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国民覚醒の兆候 第三部 人権擁護法案 第7話    6大問題点
さて、少し話が脱線してしまいましたが、ここで改めてこの法案の問題点を整理しますと、そもそも、この法案の最も主要な問題点は、便宜上タイトルをつけると「独立性」「曖昧性」「強権性」の3点となります。
「独立性」とは、人権委員会に対する抑止力が無く暴走の危険性があることです。
「曖昧性」とは、人権侵害の定義が曖昧で、どんなことでも人権侵害とされてしまう危険性があることです。
「強権性」とは、人権委員会の権限が強大で、強制力を伴っているため、濫用された場合に新たな人権侵害が生じる危険性があることです。また、あまりに強制力が強いために、告発だけでも被告発者にダメージを与えるため、実質的に人権委員以上にその下位にある人権擁護委員に強大な権限を与えるという危険性もあります。

そしてこの3点に次ぐ主要な問題点として、「不透明性」と「不公平性」があります。
「不透明性」とは、人権委員や人権擁護委員の選考過程が不透明であり恣意的な選考がなされるのではないか、あるいは職務の多忙や無報酬という制限のために結果的に人選に偏向が生じるシステムになっているのではないかという危険性があることです。
また「不公平性」とは、人権委員や人権擁護委員になる資格に偏りがあったり、特定団体との協力関係が規定されていたりして、公平性が担保されていないのではないかという危険性があることです。
この2点も重大な問題ではあり、これはこれで解決は絶対にしなければいけませんが、上記の最重要の3点が解決されていれば、この2点の及ぼす被害は致命的なものにはなりません。
だからまずは上記3点を解決すべきなのですが、法務省の修正案などではこの2点に関する譲歩は見られるものの、最重要の3点に関しては決して譲ろうとはしません。
どうやらこの「独立性」「曖昧性」「強権性」の3点がこの法案の推進勢力にとっては絶対に譲れない法案の核心部分のようです。

再度、この法案の問題点のヒエラルキーを整理すると、頂点に「独立性」「曖昧性」「強権性」の最重要3点が君臨し、それに次いで「不透明性」「不公平性」の2点があります。更にその下位に位置する問題点が「国籍条項の欠落」ということになります。
「国籍条項の欠落」が問題点となっている背景事情は2つあります。1つは、上位に位置する5つの問題点が解決されない限り、外国人が人権擁護委員になることによって、日本国内において外国人による日本人に対する人種差別という倒錯が生じる可能性があることです。これは法理以前に常識として許容できない問題でしょう。
もう1つは安全保障上の問題であり、国籍条項が無いことによって、北朝鮮やシナのような敵性国家の工作員が人権擁護委員となって、合法的にスパイ行為を行うようになる可能性があることです。
これはまだ冷戦が継続している東アジアの特殊事情によるもので、欧米の常識をここで安易に適用すべきではありません。こういう場合に国家安全保障を優先するというのも、法理以前の常識というものでしょう。
このように、「国籍条項の欠落」は法理以前の常識の問題であり、現在の日本においては許容し難いものがあるのですが、それでも上記5つの問題点が解決されていれば、実際の実害は少ないといえるでしょう。
だから、もし百歩譲って「国籍条項の欠落」をどうしても認めざるを得ないとした場合も、そのためには上記5つの問題点が解消されているというのが絶対条件ということになります。
逆に、上位の5つの問題点が解決されていない限り、仮に国籍条項を設けたとしても、それには実質的効力はほとんど無く、国籍条項の欠落によって危惧されていたような事態は、法案の解釈のしようによっていくらでも抜け道を見つけて引き起こされることになるのです。
そういう意味で、「国籍条項の欠落」は上位5つの問題点に比べて議論の優先順位の低い問題点だということになります。上位5つの問題点を解決することなく「国籍条項の欠落」を論じるのはナンセンスというものでしょう。

そして、この「国籍条項の欠落」の、更に下位に位置する問題点が「メディア規制条項の存在」なのです。もうこんなものは枝葉末節と断じていいでしょう。上位6つの問題点を解決せずに放置したまま、メディア規制条項の凍結だと削除だのと論じても全く不毛というものです。
この法案が国民の個々人を「人権侵害」という言葉で縛る法案である以上、メディアの活動が規制対象から外れていたとしても、そこで働く記者や社員が個々人レベルでこの法案の支配下にある以上、実質的にメディアの活動を制限することは可能なのです。
そのような法案に上記したような上位6つの問題点が存在する限り、メディア規制条項が有ろうと無かろうと、どちらにしても、メディア活動が恣意的かつ強力に、そして不透明かつ不公平に制限されること、つまり報道の自由が不当に制限される可能性は大いにあるのです。
逆に、上位6つの問題点が存在しなかったとしたら、もしメディア規制条項が存在したとしても、それは真に過剰な報道被害によって人権侵害を受けた人の救済だけのために機能することになるでしょう。
このように、この法案の真の問題点は上位の問題点、特に最重要の3つの問題点なのであり、メディア規制条項はあまり問題の本質とはならないのです。「報道の自由の侵害」という観点においても、真の問題点は上位の問題点のほうであり、メディア規制条項は真の問題点ではないのです。
ですから、「報道の自由」を論じるにあたって「メディア規制条項の存在」が真の問題点であるかのように論ずるのは、あまりに浅薄であり、法案を理解していない証拠だといっていいでしょう。

