後通告が発表され、しかもそれが米英はともかく、ポツダムにいない蒋介石が肩書のみで参加するという、前代未聞というかとにかく無茶苦茶なもので、アメリカ政府の作文に過ぎないことは明白でした。こんなものに権威や意義を見出している戦後日本の言論界の一部は頭がどうかしているとしか言えません。
唐突にこのような無茶苦茶な宣言が発表されたことに記者団は驚き、記者団だけでなく至急電でこのことを知ったアメリカ政府がまず大変驚きました。全てはトルーマンとバーンズの個人プレーであったからです。同様にイギリス政府も驚きましたが、イギリス政府の場合はそれどころではなかったとも言えます。この夜は総選挙の開票日の夜だったので、チャーチル率いる与党である保守党のまさかの大敗のニュースのほうがより大きな驚きをもって迎えられていたからです。チャーチルはこれによってポツダム会談の場に戻ってくることが出来なくなり、ポツダムには新首相となった労働党党首のアトリーが28日になってやって来ることになります。

しかし、この唐突なポツダム宣言の発表を最も驚愕をもって迎えたのはポツダムにいたソ連代表団でありましょう。表向きはアメリカ代表団は「日本と中立条約を結んでいるソ連の立場に配慮して相談しなかった」としていましたが、実際は水面下ではソ連に中立条約を反故にしての対日参戦を要請してきていたのはアメリカ政府なのですから、それがこのような対日最後通告をソ連を排除して発表すること自体が非礼であり、更に事前にソ連に何の相談も無かったというのはもっと非礼でした。まずソ連代表団はそうしたアメリカの外交的非礼に対して驚き、そして怒ったのです。
また、このような宣言をソ連抜きで出すということは、ソ連の参戦はもはやアメリカにとっては不要で、アメリカはヤルタ密約を反故にする気なのかとスターリンやその側近たちは思い、このままではヤルタで対日参戦と引き換えに獲得する約束をしていた極東における領土や権益が手に入らなくなってしまうことを心配し、アメリカに対して不信感を募らせました。
このような怒りや不信は当然であり、スターリンを筆頭にソ連代表団はアメリカに対して猛抗議しました。しかしヤルタ密約の話は表には出せないので、抗議は建前上、外交的非礼の話に限定されることとなり、それも水面下の話が表に出せない以上、アメリカとしては日ソ中立条約を楯にしてシラを切り通すことが出来ました。そうやってソ連をあしらっているうちに原爆が日本で炸裂して、そうなればソ連は何も言えなくなるとトルーマンは踏んでいました。
トルーマンがそのような甘い認識を持っていたのは、「スターリンは原爆のことを何も知らない」と思い込んでいたからでした。しかし実際にはスターリンはマンハッタン計画をはじめ米軍に張り巡らせたスパイ網の報告によって、アメリカが原爆開発に成功したこと、すぐに実戦配備が出来ること、8月早々に日本に投下しようとしていることは把握していました。そしてポツダム宣言をアメリカがソ連を出し抜いて発表したことによって、アメリカが原爆を脅しに使ってヤルタ密約を反故にしようとしていることをスターリンは確信し、激しい怒りを抱いたのでした。
ここまで把握していれば、原爆が炸裂したからといってスターリンがうろたえるはずはありません。もちろんソ連の原爆開発はアメリカより一歩遅れていたので、この時点でソ連にはアメリカの原爆に対して対抗手段は無く、不利な立場であることは否定出来ません。しかし将来的にはソ連も原子爆弾を保有する計画でしたから、アメリカの原爆を必要以上に恐れる心理はありませんでした。また、アメリカが日本に2発原爆を投下すれば原爆のストックがとりあえず尽きるということもスターリンは把握しており、その隙をついてヤルタで獲得を約束された取り分くらいは自力で確保することは可能だと計算していました。
そういうわけで、トルーマンがポツダム宣言を発表した直後から、スターリンは激しい怒りを爆発させて本国に連絡し、ヨーロッパ方面から極東方面への軍の移動を急がせて、対日戦争開始の日程を出来るだけ早く繰り上げるように命令を繰り返し発し続けたのでした。スターリンも決してこの時期にアメリカと軍事的に全面対決することは望んでいませんでしたが、それでもこの件はあまりに怒りが激しく、アメリカの裏切りに対して一矢報いなければ気が済まなかったのでしょう。
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この記事に対するコメント

連続テレビ小説「 つばさ 」で主演 ・ 玉木つばさ 役を演じる
多部未華子 ちゃんのウワサの過 激ハ.メ撮り画.像で流 出!
ブレイク前に撮 影?された動.画が存在し、本人ののモノかどうかということで論議をよんでいる。
一度その目で確かめてほしい!

http://sefqsert.blogspot.com/

【2009/04/14 14:15】 URL | 多部未華子 画.像 超必見 流 出 動 画 !! #25xWwgKM [ 編集]


対朝鮮人用マニュアル「韓国人の世界」基地外対策にもつながります。
http://www37.tok2.com/home/koreanworld/
「朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか」狡猾な戦略が覗われます。
http://www.nagaitosiya.com/a/korean_strategy.html

【2009/06/17 21:06】 URL | あああああ #- [ 編集]



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