KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その363 2つの倫理と東洋史
米ソ冷戦構造がどのように崩壊していったのかについてはまた後ほど触れるとしまして、その冷戦対立の主要舞台となり、なおかつ冷戦時に世界を二分したイデオロギーの発火点となったヨーロッパの歴史と倫理との係わり合いから少し離れて、そのヨーロッパ文明を生み出した海といえる地中海から見て東にあたる地域、古来「オリエント」と称された地域の歴史と2つの倫理観の係わり合いについても見ていきたいと思います。
このオリエント、つまり中東地域において生まれた文明が古代ギリシャに伝わり倫理というものを生み出し、またそれが中東に伝わって幾つかの世界宗教、キリスト教やイスラム教を生み出していったのですが、7世紀になって中東地域ではイスラム教に基づく「統治の倫理」と「市場の倫理」を持つイスラム共同体が世界帝国を築くようになり、次いでそのイスラム世界帝国の東への拡大がユーラシア大陸中央部の騎馬民族に大きな影響を及ぼすようになっていったのでした。

...read more

日本史についての雑文その362 2つの倫理と西洋史
「統治の倫理」と「市場の倫理」が別々に存在している場合においても、その時代その地域のそれぞれの場合に応じて、どちらかの倫理が時代に適合していたり、どちらかの倫理の担い手の階層が勢いがあったりして、それぞれの場合における中心的倫理は、ある時は「統治の倫理」、ある時は「市場の倫理」というように入れ替わっていきます。ある地域のある時代においては極端に「統治の倫理」が強くて「市場の倫理」が弱いという場合もあるであろうし、逆もまた然りです。それらの倫理が時には混じり合ったり、時には分離したりしてきたのが人間の倫理観の歴史なのですが、概して貨幣経済が浸透すると「市場の倫理」の勢いが強くなってくるものであり、また民主主義の進展に応じて身分の区別が撤廃されて2つの倫理は混じり合いやすくなってきたといえます。ただ、それでも地域や時代の特性によってそうした傾向も一律のものではないのが実情です。
...read more

日本史についての雑文その361 2つの倫理
世の中というのは、やや冷静で一歩引いた態度で「徳」を相対化して高尚な理念なるものに懐疑の目を向ける庶民目線の立場と、一方ではひたすら道義や真理を探究して「徳」の実践を重視する高尚な学者先生のような立場の両方が存在してバランスがとれているものなのですが、紀元前5世紀終盤のギリシャにおいて前者の立場で「徳」を相対化して実利を優先していたのがソフィスト達であり、それに対して異議を唱えて哲学を創始して「徳」の実践こそ魂を向上させる価値があると唱えたのがソクラテスであったのでした。
その後、哲学の主流はソクラテスの弟子のプラトン、アンティステネスに受け継がれ、プラトンの系譜からは思索重視の学派が生まれ、プラトンは「アカデメイア派」を創始し、プラトンの弟子のアリストテレスは「リュケイオン派」を創始し、またアンティステネスの系譜からは実践重視の学派が生まれ、アンティステネスは「キュニコス派」を創始し、紀元前3世紀初頭に「キュニコス派」の流れからゼノンが出て「ストア派」を創始しました。

...read more

日本史についての雑文その360 世界宗教史3
紀元前1500年以降、本格的に北方からエーゲ海方面へ進出したイオニア人、アカイア人、ドーリア人らのギリシャ諸族は紀元前8世紀末までにはギリシャ南西部、エーゲ海の島々、アナトリア半島西岸に都市国家を築くようになり、古代ギリシャ文明が成立しました。ギリシャの地は農業生産性が低かったので、古代ギリシャ人たちは食糧を求めて地中海各地に殖民していき、紀元前5世紀頃までにはそれらの植民都市とギリシャ本土との間に地中海全体から黒海に広がる交易ネットワークが形成されるようになっていきました。
...read more

