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国民覚醒の兆候 第三部 人権擁護法案 第2話    人権は絶対善か
このように本来は緩やかな救済型の法律であるべき人権擁護法案が過激な懲罰型の法律となってしまっている原因としては、この法案の基本コンセプトの底流に極端な「善悪二元論」が伏在しているという事情があるでしょう。
極端な善悪二元論が成立するためには、「絶対善」とそれに対応する「絶対悪」とが存在しなければいけません。「絶対善」とは、説明不必要かつ不可能なくらい無前提に善なるものであり、場所や時代によって「絶対善」の種類も千差万別です。一種の「魔語」ともいえるものであり、例えば戦後日本では長らく「平和」という言葉が「絶対善」でしたが、最近では魔力も薄れてきたようで、殊更に「平和、平和」と言う者は胡散臭い者のように見られがちです。

「人権」という言葉も同様に戦後日本においては「絶対善」だったのですが、「平和」よりは綻びが少ないのか、まだまだ「絶対善」として通用するようです。あるいはこの「人権」も魔力が効かなくなってきたので、その信奉勢力がカルト化してこういう法案を出してきたのかもしれません。しかしそうだとしても、彼らにとっては「人権」が「絶対善」であるということは間違いありません。
「絶対善」というものは議論の余地なく善なのであって、批判や批評の対象にしてはいけないのです。そして「絶対善」に反するものは議論の余地なく「絶対悪」であり無条件で排斥すべきものなのです。例えば北朝鮮においては「将軍様」は「絶対善」であり、将軍様に反抗する者は「絶対悪」として無条件に抹殺対象となります。そういう意味で「絶対善」や「絶対悪」という概念は非常に全体主義的な性格を帯びたものだといえます。
もちろん「人権」という概念は、かの「将軍様」のような悪辣な性格のものではありませんが、その無謬ゆえの危うさに関しては五十歩百歩というところというわけなのです。「絶対善」としての「人権」を蔑ろにする「人権侵害」は無条件の「絶対悪」なので、問答無用の徹底的な懲罰対象になるというわけなのです。そうした極端な「善悪二元論」的な考え方がこの人権擁護法案の根底には存在するのです。

しかし、こうした極端な善悪二元論の場合、例えば「人権侵害」をする者を懲罰するに際して、その「人権侵害」をする者の「人権」が保障されないかもしれないという危惧があります。通常の法律においては加害者の人権保護ももちろん講じられているのですが、この法案の場合、善悪二元論が強すぎて、そういった配慮があまり感じられない。そういった意味では「一線を超えてしまっている法案」なのです。
しかし「人権」は万人に認められた普遍的権利であるという意味において「絶対善」なのであって、「人権侵害をする者(絶対悪)には人権は存在しない」などという論理が罷り通るようなことがあれば、人権の普遍性に瑕がつくことになり、それによって人権は「絶対善」としての資格を失うことになります。
つまり、人権を「絶対善」と見なしてそれに反する人権侵害者を「絶対悪」と見なしてその人権すら全否定することによって、逆に人権の絶対性が損なわれて、人権は「絶対善」の資格を失うというパラドックスが生じるのです。このパラドックスが導き出す答えはつまり、人権という概念は「善悪二元論」の文脈の中で「絶対善」として捉えるべきものではないという意味なのです。
このように人権が「絶対善」ではないということは、人権侵害もまた「絶対悪」ではないのであって、そうした「善悪二元論」が成立しないということは、それを基本理念とした人権擁護法案はそもそも成立しないということになるのです。少なくとも、この法案の有する「人権侵害者の人権に関してはあまり考慮する必要はない」というような考え方は成り立たないのであって、大幅な修正は余儀なくされるべきということになります。