さて、どうしてこのように問題点だらけの法案が論じられるようなバカなことになったのかというと、そもそもこの法案の作られた経緯にイカサマがあるからです。
この法案はもともとは総理府に設置されていた地域改善対策協議会が1996年に同和問題の早期解決に向けて「人権救済制度の確立」を政府に意見具申したことから始まったのです。この時点では「一般国民の間で未だ残存する部落差別を解消するための政府による救済を求める」という方向性だったのです。
まぁ、この前提自体が噴飯ものなのですが、少なくともこの原点のまま進んでいれば、今のような狂った法案にまではならなかったと思います。この法案がおかしくなったのは、独立性、曖昧性、強権性が付け加えられたからです。
具体的には、まず1998年に国連が政府から独立性の高い人権機構の設置を勧告したことを大義名分にして、この1996年の意見具申によって検討されていた「人権救済制度」に「政府からの独立性の高い人権委員会」というアイデアが盛り込まれたことが発端です。
しかし、1996年の意見具申が念頭に置いていた人権侵害は「一般国民の間に遍在する差別意識」であり、一方1998年の国連勧告が独立性の高い人権委員会による救済対象として念頭に置いていた人権侵害は「政府による人権侵害」であり、その対象が違うのです。
つまり、この1998年の時点で論理のすり替えが行われた可能性が高いのです。「同和差別を解決するための救済制度」の構築にあたって、「政府による人権侵害を監視するための方法論」が適用されたのではないかと思われるのです。喩えて言えば、鶏を捌くのに牛刀を用いたのです。
法案推進勢力は1996年くらいから国連に働きかけて日本を人権侵害国家であるかのように吹き込んで、1998年にあのような国連勧告を引き出したのでしょう。
しかし、実際には日本においてはシナや北朝鮮のように政府主導の人権侵害は行われておらず、国連勧告の中のこの部分は一般日本国民にはリアリティの感じられないものでした。
しかし、「独立性の高い人権委員会」の存在根拠は「政府主導の人権侵害」なのですから、そういう意味では、日本においては実際は「独立性の高い人権委員会」の必要性は希薄です。
しかし、なんとしても「独立性の高い人権委員会」を作りたい推進勢力は、「国連勧告」という威光を盾にしてゴリ押しし、「独立性の高い人権委員会によって同和差別を解決する」という支離滅裂の説を唱えることになったのです。
ここで重大な論理のすり替えが行われているのです。「独立性の高い人権委員会」が有効なのは「政府主導の人権侵害」のみであって、「一般国民の間に遍在する同和差別」のようなものに対しては有効ではない、ということです。少なくとも、同和差別を扱う機関が政府から独立している必要性は全く無いのです。
日本の実情も大して知らない国連がどういう勧告をしていようとも、実際には日本において「政府主導の人権侵害」といえるようなものは存在しないのであって、そうとすれば、日本においては「政府から独立性の高い人権委員会」のようなものの必要性は皆無なのであります。ましてや、そのような人権委員会を同和差別解消のために使うなど、全く無意味であり、論理のすり替えに過ぎないのです。
ここで導き出される結論は、この法案の問題点の1つである「独立性」にはまともな根拠は存在しない、ということです。

こうした「独立性」にまつわる論理のすり替えは最初から狙って行われたものだと思われます。論理のすり替えがやりやすいような環境があらかじめ整備されていたのです。それが次の問題点である「曖昧性」に関連してくると推測されます。
1996年に上記の意見具申があり、それを受けて1997年に人権擁護推進審議会が設置されたのですが、この審議会は「人権問題全般の解決」を目的に設置されたのです。つまり、1996年の意見具申の時点では同和問題だけを対象としていたはずが、その意見具申を受けて設置されたはずの1997年の審議会の目的が「人権問題全般の解決」と、その救済対象が何時の間にか拡大しているのです。
つまり、この法案の最大の問題点とされる「曖昧性」の原点は、この1997年の人権擁護推進審議会の設置時点にあるのです。この時点で、それ以前は同和問題のみが対象であったのに、突如として人権問題全般へと対象が拡大させられているのです。
このような審議会のスタンスが1998年の国連勧告を受け入れる素地となっているのです。同和問題のみを扱う審議会であったならば、国連勧告を、特に「独立性の高い人権委員会」の部分を受け入れる余地はほとんど無かったことでしょう。
いや、というより、この審議会の扱う対象の拡大は、最初から1998年の国連勧告を受け入れるために準備されたものであった可能性が高いと思われます。最初からこの一連の動きは仕組まれたものであったのではないでしょうか。
ただ、上記のように国連勧告自体の根拠も希薄である上に、まずこの審議会の救済対象の拡大決定後に国連勧告が為されているということから、国連勧告は審議会の救済対象拡大の根拠とはなり得ないと思われます。
となると、この審議会設置時の救済対象の突然の拡大の根拠は何なのかというと、それが無いのです。全く根拠なく、突然、同和問題以外の人権問題全般が救済対象に含まれるようになった可能性が高いのです。
それもそのはずで、この1997年の「曖昧性」の出現は、国連勧告の受け入れを準備するためのものであり、なおかつ法案推進勢力があらゆる対象に対してその強権を振るうために、この「曖昧性」が是非とも必要であったというだけのことに過ぎません。
以上のように、この法案の最大の問題点である「曖昧性」もまた、その原点を辿れば、全く根拠というものが存在しないことが推測されるのです。
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