日本史についての雑文その359 世界宗教史2
さて、東方のシナ世界の黄河文明は紀元前8世紀に始まる厳しい寒冷期の影響で周王朝の支配体制が崩壊し、春秋時代の戦乱が始まりました。シナにおける宗教観はもともとは多神教信仰と死者復活信仰で、人間は死ぬと霊(シナではこれを「魂」という)は天へ行き、魂(シナではこれを「魄」という)は肉体と共に地下に埋葬されるという思想でした。魄と共にある肉体は霊と合体する真の復活の日までは無意識的に生きている状態なので子孫は埋葬した先祖が墓場の中でひもじい思いをしないように飯の世話をしなければいけません。もし飯を絶やすと腹をすかせた死者は墓場の外に出てきて外を彷徨うキョンシーになってしまい、これに悪い霊がくっつくと悪鬼になってしまい乱暴狼藉を働くと信じられていたのでした。それで子孫による先祖への祭祀は絶やしてはならないものとされ、これが強調されたために、いつしか死者の復活思想のほうは後退して、先祖への祭祀のほうが重視されるようになっていき、氏族共同体による多神教崇拝と祖先祭祀がシナにおける宗教となっていました。
...read more

日本史についての雑文その358 世界宗教史1
さて、なんだかカトリックについてボロクソに書いてしまいましたが、もちろんカトリックにも良い面もあります、などと綺麗事を言うつもりはありません。カトリックとは、少なくともあの時代においては概略ああいうものであり、あのような狂気じみたカルトでもそれはそれで信じる人にとっては救いになるのです。宗教とはそういうものでしょう。良い面があるから救われるのではなく、悪魔のような宗教でも信者にとっては救いになる場合もあるというものです。
...read more

日本史についての雑文その357 第一回十字軍
11世紀のヨーロッパにおいて農業革命によって成立した農村に出現したのは、ゲルマン諸侯が騎士の暴力とカトリックというカルト教団の恐怖によって農民を縛って収奪を行う農奴制でした。こうしてカトリックの聖職者たちは社会の細部において密接に世俗権力と結びつき、農民から収奪を行う立場に立ったことになります。ここに至って聖職者の腐敗と堕落は頂点に達することになりました。このカトリック聖職者の堕落した姿に呆れた多くの民衆は禁欲的な指導者層に率いられたカタリ派へと走り、11世紀になるとカタリ派は急速に勢力を拡大することになります。こうした状況にカトリック側は危機感を高め、1073年にローマ教皇に就任したグレゴリウス7世は聖職者の綱紀粛正を図るべく改革に着手します。これが世に言うグレゴリウス改革です。
...read more

日本史についての雑文その356 農奴制の成立
宋帝国に11世紀初頭に農業革命をもたらした地球温暖化は、ほぼ同じ時期にヨーロッパにおいても農業革命をもたらしていました。寒冷地であった西ヨーロッパは10世紀以前は農耕の生産性が極端に低く、牧畜主体の生活を送る地であり、農村もほとんど形成されていない有様でした。つまりアルプスの少女ハイジのような暮らしを送っていたのです。各自が柵で囲った野原にヤギなどを放し飼いにして、その傍らの小屋に住むというような生活ですから、村落というものがそもそも無いわけです。
...read more

日本史についての雑文その355 澶淵の盟
宋帝国がシナ統一を果たした979年は、日本においては円融天皇の治世で藤原頼忠が関白を務めていました。頼忠は摂関政治の基礎を築いた忠平の孫で、頼忠の次の関白がその従兄弟で藤原道長の父の兼家で、つまりはこの時代の日本は既に摂関政治の全盛期で、地方では有力貴族の荘園がますます増え、武士が興起してきていました。宋が志向していた皇帝独裁型官僚制とは全く正反対の方向へ進んでいたといえるでしょう。また、この後の日本の指導層も宋からの珍しい舶来物には興味は示しましたが、宋の政治制度を見習おうという機運は全く生じませんでした。
...read more