このように「人権」という概念は論理的には「絶対善」ではあり得ないのですが、その内容を更に踏み込んで考察してみると、そもそも「善」なるものと見なすことさえ慎重にならざるを得ません。
現在唱えられているような普遍的な人権概念は西洋近代の発明品であり、その発明者はというと17世紀のトマス・ホッブズですが、ホッブズはこれを「自然権」と呼んでおり、「各人が、彼自身の自然すなわち自らの生命を維持するために、彼自身の欲するままに自らの力を用いる自由」と定義しています。
これはつまり、各人の意志と欲望のみを根拠とした身勝手で無制限に拡大する権利であり、定義不可能であることがその定義であるともいえます。これは本質的に暴走の危険性を秘めた概念であり、もちろん賢明なるホッブズはこの「自然権」を肯定的概念として扱っているわけではなく、人間が社会生活を営んでゆくためには各人が野放図な自然権主張を止めて国家主権に自らの生命、自由、幸福追求の権利を委ねることが必要であると説くわけです。これが人権概念の発明者トマス・ホッブズの思想です。
ホッブズはこのように人権(自然権)の暴走の危険性を指摘することによって国家主権の重要性や存在意義を説いたわけなのですが、いつしか、このホッブズによって逆説的比喩として発明された人権概念のみがホッブズの思想とは全く無関係に独り歩きして賞賛されるようになり、その危険性は忘れ去られて天与のものとして有難がられるようになってしまいました。
こうして現在においては人権というものは「善」なるものとして扱われていますが、実際には人権概念は個人の欲求の赴くままに止め処もなく拡大し続ける一方であり、絶えざる暴走の危険をはらみ続けています。その傾向は、上記のような人権(自然権)の持つ本来の基本構造に忠実に従ったものなのです。
この人権擁護法案も、こうした人権概念に根ざしたものであるゆえに、この人権擁護法案における人権という概念は止め処もなく拡大し続けることになり、そうした人権を擁護するための行動もまた止め処なく暴走していくことが運命づけられているといってもいいでしょう。
言い換えると、この法案における人権の定義が曖昧であり、それゆえに人権侵害や人権擁護の定義も曖昧になり、ありとあらゆる国民の行為が、個人や団体の恣意的な申し立てによって取り締まりの対象になってしまうのではないかという危惧にも、大いに説得力はあるのだといえるのです。
確かに本当に虐げられている人の人権を擁護することは原則的には「善」なるものと見なすべきでしょうが、大掴みに「人権」という概念を扱うに際しては、常に暴走の危険性に考慮を払い、極めて慎重な対応を心がけるべきでありましょう。
この人権擁護法案が、その取り扱う人権侵害の対象を本当に虐げられている人の場合に厳密に絞り込んでいるのならばいいのですが、実際にはこの法案はそういう内容にはなっておらず、安易に人権を「善」と見なしてその暴走に対する警戒心を全く失った内容になっています。これでは社会混乱を助長する法律だとして警戒されるのもやむをえないと思われます。

上記のホッブズの人権の定義に則って考えるならば、人権と国家主権とは対立する概念なのだと解釈できます。人権の暴走によって社会秩序が破壊されることを抑止するために国家権力が存在するのです。人権というものは社会秩序にとっては毒薬なのです。
しかし国家権力が暴走して社会秩序を破壊することもしばしばあります。上記に例示したナチスや北朝鮮やシナの例です。こうした国家権力の暴走を抑止する場合には、その対立概念である「人権」は劇薬として使えるとも解釈できます。
このようにホッブズ理論を逆転して応用することによっても、極端な国家権力による人権侵害事例に対してに限定しては、ある種の「人権の暴走」を人為的に起こして中和させるという試みは有用であるともいえます。そうした局面に限定してならば人権擁護法案のようなものの存在もあり得るといえるでしょう。
むしろ日本のようなまともな国のほうから北朝鮮やシナのような異常国家に対して、人権擁護法案のようなものを提案して然るべきであろうと思われますが、実際には朝鮮総連のような北朝鮮の手先のような機関から日本に対して人権擁護法案成立を迫ってきているのですから、まったく異常事態だといえます。
このような倒錯した事態が何故生じるのかというと、おそらくそれは北朝鮮やシナなどが日本発の自国への人権侵害弾劾の動きが生じることを恐れて、それを事前に牽制するために先手を打って「日本こそ人権侵害国家」というレッテルを貼ろうとしてきているのだといえます。
それだけ北朝鮮やシナは人権問題で攻撃されることを恐れているのであり、ならばもっと日本は積極的に北朝鮮やシナを人権問題で攻撃すべきでしょう。人権擁護法案は北朝鮮やシナにこそ必要なのです。
なお、人権が劇薬としていくらか肯定的に作用するのは、対立概念である国家主権が暴走した場合に限られるのであって、一般の私人間のトラブルの解決や、ごく普通の政治上のトラブルの解決などにいちいち人権を振り回すようなことがあれば、それは毒薬にしかならず、社会秩序を破壊する結果にしかならないでしょう。

