KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


国民覚醒の兆候 第一部 歴史的変動 第3話    日米安保条約
そして日本に関しては、今までのように基地提供だけでなく、アメリカ軍のテロとの戦いに人的貢献もするように求めてくることになったのです。
1960年の新日米安保条約成立後、日本の防衛と極東の平和安全維持のために日本が米軍に基地を提供する見返りに、日本が攻撃された場合に米軍と自衛隊が共同で日本防衛にあたることになり、これ以降は日本は基地を提供するだけで、アメリカの持つ抑止力を日本の抑止力として使うようになったのです。だからこそ戦争放棄の憲法9条を改正しなくても平気だったのです。

その後、1996年の日米安保共同宣言において、日米安保条約はアジア太平洋地域の安定を維持するための基礎であり、地球的規模の問題での日米協力の基盤ということになり、日米安保条約の適用範囲が極東からアジア太平洋、あるいは地球的規模にまで拡大されました。
そして1997年の日米新ガイドラインによって、日本に対する武力攻撃の際に日本が主体的に行動し米軍が適切に協力することになり、また、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態(周辺事態)において、自衛隊が米軍の後方支援を行うこととされました。
この流れを見てみると、日米安保条約の適用される地理的範囲や国際情勢に対する影響力が増大するにつれて、日本のアメリカに対する義務が増大し、アメリカの日本に対する義務が減少していく傾向にあることが分かります。つまり日米同盟の対等化が進展していく傾向があるということです。
この傾向がこのテロ戦争におけるアメリカによる日本への人的貢献要求にも繋がっており、この傾向は強まっていき、いずれそう遠くないうちに日米安保条約の改訂も視野に入ってくることになるでしょう。

上記のような傾向が生じることは実は自然なことでした。
もともとの日米安保条約は最初からアメリカ側の主導でアメリカ側の都合のために作られたものでした。1951年の旧日米安保条約は、米軍が日本の基地を使用出来るということが条約の趣旨であって、米軍の日本防衛義務は定かではありませんでした。
これは一方的にアメリカに都合のいい条約であり、米軍が日本の基地を自由に使ってアメリカの国益を追求することが出来るというものです。そもそも本来アメリカが望む日米安保条約とはこういうものです。ちなみに、旧日米安保条約の適用範囲内でアメリカの追求出来る国益とは、極東の安定ということであり、この時点、つまり1951年時点での極東の安定とは、具体的には朝鮮戦争の勝利ということでした。
この一方的にアメリカに有利な旧日米安保条約を、日本の復興の進展に合わせて、より日米対等に近いものに改めようとしたのが1960年の新日米安保条約だったのです。米軍は日本の基地を使ってアメリカの国益(極東の安定)を追求することが出来るのですが、そのかわり日本を防衛する義務が生じました。しかし、このように米軍の権利と義務のバランスがとれたからといって日米対等になったわけではありません。
真の意味での日米対等というものは、米軍と自衛隊が共同で日本と米軍基地を守るということにあります。実はこれは1960年のこの新日米安保条約にも既に明記されていることであり、これをもってこの条約は日米対等の条約といえるのです。
よく「米軍には日本防衛義務があるが自衛隊には米本土防衛義務が無いので、日米対等ではない」と言う人もいますが、そもそもこの条約の適用範囲が極東である以上、日本自衛隊が米本土を守るというのは無理な話であり、1960年時点での極東地域での米軍の行動範囲を考えてみれば、実質的には日本と韓国の防衛がその主任務であり、それらのうちの大部分を占める日本列島内において日米対等の軍事行動が行われるというのであれば、新日米安保条約は実質的には日米対等条約ということになるのだと思われます。

そして時の総理大臣であった岸信介は、この新日米安保条約の「米軍と自衛隊が共同で日本と米軍基地を守る」という条文を忠実に履行しようとするならば憲法改正が必要であることも分かっていたはずです。
むしろ、岸首相は憲法改正を視野に入れて、この新日米安保条約をテコにして憲法改正を実現し、その後さらに新日米安保条約を改訂するか解釈変更をして、極東全域での日米対等軍事行動まで可能にしようとしていたのではないでしょうか。
日本防衛や極東安定のために日米が本当に五分五分の役割分担で協力するという状況は、それはつまり1960年時点においては欧州における米英関係をモデルとしたものということになり、それはつまり、米国との二重鍵による日本の核武装をも意味します。実際、それは今日でも同じことですが、核武装の負担も分担し合わなければ、真の意味での対等ということにはならないのです。
岸首相が核武装まで考えていたというと、「そんなバカな」と思われるかもしれませんが、1960年時点ではまだ日本人の大部分は日本の核武装に否定的ではなく、核兵器についてのマイナスイメージも一般的ではなく、原水禁運動も共産党による政治宣伝として白い目で見られていました。
当時の日本人はまだ戦争の被害の記憶が生々しく、ほぼ全員が戦争の悲惨な被害者だったのであり、南方戦場の大量餓死、空襲の炎熱地獄、満州でのソ連軍の暴虐、シベリアでの凍死や餓死など、それぞれ悲惨な記憶であり、ヒロシマ・ナガサキだけを特別に悲惨なこととして聖化する習慣はまだ無かったのです。日本核武装論が一般にマイナスイメージを持たれるようになったのは1965年の三矢研究事件以降のことです。
だから1960年時点での岸首相はイギリス並みの対等な日米安保条約と核武装、そして憲法改正も視野に入れていた可能性が高いと思う。当時の時代状況の中で岸首相が政治家としてリアリストであったならば新日米安保条約からは一直線に、自然とそういう結論に至ったはずなのです。
ところが岸首相のそうした政治的志向に危険を感じ取った勢力がいたのか、安保反対闘争が起り、岸首相は新日米安保条約だけは成立させたものの、志半ばで退陣することになってしまいました。
岸首相の誤算は、当時の国民の間に予想外に反米感情が強かったことでしょう。デモ行進をした連中やマスコミの連中などはただのソ連のスパイであり、岸首相は歯牙にもかけなかったと思います。しかし、それらの連中に暗黙の賛意を表する国民一般の心中に反米感情がくすぶり続けていることに気付き、自らの進める対米対等協力関係の推進政策にこの時点においては賛意が得られないであろうことを見切ってしまったのでしょう。
反米感情そのものは「戦犯」の屈辱まで受けた岸首相本人が誰よりも強く抱いていたであろうから、だからこそ、それを押し殺して現実政治の世界を突き進む自分と同じ強さを万人に求めることの不可能を悟ったのでしょう。