日本史についての雑文その354 第三次シナ帝国
10世紀のイスラム世界やヨーロッパ世界は複雑化、分権化の道を進みつつ、後世に繋がる枠組みが成立していった時代であるといえますが、同時期の東アジア世界はどのようであったのかというと、これはまた違った展開をしつつも、これも後世に繋がる枠組みが成立していった時代でもあったといえるでしょう。
874年の黄巣の乱勃発によって唐王朝は長安付近のみの地方政権となり、各地の節度使が自立するようになり、中には王を自称する者も現れました。895年には太原において李克用が晋王を称し、901年には漢中において李茂貞が岐王を称し、902年には揚州において楊行密が呉王を称し、903年には成都において王建が蜀王を称するという具合でありました。

...read more

日本史についての雑文その353 騎士の誕生
2世紀後半に本格化した寒冷化時代において理想のシステムとされてきたのは、古代ローマ帝国末期やササン朝ペルシア、漢帝国などで確立されていた中央集権制であり、そうした集権化システムが寒冷化時代における試行錯誤の結果、結実したのが7?8世紀における唐の律令制、イスラム帝国や東ローマ帝国の中央集権官僚制、フランク王国の国王専制体制などであったのですが、それらが結実した直後、9世紀頃から地球は温暖化し始め、単純化、集権化されていた世界は複雑化、分権化していくことになるのです。
...read more

日本史についての雑文その352 中世の始まり
紀元前2000年ぐらいに始まったシナ文明は、夏・殷・周の約1200年間の黄河中流域を中心とした商業都市連盟の時代の後、春秋・戦国の約550年間の戦乱の時代の中で都市国家同士の争いを経てシナ人の居住するシナ世界を万里の長城以南、長江中下流域以北という範囲まで拡大していき、7つの王国が群雄割拠する状況へ収斂し、最終的には秦王国が他の6王国を併呑して、紀元前221年に秦・漢・新・後漢・三国・晋というふうに537年間続く第一次シナ帝国の時代の幕を開きます。
...read more

日本史についての雑文その351 唐の滅亡
705年に武則天が息子の中宗に譲位して唐王朝が復活した後、中宗の皇后の韋后が国政を壟断し、武則天のように王権の簒奪を行おうとして710年には夫の中宗を殺したのですが、これを中宗の甥の李隆基が誅殺し、この時25歳の李隆基は自分の父である睿宗を皇帝として自分は皇太子になりました。この李隆基が2年後の712年に即位して玄宗となるのですから、玄宗も若い頃は英明な君主で、治世の前半は科挙合格者の集権派の新官僚たちを宰相として駆使して皇帝の指導力を発揮して「開元の治」といわれる唐の絶頂期を演出し、節度使の制度を整備して北方辺境の交易路も確保しました。
...read more

日本史についての雑文その350 イスラム帝国
メッカのアラブ商人であったムハンマドが610年に唯一神アッラーフの啓示を受けてイスラム教の布教を開始した時、その布教対象となったのはムハンマド自身の属する部族であったクライシュ族でした。ムハンマドの生誕地であるメッカにおけるアラブ商人を構成していたのがクライシュ族で、クライシュ族は多くの氏族に分かれた大きな部族で、その中でも有力な一門がハーシム家やウマイヤ家で、ムハンマドはハーシム家の生まれでありました。
...read more

日本史についての雑文その349 第二次シナ帝国
316年に晋帝国が滅んだ後、晋帝国の版図の北部は五胡といわれる北方異民族の支配する地となり、晋帝国の版図の南部は晋の皇族の生き残りが亡命して建てた東晋王朝の支配する地となりました。その境界線が淮水あたりで、もともと晋帝国の支配する地が「中原」「中華」と同義であったので、この後、淮水より北を「華北」、淮水より南を「華南」と呼ぶようになったのです。
華北に割拠するようになった五胡というのは鮮卑、匈奴、羯、氐、羌の5つの民族ですが、鮮卑はトルコ系、匈奴と羯はモンゴル系、氐と羌はチベット系の民族で、これらの諸民族が部族集団ごとに割拠していたというのが316年以降の華北の状況であったわけです。この諸民族はおそらくかつてシナ人の起源となった諸部族の中にも似たようなものが含まれていたのでありましょうが、今回新来の部族は民族はそれらシナ人の先祖と同じでも、ずっとモンゴル高原やチベット高原で遊牧生活を送っていた部族ですから、シナ人とは全く別の文化を持った異民族、つまり「夷」であったと考えていいでしょう。