上記のように、「人権」という概念は「絶対善」でもなく、また無条件に「善」と見なすことも出来ないものであるのが実情なのですが、現在日本の社会一般には「人権=善」という固定観念が根強いことも確かです。
しかし、そうした固定観念が広く定着していることによって、人権擁護法案についてのしっかりした議論が封じられてしまっているのも現状であり、それは真に憂うべき状況といえます。
つまり、「人権=善」であるので、「人権擁護法案=善」ということになり、その人権擁護法案に批判的な態度や懐疑的な態度をとることによって、「人権を軽んじる者=悪」と見なされることを恐れて、ついつい人権擁護法案に対して肯定的な態度をとる者が多くなるのです。あるいは「君子危うきに近寄らず」とばかりに、あえてこの法案についての話題を避けようとする者も多くなります。
これはつまり、この法案の個々の問題点については承知していながら、根本的に「人権=善」という固定観念の問題点まで疑ってかかるだけの問題意識や思想的知見を有していないということを表しています。あるいは、実は問題点については認識しているくせに、「人権軽視論者=悪」というレッテルを貼られることを恐れて、わざと問題点を認識していないフリをする人もいます。
日本の政治家やマスコミ関係者のうちで上質な部分の人達はだいたいはこの程度の人達です。その上に更に特上の人達が少数いて、そうした特上の人達は「人権」という概念に対してもちゃんと懐疑の念を持ってこの法案の問題点を本質的に捉えていますが、残念ながら圧倒的に少数派です。
その下に上記のような表面的知識しか無い人達や卑怯な臆病者達がいるのですが、こんな連中でもこの法案の問題点に気付いているという意味ではまだ充分にマシなのです。更に知識を深めたり勇気を少し持つだけで特上クラスにすぐに上がれる可能性はあるからです。
むしろ問題なのは、低質な政治家やマスコミ関係者、そして一般国民の大部分であり、これらの層は「人権=善」という意識が強すぎて一種の思考停止状態に陥ってしまっており、「人権擁護法案=善」というテーゼについても何ら考慮することなく信じ込んでしまっており、考慮することも無いということは、つまり興味の対象とすることすらないということを意味します。つまりこれらの人達は人権擁護法案に対して、そもそも危機感も問題意識も興味も有していないということになります。
「人権=善」という固定観念の蔓延はこうした人間を大量に生み出すのであり、これこそがこの法案の問題点を論じるにあたって最も深刻な障害であるといえるでしょう。また、こうした臆病者や無関心者を多数生み出すために、わざわざ法案推進者は「人権」という魔語を法案名の冒頭に掲げたともいえるでしょう。

このようにその社会特有の固定観念を巧みに利用することによって問題の多い法律を成立させるという手法がこの人権擁護法案では使用されているのですが、これと非常に類似した例として、韓国で成立した「親日反民族行為真相究明特別法」があります。
この親日反民族行為真相究明特別法は様々な面で人権擁護法案と類似した法律であり、同じ人間が考えたのではないかと考えてしまうほどなのですが、この「反対意見を封じて成立させようとする手法」においても瓜二つと言ってもいいくらい手法はそっくりです。私はこの2つの法律は根っこは同じであり相互補完的に働くためのものであるとまで睨んでいます。
韓国においては「親日」や「反民族行為」というものは無条件で「悪」であるという固定観念が蔓延しており、それらについての「真相を究明する」という否定的トーンの言葉が並んだ法案名は無条件に「善」なるものとして認識されるのです。
ですから大部分の韓国人は深くその内容を吟味することなく「善」のイメージのみで賛意を示してしまい、また一部の韓国人は法案の危険性に気付いたのですが、「親日派」や「反民族主義者」という「悪」のレッテルを貼られることを恐れて強く法案の批判を打ち出すことが出来なかったのです。
また、そもそも韓国における「反日」の正当性の欠如に気付いていればこのような法律がナンセンスであることには気付いたはずなのですが、「親日=悪」の固定観念があまりにも強固であったために、さすがにそこまで気付く韓国人も殆ど出現することも無かったのです。
このようにして親日反民族行為真相究明特別法は韓国において安易に成立してしまったのですが、その実態は、恣意的な拡大解釈によって政敵を葬り去ることを目的とした、健全な韓国人をも弾圧することも可能な悪法であったのです。
このような韓国における例を見ると、社会の固定観念を利用して巧みに議論を封じ込めて成立させる法案の危険性というものが認識されます。ですから、日本において「人権=善」という固定観念が強固であればあるほど、なおさら「人権」という語を法案名に冠した法案の検証はよりいっそう慎重であるべきであり、国民も危機感をもって注視すべきだという教訓が導き出されるのであります。
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