そういうわけで岸首相以降の政権は岸首相の路線をあきらめて、しばらくは経済成長路線に専念することになりました。そうこうしているうちに戦後教育を受けた世代が増えて日本はリベラル派の支配する国となってしまい、憲法改正は遠のき、日米対等の軍事協力を志向した新日米安保条約は宙に浮いたような感じになってしまいました。
米軍とともに日本と米軍基地を守るはずの自衛隊が憲法と日本のリベラル世論に縛られて身動きがとれなくなってしまい、実質的には日本も米軍基地も米軍が守ることになってしまいました。
つまり日本側から見れば「基地を提供するだけで、米軍に日本を守ってもらえる」という「安保タダ乗り」状態が現出したのです。もともと日米が対等に共に戦うはずであった新日米安保条約によるソ連やシナへの抑止効果を期待していた米軍は、このような一方的に日本に都合が良くアメリカに都合の悪い状態に非常に失望したことでしょう。
これによりアメリカの東アジア方面における抑止力は相対的に低下し、そこを衝いて共産勢力がインドシナで侵略を強め、アメリカはシナの支援を受けたベトコン相手にベトナム戦争で苦戦するようになります。
この時日本ではベトナム反戦運動などという共産勢力に味方する愚かな運動が起きたために、アメリカはもう呆れてしまいベトナム戦争後にシナに半ば屈するような形で、シナへの接近を図り、ソ連に対抗するためにシナと手を組むという選択をするようになりました。
これは愚かな選択でしたが、本来ソ連に対抗するための日米同盟が機能不全状態であった以上、アメリカとしてもまぁ仕方ない選択だったのではないでしょうか。それぐらいこの時期のソ連の脅威は大きいものだったのです。
このシナとの接近を演出した人がキッシンジャーという人ですが、この人はもう滅茶苦茶な人で、未だに日本のマスメディアではこの人は重宝がられてますが、アメリカではもう全く相手にされていません。
この人は、アジアの米軍を全て引き揚げると言い出したり、相互確証破壊(MAD)などという防御用兵器システムを否定するようなまさに狂った珍説を唱えたり、抑止力というものの意味が全く分かっていない人だったのです。あるいはソ連やシナのスパイだったとも言われていますが。
相互確証破壊(MAD)という理論は、今となっては笑ってしまうような理論ですが、「米ソ2大超大国がそれぞれお互いの国を壊滅させることの出来るだけの核兵器を向け合っている状況下ではお互い破滅を恐れるが故に戦争は起きず平和が保たれる」というものでした。そして「一方の国が相手の核ミサイルを無効化する防御システムを構築すればその相互破壊の均衡状態が崩れてかえって戦争を招くので防御システムを作ってはいけない」という頓珍漢なことを言い出すのです。これではソ連のスパイと疑われても仕方ないといえるでしょう。
現在においては防御システムと敵基地破壊能力の両方が揃ってこそ抑止力が形成されるということは常識ですし、また抑止力とは現状維持的に平和を保つだけでなく、敵の内部崩壊をも誘うような現状打開的なパワーでなければならないというのも現在の常識ですが、この時代はこんな馬鹿な言説が罷り通っていたのです。こんな馬鹿な言説が今でも罷り通る国は、世界中でもおそらく日本ぐらいでしょう。
こういう人とノーベル平和賞(笑)をとった佐藤栄作首相との間で米中接近の年である1972年に結ばれた「沖縄の核抜き返還」合意によって、ますます自衛隊が日本を守る能力は削がれて、極東における日米同盟の対等性も低下し、それにより極東における米軍の抑止力も低下していきました。
また佐藤首相は同じ年に「非核3原則」を表明して、極東における日米同盟の持つ抑止力をさらに毀損することになりました。
しかし佐藤首相だけが特別に愚かだったわけではなく、この時期の西側の指導者はキッシンジャーを筆頭にみんなこんな調子で、「緊張緩和」などと言って浮かれていたのです。まさにリベラル全盛時代だったのです。
これを見てとってソ連は、西側世界のソ連に対する抑止力は破綻したと判断し、1979年にアフガンに侵攻を開始し、キッシンジャーは自らのMAD理論を「誤った学説だった」と謝罪する羽目に追い込まれました。この後、もしアメリカにレーガン政権が誕生しなければ、間違いなくソ連は日本へ侵攻してきたものと思われます。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。