...read more

日本史についての雑文その348 第一次シナ帝国
シナの歴史をざっと見てみると、まず紀元前2000年ぐらいに黄河中流域でシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族などの多民族が集まって営む商業都市連盟とその周辺の農耕エリアが形成され、その盟主的存在としてシナチベット族の一部族である夏族が王に推戴されて夏王朝が成立しました。
これは現代から数えて4000年ぐらい前にあたります。このことをもって「中国四千年」と言うかというと、そんなことは全然なく、これは1911年の辛亥革命の時に司馬遷の「史記」に記された黄帝という伝説上の君主の即位した年から数えて1911年が4609年目であるというスローガンが唱えられたことに由来するものです。物凄く大まかに言えば5000年のほうが近いとも言えるのであり、それゆえ「中国五千年」とも言います。それで烏龍茶や麻婆豆腐の宣伝文句にまで「中国四千年の味」や「中国五千年の歴史」などという大仰な謳い文句が踊ることになるのですが、烏龍茶や麻婆豆腐には4000年の歴史も無いし、だいたい「中国」という国自体が1911年に初めて誕生したものです。まぁ「中華民国」という正式名称の略語としてですが。

...read more

日本史についての雑文その347 唐とイスラム
7世紀初頭の世界の2大文明国といえば東のシナ世界の隋帝国と西の中近東世界のササン朝ペルシア帝国という2つの農耕大帝国であり、その2大国を結ぶ中央アジア交易路を支配していたのが突厥帝国という遊牧帝国でありました。高句麗や新羅、百済、日本などは隋の周縁文明で、東ローマ帝国や西ヨーロッパのゲルマン諸侯の諸国などもササン朝ペルシアの周縁文明に過ぎませんでした。
...read more

日本史についての雑文その346 古代世界史概説
唐帝国の滅亡は世界史レベルで見て、古代世界から中世世界への移行という大きな転換の一部をなす重大事件であり、それが日本における独自文明の勃興とも関係してくるのであり、そこでここではまず唐帝国の滅亡について触れる前に、それに至る古代世界全体の大まかな流れを、出来るだけシナ世界や中央アジア世界に比重を置いて概観していきたいと思います。
...read more

日本史についての雑文その345 阿衡の紛議
872年、若き清和天皇の下で政務を取り仕切っていた太政大臣の藤原良房が没し、その年に右大臣に昇進していた養子の藤原基経にその政治的地位は引き継がれました。基経は36歳で太政官の実権を握ったことになります。
藤原基経の養父の良房の築いた政治的地位とは、天皇が祭祀を主に行い、その外戚一族である藤原氏が政務を代行するという祭政分業体制のもとで、幼帝のもとで摂政を務め、また太政大臣にオールマイティーな政務統括職としての重みを持たせたことでした。その養子の基経はその政治路線を忠実にトレースして、その路線を固めていこうとすることになりますが、同時に良房の路線への反発が大きかったこともずっと見て知っていたので、慎重にその路線を進めていくことになりました。

...read more

日本史についての雑文その344 俘囚問題
9世紀後半の律令国家文明の変質期の時代というものが社会の土着的な基層部からの猥雑で粗野なエネルギーによる文明の作り変えの始まりの時期なのだとしたら、そのエネルギーの宗教面や文化面の表れが「御霊信仰」や「もののあはれ」精神なのであり、そして地域社会におけるそうしたエネルギーの発現が富豪層による脱税闘争の激化や群盗海賊の横行であったのでしょう。
もちろんこれらは道徳的に正しい行為とは言い難いわけですが、律令国家を成り立たせている道徳観の範疇外にある野放図なエネルギーであるからこそ、文明を作り変えていくパワーになり得るのだといえます。しかし、だからといって野放しにしておいて良いというわけでもなく、これらは実態は反国司闘争であり、れっきとした反体制的行為なのですから取り締まらなければなりませんでした。

...read more

日本史についての雑文その343 御霊信仰
このように藤原良房などは天皇が国家鎮護の祭祀を行う「生き神」として機能する国家を志向したのですが、この時代において最も重要な国家鎮護の祭祀とは怨霊鎮魂のことでした。これを835年までは空海がその圧倒的な密教祭儀と法力でこなしていたわけですが、それはあくまで空海が稀にしか存在しない個人的天才であったからであり、空海という存在は孤立した存在で、その祭儀マニュアルを引き継ぐことは出来てもその天才性まで受け継ぐことは出来ないので、空海の天才性を補う新たな論理体系が必要ということになります。
...read more

日本史についての雑文その342 摂関制度の起源
このように多くの恨みや反発を招いてまでも藤原良房が0歳児の惟仁親王の立太子を行い、そして8歳の幼帝である清和天皇を即位させたのは、それは確固とした信念、国家観というものがあったからでしょう。そもそも文徳と良房の後継問題に関する意見の相違というのはこの国家観の相違に起因しているのであり、根深いものであったゆえに最後まで意見の一致を見ることが無かったのでありましょう。またこの時代においては良房の抱いたであろう国家観は極めて先進的なものであり、まだ文徳の抱いていた国家観のほうが保守的な朝廷においては共感する人が多かったのであり、それゆえ良房は朝廷の多くの人々から反発を受けることになったのでした。
...read more

日本史についての雑文その341 文徳天皇と六歌仙
823年の嵯峨天皇の譲位以降、嵯峨系と淳和系に分裂していた皇統を842年の承和の変で一本化したのは嵯峨天皇の息子であった仁明天皇でした。仁明天皇はその治世において強いリーダーシップを発揮しましたが、850年3月に40歳で亡くなり、同じ年に仁明の母で皇室の最長老であった檀林皇太后も亡くなり、23歳で即位した皇太子の道康親王、すなわち仁明の子の文徳天皇が朝廷を率いていく時代となりました。
...read more

日本史についての雑文その340 群盗海賊
822年6月に55歳で最澄が死去した7日後に比叡山に大乗戒壇の設立を許可する勅許が嵯峨天皇から下されましたが、その勅許の宣下に尽力したのが47歳の右大臣の藤原冬嗣でした。最澄の大乗戒壇設立のコンセプトは「小乗戒」という既存の仏教界の権威に抗ってでも「国の宝」とも言うべき仏教指導者の育成を図るということにあったのであり、この2年後の824年に、たとえ既存の根本法である律令に反してでも国司の人材を精選して地方税収のアップを図ろうというコンセプトの「反経制宜」の意見書を奏上した藤原冬嗣には、律令国家文明修正期末期と改革期初期という行き詰まりの時代に共に青壮年期を送った同士として「人材育成」という部分で何らか最澄と気持ちの通じる部分があったのかもしれません。
...read more

日本史についての雑文その339 最澄と空海
空海は讃岐国の佐伯氏という地方豪族の子として生まれ、もともとは官僚になるために都の大学寮で学んでいたのですが、19歳の時に学校を飛び出して山林での修行生活に入ったといわれます。山林での修行ということは修験道ということになりますが、その中で雑密の呪法も修めていったようです。また、それだけではなく幅広く仏教思想を学んだようで、密教の根本経典である「大日経」もこの修行時代に読み、その時に悟りを開いたともいわれています。また、室戸岬の洞窟で修行している時に口の中に明星が飛び込んできて悟りを開いたともいわれています。
...read more

日本史についての雑文その338 天台法華円宗
さて、この律令国家文明の改革期の時代、言い換えると王朝国家文明の黎明期の時代に加わってきた新たな要素の代表格といえるのが平安二宗、つまり仏教における天台宗と真言宗でしょう。日本における天台宗の開祖は最澄、真言宗の開祖は空海で、共に804年に出発した延暦の遣唐使に加わって唐に渡り、新しい仏教思想を日本にもたらしたのでした。ここで少し時代は遡りますが、804年の最澄と空海による入唐体験から平安二宗の日本における受容の経過を書いていってみます。そして、インドやシナにおける密教の歴史については既に簡単に説明しましたので、ここではまずは古代インドにおける法華経の成立から振り返っていかねばならないことになります。
...read more

日本史についての雑文その337 漢詩と和歌
9世紀前半の時代というのは基本的に天皇親政の時代であり、天皇が指導力を発揮して政治が行われ、藤原氏をはじめとした貴族たちは天皇の政治を補佐する立場でありました。8世紀末に日本は「東夷の小帝国」であることをやめて、天皇はシナ皇帝のような「帝王」的な存在であることをやめていくのですが、その変化は急激なものではなかったので9世紀前半ぐらいまでは天皇の「帝王」的側面の名残はまだ残っていたのでしょう。
それに加えて、薬子の変の教訓を受けて嵯峨天皇の時代に朝廷内における権力関係が整理されて天皇の権限が強化され、更に天皇の清浄性を強調することで天皇の神格化の傾向が強まり始めたので、嵯峨、淳和、仁明のあたりの時代は総合的な意味で「天皇」という存在の権力は最高点に達していたのではないかと思います。

...read more

日本史についての雑文その336 承和の変
809年に23歳で即位した嵯峨天皇は、実兄である平城上皇と争って翌810年の薬子の変でこれを排斥し、皇太子としていた平城の子の高岳親王を廃太子して、代わりに自分と同い年の異母弟である大伴親王を皇太子としました。ところがその年のうちに嵯峨天皇に皇子が二人産まれました。第一皇子は広井氏の娘から産まれ、この子は母親の身分が更衣クラスであり皇位継承候補にはなり得なかったので、4歳の時に臣籍に降下されて源氏の姓を賜いました。この子が嵯峨源氏の始祖で後に初代の源氏長者となる源信(みなもとのまこと)でした。
...read more

日本史についての雑文その335 反経制宜
とにかく、こうして嵯峨朝において「顕幽相生体制」の第一歩が踏み出され、慣習法世界の上に律令法世界が重なるように被さる重層的国家が形成されるようになったということは、現実的な地域社会にまで天皇のリーダーシップが強く及ばなくてもそれはそれでいいのであり、地域社会においては伝統的な「法による支配」が活用された統治方法のほうが優先されていくのです。そのように政府が律令法の支配を弱めて、むしろ地域社会の慣習法世界を活用した統治をしていくための根拠や目安にしたのが単発の官符や詔勅の類であり、これらを整理した法典を「格式」といいました。
...read more

日本史についての雑文その334 顕幽相生体制
もともと天武天皇が作り上げた「天皇」という君主像は「神」たる天智の血統と「帝王」たる天武の血統を引くことによって正統性を保つ存在でありました。それが桓武天皇の代になって血統的には「神」たる天智の血統だけを引くようになり、「帝王」たる天武の血統は継承しなくなりました。そこで桓武は新たに「帝王」たる資格を得るために儒教的な君主像への接近を図りましたが、ちょうど8世紀末の日本は「東夷の小帝国」を維持する必要性を失おうとしていたために、そもそも「天皇」には「帝王」的な要素は不要になり、儒教的君主像や「帝王」的要素では「天皇」の正統性の根拠にはならなくなったのでした。それでも儒教的君主像、つまりシナ皇帝のような君主の在り方の導入そのものは桓武天皇のつけた道筋に沿って継続されて、それが嵯峨朝においては先述の「表面的なシナ化」という形になってきていたのです。
...read more




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。